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「他人事」と考える事の恐ろしさ

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき


ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

マルティン・ニーメラー

先日、撮りためていたTV番組を次々消化する中で「新・映像の世紀」を見た。
その中でにでてきた、ニーメラーという反ナチ運動家の言葉がずしんと心に鈍く響いた。
この言葉は、書かれたものではないため、似たような意味のことばがいろいろ伝わっているらしいが、上記にあげたのは、ニーメラー財団が詩としてまとめたものらしい。

こういうバージョンもある

「ニーメラー牧師は何千人もの人々の前に、彼自身のことを(あまりにも謙虚に)こう語った。ナチスが共産主義者を攻撃した。彼はやや不安になったが、彼は共産主義者ではなかったので、何もしなかった。そして彼らは社会主義者を攻撃した。彼は不安だったが、社会主義者ではなかったので何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、となり、彼はそのたびに不安になったが、やはり何もしなかった。そして彼らは教会を攻撃した。彼は教会の人間であった。だから彼は何かを行なった。しかし、それは遅過ぎた。」
— ミルトン・マイヤー

警句だ。
社会の諸問題を「ひとごと」と考えていることの恐ろしさがストレートに伝わる。
ナチであろうとなかろうと、同じこと。
心にとどめたい。

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