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「徒手官兵」岡村寧次(S27)

徒手官兵
戦友会 副会長 岡村寧次

蒋総統の声明

 講和独立後、初の八月十五日を迎えるに当り私が先ず思い出すのは、終戦当時の蒋介石総統が声明した言葉である。
「降伏した日本軍に対してみだりに報復したりしてはならない。暴に報ゆるに徳を以てせよ」
 この声明は長年中国を敵とし中国と戦って来た当時の日本人をいたく感激させたことは有名である。しかし敗戦後の引き揚げ、其の他の状況下に、この声明が事実上いかに実施されたかといふことになると、当時中国から引き揚げてきた二百万の日本軍民が、部分的、断片的に知っている以外には、あまり知られていないようである。
支那派遣軍総司令官として降伏の調印をし、引き揚げに際しては総連絡部長官といふ職を中国からあたえられた私は、終戦後の中国政府の好意が、この蒋総統の声明に基づいて、的確に実行されたことを、多大の感銘と共に知らされている。私はこの厚意に対する感謝の気持を昨年の二月十四日、日華文化協会の主催でちょうど来朝中の何應欽将軍を迎えて、歓迎感謝の茶会が開かれた折に、列席の文化人諸氏にお話したところ、多大の感銘を呼んだとみえ、会が終わった直後、七、八名の名士から、非常に丁寧な挨拶をうけた。またその後にもこの会に列席した人、あるいはそれを伝えきいた人々から直接間接に、「あのときの君の話には、実に感激した」と賛辞をもらった。

寛大な取扱い

第一に私の言いたいことは、終戦当時引きあげてきた人々を、普通は俘虜及び居留民と呼んだものだが、中国では厳密にいってこの俘虜といふものが一名もいなかったということである。
だいたい私の隷下にあった将兵の数は、終戦当時百二十二万、居留民が大体八十五万、合計二百十万の日本人が、中国に抑留されていた。そのうち居留民の一部は住宅を引き払われ、便宜上一カ所に集められたものもあったが、将兵は、はじめから一カ所に集結していたから、そのままの状態をつづけ一度も俘虜の取扱いを受けたことはなかったのである。
そして中国政府では、これらの日本軍を徒手官兵と呼び、公文書にもそう書いたものである。
徒手とは素手の意味で、官兵とは日本語の将兵に当たる。つまり武装していない将兵として、われわれを遇していたのである。もちろん当時の中国政府でも、これに対して多数の人が、あたりまへの俘虜の取扱いをせよという意見を出したのだが、何應欽将軍、その他日本通の人々も多数いて、日本人の性格を理解し、こうした形にすることが最も秩序を保つ上に有利であると主張して、降伏した敵側の軍司令官である私に対して、総連絡部長官という職を与へ、中国各地に散在する隷下各部隊の軍司令官十数名を、何々地区連絡部長官とし、これ等の総指揮に当らせたわけである。
だから武器を持たなくとも、従来通りの軍隊のまヽで、指揮に必要な通信機材、飛行機、自動車、自転車、といふものも、一旦接収されたものを返してくれるといふ状態だったから、このために私の隷下部隊の引き揚げは実にスムーズに行うことが出来たのである。

   多かった携行品

 引き揚げに際にしても、軍人、居留民を通じて、寝具のほか各人三十キロずつの携行品と、居留民千円、軍人五百円の現金携帯を許可してくれたことも、ほかの地方からの引揚者とくらべて、実に寛大なものであったといえよう。もちろん、居留民の中には、多年中国にいて、経済的基礎をきずき上げた人が多かったのだから、こればかりのものをもって引き揚げなければならぬということは、実に惨たんたるものであり、悲惨な気持で帰ってきたことと同情を禁じ得ない。しかし、これらの人々も内地に着いて見て、他の各地域からの引揚者が内地の港に着いた姿を見れば、中国のとった処置がいかに寛大であったかを知ることが出来たろうと思うのである。
当時私は、中国帰りの者は携帯品が多すぎて、内地へ上陸してから、各地方まで帰る汽車輸送に、大へん支障をきたしたと、進駐軍からしばしば文句をいわれる始末であった。しかし私はだまって、これを押し通してしまったが、この一事をみても、他の南方諸国からの引揚者から見れば、中国からの帰還者の携帯品が何如に多かったかをうかがい知ることが出来るのである。

   非例の復員

 敗戦の当初には、中国側の新聞、ニュースがこぞって日本内地の混乱ぶりを報じて来た。内地の軍隊が、一種の虚脱状態において、とうてい信頼出来得る状態ではないというよう情報が、頻繁に私の耳に入る。
外地のわれわれは、これをきいて、大いに迷ったものであった。そこで私は、中国派遣軍は、自力で復員しようと決心した。そして多数の先遣部隊を、各部隊の将校、下士官、兵を集めて編成し、内地へ派遣した。それに対しても中国側は、非常な好意をもって船を出してくれた。参謀副長の岡田少将が、大宰府に本部をおいて、博多、佐世保、鹿児島、仙崎等というところに派遣軍だけの復員準備部隊を設置したのも、このためであった。
内地頼むにたらずというより、戦勝国の好意によって、復員者を出す方と、受け入れる方との両方の仕事を、敗戦軍の指揮官がやったなどといふことは、今までの戦史に例のないことであった。

   好意の輸送計画

 中国の好意はこればかりではない。引き揚げを迅速に完了するためには、あらゆる障碍を排除して、輸送機関を総動員してくれたことも、その一つである。
一時的ではあったが、あの混乱の時期に、一般交通を圧迫して、汽車、汽船を総動員してくれたことは、中国政府にとって少なからぬ犠牲であったろう。具体的な例として、揚子江の船は経済交通をとめて、日本軍の輸送に当ってくれた。漢口、南京、上海と帰ってくるには、漢口から北上し信陽でのりかえて津浦線を迂回しなければならないのだが、これに対しては一般交通をやめて、輸送機関を全部日本輸送に向けてくれた。
こうした引き揚げに対する協力が、後日、国民政府に対する経済界の反感となって今日の苦境に立たねばならなくなったことを思えば、こうした輸送命令をあえて出した中国政府の好意というものは実に甚大なものであったのである。
終戦の翌四月ごろになると、漢口には日本人三十万人の中居留民一万五千人ほどが残ってしまった。ところがその頃になるともう交通機関はなくなってしまっていて、歩いて帰らねばならぬといふ状態になっていた。しかし、もし歩いて旅をするとなると、どうしても五千人は途中で死んだり落伍したり、危険がある。とくに女、子供、病人は、とても歩けるものではない。
そこで私は何とか交通機関を利用させてもらえないものかと、何應欽将軍に交渉した。何應欽将軍は、快くこれを承知してくれると、直ちに重慶方面から南京方面に出てくる中国人旅行者を停めてしまって、揚子江の全汽船力を、日本人の輸送に集中してくれた。
それだけでも足りないというと、全力をあげても一日十一本しか編成できない鉄道のうち七本から、多いときで八本までを、こちらの要求に応じて廻してくれたわけである。
しかもこの状態を約一ヶ月半にわたってつづけてくれたので、案ぜられた漢口の三十万の日本人は、無事に上海から乗船して帰国することができたのである。

   何應欽将軍の言葉

 私が国民政府に対して降伏調印をしたのは、昭和二十年の九月九日であった。そのとき、国民政府代表として出席したのが何應欽将軍であった。ところが、その翌日の朝、何應欽将軍から私へ細部にわたる打合せをしたいからすぐきてくれといふ連絡があって、私はとるものも取敢ず、出かけていった。そのときの同行者は小笠原参謀一人である。ところがそこで私が命ぜられたのが総連絡部長官の職であった。
その席で何将軍が傍にアメリカの軍事顧問がいるにかヽわらず、最初に言った言葉は「日本は今や再び武力を以て中国を侵略するような事はなかろう。だから、これからがほんとうの中日提携である。この終戦は、日本と中国が真の親交を結ぶ絶好の機会であると思ふ。大いにやろうではないか」と言うことであった。

私は帰還以来国際政治に関することや、一個人にわたる談話の公表を一切さけてきた。
しかし終戦当時の蒋総統以下、中国官民の敗戦日本に対する好意を伝え、あやまった宣伝を修正し、真の中日提携が行われる日の早からんことを、心からねがうものであることだけを記したいと思ったのである。

昭和二十七年「話」九月号掲載

0 thoughts on “「徒手官兵」岡村寧次(S27)

  1. すみつばめ

    Unknown
    おじい様の手記、ともて興味深く読ませて頂いています。なんか、東アジアの情勢がこんな不安定な状況なだけに、いろいろ考えますね。

    返信
  2. すみつばめ

    Unknown
    おじい様の手記、ともて興味深く読ませて頂いています。なんか、東アジアの情勢がこんな不安定な状況なだけに、いろいろ考えますね。

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  3. YOKO

    すみつばめさん
    お読みいただきありがとうございます。
    ほんとうに、東アジアの情勢は気になりますね。
    今どうしたらよいかを考えるときに、歴史に学ぶことは大切なことだと思っているのですが、知らないことが多すぎるのでこまります。でもこういう身近な人が書き残したものだととても興味を持って読めるし、こういうところから、過去のことを学ぼうと潜在意識が働きかけているのかもしれません。
    こんなに近い国なのに、気軽に行き来できないことが異常事態だと思います。(私たちはそれに慣れてしまっていますが)対話を模索するしか道はないと思うのですが、どうもそういう流れになっていないようでやきもきします。

    返信
  4. YOKO

    すみつばめさん
    お読みいただきありがとうございます。
    ほんとうに、東アジアの情勢は気になりますね。
    今どうしたらよいかを考えるときに、歴史に学ぶことは大切なことだと思っているのですが、知らないことが多すぎるのでこまります。でもこういう身近な人が書き残したものだととても興味を持って読めるし、こういうところから、過去のことを学ぼうと潜在意識が働きかけているのかもしれません。
    こんなに近い国なのに、気軽に行き来できないことが異常事態だと思います。(私たちはそれに慣れてしまっていますが)対話を模索するしか道はないと思うのですが、どうもそういう流れになっていないようでやきもきします。

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  5. ゴジ・ダツジ

    この歳になって
    初めて知ること 終戦直後の中国の様子は
    あの状況下で なんと人道的で好意的だあったか 中国に対する思いが一掃されました

    返信
  6. ゴジ・ダツジ

    この歳になって
    初めて知ること 終戦直後の中国の様子は
    あの状況下で なんと人道的で好意的だあったか 中国に対する思いが一掃されました

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  7. YOKO

    ゴジさま
    知らないことたくさんありますよね。
    私も全く知りませんでした。中国から引き揚げてきた人は、皆満州からの人のような命からがらだったのかとも思ったりしていました。

    直接話を聞くことができなかったのは残念ですが、書き残してくれててありがたいと思いました。

    返信
  8. YOKO

    ゴジさま
    知らないことたくさんありますよね。
    私も全く知りませんでした。中国から引き揚げてきた人は、皆満州からの人のような命からがらだったのかとも思ったりしていました。

    直接話を聞くことができなかったのは残念ですが、書き残してくれててありがたいと思いました。

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