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肥後のあか牛

阿蘇の宮地にある、阿蘇神社を見物し、水基めぐりもやったら、狭い街のこと、見るものがなくなりました。そうしたら、父が近くの高校に「肥後のあか牛」の種牛になった牛の模型があるから見にいこう。と言い出しました。その高校は、昔の阿蘇農業高校、今は、阿蘇中央高校清峰キャンパスと言うようです。ちょうど土曜日で授業はお休み。でも校庭には部活動に来ている生徒がいます。きっと先生も出勤してる人いるのでは?

駐車場に車を停め、父が交渉のため建物内に入っていきました。ちょっとドキドキ。
程なくして、交渉成立とばかりに、父が出てきてこちらに手招きをします。
我らも校舎に入りました。

その標本は、階段の踊り場の広いところに展示されていました。
模型か何かかと思っていたら、骨格標本でした。

名前は「ルデー号」。

標本を前に父が語り始めます。なぜこんなに詳しいの???と不思議に思うほど詳しく説明してくれます。それに固有名詞なども全部暗記してるらしい。我が父ながら凄いです。

父の説明によると……

その昔阿蘇一帯にいるのは小型の牛ばかり。今のように大きな牛は一頭もいなかった。明治になって西洋から牧畜が輸入されるようになり、大きな牛の生産に取り組むことになった。
そのためスイスから、種牛を連れてきて、まず広島の試験場のようなところで育て、その後阿蘇に連れてきた。そして阿蘇の牛と交配していった結果、阿蘇の牛は大きくなった。だから、今の阿蘇のあか牛たちはみんなこのルデー号の子孫。

阿蘇には札幌農学校で牧畜を学んだ百瀬先生という人がやってきて農学校の校長になったのだけど、その人があか牛を育てるのに理想的な牧草を取り寄せて、近隣の牧畜農家に紹介するのだけど農家は従来の餌から変えようとしなかった。だから先生はいつもその牧草の種を持ち歩き、あちこちに蒔いていたそうだ。それが功を奏して阿蘇にはその牧草が自生するようになった。その草は、百瀬ぐさと呼ばれる。

などなど。

ルデー号のイラストも展示されてたのだけど、茶色と白のぶち柄だった。あか牛は、茶色の単色で斑はいませんね。交配の不思議なのでしょう。

私達が父の説明を聞きながらルデー号を見ているとき、高校の先生が二人つきそってくれました。写真を撮らせてもらったのですが、ネットには載せないでほしいということだったので、ここには、別のサイトから引用したものを載せますね。

熊本あか牛 あか牛しのルーツ

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