

宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合ぐあい庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。
廊下のような、梯子段のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降おりて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。

山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの平地となり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた隆然と起き上って、周囲六里の摩耶島となる。これが那古井の地勢である。温泉場は岡の麓を出来るだけ崖へさしかけて、岨の景色を半分庭へ囲い込んだ一構であるから、前面は二階でも、後ろは平屋になる。椽から足をぶらさげれば、すぐと踵は苔に着く。道理こそ昨夕は楷子段をむやみに上のぼったり、下くだったり、異な仕掛の家うちと思ったはずだ。
今度は左り側の窓をあける。自然と凹む二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影を※ひたしている。二株三株の熊笹が岩の角を彩いろどる、向うに枸杞とも見える生垣があって、外は浜から、岡へ上る岨道か時々人声が聞える。往来の向うはだらだらと南下に蜜柑を植えて、谷の窮まる所にまた大きな竹藪が、白く光る。竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石磴が五六段手にとるように見える。大方御寺だろう。
入口の襖をあけて椽へ出ると、欄干が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔へだてて、表二階の一間がある。わが住む部屋も、欄干に倚ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。湯壺は地の下にあるのだから、入湯と云う点から云えば、余は三層楼上に起臥きがする訳になる。

漱石が泊まった部屋。



三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。槽とは云うもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭もない。病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。




小天
漱石が訪れた頃の小天はどんな風景が広がっていたのでしょうね。
海岸線(今の国道501号)の西側が、明治前期の干拓で新田が開発されて間もない頃で、半農半漁の寒村の中の鄙びた温泉場だったのでしょうね。
FUSAさん
こんにちは。コメントありがとうございます。ここは漱石が泊った部屋がそのまま保存されていてとても良かったです。少し気分が味わえました。
周りの景色は少しかわったでしょうけど、新田開発も盛んで、玉名川の水運もあり、大浜なども近いしで、もしかすると、現在よりも活気のある土地だったかもしれないなぁなどと思っていました。
ところで、宿屋でもない、前田家に宿泊するというのはどういうことなんでしょうね。当時の知識階級は横のつながりで、紹介があれば滞在することができたとかそんな感じなのでしょうか?
前田邸
前田家別邸に漱石は3回も投宿していますから居心地がよかったのでしょう。元国会議員で地元の名士の家ですから、多くの著名人がやってきたようです。しかし、高瀬や大浜のように海運で栄えた町とは異なり、静かな村だったようです。
FUSAさん
再度のコメントありがとうございます。
静かな村で居心地のいい名士の屋敷。
いいですよね。