今朝のワイドショーで「お地蔵さんにお供え4000万」という話題をやってました。
地元の住人の人たち皆で建てたお地蔵さんに、なんと4000万円もお供えがしてあったと言うのです。第一発見者のおばさんはしっかり110番をしたそうですが、さて、私だったら?着服したりしないだろうか?ちゃんと届けるだろうか?と考えてみました。
こたえは、「着服しない。」です。この心の動きを分析してみると・・・、道徳心というよりも宗教心からのもののようです。こんなお金をネコババしちゃったら、ぜったい「ばちがあたる」と思ってしまいますものね。
さて、この「ばちがあたる」という気持ち。
どこから来るのでしょうね。
何教?
私は基本的に無宗教で、初詣は神社やお寺へ。お葬式はお寺で。友人の結婚式が基督教なら賛美歌を歌い、台湾の道教のお寺に行っても線香を上げてお参りするという、まあ典型的な日本人の姿かと思いますが、心の中を分解すると確実に何らかの宗教心があるようなのです。
迷信を信じる部分もあるし、何かを粗末にしたり、よこしまなことをすると「ばちがあたる」と思ってしまうようなこころ。
それと、キリシタン弾圧のときに『踏み絵』なんていうものがありましたが、あれ、別に基督教信者ではないですが、踏めないだろうな~と思います。モチロン、踏まなきゃ殺されるという状況なら踏んでしまうでしょうけど、いい気持ちはしないだろうな~と、思います。
これもなんとなく「ばちがあたりそう」だと思うからかもしれません。
これも宗教ですよね。
きっと、名前がついていないから意識してませんが。
やはりいろいろなものに神様が宿っていると考える、日本古来の(おそらく縄文の頃からの)土着の信仰心なのではないでしょうか?
Unknown
ご飯を残したりしても「ばちあたるよ」って言われたりして育ってきてますもんね。
日本人はマナーが良い、とかよく海外の方に言われますが根っこにそういう昔からの感覚があるからかもしれないですね。
いろいろなものに。。理解を超えたりおそれを抱くようなもの。。
巨木や巨石や自然のものにでも手を合わせたり、信仰の対象にすることで
心の持ちようを変えたっていう感じなのかなと思ってるんですけど
そう思うと海外から入ってきた宗教だったり
大黒さまなんかでも元々は怖い神様だったのが
日本に来て福の神になっちゃった。。っていう話なんかも、島国だからっていう理由だけじゃなくて日本的な受け容れ方なのかも。。と思えてきます。
Unknown
ご飯を残したりしても「ばちあたるよ」って言われたりして育ってきてますもんね。
日本人はマナーが良い、とかよく海外の方に言われますが根っこにそういう昔からの感覚があるからかもしれないですね。
いろいろなものに。。理解を超えたりおそれを抱くようなもの。。
巨木や巨石や自然のものにでも手を合わせたり、信仰の対象にすることで
心の持ちようを変えたっていう感じなのかなと思ってるんですけど
そう思うと海外から入ってきた宗教だったり
大黒さまなんかでも元々は怖い神様だったのが
日本に来て福の神になっちゃった。。っていう話なんかも、島国だからっていう理由だけじゃなくて日本的な受け容れ方なのかも。。と思えてきます。
Unknown
ご飯を残したりしても「ばちあたるよ」って言われたりして育ってきてますもんね。
日本人はマナーが良い、とかよく海外の方に言われますが根っこにそういう昔からの感覚があるからかもしれないですね。
いろいろなものに。。理解を超えたりおそれを抱くようなもの。。
巨木や巨石や自然のものにでも手を合わせたり、信仰の対象にすることで
心の持ちようを変えたっていう感じなのかなと思ってるんですけど
そう思うと海外から入ってきた宗教だったり
大黒さまなんかでも元々は怖い神様だったのが
日本に来て福の神になっちゃった。。っていう話なんかも、島国だからっていう理由だけじゃなくて日本的な受け容れ方なのかも。。と思えてきます。
日本的文化受容
三五子さん、コメントありがとうございます。
ヒンズー教も他の宗教の神様をとりいれちゃったりしてるそうですが、日本もそういうところ多分にありますよね。(というか、世界中でも起こってる現象なのかもしれませんが)
私この信仰心に名前付けたいな~と思ったりしてます。(名前の候補:日本教。縄文教。ふふ)
自然ものに手を合わせるというのは、そこに人間の力を超えた大きな生命力を感じたり、巨石だったりする場合は、普遍のものや自然の創造主(基督教などとは違った意味で)への畏怖の念が自然に湧いてくるためじゃないかと思います。
これって面白いテーマですね~。
日本的文化受容
三五子さん、コメントありがとうございます。
ヒンズー教も他の宗教の神様をとりいれちゃったりしてるそうですが、日本もそういうところ多分にありますよね。(というか、世界中でも起こってる現象なのかもしれませんが)
私この信仰心に名前付けたいな~と思ったりしてます。(名前の候補:日本教。縄文教。ふふ)
自然ものに手を合わせるというのは、そこに人間の力を超えた大きな生命力を感じたり、巨石だったりする場合は、普遍のものや自然の創造主(基督教などとは違った意味で)への畏怖の念が自然に湧いてくるためじゃないかと思います。
これって面白いテーマですね~。
日本的文化受容
三五子さん、コメントありがとうございます。
ヒンズー教も他の宗教の神様をとりいれちゃったりしてるそうですが、日本もそういうところ多分にありますよね。(というか、世界中でも起こってる現象なのかもしれませんが)
私この信仰心に名前付けたいな~と思ったりしてます。(名前の候補:日本教。縄文教。ふふ)
自然ものに手を合わせるというのは、そこに人間の力を超えた大きな生命力を感じたり、巨石だったりする場合は、普遍のものや自然の創造主(基督教などとは違った意味で)への畏怖の念が自然に湧いてくるためじゃないかと思います。
これって面白いテーマですね~。