(写真はグーグル画像検索画面)
10歳の頃山の村から町に引っ越した。
まだ畑がたくさん残る新興住宅地だった。
クラスメイトに連れられて畑で遊んでいた時のこと、「ここではときどき不思議なものが見つかる」と言って、土の中から人の顔をした固い土の塊のようなものを拾って見せてくれた。
まだあるかも知れない。夢中になって探した。
ときどきそれらしいものが見つかる。
「これ顔に見える‥かな?」
「うん、そうだよ。それだよ」
それは指の先位の大きさのものでいびつな形をしていた。
土が長い時間をかけて固まってこんな形に偶然なるんだろうか?
それとも何かの呪いかな?
こどもだった私には、とてつもない神秘に思えた。
昨日ひょんなことからそれが「泥面子~どろめんこ」と呼ばれるものだと分かった。
人間が作ったカワラケだった。
江戸時代から明治のころまで日本中で流行った子供の玩具だったそうだ。
メンコか。
熊本ではそれを豊作を祈るまじないとして畑にまいたという歴史があったらしい。
だから畑から見つかったのか!
呪いでも何でもなかった。
人間が作ったものだったのだ。
「泥面子」のことは先月行った栃木県の博物館で知った。
江戸時代の流通の説明展示の中に「江戸の泥面子が栃木で見つかることがある。それは江戸の下肥が買い取られここまで運ばれてきたことをさす」とあった。
江戸では虫封じか何かのまじないとして泥面子を便所にすてる風習があったらしいのだ。
江戸で作られた泥面子が、栃木で見つかることで、下肥流通の経済圏の広がりが確認できるということだった。利根川などの水運のおかげだろう。
下肥にまじってるとすれば畑で見つかるのも不思議ではないけど、熊本のは量が多すぎるように思うので、やっぱりじかに畑にまいたのではないのかな?
山の村に住んでいた時に、それを聞いたことがなかったのは、単に情報不足か?それとも泥面子は町場に広まっていたからなのかな?
それにしても、子どもの頃の神秘体験(と思っていた)がしっかり歴史につながった。
何か情報をお持ちの方、教えてください。
泥面子・・・
泥面子、初めて聞く言葉です。子供のおもちゃを祭祀物に転化して畑(田でなく)に撒いたのですかね。
託麻ガ原には水田はなく畑ばかりでしたから豊作への願望は強烈なものがあったので゜しょう。
江戸の下肥が下野の国まで運ばれていたのも面白い話です。大八車に肥桶を載せて運んでいたと思われますが、せんもんの運び屋がいたのでしょうね。
面白いネタでした。
礁さん
ご存知なかったですか?
熊本では呼び名が違うようですよ。
おっちょすとか、おちょこすとか、そんな風な言い方かも。
礁さん達は子どもの頃そういうものを見つけたりしませんでしたか?
ネットで検索すると「健軍でよく見つけた」と言う話が出てくるので、地域性があるのかもしれません。
田んぼにまいたかどうか、判然としませんね。私が子供のころ見つけたのは健軍の畑だったと思います(あのあたりは田んぼは少なかったですから…)
郷土史家の皆さんにきいてみたら、詳しい方がいるかもしれませんね。
下野へ江戸の下肥が運ばれたのは確か利根川などの水運のはずです。大田区や世田谷区などの近郊の村には大八車だったでしょうね。
江戸の時代小説などで知ったのですが、江戸の長屋の大家さんは、長屋の管理人として雇われた人ですが、下肥を売った代金は収入にしてよかったらしく、けっこうお金が手に入ったらしいですね。
Unknown
昭和45年〜48年頃には熊本市の東区の健軍や帯山の畑でよく見つかっていました。
「おちょこし」と呼んでいました。
戦後に軍の工場(三菱)から畑にした際に豊作祈願で撒いたようです。
毎年撒くものではないようでだんだん見つからなくなりました。
私と友人3人で50個くらいは収集しました。
Unknown
吉田一気さま
貴重なコメントありがとうございます。
「おちょこし」っていうのですね。
同年代くらいの方でしょうか?
ここにも三菱の工場のことが関係してくるのですね。
たいへん興味深いです。
私が拾ったのは現在の山之内小学校の近所あたりの畑だったと思います。
三菱の工場と飛行場の中間くらいの場所です。
また何か情報があったら教えてください。
Unknown
泥面子の研究をしています。
よろしければインスタグラムの
ichijinnokaze2020か
一陣の風小さな博物館で検索して眺めて
ください。
一陣の風さま
インスタグラム拝見しました。
ほんとに博物館ですね!
子どものころ、不思議な気持ちで夢中で探したことを思い出します。
ご自分で掘り出していらっしゃるのですか???