毎週土曜日 神奈川大学の 市民講座に通っていますが、その時は 必ず 図書館によるようにしています。本来は授業の関連の本を読んだりするのが良いのでしょうが、まあそこは気楽に。その時どきの読みたいものを手に取るようにしてます。
先日は ペリーの日本遠征に随行した通訳の日記を読んでみました。

読んでみると170年前の文章とは思えない読みやすさ。この筆者の感性がかなり現代的なのだなと思います。今読んでもあまり気になるところがない。差別的な表現とかもなくて。
1958年から始まるこの ペリー 随行記には、沖縄、小笠原、下田、横浜などの土地が出てくるのですが、やはり横浜関連の記述が気になります。色々な折衝の末に日米和親条約をに至る横浜滞在記録を中心に読んでみました。
和親条約調印後にペリーが横浜村の庄屋を訪ねた記録があります。 その家は今も横浜元町に残っていて子孫が住んでいるようです。
その辺りの記述を探してみます。
4月6日 木曜日
今日は、ペリー提督と一行が散歩に上陸した。榴弾砲と砲車2両それにお茶 10箱がこの地の役人への最後の贈り物として 陸揚げされた。火砲が最高の引き出物とみなされているのは疑うべくもない。第1問は 「弾薬は?」であり 「実弾射撃を見せてほしい」とせがまれた。日本人たちはこの砲に似せて 直ちに大砲の鋳造にかかり、大砲さえ作ってしまえば、彼ら自身で外国の侵略に抵抗することができると考えているのではなかろうか。応接所でお茶を振る舞われた後、一行は前に設けた電信舎の方へ向けて出発し 小さなお宮 もしくはお寺に入った。彫像3体と位牌数個が並べてある。本尊は木の根を彫って作ったもの のように見受けられた。碑銘は全て漢字で書かれていたが惜しむらくはその説明を聞く時間のゆとりがなかった。
☆応接所
(条約締結の地に急ごしらえで 応接場などが建築されていたようです)
☆小さなお宮
横浜村砂嘴の先端にあった弁天様。
その後 東大ができたりして現在は関内駅近くの 厳島神社に移設されました。
ここから土手沿いに 水田を突き切り、横浜の西にある丘を登った。やがて 樹木の多い 綺麗な 峡谷へ 下って、小さな寺でしばしの憩いを取った。そこは 魅惑的な場所で 椿 桃 梅 がちょうど 咲きほころんで華やかさを添えていた。さらに快適な陽気が嫌が上にも みんなの気持ちをうき 立たせた。土地の住民が外国人を見物しようと 集まってきたが、護衛の役人は彼らを近くへ寄せ付けなかった。この辺鄙な土地に茶の木が栽培されている。 最初の植え付けの列を見てそれと気づいたのである。
☆土手沿いの水田
この辺りは太田屋新田と言って 沼地や田んぼが広がる場所だったようです、
☆横浜の西にある丘
今の山手のことです。
西ではなく東の誤りではなかろうかとのこと。
☆峡谷の小さな寺(東漸寺)
今は移転し、跡地は日本初のビール工場になり、さらに小学校になりました。北方小学校
提督はここから村へ引き返し 私の勧めに応じて 回り道をして 村長の屋敷を訪ねた。 庭先には珍しい 松が植えられていた 。 その幹の高さは4フィート 上部は直径が20フィートもあろうか 雨傘のように 枝葉が広がっていた。 これまでにするには 30年間 丹精して育ててきたのであり、 松は今 伸びやかに成長して 花をいっぱいにつけていた。 先週の土曜日にこの谷の上手にある村の近くで流れに沿う ローム質の土手に生えた松を見ているが、 大きさは この松 ほどではなかった。ここ の主人はこの他に数本の松の木を接木したもみの木も持っていて、明らかにこれが自慢の様子であった。 村長の奥さんと娘さんが1人は孫を連れて現れ この席に加わった。栄之助やその同僚たちが 皆村長 やその家族を全く無視した行動をとり、 畳に座ってくつろぎ 彼らの中へ 混じってタバコを吸ったり 談笑したりするの見たが、これは教訓的だった。 日本の下級生活者は鉄の手でその抬頭を抑えられているのではなかろうか。 彼らが権利を主張できる状況にないことは誰の目にも明らかすぎることである。 おそらくこの男は我々の来航以来、 役人数人の宿を仰せつかっていたことであろう。 そして多分 我々や 役人たちを供応するに要した 出費も多くは この村の負担とされるに違いない。 我々は手土産1つ贈らずにその家を後にし、艦へ揃って引き返したのである。
翌日、ペリーの足跡を訪ねる散歩してみました。
過去には実際にそのルートを巡る 街歩きの会なども 実施されていたようで、 インターネットにその時の記録もあったので実際 ペリーが歩いた道なども 分かりました。
まずペリー艦隊の乗組員で横浜に埋葬された、いわゆる外国人の墓第1号を見に行きました。
実際には埋葬の3ヶ月後に 下田に移されたということで 今は残っていないのですがその場所はそのまま 外国人用の墓地となり 埋葬される人々も どんどん増え、今では「横浜山手外国人墓地」として観光名所にもなっています。

次に フェリーが和親条約調印後、気晴らしのために散歩に出た時に立ち寄った横浜 村の名主の家へ行ってみます。(上に引用した文中の「村長」)

石川さんというお宅で、今でも子孫が住んでいらっしゃるようです。
ペリー側に代官と勘違いされたのか「代官屋敷」という名前でよばれ、その家の前の道は 代官坂として親しまれています。
それから 日米和親条約 調印の地へ。
今は公園になっていて 開校 資料館があります。

資料館に入ってペリー来航の色々な資料を見ました さらに閲覧室 学校図書館みたいなところに行って横浜開港 以来の地図とかを閲覧してきました。
資料館の中庭には ペリー上陸の時の絵にも書かれているタマックスの木が今でも終わっています 関東大震災の火災で燃えてしまったのですが、その根元から生えてきた芽が育ったものが今のものだとそうです。

この絵の右側の大木がペリー 時代の玉楠 です。