台北の青田七六で見た神棚のことを湾生の方に質問しました。
戦時中、各家庭に神棚を祀るようにと総督府からのお達しがあって、キリスト教徒の家にも神棚が祀られたという件。
たしかにそういうことがあり、台湾人の管理する廟にまで及んだということでした。
そして、当時の台南市長はそのお達しを断固拒否して廟内に神道の神を祀らせなかった、と言う話もききました。その台南市長さんは、後年台湾の方により顕彰され、群馬県の珊瑚寺という寺に胸像が建てられたとか。
この方のこと全然知らなかったのですが、羽鳥又男という方だそうです。
台北の「南機場」についても質問してみました。
陳昇の新譜のタイトルになって、にわかに興味の湧いているエリア。
住んでたエリアが離れていることもあってか、あまり記憶にないとおっしゃってました。その話からなぜか「指南宮」の練兵場の話になり、それも興味深かった。あの山の上まで歩いて行って訓練するんだって。
小5の宜蘭1泊旅行で蘇澳冷泉へも行ったそうです。
担任の先生が「お前たちここの水は天然のサイダーだぞ!みんな水筒に詰めてお土産に持って帰れ」と言うので、子どもらはめいめい持ってきた水筒に詰めたのだけど…。当時の水筒のふたは今のようにしっかり閉まるタイプでないので、帰りの汽車の中でふたがポンポン破裂、皆びしょびしょになったそうです。あとで聞いたら、先生は毎年同じことを言って、子どもたちをからかっていたらしい。「伝統行事」って言ってました^^。隣で聴いていた女性は「私たちの時はそんなことなかったわ」。男女差があったのかもしれませんね。
男女差と言えば、小学校でも男女別々のクラスだったそうです。
当時のクラスは1学年に60人、それが5~6クラス。男女別クラスの外、1学年に1クラス混合クラスがあったとか。講堂に全校生徒が入りきらないので、何かの式典の時には2部に分かれてやったのだそうですよ。
台湾神社(今の円山大飯店)の祭礼は10月28日。
町内を「樽神輿」を担いで練り歩く。子供みこしを担ぐ子は学校を休んでも良かったらしい。町内の商店会のおじさんたちとこどもたちで御神輿を担ぐ。神社までは遠いので町内だけで済ませてたとか。行く先々でお菓子がもらえたそうな。
お正月のお餅の形のはなし。
台湾には西日本出身者が多く餅は丸餅だったそうです。お雑煮も関西風だったのだそうです。
台北に住む日本人の中でも台湾語の単語は使われてたみたい。
「とあちゃー」=人力車。
「ぱんさい」=牛馬糞
人力車のことは祖父の中国時代の話に「ヤンチョー(洋車)」とかって書いてあった記憶有り。
車引きは現地の人が多かったので、日本人も現地語で呼んだのかな?
学徒出陣の話。
師範学校に通っていて兵役が免除されていたが「学徒出陣令」がでて軍隊に入ることになった。3か月の訓練を終え外泊が認められ帰省した。その時お母さんが「死んで靖国神社に祀られるって言ったって遠すぎる。お前は突撃命令が出ても一番最後から出ろ。死ぬな」と言ったそうだ。でも、いざ出征となり駅で見送られる際には、お母様が「誰よりも頑張りお国のためにしっかり働いてこい」と大きな声で言ったのだとか。本音は大きな声で言えない時代。まえまえから身内が靖国に祀られて喜ぶ家族はいるのだろうかと思っていたけど体験者から聞くお話は重たい。
その方に、上田にある「無言館」と言う美術館のことを教えていただいた。学徒出陣で戦場に散った美大生の作品が集めてあるのだそうです。『美術学校の生徒たちは、兵隊に行く直前まで、もうすこし、もうすこしって言って作品を完成させて、それから出て行ったんだそうですよ」と。
湾生の方が「台湾そば」って言ってたんだけど、今で言う何を指すのかな??
米の麺だろうか??米台目びーたいば、みたいな?
麵線と言う説もあり。
会でいただいた戦前の台北住宅地図がすごい!
13年ほどの歳月を費やして、記憶を頼りに作り上げたんだそうです。
それを見てて、今の林森公園の東側に川が流れてて「こんなところに川あったっけ?」と思いました。
今の地図と見比べると、新生北路ですね。
あそこ妙に高低差があって不思議だと思ってた。川だったんだ。
今は暗渠でしょうか?それとも埋め立てられた?