民俗学の旅 (講談社学術文庫) amazonへ | |
宮本常一 | |
講談社 |
以下の10か条は、宮本常一の著作(上記の「民俗学への旅」など)にあるのですが、まだ10代の宮本少年が初めて家を出て大阪へ勉強しに行くという時(まだその時点では、どの学校で勉強するなど具体的なことは決まっていませんでした)に、父親から渡された言葉だそうです。父親は、農家の生まれで学校にはろくに行かず、農家だけでは食べていけないので出稼ぎをして方々に出て行っていた人で(フィジーへも行ったらしい)、その経験からこのような言葉が生まれてきたらしい。まるでフィールドワーカーのようなその視点、また合理的で時代の先を見るかのような言葉に圧倒されます。
宮本常一は生涯この言葉を大事に旅をしていたのだそう。
私たちにも生かせる言葉がたくさんありますね。
一、汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺か、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
二、村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
三、金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
四、時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
五、金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
六、私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
七、ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
八、これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。
九、自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
十、人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
Unknown
外国行ったときは畑や家を見ますが、国内でも地域差があるんでしょうね。意識してませんでした。
「人の見のこした」の意味がわかりませんでした。
人の見のこした
「人の見残した」ですね。
人が気にも留めないで残されているものや忘れられているものに目を向けるというのは、宮本常一の一貫したスタンスですね。
たとえば、先日の歴史講座でできてきた話に、60年安保デモの時の写真があるのですが、普通の人は「デモしている人」の写真を撮りますよね。でも宮本は「デモを遠巻きに見ている人たち」の写真を撮るんです。
50年たってみると、デモの写真は見飽きるほど見てますが、そのデモをある意味冷めた目で見てるサラリーマンや、出前持ち、学ランの学生などの表情を見る機会は無くなっています。
そこがすごいなぁと思うところです。
その時代デモは珍しくても、それを眺めている人は日常的過ぎて誰も気にも留めないんです。
そういう風にお父さんの教えに忠実だったと思うのです。
Unknown
漢字の威力でわかりました。ただ、中国語でどこで切って読むかわからないこともよくあります。
どこで切るか
aripさん、巨人の星の主題歌の「思い込んだら試練の道を~♪」というのを「重いコンダラ」と聞いてしまったり、これは、うちの親の話ですけど、「高校三年生」という歌の「蔦の絡まるチャペルで♪」というのを「ツタノからマルチャペルで」と聞いたり(マルチャペルってどこだろうと思ってたそうな)、切るところで意味が変わってしまいますよね。
時として日本語でも難しいのですから、いわんや外国語をや!ですよね。