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ホトトギス昭和18年1月号

有休とって国会図書館に行ってきた。
今日こそ、ホトトギスをゆっくり見て祖父の俳句を見つけるぞ!前回は時間がなく慌ててたから、今回は三時間近くかけてじっくり「虚子選」の投稿俳句を見ていった。毎号それこそ何千句とあるので大変。

でも、ついに発見!
祖父の俳号である「礁舎」の「礁」の字が「樵」になってるけど、間違いない。

  どの顔も戦禍の民や秋耕す  中支南昌 樵舎

同じページに祖父の手記に登場する「親友」の奈良邯子氏の名前も見つけた。

  梅雨の扉に入城の日の文字のこる  中支 邯子

どちらも戦時中の句だなぁ。

一年分の虚子選を読んだので(超絶斜め読みだけど)幾つかの俳号を覚えた。毎号毎号選ばれる常連さんがいたようだ。

熊本の人だと、草餅さん とか
南京の下村非文さん、
漢口の佐藤一村さん、
倶利伽羅の竹中一峰さん、
中支の大刀さん…

有名人の名前もある。
草田男、青邨、汀女…父が最近話題にしていた、横井迦南も常連さんだ。面白いところでは中村吉右衛門なんていうのもあった、芝居の俳句なのであの吉右衛門だろうけど、何代目かな?(初代だそうです。虚子の弟子だったとか @wiki)

この虚子選に投句してくる人々は、日本全国はもちろん、当時外地と呼ばれたアジア、南洋、そして、戦線からもたくさん送られてきてる。入院中の兵士は傷病の文字があり、時には戦死と注意書きのあるものもある。現代より俳句人口が多かったのだろう、特に若い人に。それと、戦地にあっても俳句をよむ情熱がすごいと思った。。

ホトトギスは戦争中もしっかり発行を続けていたようだが、昭和20年になるとどんどん内容が少なくなる。紙が手に入らずやむなくページ数を減らしたようだ。最後の頃は、投句の「虚子選」だけが掲載されるようになる、虚子自身も小諸に疎開し、投句の宛先も小諸に変更される。そして、昭和20年の4月号まで出したところで、発行困難になり、次は10月号、11月号が発行された。12月号は出なかったようだ。国会図書館にもその10月号はなかった。混乱期のためか?11月号を見たが、急に英語のページが登場し、驚いた。

ホトトギスはすべてデジタル化されているが、ネット公開はされていない、また時間を作って読みに行こう。

0 thoughts on “ホトトギス昭和18年1月号

  1. 白猫

    俳句
    いつも楽しく読ませて頂いています。
    俳句のことについて思い出したことがあります。
    私の父(丁度おじい様よりちょっと下の世代?)
    が話しておりました。
    父はかのインパールよりイギリスの捕虜収容所を経て生還してきました。
    戦後、結婚し子供たちも大きくなった時、俳句やら短歌の話が出ました。
    そのとき父が捕虜収容所では俳句やら短歌やらをよく読んだものだ、とポツリと話していたのをふと思い出しました。
    投稿していたとは聞きませんが、読ませていただくうちにお伝えしたくなりました。
    これからも楽しみにしております。

    返信
  2. 白猫

    俳句
    いつも楽しく読ませて頂いています。
    俳句のことについて思い出したことがあります。
    私の父(丁度おじい様よりちょっと下の世代?)
    が話しておりました。
    父はかのインパールよりイギリスの捕虜収容所を経て生還してきました。
    戦後、結婚し子供たちも大きくなった時、俳句やら短歌の話が出ました。
    そのとき父が捕虜収容所では俳句やら短歌やらをよく読んだものだ、とポツリと話していたのをふと思い出しました。
    投稿していたとは聞きませんが、読ませていただくうちにお伝えしたくなりました。
    これからも楽しみにしております。

    返信
  3. YOKO

    白猫さま
    もしかしてはじめましてでしょうか?(以前にもコメントいただいていたらスミマせん)
    コメントありがとうございます。
    お父様インパールから生還なさったのですか。実はインパール作戦がどんなことだったのか、よく知らなかったんですが、最近テレビで特集されていて、知る機会を得ました。

    収容所で短歌や俳句を詠んでいたんですね。それは素養がおありだったのだと思いますが、道具などがなくてもできる手近な娯楽というか芸術だったのでしょう。
    お仲間がいたらもっと盛り上がって慰めにもなったのではないかと、お話を伺ってそんな風に思いました。
    戦場だったからからこそ生まれたものも多かったのかもしれないですね。
    貴重なお話ありがとうございます。
    どんな俳句を詠まれたのでしょうね。

    返信
  4. YOKO

    白猫さま
    もしかしてはじめましてでしょうか?(以前にもコメントいただいていたらスミマせん)
    コメントありがとうございます。
    お父様インパールから生還なさったのですか。実はインパール作戦がどんなことだったのか、よく知らなかったんですが、最近テレビで特集されていて、知る機会を得ました。

    収容所で短歌や俳句を詠んでいたんですね。それは素養がおありだったのだと思いますが、道具などがなくてもできる手近な娯楽というか芸術だったのでしょう。
    お仲間がいたらもっと盛り上がって慰めにもなったのではないかと、お話を伺ってそんな風に思いました。
    戦場だったからからこそ生まれたものも多かったのかもしれないですね。
    貴重なお話ありがとうございます。
    どんな俳句を詠まれたのでしょうね。

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