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なぜ人はホラー映画やバンジージャンプを好むのか?


大震災から1年がたちました。
できるだけテレビなどは見ないようにし、心静かに過ごしたつもりですが、それでもいろいろな思いが渦巻きました。

この一年、人の生死、人間と言う存在、人生の幸せなどについて、いろいろなことを考えました。

そして最近気がついたのは「ひとは必ず死ぬ」ということです。
このことに気がついて以来、いろいろ楽になったことや、納得がいったことがあるのですが、そのはなしはまた今度に譲ります。

今日は、また別の話をしたいと思います。

自分では抱えきれないような苦しみが与えられてしまったとき、信仰に救いを求める人の姿があります。私自身はまだ、抱えきれないような苦しみの経験はないし、信仰も持ってはいないのですが、最近よく思うのは、人間のこの世の人生は、ご褒美のようなものじゃないのだろうか?ということです。

この世の生はご褒美

この世に生きている時間、寿命は長短いろいろですが、それも全宇宙の時間の流れから見たらほんの一瞬でしかないのかもしれません。また、その生きている時間もとても早く過ぎると感じたり、永遠のように感じたり、時間の長さは相対的なものでもあるようです。

その一瞬のな中に喜びや苦しみが繰り広げられているわけですが、一生が終わったら、人は、おそらく「無の存在」に戻っていくのではないかと想像しています。

生きている間、こんなにいろんな経験をし、たくさんの本を読んで考え、記憶を重ね、思い出や思いをいっぱい胸に詰め込んでいるのに、その死の瞬間、すべてのその思いや記憶はなくなってしまうのでしょうね。
「無」に帰るのだと思います。

「無の存在」に比べて、「生命」の状態は、いろいろなものに色彩があり、音色があり、味があり、匂いがあり、喜怒哀楽がある。この「生命」の状態は、もしかするとこの宇宙の中でのご褒美みたいなものかもしれないな~と思うようになりました。

こちら側(この世)は修行で、あちら側(あの世)には極楽が待ってるという考えより、こちら側にいるのはご褒美旅行だと思ったほうが、なんだかしっくり来るのです。

数多ある「無の存在」の中(矛盾した言い方ですけど)で、宝くじに当たったごく稀な人だけが、こっち側に生まれてこられる。この極彩色の味の濃い刺激に満ちた「生命」を生きられる。
だとしたら、この生命の状態を味わい尽くしたい。

ところで、私はものすごく恐がりなので、ホラー映画は一切見ません。
またバンジージャンプなどをお金を払ってまでやろうとする人のことがずっと理解できなかったのですが・・・・

この人生がご褒美だと考えると、説明がつくような気もしてきました。
どうせ無へ帰っていくのだから、波風のない状態より、スリルのある状態の方を本能的に好むのかもしれませんね。
この世に生きることがは、必ずしも楽しいこと嬉しいことばかりでなくて、苦しいこと、辛いこととセットになってるわけですが、それでもご褒美でありえると思えている、この獲得した答えを大事にしたいと思います。

これから、病気や大事な人たちとの別れなどの、今までに体験したことのない苦しいことがあったとしても、ご褒美旅行のアトラクションのひとつだと理解して、「無」にかえる日までしっかり生きて行くというのもいいのじゃないかと思い始めています。

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