
友人が出るというので喜多能楽堂で開催される「明生会」へ。(明生会というのは粟谷明生さんに習ってる人たちの おさらい会であるようです。)
お仕舞や謡の演物のあと、能「小鍛冶」。前シテ、後シテは別の人が務めるのですが、ふたりとも友人です。
あらすじや歌詞(?)も予習していったので、よくわかって楽しめました。
後見には友枝昭世さんと狩野了一さん。
ワキは館田善博さん、間狂言は山本則重さん。
プロの皆さんに囲まれて、私の友人二人頑張ってました。
能「小鍛冶」。
一条院の夢で剣に作れというお告げがある。刀鍛冶の宗近に宣旨が下される。宗近は「銘刀を打つには自分と同じかそれ以上の実力を持つ相槌が必要だがそれが見つからないので難しい」と辞退するがどうしても打つようにとのことで承る。困った宗近は氏神である稲荷大明神へ祈願に行き、そこで不思議な男の子が現れ「きっとご加護があるから準備をして待つように」という話であった。宗近が言われた通り準備をして待っていると稲荷明神の使いのキツネが現れて立派に相槌を務め、名刀が打ち上がる。そしてそれを一条院の使者に献上する。
小鍛冶
能「小鍛冶」はいかがでしたか。
私はまだ映像でしか見たことがなく、一度ナマの舞台を見てみたいと思っています。
凄い能楽師さんたちに囲まれてご友人も大変でしたね。
熊本では普段見ることができるのは金春流、喜多流、観世流ですが、個人的には喜多流が一番気合が入っていて好きです。
小鍛冶
能「小鍛冶」はいかがでしたか。
私はまだ映像でしか見たことがなく、一度ナマの舞台を見てみたいと思っています。
凄い能楽師さんたちに囲まれてご友人も大変でしたね。
熊本では普段見ることができるのは金春流、喜多流、観世流ですが、個人的には喜多流が一番気合が入っていて好きです。
FUSAさん
コメントありがとうございます。
小鍛冶というのは、動きも速く、お囃子もにぎやかで見ていて楽しい曲でした。
私は、能は全然知識もなく、以前友人に誘われて国立能楽堂に見に行ったときは、こっくりこっくりしてしまう感じでした(チケット高かったのに!)。
「能=よくわからないもの」というイメージだったのですが、友人二人が喜多流で習い事を始め、数年で「能」に挑戦するところまできました。
せっかくならばと思って、今回ちゃんと予習したところ、よくわかって面白かったです。
ふと思ったのですが、大衆のものとされている「歌舞伎」は東京と大阪くらいでしか見られませんが、能狂言はそれこそ全国各地に能舞台があって見ることができるので、こちらの方がよほど一般的と言えるのではないでしょうか?
また来年もあるらしいので、また楽しみたいと思います。
FUSAさん
コメントありがとうございます。
小鍛冶というのは、動きも速く、お囃子もにぎやかで見ていて楽しい曲でした。
私は、能は全然知識もなく、以前友人に誘われて国立能楽堂に見に行ったときは、こっくりこっくりしてしまう感じでした(チケット高かったのに!)。
「能=よくわからないもの」というイメージだったのですが、友人二人が喜多流で習い事を始め、数年で「能」に挑戦するところまできました。
せっかくならばと思って、今回ちゃんと予習したところ、よくわかって面白かったです。
ふと思ったのですが、大衆のものとされている「歌舞伎」は東京と大阪くらいでしか見られませんが、能狂言はそれこそ全国各地に能舞台があって見ることができるので、こちらの方がよほど一般的と言えるのではないでしょうか?
また来年もあるらしいので、また楽しみたいと思います。
能と歌舞伎
能は予備知識があって見る場合とそうでない場合と感受の仕方が全く違いますよね。
ただ、詞章は自分で謡をやらない限りほとんど聴き取れないと思います。不思議なのは言葉のわからない欧米人に能が受けるのは、心に訴えかける何かがあるのでしょうね。
明治維新で能は大名というパトロンを失い、消滅の危機があったわけですが、皇族や貴族に人気のあった能を失いたくないため、岩倉具視らが高貴なかた達向けの能を必死に残そうとするわけです。本来なら仏教文化である能は廃仏毀釈とともに消えゆく運命にあったと思いますが、都合よくそこだけ残したことが、神事能などとなって今日につながったわけです。
一方、歌舞伎は大衆文化だったわけですが、明治政府はこれを国劇化するため、ランク付けをして一部の名家がやるものだけを「歌舞伎」として特別扱いをし、そこから外れたものは大衆演劇となっていくわけですが、そこから「歌舞伎」の高尚化が始まり、一般市民からは縁遠くなったものと思います。
能と歌舞伎
能は予備知識があって見る場合とそうでない場合と感受の仕方が全く違いますよね。
ただ、詞章は自分で謡をやらない限りほとんど聴き取れないと思います。不思議なのは言葉のわからない欧米人に能が受けるのは、心に訴えかける何かがあるのでしょうね。
明治維新で能は大名というパトロンを失い、消滅の危機があったわけですが、皇族や貴族に人気のあった能を失いたくないため、岩倉具視らが高貴なかた達向けの能を必死に残そうとするわけです。本来なら仏教文化である能は廃仏毀釈とともに消えゆく運命にあったと思いますが、都合よくそこだけ残したことが、神事能などとなって今日につながったわけです。
一方、歌舞伎は大衆文化だったわけですが、明治政府はこれを国劇化するため、ランク付けをして一部の名家がやるものだけを「歌舞伎」として特別扱いをし、そこから外れたものは大衆演劇となっていくわけですが、そこから「歌舞伎」の高尚化が始まり、一般市民からは縁遠くなったものと思います。
FUSAさん
能と歌舞伎の歴史的な解説ありがとうございます。とても腑に落ちました。
舞台が派手な歌舞伎は楽しいですし、高尚な芸術の域まで行ってるので見ごたえもありますが、とにかく見るのが大変。東京にいてもそうなのですから、日本全体で見たら歌舞伎ファンになる人は限られてしまいますね。私は歌舞伎座で見たの、たったの1回だけです。
日本の伝統的な芸能や文学の世界がつながっていて、同じ話が能でも歌舞伎でも落語でも講談でもあることに最近気がつきました。私は落語が好きですけど、古典落語には歌舞伎などの知識が当然のものもあって、もっと知りたいなと思っています。
今朝のNHKニュースで少女たちによる歌舞伎の公演が歌舞伎座で行われたの、ご覧になりました?歌舞伎もまたすそ野を広げてくれたら楽しいだろうなと思います。
能は演劇としてみた場合には、起承転結がそれほど大きくないようですけど、舞台芸術としての洗練度がすごいですよね。海外でも受け入れられるのはそのあたりもあるのかなと思います。
少女歌舞伎
NHKニュースは見ました!
歌舞伎は女性によって始められたものですから、女性が歌舞伎の舞台に戻るのは当然だと思います。
熊本には今、「096k熊本歌劇団(オクロックくまもと)」という女性歌劇団が活躍していますが、これも一種の歌舞伎ですし、私が10年来応援し続けている「舞踊団花童」も歌舞伎舞踊を本旨としていまして、定期的にお芝居公演をやっています。
こういう動きが全国に広がってくれると嬉しいですね。
FUSAさん
>歌舞伎は女性によって始められたもの
言われてみれば、そうですね!
すっかり忘れていました。
096k熊本歌劇団とか舞踊団花童の公演も直に見る日があればいいなと思います。
FUSAさんのブログの動画で拝見してはいますが。
舞台でも歌でも西洋風のものに親しむ機会の方が多いのですが、日本人が昔から親しんできたものはこの風土に合ってますよね。再発見のような気持ちで楽しみたいと思います。
全国に広がって気軽に楽しめるようになるのがいいですよね。