九江市は中国側の警備がきびしく一応平静さを保っていたが、毎夜のように戦勝の爆竹が鳴り喧騒を極め、中国民衆のわれわれを見る目には憎悪が充ちみちて、何かのきっかけがあれば忽ち、掠奪、暴行が起り得る要素を孕んでいた。
この年はこの日本人小学校で越年するかに思はれたが、中国側の警備の都合からであったのであろうか、十月の初旬一隻の汽船に乗ることを命ぜられ、揚子江を百キロばかり下った「膨沢」と言ふところで降ろされた。
この膨沢と言う所は、前に揚子江、後に小高い山が連なり、一筋道の両側には萱で葺いた屋根の民家が三十戸ばかり立っているだけで、誠に貧弱な寒村であった。
少し歩くと、周囲を鉄条網を張りめぐらした二階建トタン葺き木造の建物が十数棟立ちならび、聞くところによると、この建物はかつて日本軍が此処を通過するときの一時の仮活用に建てられたものであると言う。
中にはいると古びた畳が敷いてあり、日本軍が昨日まで使っていたと思はれる、水溜めのドラム缶、ドラム缶の風呂、木造の火鉢、大釜にかまど、鉄線を張った物干しまであり、木炭、灯油、塩も少々残っていた。
吾等がこれを最大限に活用したことは言うまでもない。この建物の周囲に張りめぐらしてある鉄条網は、日本軍がここに宿泊するとき自衛を容易にするために日本軍が張ったものと想像された。
九江、南昌の居留民凡そ八百名の秩序を保つために軍隊式に一つの大隊(南潯大隊と稱す)とし、その下に各々出身県別に中隊を作り、その核心となる「長」は皆んなが最も信頼する者を据えて、自治の態勢が一応できあがった。
中隊と言っても、独身の男女、筆者のように妻子をもつ世帯、まぎれこんできた復員軍人、軍属等で構成されていて、無秩序に雑魚寝するわけにもゆかず、日本兵士が残して行った「古筵」を使って、男女の区別、又世帯毎に筵を張って風紀上の秩序に配慮して寝起きした。
此処では中隊長が父、副中隊長が母、年長者が兄、姉として名実ともに形を変えた立派な家庭であった。
男は薪とり、副食の魚とり、井戸がないので揚子江の水汲み、女は炊事、洗濯、つくろい物に従事した。
「灯り」がないので暗くなれば眠り、明るくなれば起き出て自活の仕事にはげむ原始的な生活であったが、全員無事に故国の土を踏むと言ふ共同の目的が支へとなり、互の絆は強くなっていった。
吾々の中隊には終戦まで看護婦として活躍してゐた、二十才から二十六歳位までの若い未婚の女性が十数名いた。化粧は一切せず素顔のまヽ黒髪も男のように刈りこみ、中国警備兵の目を惹かないようによそおはせてゐたが、小麦色にかがやく健康色は隠すすべもなく気にかかった。
筵の戸互に開けて初笑
は明けて昭和二十一年の元朝の句である。
昨日まで戦勝国の国民として、中国の民衆に接していた者が一夜にして乞食同然の境涯に転落した、今日の姿を客観的に見た感慨の一句である。
新年と言ふと中国側も何か目新しいことをして見たいのか「中食を共にして日中戦争をテーマに懇談したい」と言ってきた。
警備本部の一室に日中双方の主だったものが相対して通訳つきで懇談が行われた。懇談と言っても、勝者と敗者の懇談で対等に意見を述べられる訳でもないのに中国側は、「日本の敗戦の理由」「今後の日中関係」について日本側の率直な意見を強くもとめた。第一の問題については積極的に発言する者がなく、只今後のことについては、同文同種の民族として仲よくやってゆこうと言ふことで終った。
木々が芽ぶき春風が吹いて清朝時代の詩人「杜牧」の詠った
「千里鴬啼いて綠紅に映ず
水村山郭酒旗の風」
の詩を思わず口ずさみたくなるほど江南の春は駘蕩としていた。
青柳のクリークには、鮒や鯉が手掴みにできるほどいて獲っては目刺にしてよく食べた。食ふだけの貧しい明け暮れであったが、中国当局のあたたかい取扱いに救はれて心にいくぶんの餘裕さえ生まれていた。
中国の警備兵とわれわれ相手にラーメン、支那万十を出す店もできて、三十戸ばかりだった寒村は百戸ばかりに膨れあがり一筋道は活気を呈しはじめていた。
居留民の中にはこっそり衣類などと交換した支那酒を収容所に持ちこみ酔い痴れる者もいた。
五月になると雨の日がつづき揚子江は急に水嵩を増して川幅を広げ海のようになった。
そんな或日中国側から配船の手当がついたので、明後日上海に向けて出発すると知らせがあった。
あわただしく身のまわりの物をまとめて、八ヶ月ばかりすごした膨沢とも別れる日がきた。
乗船して三日目に上海に到着「日僑収容所」と看板の出ている倉庫の筵に落ちついた。
自活に必要な炊事道具等一切備付けがあり、昨日まで帰国を待つ日本人が住んでいたことを思わせた。倉庫であるので採光の悪いのは当然として、多人数に便所の少ないのには困惑した。
外出は危険と言ふので一日中うす暗い土間にごろごろしていた。二週間ばかり過ぎた頃から、不衛生と栄養失調から皮膚病と眼病が流行し、収容所の生活が限界にきていることを思った。
上海での抑留生活も二十日ばかりで終止符を打ち、昭和二十一年六月二十二日梅雨の真只中にアメリカのリバティ型の船で博多に上陸、十ヶ月餘に亘って苦楽を共にした南潯大隊はここで解散して、それぞれの故郷に帰って行った。
ふるさとに山河のありて蛍とぶ
歴史の風化と共に茫々四十年の昔を必死に思い起し、事実を正確につづったつもりであるが、筆者の記憶違いがあるかも知れない。
それは偖ておいて、裸一貫が引揚者の代名詞と言われた当時、われわれは寝具の外に各自三十キロまで携帯して帰国をゆるされ、家族と共に健康で無事帰国できた裏には、時の支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の苦心と、国民政府陸軍総司令官何應欽将軍の暖い配慮があったことを知り、一人でも多くこのことを知って貰ふために、「何應欽上将軍著(台北正中書局刊行)中日関係と世界の前途」の中に附録として、岡村寧次大将の書かれた「徒手官兵」と題した記録を末尾に付す。
山河ありき3
まことの出来事は やはり迫力というか 迫るものが違います これを書かれた方が 俳句をたしなんでいたことで 当時の様子が
実に的確に表現されていて 情景が目に浮かぶほどです 感謝です
山河ありき3
まことの出来事は やはり迫力というか 迫るものが違います これを書かれた方が 俳句をたしなんでいたことで 当時の様子が
実に的確に表現されていて 情景が目に浮かぶほどです 感謝です
瞬間真空パックの俳句
ゴジさん、コメントありがとうございます。そうですね。記録文はのちの時代に振り返って書いているから、多少のニュアンスの違いなどもあるかも知れませんが、当時詠んだ俳句のおかげで、当時の情感までもが残されていると言えるかもしれません。これを書いた祖父自身が、当時の俳句を思い出すことで、その時の感覚などを思い出していたのだろうとも思います。
俳句についてよく知りませんが、その時の気持ち、景色、空気、温度など全部を瞬間真空パックにしてしまうものなのかもしれませんね。(あ、真空じゃ空気はパックできませんね^^;)
瞬間真空パックの俳句
ゴジさん、コメントありがとうございます。そうですね。記録文はのちの時代に振り返って書いているから、多少のニュアンスの違いなどもあるかも知れませんが、当時詠んだ俳句のおかげで、当時の情感までもが残されていると言えるかもしれません。これを書いた祖父自身が、当時の俳句を思い出すことで、その時の感覚などを思い出していたのだろうとも思います。
俳句についてよく知りませんが、その時の気持ち、景色、空気、温度など全部を瞬間真空パックにしてしまうものなのかもしれませんね。(あ、真空じゃ空気はパックできませんね^^;)