コンテンツへスキップ


私が目指してるプリンはこれです。
台北の鶏家荘という台湾料理屋さんで出してくれるおまけのプリンです。

素朴な味でおいしいのです。

改めて見ると、かなりカラメルが濃い色で、多めに入ってますね。やっぱりカラメルが重要なのかもしれない。私にとっては。

[追記]2014.6.1.に作ったプリン

全卵2個 卵黄5個 牛乳400cc 黒砂糖5かけ
強火2分、弱火5分 その後自然放置。
カラメル多めに作ったら、容器の底にへばりついて取れなくなった。奥深すぎる・・・・。


5月27日 小澤征爾&水戸室内管弦楽団@ミューザ川崎
続きです。

開演前、客席に大学の恩師がいらしていたので挨拶に行きました。2年ぶりくらいにお目にかかりました。先生は今日は静岡出張から駆けつけられたのだそう。84歳になられるのにお元気だ!そして終演後にもご挨拶しようと思ってロビーで待っていたら、「君たち時間大丈夫?楽屋に行ってみようよ。」と連れて行ってくださいました。
キャードキドキ。

実は楽団のスタッフをやっている同級生から、終演後はマエストロが大変お疲れになるので(そのお世話で?)私たちに会いに行けないという断りのメールが入っていました。そうだろう、そうだろう。それなら今夜は彼にも挨拶なしで失礼しようと思っていたのですが、先生が連れて行ってくれるところまでは行ってもいいかな。先生は水戸の団員さんには昔馴染みが結構いらっしゃるみたい。

楽屋口。
先生はいわゆる顔パスです。

ステージ裏は二重構造になっていて、楽団員さんのいる広いところとマエストロのいる奥の部屋(楽屋)があります。楽屋の前はスタッフの人が何人もいます。楽団員の皆さんはもうラフな服に着替えて撤収していくところでした。恩師は顔見知りの楽団員さんに声をかけたり、私たちを紹介してくれたりした後、奥の部屋に入っていきました。私たちはもちろん広いところで待機です。待っている間、恩師の知り合いの音楽記者さんとお話できたんですが、クラシック音楽の素人の質問にいろいろ答えていただけて勉強になりました。お名前を聞きそびれた。いつかまた会えるかな?

そんなことをしているうち、スタッフの同級生にも会えました。仕事中で忙しそうでしたが、彼も恩師にはもちろんご挨拶。そしていろいろこのコンサートにまつわる話をしてくれました。(というか恩師に話してたのを聞いてただけ。業界の話、固有名詞も知らないしであまりよくわからなかった…勉強しよう)

そして、楽団員さんがほとんど帰ってしまったあと、小澤征爾さんが奥の部屋から出てきました。ボストンレッドソックスの真っ赤なスタジャンに、ニューバランスのスニーカーでした。

きやー!
生オザワ!
生セイジ!

そしてなんと恩師が私達をマエストロに紹介してくれました。
不思議とそんなに緊張しませんでした。そういうの飛び越える魅力溢れる方なんでしょう。マエストロは24歳のオーボエ王子をつかまえて「こいつまだ24才なんだぜ」などと繰り返し、悔しそうでした。何だろ?とてもおちゃめな感じが漂ってました。
今回の演奏会、前半は「指揮者なし」での演奏でしたが、スタッフの話によるとリハーサルでは、ばしばし指揮してたそうです。できるだけ体力温存していただきたいのに、始まったら止められない…ようなお話でした。なんだかとっても「らしい」ですね。恩師とは中でも話をしたんだと思いますが、外でもいろいろ話してました。「サイトウキネンでベルリオーズやるよ。」とか。まだまだ残って話したそうでしたが、スタッフに「そろそろ帰りますよ」と促されていました^^。

オーボエ王子(笑)にもお疲れさまーと声をかけることが出来ましたが、ニコニコ手を振ってくれる好青年。
カワイイ!

実は私、20年以上前に一度小澤征爾さんに会ったことがあるんです。その時は征爾さんのお母様もいらしてて、茶話会みたいなイベントが開かれ、友達に誘われて参加したのだと思います。小澤征爾さんの兄弟が揃ってアカペラで黒人霊歌を披露してくれました。それはお母様のためだったと思いますが、ものすごく貴重な体験です。その時の写真がどこかにあると思うのですが、どこにしまったかなぁ。

さて、会場を後にしたあと、随分遅くなってたのですが、恩師と友人と川崎銀柳街あたりに繰り出して呑みました。
御年84歳の先生を深夜まで連れ回してしまいましたが、満州の話、戦時中の話、先生の苦学の話、今の集団的自衛権の話、コンサートの話、小澤征爾さんの話、たくさん聞かせていただきました。う~時間が足りない!
先生はその日は静岡出張から直接コンサートを聴きに来て、翌日は宇都宮だというので、今夜は家に戻らず(先生の家川崎なのに)、東京駅前のホテルに泊まるとおっしゃってました。今度大学の同期会を5年ぶりにやるので、先生もお誘いしたら、もう先約有とのことでした。「いつなら大丈夫ですか?」と尋ねると、「2015年まではいっぱいなので、2016年なら」との話になり、今なんと2年後の同期会の計画が進行しています2年後まで予定ギッシリってすごいですね。超人?!先生、いつまでもお元気で。

素晴らしい音楽を聴き、いろんな人に会って、いろんなことが起こった夢のような一夜でした。

友人からのお誘いで、小澤征爾指揮の水戸室内管弦楽団川崎公演に行ってきました。友人は愛知からこのためにやってきました。演奏会なんてそれほど出かけない私ですが、水戸室内管弦楽団は同級生が働いていることもあり、二回目の鑑賞。前回はサントリーホールのチャリティーコンサートでした
今回は、小澤征爾さん指揮です!テレビでは何度も拝見してますが、生演奏を聴くのは初めて。会場はミューザ川崎。駅直結のステキなコンサートホール。渦巻状の客席が斬新な印象です。

演目は、メンデルスゾーンのシンフォニア第二番
モーツアルトのオーボエ協奏曲
ここまでは指揮者無しでの演奏です。

コンチェルトはソリストが指揮してました。吹き振りっていうのかな?24歳のソリスト、フィリップ・トーンドゥル氏。顔を真っ赤にしてオーボエを吹く様子が可愛かった!オーボエは最近とても気になっている楽器で、オーケストラからオーボエの音が響いてくると嬉しくなってるので、コンチェルト聞けて幸せでした。しかも黒木君(のだめカンタービレ)のピンクのモーツアルト(*^^*)。

フィリップさんは、アンコールの前に日本語で「アリガトウゴザイマス!」って挨拶して、自分でアンコールの曲紹介をしていました。ますます可愛かった!オーボエ王子と呼ばせていただきます。アンコール曲は、「マルチェロのオーボエ協奏曲 ニ短調 第二楽章」でした。
オーボエの音きれい。うっとり。

そして、小澤征爾指揮でベートーヴェンの交響曲第7番。のだめカンタービレのテーマ曲ですね。オーボエ協奏曲といい、のだめコンサートだ!

今回は、チケットは友人任せで席が取れればどこでも!と言っていたのですが、前から7列目というステージにとても近い席になりました(15000円)。こんな席で聞くの初めてです。つい一番安い席を買ってしまうのでNHKホールの3階席とかばかり。しかもここミューザ川崎はステージと1階席がとても近く、高さもほとんど変わらないのです。

感想はいろいろあるのですが、とにかく小澤征爾さんのエネルギーがすごかったです。ご病気されてましたがそんなことを感じさせないパワーでした。終演後話を聞いた人は皆「完全復活!」と言ってました。そして、楽団との呼吸。その空気感。
楽団の結束みたいなものは、小澤さんが登場する前から感じていて、指揮なしの2曲もすごくまとまった雰囲気で、特にコンチェルトでは若いソリストをベテランの楽団員さんたちが見守るような感じで演奏していてすごく温かい空気がありました。
水戸室内管弦楽団は小澤征爾さんが総監督をしている楽団ですし、後で聞いた話なのですが楽団員の中には子供の頃からの音楽仲間もいて、とにかく「ホーム」なんですね。

前半2曲のあと休憩が終わってベートーヴェンが始まる前にオーケストラが入場してくるのですが、急に拍手が一際大きくなったので??と思ってたら、小澤征爾さんは、楽団員と一緒にステージに入ってきたのでした。普通はオーケストラが着席して、満を持して指揮者登場ですよね?オーケストラの一員のように紛れて後方から現れたのでびっくりしました。

あとから聞いた話だと、この水戸と、サイトウキネンだけはこのスタイルなんだそうです。これが「ホーム」感を表していました。そして、指揮台に乗らずオーケストラに食い込んで指揮してました。コンマスなどは指揮者の後ろ姿しか見えない状態。そのくらい前に攻めてくような指揮でした。これもオザワスタイルなのかな?

今回前の方の席だったので、オーボエ協奏曲の時はソリストの指がレバー(キー)をタッチする音まで聞こえました。
交響曲では、各パートがそれぞれ独立して聴こえ、音がとても立体的でした。例えは変ですが「もぐらたたき」みたいな感じに、音がポコポコ盛り上がるのが見えるようでした。

指揮者はこの音を聴きながら音楽をつくだているんだなー。と感じました。3階席では気付くことができなかった生の音です。3階席も音が綺麗にまとまって(レコードと近い音)聞こえるので悪くはないですけど、今回聴いたのは、生の会場ならではの不思議な音でした。これは楽しい!私は音楽は全くの素人なので、演奏の良し悪しとか技術とか全然わかりませんが、感じたのはそんなことでした。

ベートーヴェンの交響曲7番はこれまでも聞いたことありましたが、今回聴いて、第一楽章の終わり近くにある、木管金管の短いソロリレーがとても素敵に感じました。今までは第一楽章の華やかさが好きだなーと思っていましたが、今回は第二楽章の魅力炸裂でした。いつまでも聴いていたいと思いました。
第三楽章から第四楽章に移るときのマエストロの気迫はすごかった。どどど!それまでは楽章ごとに椅子に腰かけ休憩を取ってましたが、4楽章に移るときは一気に行きました。こいうのを「アタッカ」というのだそうですね。知らなかった。
ほえ~。

ネットで見かけた情報。
1楽章が終わった後に、オーケストラがチューニングを始めたんです。あれ~っと思ったんですけど、あれは小澤さんの体を気遣うオケの優しさだったのだとか。
ほえ~。

ミューザ川崎始まって以来初の満場スタンディングオベーション(ミューザのスタッフの方がそう言ってたそうです)で、カーテンコールも何度も繰り返されました。小澤征爾さんは、指揮が終わったあと楽団員全員の席を回って握手しているのが印象的でした。小さめの編成の楽団ということもあると思いますが、楽団横一列になってのお辞儀が新鮮に感じました。客席が360度あるので、後ろ向きにもお辞儀してたのが面白かった。マエストロお疲れだろうと思うのにやっぱり拍手をしてしまって何度も呼び出してしまい、申し訳ありません。という気持ちになりました。

小澤征爾さんはとてもお元気そうでパワーにあふれていました。皆口々に「完全復活だね!」といってましたよ。私は初めて生で拝見しましたが、ほんとにそうだと思いました。

きのうの記事で書いた「ほんがん、すいがん、へいがん」というのは、全国的な子供の遊びで、一般に「水雷艦長」という名前で知られているということが調査で判明しました。

夫の話によると、まず2チームに分かれ、こっちの電柱と離れたところにあるあっちの電柱を陣地とする。2チームに分かれた中でメンバーがそれぞれ「ほんがん、すいがん、へいがん」の3種類に分かれて、それぞれが特徴を持つ。(詳しくわからないけど、すいがんはほんがんに強くて、ほんがんはへいがんに強くてみたいなの)

ほんがん、すいがん、へいがんの3種類は帽子のかぶり方で見分けたそうな。野球帽のつばを前に被るのと、後ろに回すのと、横向きにするのの3パターン。

へー。
へー。
へー。


わかりやすい画像を見つけました。

名前からもわかるように、軍国主義的な遊びで、日露戦争あたりから子供たちに広まったそうです。でもまぁ戦後もやってたわけですね。「ほんがん、すいがん、へいがん」じゃ、意味が分からないけど(実際夫は言葉の意味も分からずやってたらしい)戦後、軍国主義色を薄めるために名前を変えたのかと思ったけど、昭和12年のお義父さんの作文にも「ほんがんをやって遊んだ」と書いてあったので、そうでもないんだな。

夫は、昭和40年代の子供が山ほどいる路地で、この遊びに夢中になってたそうですが、私は記憶にないです。過疎の村に住んでいたので子供がいなくてこういう団体ゲームには向かなかったんです。

とはいえ、私も一度だけ戦争ごっこして遊んだことあります。
それは、山の田んぼやミカン畑、谷川などを舞台にした山地戦。敵の姿が見えないゲリラ戦です。
参加者はかろうじて4人。
2人組になって山に入り、落ちてたみかんなどを投げ合って戦いました。でも兵士の数に対して戦場が広すぎ、ほとんど敵に出会いません。そのうち草木で遊ぶほうが楽しくなって、戦争を忘れるという状態になり、ごっこ遊びは尻切れトンボになってしまいました。

10歳で都会に引っ越してからは、缶けりはよくやりました。
陣取りもやったけど、「水雷艦長」のような複雑なルールじゃなかったので、のめりこむほどじゃなかったかな。缶けりのほうが面白かった。

上の画像はこちらのサイトからお借りしました。
「むかしあそび」の復活

4

朝ドラの「花子とアン」を見ていて不思議に思ったことがありました。

花子が甲府に戻ってきて、自分の母校の代用教員になるのですが、「安東先生は6年生の担任をやってもらう」という辞令なんです。
あれれ?戦前の尋常小学校って4年までじゃなかったの?

調べました。

明治40年にそれまで4年間だった義務教育を6年間に延長し、それに伴い尋常小学校を4年→6年
高等小学校を4年→2年
に改変したとのこと。だから花子先生は6年生の受け持ちでいいののですね。

さて、大阪の夫の実家に行きましたら、そこで義父の小学校時代の通信簿や期末テストの答案が出てきました。昭和12年で、義父が高等小学校1年生だったころのもの。つまり今の中学1年ですね。

旧仮名遣いだし、まるで古文書です。
すごいです。めっちゃ珍しい。
私が一番反応してて、写真なんかとらせてもらいましたよ。

通信簿には成績のほか、出席状況と健康状態なんかも書かれていて、興味深し。先生からのコメントに「うがいをすること」って書かれてました。(旧仮名で最初読めなかった)

作文もありました。高等小学校に上がって6日目に書いたもの。学校が始まって6日たつのに漢字の書き取りしかやってないとか、友達がまだ少ないので別の学校に行って(おそらく尋常小学校で同級だった子供と)「ほんがん」遊びをやったとか書いてありました。

「ほんがん」遊びと聞いて、夫の兄弟たちが盛り上がっていました。
「ほんがん、すいがん、へいがん」の3つに分かれて遊ぶ陣取りゲームのようです。義父も子供のころに遊んで、その子供たちも同じ遊びをしてたんですね。私はやった覚えがないです。大阪のローカルな遊びかな。

試験問題は「修身」「国史」「国語」「地理」「商業」「簿記」が残されていました。算数や理科などもあったと思いますが、見当たらなかった。ほかに、水彩の絵がありました。きっととても上手だったのでのこしてあったのでしょう。

「地理」の問題には、「アジア」「満州」についての問いがずらり!

時代を感じます。
満州については特に力を入れて教育していたのですね。

「修身」は天皇や皇室について、また「家」とはなんぞや。非常時や平時における愛国とは何か。など。こんな事柄についての問題がテストで出されて、点数がつけられていたんですね。

「国史」では
「聖徳太子は伝来仏教そのままを丸呑みにご信仰あそばされたのであろうか?どうされたか?」
「奈良仏教の弊害は?」
「最澄空海の中心使命を問ふ。四文字で答えよ」

うう、難しいぞ。

「商業」の問題は実用的で、「できるだけ早く手紙を届けたいがどうするか?」とか「この電文をウナ電で●×まで打ったら料金はいくらか?」など、国家の教育への熱意を感じる問題たちでした。この時から10年もしないうちに、日本の教育はガラガラと変わってしまうのですよね。

義父が生きていたらこれらのテスト問題を見ながらいろいろ解説してもらえたかもしれません。
会いたかったなぁ。

8

法事があって大阪に行ってきました。
とはいっても土曜仕事が終わってから夜の飛行機で大阪入りし、日曜の朝から法事で夕方の飛行機で帰京という駆け足旅。

前回大阪に行ったのは親戚の結婚式。
この時も、1泊でとんぼ返りだった。

大阪で一泊!(どうでしょう風に)


お約束!


まずは、立ち食いうどん店。昆布うどん300円。
東京ではまずお目にかかれないお出汁。


そして、戎橋近くでたこ焼き。


川べりで立ち食べ。


デザートエッグタルト。


これも歩きながら食べ。
結局全部立ち食いで済ませちゃいました。


大阪地下鉄。


大阪で見つけたびーる!

2


プリンが切れたので、また作ってみた。
卵多めレシピ。
卵黄7個 全卵2個 牛乳400cc 黒砂糖5カケ バニラエッセンス10滴
カラメルは三温糖で。

蒸し器強火2分半 弱火2分 あとは放置。

もうすは入らなくなった。

卵黄をこれだけ増やすと、ずっしり系になるなぁ。
時間が短いので固くはないけど。
これでも十分お客さんに出だせるけど、もう少し私好みに固くするには、弱火で蒸す時間を増やすといいのだろうか。


日曜日のお昼にアマゾンさんから届いたので、そのまま読み始め、夕方には読み終わりました。快読という名の通り、とても楽しくどんどん読める本でした。

でも、内容は多岐にわたっていて、「赤毛のアン」を読むにあたってのヒントがいろいろに散りばめられていました。すなわち、当時のカナダの政治状況、住民の宗教意識、クラス意識、民族問題、教育制度、ジェンダーなどなど。
よくまぁこれだけ調べたなぁと思いました。(多少目が回りました)

花子とアンのドラマで、修和女学校の校長室にあるのがなぜカナダのメープルの国旗でないのか疑問だったのですが、そういう事の背景もわかります。

また、当時のカナダの方言と標準英語の話も出て来ます。訳文ではそのニュアンスを出すのは大変ですよね。この本では原文も挙げて解説してあるので、とても興味深く読めます。(上の写真は原文を読むため本を横にして読んでいるところです)

日本で大変人気のある「赤毛のアン」ですが、この現象は海外の研究者にも注目されているかなり特殊な状況なのだそうで、それを知りびっくりしました。
海外でも(英語圏はもちろん)それなりに人気があり、児童文学として認められている本だそうですが、日本ほどの盛り上がりはないそうです。これには花子さんの功績が大なのですね。

海外の研究も少し紹介されていますが、それに対する著者の突っ込みが可笑しい。そうです。日本で提灯を使うのはお盆シーズンばかりではありませんよね。

その花子さんの訳文とその他の翻訳家のものと比較している章もあり、これもとても面白かった。これだけで本一冊になるのでは?と思うほど。
翻訳をするということがどんなに難しいか、よくわかりました。

村岡花子さんは、戦時中にひとりで情報もない中、翻訳していたという話ですが、すごいですね。でも彼女は、アンと同じ時代のカナダの教育をカナダ人の先生から受け、図書館にあった英文学の古典などもアンと同じように(同時代の教育を受けた人と同じように)原書で親しみ、まるでカナダで育ったような文化を身につけた稀有な日本人だったそうなのです。
それで、この翻訳が可能になったのですね。

私は子供の頃に読んだ際、アンの性格に全く共感できずにシリーズを読み進めることができなかった口で、ストーリーもろくに覚えてないのですが(アニメも見なかった)、よく読みこんだ方には、この本で展開されるアンとマリラの関係の話も面白いのではないかと思います。

文学作品の深読みと言うものがとても苦手で、何を屁理屈こねてるんだろ?暇人か?!と、抵抗もある私ですが(世の文学者の皆様暴言をおゆるしください^^;)、こういうふうに解説してもらえると、なるほどーーー!と思わずにはいられません。

ネタバレになるので詳しく書きませんが、モンゴメリが、この物語で伝えたかったこと、批判したかったことがよくわかり、モノを書く人々というのは、こんな風に作品を作り出すのだな、ど感心しました。

売れなきゃならない。
出版社の意向もある、読者のこのみもある。そんな中で自分の思いを効果的に伝えることができる作者というのは只者ではなく、だからこそ時代を超えて長く読みつがれるのだということがわかりました。

私がアンに感情移入できなかったと書きましたが、実はモンゴメリ自身がアンの性格に共感できていないのでは?という著者の指摘も興味深く感じました。
この辺りは、私の育った昭和40~50年代日本の女の子教育(ジェンダー問題)とも関係があると感じている部分でいつか掘り下げてみたいです。

「赤毛のアン」のファンの方、「花子とアン」にはまっている方、更に広く英語に興味がある方におすすめします!

快読『赤毛のアン』: こんな「アン」、見たことない! (フィギュール彩)
菱田 信彦
彩流社

2


近くの洋食屋さんに食事に行ったら、最後に出てきたデザートが豪華すぎてお腹はちきれて死ぬかと思いました(笑)

その中にプリンがあったのですが、さすがはプロ。
家庭料理風の手作り感のある素朴な味わいですが、しっかり焼けててすも入ってない。

こちらのはオーブンで作っていらっしゃるのだそう。

カラメルがなかなかうまく作れないんです~。
と相談すると、焦がしすぎて苦くなったら砂糖を足して調整してもいいとアドバイスをいただきました。そうか!なるほど~。

8

毎日朝ドラの「花子とアン」を見ています。
すっかりわたしもいわゆる「朝ドラ視聴層」に組み込まれています。
今シーズンも「こぴっと」「てっ」など、すでに甲府弁が口癖になるいきおいです。

「赤毛のアン」は子供のころに一度読んだきりでよく覚えてないのです。小学生のころ読後感想画で、アンが自分の赤毛を嫌って染めたら失敗して緑になったというシーンを描いたのは覚えてますが…。
中学の時の同級生がはまっていて、全巻読みすすめながらよく話をしてくれましたが、私はそのころシャーロックホームズにはまってしまってて、「アン」のほうにはいかなかったんですよね。

そんなわけで、ドラマには「赤毛のアン」ネタがちりばめられてるらしいのですが、全然気が付くことができません。石橋蓮司演じるおじいやんの口癖「そうさな・・・」もマシューの口癖なんですって?夫に指摘され「へ~」ですよ。あ、夫は全巻読んだそうです。
近所には村岡花子記念館もあるのですが、わざわざ行ってみようと思ったこともなかったのです。多分今頃賑わってるでしょうね。

で、そんな人にもはまった人にもお勧めっぽい本が出ました。
これです!

快読『赤毛のアン』: こんな「アン」、見たことない!
菱田 信彦
彩流社

きっと今頃本屋に行けば、アン関係の本がずら~っと山積みなんでしょうね。
この本もそんな企画ものの一環なのかもしれませんが、著者は児童文学の先生です。この先生のコラムを以前このブログでも紹介したことありますが、切り口が面白くて、文学の門外漢でも楽しく読めるんです。
きっと本も期待できますね。

これ買って、ドラマを二倍楽しもうと思います。
読んだらまた感想を書きます。

ファーストネームで呼び合う意味
極度乾燥(しなさい)~Superdry
このブログが紹介されました

インターネットでは、1880年にイギリスで出版された「Unbeaten Tracks in Japan」邦題「日本奥地紀行」/「日本紀行」がネットで公開されています。

大内宿に泊まったことが記載されている、12通目の手紙のその2の部分をそっくり転載してみます。大内宿の記述はかなり短く、関連の部分だけ赤文字にしてみました。


LETTER XII―(Concluded)

A Japanese Ferry―A Corrugated Road―The Pass of Sanno―Various
Vegetation―An Unattractive Undergrowth―Preponderance of Men.

We changed horses at Tajima, formerly a daimiyo's residence, and, for a Japanese town, rather picturesque. It makes and exports clogs, coarse pottery, coarse lacquer, and coarse baskets.

After travelling through rice-fields varying from thirty yards square to a quarter of an acre, with the tops of the dykes utilised by planting dwarf beans along them, we came to a large river, the Arakai, along whose affluents we had been tramping for two days, and, after passing through several filthy villages, thronged with filthy and industrious inhabitants, crossed it in a scow. High forks planted securely in the bank on either side sustained a rope formed of several strands of the wistaria knotted together. One man hauled on this hand over hand, another poled at the stern, and the rapid current did the rest. In this fashion we have crossed many rivers subsequently. Tariffs of charges are posted at all ferries, as well as at all bridges where charges are made, and a man sits in an office to receive the money.

The country was really very beautiful. The views were wider and finer than on the previous days, taking in great sweeps of peaked mountains, wooded to their summits, and from the top of the Pass of Sanno the clustered peaks were glorified into unearthly beauty in a golden mist of evening sunshine. I slept at a house combining silk farm, post office, express office, and daimiyo's rooms, at the hamlet of Ouchi, prettily situated in a valley with mountainous surroundings, and, leaving early on the following morning, had a very grand ride, passing in a crateriform cavity the pretty little lake of Oyake, and then ascending the magnificent pass of Ichikawa.

「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、 それから雄大な市川峠を登った。すばらしい騎馬旅行であった 」(「日本奥地紀行」より)

We turned off what, by ironical courtesy, is called the main road, upon a villainous track, consisting of a series of lateral corrugations, about a foot broad, with depressions between them more than a foot deep, formed by the invariable treading of the pack-horses in each other's footsteps. Each hole was a quagmire of tenacious mud, the ascent of 2400 feet was very steep, and the mago adjured the animals the whole time with Hai! Hai! Hai! which is supposed to suggest to them that extreme caution is requisite. Their shoes were always coming untied, and they wore out two sets in four miles. The top of the pass, like that of a great many others, is a narrow ridge, on the farther side of which the track dips abruptly into a tremendous ravine, along whose side we descended for a mile or so in company with a river whose reverberating thunder drowned all attempts at speech. A glorious view it was, looking down between the wooded precipices to a rolling wooded plain, lying in depths of indigo shadow, bounded by ranges of wooded mountains, and overtopped by heights heavily splotched with snow! The vegetation was significant of a milder climate. The magnolia and bamboo re-appeared, and tropical ferns mingled with the beautiful blue hydrangea, the yellow Japan lily, and the great blue campanula. There was an ocean of trees entangled with a beautiful trailer (Actinidia polygama) with a profusion of white leaves, which, at a distance, look like great clusters of white blossoms. But the rank undergrowth of the forests of this region is not attractive. Many of its component parts deserve the name of weeds, being gawky, ragged umbels, coarse docks, rank nettles, and many other things which I don't know, and never wish to see again. Near the end of this descent my mare took the bit between her teeth and carried me at an ungainly gallop into the beautifully situated, precipitous village of Ichikawa, which is absolutely saturated with moisture by the spray of a fine waterfall which tumbles through the middle of it, and its trees and road-side are green with the Protococcus viridis. The Transport Agent there was a woman. Women keep yadoyas and shops, and cultivate farms as freely as men. Boards giving the number of inhabitants, male and female, and the number of horses and bullocks, are put up in each village, and I noticed in Ichikawa, as everywhere hitherto, that men preponderate. {12} I. L. B.

参考資料
イザベラ・バード 『日本奥地紀行』福島県(会津地方)での行程

とても詳しく記載されています。
彼女の紀行文の記載と現在の風景との比定。
またGoogleマップに彼女の行程を落とし込んであるのは必見です。
こういうの読みすぎると、自分で行った時の感動が薄れるかもしれませんが^^;でも今度ゆっくり訪ねてみたいです。

この時期は旅行に最適ですね。
熊本の両親は、十数年前からよくこの時期に一週間から10日間の旅行に出かけています。
自動車に飲料水なども積み込んでのドライブ旅行。

関東の近くに来てくれるときは、なるだけ合流しています。
とはいえ仕事の都合もあるのでだいたい1泊。
今までお供したのは、青森の浅虫温泉、会津の東山温泉、栃木の鬼怒川温泉、そして、今回の福島飯坂温泉。
あ、案外少ないなぁ。
流石に熊本からの自動車旅行なのでこっちまで来ること自体が何年かに一度なので。

母は免許を持たないので、運転は全行程父。
母はルート決めから宿の予約まですべての計画担当。
うまい具合に分業出来ているようです。

さて今回は、父がまだ行ったことのない宮城県松島を目的地に、震災後の様子も見たいということで、石巻辺りまで足を伸ばすことにしたらしい。途中東京にも寄り、うちに泊まって東京見物。
そのほか通り道にある興味をひかれる場所を組み込み、温泉宿とビジホをバランスよく組み合わせたりして旅程を作ったそうです。

今回の旅程は以下の通り。

初日 熊本発福岡からカーフェリーで神戸へ。船中泊
2日目 朝神戸着、東名経由で東京の我が家まで。
3日目 東京見物(これは車を使わずに歩きで)
4日目 東京から福島県白河市、大内宿、飯坂温泉泊。
5日目 飯坂温泉から仙台、多賀城 仙台泊
6日目 塩竈、松島 松島泊
7日目 石巻 秋保温泉泊
8日目 仙台から南下、埼玉県川越 埼玉泊
9日目 埼玉からひたすら移動、三重県泊
10日目 ひたすら移動 広島泊
11日目 ひたすら移動 熊本着

最後の3日間は移動のみ。
時間もお金も体力ももったいない気がします。
次は飛行機でいらしてくださいな。

さて、今回私は2日目夜から5日目までを同行しました。
ダイジェストします。


浜離宮庭園でのお茶とお菓子


隅田川水上バス


浅草から見たスカイツリー


雷門


浅草で牛鍋「米久」


浅草演芸ホール(外から見ただけ)


白河の関(福島県白河市)


小峰城(福島県白河市)
震災で崩れ落ちた石垣修復中のため中には入れず。外側で公園の手入れをしていた女性にとても気の毒がられました。


白河そば。白河駅前の第一藤駒。


大内宿への山道。まだ雪が残っていました。


大内宿!


飯坂温泉


夕食


ホテルのイベント~餅つき


朝ごはん(おにぎりのお米がおいしかった!)


延命餅本舗(仙台市新寺)


国宝大崎八幡神社(仙台市)


青葉城址(仙台市)


多賀城跡(多賀城市)


つぼのいしぶみ(多賀城市)


多賀城政庁あと(多賀城市)


貞山堀(多賀城市)


牛タン!(仙台駅)

過去記事
大内宿(2011年09月02日)
アイヌとイザベラ・バード(2011年08月29日)
イザベラバードの日本奥地紀行(2009年04月20日)
イザベラバードの日本奥地紀行を読む(2009年04月10日)
課題図書 イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(2009年03月27日)

1878年6月27日
明治11年。
イギリス人イザベラバードが東北旅行の途中、大内宿に一泊しました。
その家がまだ残っているという話を聞きつけて、と言うか、かなり有名な話ですけど、行って来ました。

随分前からずっと行きたいと思っていたんですが、両親が行くというので、やったー!とついて行きました。

大内は、近年ものすごく人気の観光地になったらしく、休日はすごく渋滞するらしいです。

今日は平日だったので、空いてましたが、大型観光バスが何台も乗り付けていました。

江戸時代の宿場町が150年の時を超えて現代に蘇ったようなタイムカプセルのような町です。

でも、今を生きているので博物館風では無く、土産物屋や食堂などたくましく商売しています。

今回は買い物系に全く興味のない両親と一緒だったので、何が売られていたのか全然見ませんでした。また機会があれば、覗いて見たいと思います。おやつも食べたい。

さて、イザベラバードです。
宿場のどの家だったのか、あまりリサーチしてなかったのですが、前に見たテレビ番組では、その家にはまだ人が住んでいたこと、宿屋と言うか庄屋さんの家みたいなところだった記憶がありました。

父が「本陣」だったと思うと言うので、まず、今は資料館になっている本陣あとへ行きました。

ん?
やっぱり、テレビ番組で見た家と違う。
本陣は本陣でそれなりに見応えありましたけど。

他を見ていたら、一軒の家の前に、イザベラバードが泊まったという説明書きを発見。
お土産屋さんになっていましたが、中も見せていただけるらしい。一人200円。

土産物屋の女性に声をかけると、「うちは普通の家で資料館みたいな展示はありませんので」との話。いえいえ、イザベラバードが泊まったお家を見学したいんです。と話すと、ああ、それならどうぞ。となりました。

その女性はこの家のお嫁さんらしいですが、いろいろ説明をしていただきました。

イザベラバードが泊まった座敷にも入らせてもらえて感動しました。

その方の話によると、イザベラバードが東北北海道旅行の際に泊まったところで実際に今残っているのは、こちらと、あとは日光の金谷ホテルだけなんだとか。

見せてもらえるのは、座敷5つです。他の部分は、今も住んでいらっしゃるプライベートエリアなのでしょう。

イザベラバード所縁のものだけで無く、明治以降の郵便、輸送などの資料も興味深かったのですが、知識がないのでもったいなかった。

家に帰ったら、日本奥地紀行を読み返そうと思います。

6

なぜか、急にプリンづくりに凝っています。
特別プリン好きというわけでもないのですが、好きなプリンがあります。
それは、台北の鶏料理屋さんのデザートに出てくるプリン。
素朴な手作りプリンの味でとってもおいしいのです。
あれ、作って食べてみたい。

ネットでレシピを調べて挑戦。
お菓子屋さんのプリンの容器が再利用で大活躍!


ちょっとすが入ってしまったものの、理想の味!

その後も何度も挑戦して、ここ2週間ほど毎日プリンを食べています。
毎日食べるためにカラメルのほかは砂糖を入れないではちみつにしたり甘酒にしたり。冒険中。


これは砂糖不使用で甘酒入り。
カラメルを焦がしすぎて苦かった失敗作。


これはきれいにできました。
カラメルの色が薄いけど。

3分間強火で加熱してあとは余熱で放置すると、すが入らずに滑らかになります。でも私はもちょっと固めのほうが好きかな。
固めにしてすが入らないぎりぎりのところを探っていこうと思います。

自分のためのメモ
本人による申請、東京の場合

申請期間 :運転免許証の有効期限内
※免許停止処分を受ける方や停止中の方は、手続できません。
 
受付日時場所
○ 運転免許試験場(府中、鮫洲、江東運転免許試験場)
 平日(注1)及び日曜日の8:30~16:30
(日曜日の11:30~13:00までを除く) 

○ 運転免許更新センター(神田、新宿運転免許センター)
 平日(注1)の8:30~16:30 

○ 指定警察署(世田谷、板橋、立川警察署)
 平日(注1)の8:30~16:30(11:30~13:00までを除く)
 
必要なもの
・ 運転免許証
・ 写真1枚
 (縦5cm×横4cm、無帽、正面、上三分身、無背景、枠なし、申請前6か月以内に撮影したもの。)
・ パスポート等渡航を証明する書類
・ 古い国外運転免許証をお持ちの方は、その国外運転免許証もお持ちください。

※ 国外運転免許証は、発行から1年以内で日本の免許証が有効期限内であれば何回海外に行かれてもそのたびに使用できますが、国外運転免許証の有効期間が短くなったため、新たに申請するときは返納していただかないと、新たな国外運転免許証が交付できない場合があります。

手数料 :2,400円 
 

日曜日にやってる試験場に行ってきましょう。

インディアナポリス~ロサンゼルス。そして帰国まで。
最後に大冒険をやりました。
旅先で知り合った人の家に泊めてもらうという冒険です。

このことは前にも記事にしてます。

【39日目】8/11 インディアナポリス
夜何度も目が覚めた。喉が渇いて朝方4時にジュースを買う。
普段はあんなに多く感じる炭酸飲料を飲み切ってしまった。
昨夜日本に電話かけたけど、精算時電話代が36セントだった。
「I pay」って言ったのにコレクトコール扱いになってるのかな?
あれれ?

【39日目】インディアナポリスからロサンゼルスへ。
空港で私の係りの人は日系人だった。
HiRANoさん。
すんなりスタンバイパスの新しのを出してくれた。
座席もしっかり取れて良かった。
ゲートで待たなくて済む

【39日目】LA到着。
時差は2時間かな?
シャトルバスに乗りトランジットセンターへ。
バスを乗り継いでウエストウッドからハリウッドへ。
カリフォルニアは空の色が違うのかな。
すごく西海岸!!という感じ。
お土産買いたいけど食指が動かない。
今日はデンバーの空港でお世話になった女性を訪ねる。

【39日目】その女性ブレットさんに電話して午後8時半にチャイニーズシアター前で待ち合わせ。
でもなかなかバスが来なかったりして待ち合わせに遅れてしまった。ごめんなさい。
無事再会でき、彼女のオープンカーでフリーウェイを突っ走る。
風がすごい。
彼女が帽子と上着を貸してくれました。

【39日目】ハリウッドから彼女の家のある郊外のブレアまで。
ダウンタウンの夜景がきれい。
ディズニーランドの花火も遠くに見えた。
丘陵地に入り家に到着。
小さくて可愛い家。
なんと小さすぎてキッチンに冷蔵庫が入りきらないそうで、ポーチにおいてある。
雨が少ないから出来るんだろうなぁ。

【39日目】彼女は旦那さんと二人暮らし。
大きな犬一匹と、大きな猫二匹、子猫一匹。
子猫とてもかわいい。
ブレットさんがさささーっと夕食を作ってくれた。
ラムチョップ。
食後、隣の夫婦を訪ねる。
はじめまして。
すごく陽気な人たち。
色々話をしたけど、私に構わずどんどん話が進み居心地がいい。

【39日目】私は小さい部屋の折りたたみベッドで寝ることに。
ブレットさんが用意をしてくれると、猫たちがパーっと駆け上がって居座ってしまった。
「一匹で」と頼んでシマシマ猫だけ残してもらったんだけど、寝てたらバン!とドアが開き大きな猫も入ってきた。
10何年ぶりに猫と寝た。
気持ちよかった。

【40日目】8/12 ロサンゼルス
朝6:30起床。
ブレットさんはもう起きてて朝ごはんを作ってる音がする。
猫たちは何処かに行ってしまったらしい。
旦那さんはまだ寝てるみたい。
7:30に家を出て彼女の職場クレアモントへ。
ロサンゼルス市街へ向かう車が沢山。
我らは反対方向で空いていた。

上の写真がブレットさんと彼女の車。
朝自宅前で出発するときに撮影したものです。
今、どうされてるのかな?
帰国後何度か手紙を出したけど、こちらも引っ越しを繰り返し、あちらも引っ越されたようで、あっという間に連絡がつかなくなってしまいました。たぶん私より10歳くらい年上の方だったのじゃないかと思います。また会えたら楽しいだろうなぁ。

【40日目】彼女の職場について、受付でほかのスタッフに紹介される。全員女性だ!
そう、ブレットさんの職場は女子大でした。
午前中は、学校案内のツアーがあるというので、それに参加してみた。参加してみて分かったのですが、これは入学希望者向けのツアーですね。高校生の女の子とそのお母さんと一緒に見て回る。なんか場違いな感じ^^;
学校は人数が少なくこじんまりしたところ。
中庭が広くて、いい環境だと思いました。
ツアーはすぐに終わったので、学校のそばのお店などをのぞきながらぶらぶらする。

【40日目】お昼、ブレットさんがこの辺の7つのカレッジの留学生係のランチミーティングがあるというのでくっついて行った。適当に自分でサンドイッチを作って食べながらの会議。
話はわからない、ホストファミリーとか、英語教育とか断片的な単語が聞き取れるのみ。
後半は居眠りしました。

【40日目】午後は近所のショッピングモールへ。
アメリカの都市にはこういうところがだいたいあって、モールMallと呼ばれている。
ここも街は大きくないのにモールはとても大きかった。
お土産をちょこちょこ購入。
夕方、仕事を終えたブレットさんが迎えに来てくれた。
今夜がアメリカ最後の夜。

【40日目】最後の夜は空港のそばに泊まりたい。
まずは空港へ行こう。
ブレットさんはアナハイムあたりまで行こうかといってくれたけど、近くのBreaから空港直行バスがあるとわかり、そこまで送ってもらった。
本当にお世話になりました。
空港の無料電話からモーテルに電話をかけ迎えに来てもらう。

【40日目】最後の夜は32ドルのモーテル。
空港への送迎もあるし、まぁまぁか。
日本人も沢山泊まってて日本語の話せるおばさんが働いてる。
西海岸には日系人多いし、日本人も沢山住んでる印象。
まだお父さんへのお土産が買えてない。
明日空港でお酒買えるかな??

【41日目】8/13 ロサンゼルス
帰国の日。
朝8時起床。最後の洗濯。
洗濯&乾燥機で2ドル。
フレンチトーストの朝食。
10:30にホテルのバンで空港へ。
日本の女の子と同乗でおしゃべり。
空港に行くと日本人が沢山いたー。
免税店でお酒が買えた。
お酒は比較的安いけど、他の土産物は高い。

【41日目】搭乗、離陸。
今日のロサンゼルスは雲が多くて窓から何も見えない。
雲の下にあるはずのアメリカに別れを告げました。

というわけで、無事帰国。


皆様長々とおつきあいありがとうございました。
完全に自分の趣味で書いてただけですが。
昔の日記を読み返して、時間の流れを感じました。
インターネットがなかった時代の旅行は面白いですね。

「西ドイツ」とか普通に書いてるし。

ショッピングモールが日本になかった時代。
モールという言葉もなかった。
ショッピングモールも今は日本中どこの街に行ってもあるし。

また、初めての海外で日本の暮らしや常識と違うと感じたことを書き留めてますが、当時は面白いと感じたことも、今の日本ではもう普通になってたりして、今読み返すとその辺が興味深いです。

一番印象に残ってるのは、歩きながら食べるという文化。
当時の日本では飲食しながら街を歩くなどほとんどしなかったので、アメリカでアイスクリームやコーラなどを歩きながら飲み食いするのにはじめすごく抵抗があったのを覚えてます。
今は日本でも普通に見られる光景で、自分自身も全く抵抗ないですが。

それから、アメリカ人が台所にお客さんを通して話をすることにびっくりしてます。
今は日本の住宅にもカウンター式キッチンとか台所中心の暮らし広まってきましたよね。

ほかの土地に行った旅行日記もいま読み返してみたら、何か発見があるのかもしれません。

過去への旅。結構楽しいかも。

ブルーミントン~シーモア~インディアナポリス
インディアナ州の田舎をバスでめぐりつつ、知り合った人と一緒に観光したり、大学見学したりしました。

ジョンメレンキャンプの家(の門の前)にも行きました!

【37日目】8/9ブルーミントン。
午前中は洗濯したり大学を見物したりして過ごす。
むしむしして暑いので2時ごろ帰ってシャワーを浴びる。
グレンさんとの約束の時間になった。
グレンさんは気を利かせて、女の子を連れてきてくれた。
うん、わかっていらっしゃる。
シャリーンさんというシンガポール人の留学生。
3人で郊外へ。

【37日目】グレンさんとシャリーンさんと3人でドライブ。
ブルーミントンの郊外は山がち。
まず石切場に行った。
なかなか面白いところだ。
ここで取れるのはライムストーンという石で、エンパイアステイトビルもインディアナ大の建物もここの石で作られてるのだそう。
何かの撮影があったらしい。

【37日目】ジョンクーガーの家にも連れて行ってくれた!
と言っても豪邸なので、門の奥深くに家があって何も見えなかったんだけど感激しました。
門のところで写真撮ってもらう。
その後街に戻りレコード屋で彼のLP盤を購入。
日本では手に入りにくい初期の作品。
プレーヤー持ってないけど。記念になるし。


ほんとにここだったのかは、今もってわかりませんが。

【37日目】3人でインディアナ大学へ。
グレンさんは学生じゃ無いけど詳しい。
ここの大学のUNIONはすごい、高級感のあるレストランやホテルがある荘厳な建物。
バスケチームは全米一だそうで立派なアリーナがあった。
シャリーンさんの案内で留学生寮へ。
寮には日本人も沢山いた。いいなぁ留学したいなー。

【37日目】学生組織の話など日本と違ってて面白い。
グレンさんはフラタニティとかソロリティという学生組織に批判的だ。
彼は宗教活動家のよう。神様の話を熱心にしてくれた。
グレンさんのおかげで感動のブルーミントン滞在になりました。
大学も素晴らしかったし。
ありがとうございました。

【38日目】8/10 今日はジョンクーガーのsmall townシーモアへ行くぞ!グレイハウンドで。隣の席のおばさんはオーランドから来た人で息子さんが日系の人と結婚するとか。シーモアは思ったよりも大きい町だった。お店も結構ある。歌に出てくるchestnut st.も発見。

【38日目】町の中心はほんの数区画のみ、あとは住宅。端っこまで歩いて町外れの公園へ。子供の遊具がある地域の公園という感じ。シーモアの街は平和この上なし。町の商店にシーモアの絵地図が売ってたので購入。9ドルもしたけど、ジョンクーガーの町って書いてあった。バスの時間まで数時間の滞在。

【38日目】シーモアの街を歩いてる時女の人に話しかけられる。私の伸ばし放題の長い髪を指差して、フレンチブレイドがどうじゃらこうじゃらという。フレンチブレイドって何??わからずにいると、名刺を見せてくれる。あ、美容師さんだ。髪の毛を編んであげるわということみたい。勧誘かな?

フレンチブレイドはこういうもののことです。編み込みですね。どうもその美容師さんは、あなたの髪そんなボサボサのにばしっぱなしじゃなんだから、編み込みにしたら?うちも店でやってあげるわよ。と言ってたようです。
http://t.co/qIGpXjXVma

【38日目】シーモアからインディアナポリスへ。ダウンタウンは割ときれい、再開発真っ只中。やたら駐車場が目立つ。ホテルが無い。レストランは多い。今夜はできるだけ安い宿に泊まりたい。空港まで行き無料電話からホテルに電話をかけまくって一番安いところに泊まることにした。それでも37ドル。

【38日目】一泊37ドルは私には高いけど、他に選択肢も無いし、仕方ない。空港に迎えのバスが来る。ダブルベッド二つにバスタブもあるし、プールもあるし。なかなか良い。最後の贅沢、もうお金がないのでクレジットカードで支払う。そろそろお土産用のお金を残しておかないと。
でも何を買おうかな。

昔書いたブルーミントン&シーモア旅行記

6


先日結婚記念日ということで、近所のレストランでお昼を食べてきました。

近所とはいっても2駅ほど離れたところ。
それでも散歩を兼ねて歩いて行ってきました。

以前は居酒屋が大好きでしたが、最近はできるだけタバコの煙のこないところに行きたいという気持ちが強くなり、更にお酒があまり飲めなくなったこともあり、食事もお酒もおいしいものを少しずついただきたいと思うようになりました。

西洋料理のコースは量も決まってるし、デザートもあるし、いろいろ理想的です。またゆっくり食べるので量少なくても結構おなか一杯になるのもいいですね。

美味しかったです。

セントルイス~インディアナポリス~ブルーミントン
ブルーミントンで宿が探せない問題に直面。
どこに行っても親切な人がいます。

【35日目】8/7 セントルイス
またまた今日も早起きできず。朝ごはんはまた味のしないトウモロコシ。
オレンジジュースもまずい。
今日発つという人が卵とパンをくれた。助かる!
セントルイスの朝も清々しい。そして夕方になると凄くセミが鳴く。夏を感じる。
ユースに日本人女性がやって来た。一緒にオペラを見ようと誘われた。

【35日目】私の旅も残すところあと1週間。
セントルイスには凄くアメリカを感じている。
自炊のおかげで少しは旅費が節約できたかな?
お金が足りないので節約せねば。これからの宿が心配だ。
これからの場所はユースはないみたいだし。
きれいなハガキを5枚も買ったんだけど、切手が見つからない。

【35日目】フォレストパークへ行く前に観光案内所で資料をもらう。
オペラじゃなくてミュージカルみたい。
バスの運転手さんが親切にパークへの行き方を紙に書いてくれた。
乗り換えたバスで降ろして欲しいところをいっておいたのだけど忘れれ終点まで連れて行かれる。
でももう一度引き返してくれた。

【35日目】ここの人みんな親切だ。
時々間違うけど心根は親切。パークに着いてまずジェファーソンメモリアルに。
LINDYの展示。だれ?と思ったら、リンドバーグのことでした。
感動的な展示内容だった。
他もアメリカっぽい展示で凄く好みにあってた。
夜の舞台のチケットを買う。
演目は「80日間世界一周旅行」。

【35日目】次はサイエンスセンター。
3ドル払ってプラネタリウムへ。星よりスライドを見るたいぷでつまらない。
ビッグバンに始まり太陽が爆発して地球が滅びるまでの話で英語でも分かり易かった。
恐竜が滅んだのは隕石のせいだったんだ。こういうの子供のうちに見るといいよね。
カールセーガンのカレンダーの話興味深し。

【35日目】夕食を食べるために歩く歩く。
SubWayというサンドイッチ屋さんはなかなか良かった。
サラダを頼んだのにサンドイッチを作ってくれたのは参ったけど。
さて、舞台。大きな野外劇場。
役者さんたちが小さくしか見えない。
ポップコーンを買ってその場でこぼしたけど、新しいのくれた。

【35日目】野外劇場。
開演前に国歌斉唱がある。周りを見ると皆胸に手を当てて歌うらしい。
この客層はほとんど白人。
街には黒人がたくさんだったんだけど。
舞台はまぁまぁ。
一緒に行ったお姉さんから、夜間はバスを待つ間も道にいるのは危ないから近くのホテルに待機することなど教わった。

【36日目】8/8 セントルイス
昨夜は1時過ぎまで起きてたけど、今日は朝6時前に目が覚めた。
今日はここを発ってインディアナポリスへ飛ぶつもり。
朝食荷造りを済ませても7時前。
チェックアウトは7時からなのだけどフロントがあかない。
おじさん何してるのかな?
寝坊かな?
キッチンの公衆電話から電話をかけたら眠そうな顔して登場。
やっぱりか!

【36日目】チェックアウト済ませてバス停に行くと、昨日パンをくれたお兄さんがいて(あれ?昨日発ったんじゃなかったのね)私の手にユースの会員証があるのを見ると、え?フロントあいたの?と戻って行った。やはりフロントがあいてなくて困ってたのね。
会員証は大事だもの。
一緒にバスに乗る。

【36日目】お兄さんはオーストラリア人。
これからインディアナポリスへ行くんだって。
目的地が同じでビックリ。
彼は親戚を訪ねるらしいが、私はジョンクーガーのファンで彼の家があるインディアナ州に行くんだと話した。オーストラリアでも人気あって86年にはコンサートもあったよと教えてくれた。

【36日目】このお兄さんはなかなか感じの良い好青年でした。
まだまだアメリカを旅するらしいので、ニューヨークのホステル情報を教えてあげた。
旅行中の情報交換はいいものです。
ガイドブックの情報はどうしても書かれた時点から古くなるし、自分のニーズにあわない情報もあるし。

【36日目】セントルイスからインディアナポリスへ移動。
私の持ってるスタンバイパスがデンバー空港でオープンパスというものに変わっていた。
これだと予約ができるらしいが、使い切ったら追加料金がいるらしい。
困る!
係の人がまちがえたんだろう。
スタンバイパスの残骸を保管しておかなくては。

【36日目】セントルイスはあまり安全な場所じゃなさそうだったけど、何と無く私の中のアメリカのイメージにぴったりで気に入った。
ユースのテレビでファミリータイズ(ドラマ)も見た、逃げも隠れもできないアメリカ!って感じ。
街は黒人が多い
。黒人向けの化粧品を見つけた。
初めて見る、日本には売ってないものね。
興味深い。

色の濃いファンデーションとか、濃い紫のアイシャドウとか。
自分では使えないけど買いたくなった。

インディアナポリス到着。
空港のコインロッカーに荷物を預け案内所で宿のことや交通手段など色々聞く。
観光地じゃないのでガイドブックに情報が無いのです。
とりあえずダウンタウンへ。

【36日目】インディアナポリスのダウンタウンで宿探し。
なかなかホテルが見つからない。
ちょっと良さそうなとこあったんだけど47ドルとか言われて断念し、8ドルのとこ見つけたけど、映画で見るような木賃宿で、鍵もなかった。
とても無理。
公衆電話のところで電話帳でホテル探し。

【36日目】電話帳を見て思案してると、通りかかったおばさんが何か困ってるのかと声をかけてくれた。
宿を探している話をしたら、色んなところに電話をかけてくれて、結局今何かのイベントの最中で宿代が高くなってることがわかり、これは本来の目的地ブルーミントンに移動したほうがよさそう。
おばさんがバスディーポまで送ってくれた。

【36日目】バスディーポで別れる時、おばさんは「どこにも泊まれなかったら電話しなさい、泊めてあげるから」といってくれた。親切な人だなー。看護婦さんなのだそう。そういえば、セントルイスからメンフィスの飛行機の中でも隣のおばさんと色々話して面白かった。英語も少しずつ慣れてきたみたい。

【36日目】ブルーミントンに移動。
ここはインディアナ州立大の街であり、ジョンクーガーが今住んでる街でもある。
ここがインディアナに来た目的の一つ。
すごい田舎。
バスで一緒だった地元の男の人に宿の場所をきいた。
バス停からすぐのモーテルが一番安いといって勧めてくれた。
20ドルで手頃。

【36日目】その男性はグレンさんと言ってキリスト教の活動をしているそう。
長髪が昔のヒッピーみたいな印象。
何しにこの街に?ときかれたのでジョンクーガーのファンで彼の住んでる街を見たくて、と話をしたら喜んでくれた。
街を案内してくれるという話になったので明日会う約束をした。

【36日目】ブルーミントンの街を少し歩いてみた。
ここがきっと街の中心、というところまで行ったけどそれでも凄く田舎。
高い建物もなく緑が多い。
本当にこの街にジョンが住んでいるのかな?
どっちかと言うと、、山という感じ。
夕食はサラダ。

コロラド州ボウルダー → セントルイス

旅の後半は、旅先での出会いにより旅程を決めています。
ボウルダーはグランドキャニオンで会った人の家を訪ねに。セントルイスはニューヨークで見たミュージカル「BigRiver」の舞台をたずねるために。

【32日目】8/4 ボウルダー。
今日はグレイラインでロッキー国立公園へ行こうかと思ってたけど、朝早いし、35ドルもするしで断念。
今朝はChoreがある。植木の水やり。
また大学へ。本屋、カフェテリア、そして広大なスタジアムで一時間ほど過ごした。誰もいないスタンド貸切!のんびり。

【32日目】持って来たポータブルラジカセが壊れちゃったみたい。
録音できなくなってる。
せっかくジョンクーガーの知らない曲(多分新曲)がラジオでかかってるのに!
こっちのラジオで頻繁にかかる曲は、ハート、それからマドンナのスペイン語の。
それとスペイン語でカピタンカピタンっていう曲。
U2。

マドンナのスペイン語の曲というのは「ライスラボニータ」、カピタンっていうのは「ラバンバ」。ジョンクーガーの新曲は「ペーパーインファイア」。Heart のは「ALONE」、U2のは何だろう?ヨシュアツリーの曲のはず。Where the streets have no nameかな?

【32日目】U2のとハートの曲はすごく好きになった。
ジョンクーガーの曲もこっちのラジオでは良くかかる。
昨日はカーステでガンガンならしながら走ってる車がいた。
レコード屋にもちゃんとコーナーがある!

デンバーのハードロックやフォーク専門のラジオ局は知ってる曲をいっぱい流してくれる。

"Where the Streets Have No Name"のゲリラライブって、ニューヨークだと信じ込んでて、昨日必死に探したけど見つからなかった。あたりまえだ・・・・ロサンゼルスだったのですね。NYではトレーラーステージで街中を走る回るゲリラライブをやったみたいですね。

ヨシュアトュリーの(私に対する)破壊力ったらないな~。 U2 - The Joshua Tree (Full Album): http://youtu.be/XgyoH_Nr6gg

【32日目】ニューヨークで見たミュージカルBig Riverのカセットを売ってたので購入。
劇場では12ドルだったけど、9ドルしなかった。
よし聴くぞ!と思ったのに音が出ない。
まさか不良品?
いや、私のラジカセが壊れてるんだね、きっと。
ぐすぐす。
録音と再生がダメだけどラジオは聴ける。

【32日目】バスに乗って郊外に出て見る。
かなり広々とした草原で家もまばら。
不思議なのはそんなとこなのに郵便受けだけは沢山あること。どう見ても家の方が少ない。
それとボウルダーには銀行が多い。

結構日焼けした、マダラな変な焼け方だ。
ここに来てから朝起きるのが辛い。
今夜は早寝しよう。

【33日目】8/5
今日も早起きできず。昨日早く寝たのに。
9時半のバスで空港に11時ごろ着く。
Big Riverの舞台ミシシッピ川を見るべく、セントルイスへ向かう
。11時半のメンフィス行きにチャレンジしたが荷物がセキュリティーに引っかかり時間切れ。
金属製の洗濯物干しのせい?

【33日目】13:35発のミネアポリス経由で向かいます。
空腹だと乗り物酔いすると思って6ドルも出して空港で食事したのに機内食が出た。
セントルイスには明るいうちに着くことができた。

ユースに電話入れるととても親切でホッとする。
リムジンに6ドル。運転手にかけあってユースへいってもらう。

ユースはとてもボロい外見。中はまぁまぁ。
買い出しに行く。
暗くなって少し怖かった。

飛行機からずっと地上が見えてた。
アメリカの道はなぜあんなに真っ直ぐなんだろ?
ミネアポリスで見たミシシッピがしばらく見えなくなって、セントルイスでまた見えたのは感動だった。

ミネアポリスを出た頃は一面の畑だったのが、セントルイスが近づくに連れて次第にミミズのような川と森になった。
クリークかな?縦横無尽に走ってる。

セントルイスのゲートウエイアーチはとても綺麗。
明日はアーチを見て、明後日はグレイラインでハンニバルに行こう。

【34日目】8/6 セントルイス
朝9時起床。
どうもいけない。トウモロコシを茹でて朝ごはん。
バス停はユースの目の前で至便。
アーチへ。少し並んで上る。狭い狭い。
Museamはなかなか凝ってる、でも英語が辛い。
ミシシッピ川クルーズに乗る、アーチの半券の割引利かず。
船の上は日焼けする~~。

【34日目】ミシシッピ川は泥の色をしていた。
すごい土砂なんだろう。
川岸には土砂を採っている機械が幾つもあった。
河口のニューオーリンズは平気なのかな?
川から見るアーチも綺麗。
アーチに戻りドリームなんとかっていう映画を見たけど寝ちゃった。ボストンでも似たようなことあったなー。

【34日目】グレイハウンドで時刻表をもらい、町をぶらぶら。
セントルイスセンターというショッピングセンターへ。
新しくてきれい。筑波のセンタービルみたいなの日本だと珍しい感じがしてたけど、アメリカはどこにいってもある。
セントルイスセンターは庶民的で買いたくなるものが沢山あった。

【34日目】市庁舎前からバスでユースに戻る。
一緒のバス停で降りたおじさんにスーパーは無いか?と聞いたら教えてくれたのでえっちらおっちら歩いていったけど、無い!!
結局ケンタッキーでチキンを買ってまたバスに乗っって帰った。
一体スーパーはどこにあったんだろ?
夕食はケンタのチキン。


ニューヨークからコロラド州ボウルダーへ。
この辺から旅(トラベル)はトラブルという様相を呈してくる。
旅行期間も1ヶ月になり、疲れや油断も出始める。
それでも人の親切がありがたい旅なのでした。

【29日目】8/1 ニューヨークからデンバーへ移動。
朝から色々ついてない。
朝洗濯しようと思ってフロントにトークン買いに行くと、今はダメと言われ洗濯できず。
PATHという電車の乗り場が分からずフロントで教えてもらったけど間違ってた。
ペンシルベニア駅へ行き、7Av駅へ行き、やっと正解の6Av駅から乗ることに。
6Av駅でやっとPATHに乗れると思ったけど、改札を入ったところでトイレに行きたくなり、でもトイレは改札の外。
1ドル損した。
そして再び改札通る時に荷物がバーに引っかかり、また1ドル入れなくちゃならなくなった。
あーん!!
この分では今日飛行機に乗れるのか不安だ。

PATHの路線図をみて見ると、今は6th Av駅はないみたい。
http://t.co/GbKIjD9HOF

【29日目】ニューアーク駅に着いたけど、ここから空港まではAIRLINKしかなく、更に3ドルかかるって!
こんなことならラガーディア発にしとくんだった。
ニュージャージーに来ると緑が多いって感じ。
さて今日はデンバーまで行くつもりなんだけど合計3フライトあるらしい。
またキャンセル待ちだ。

【29日目】ニューアーク空港。
出発ゲート前でキャンセル待ちしてたら、隣の男の人に話しかけられた。
ベトナム人。
1980年にベトナムを出て、フィリピン、日本、そしてアメリカに来たんだそう。
今はアイオワで勉強してる。

ボストンで会ったシリアの人もアメリカに永住すると言ってたなぁ。

【29日目】ベトナムでは小学校6年生から英語とフランス語を学ぶらしい。
Are you rich?と聞かれた。
こんな質問されたのは初めてだ。なんでそんなこと聞くのかな?
これまでの宿では西ドイツ、フランスが多い印象。
でもフランス語ドイツ語が聞こえるからそう感じるだけかも。

【29日目】ニューアーク空港からデトロイトに到着。
またチェックインカウンターで「Full.Good luck!(満席です、乗れるといいね)」と言われた。この係のお姉さんはちょっと日本語がわかるみたい。
ゲートでスタンバイする。
名前を呼ばれたか分からなくなって確認すると最後から二番目くらいに呼ばれてた。
ラッキー。

【29日目】デトロイトからの機内で前の席の人が話しかけてくる。
なんだろうと思ったら、NYからの飛行機で隣に座ってたのだそうだ。今度は前後の席。なんと言う偶然。
その人たちからパス持ってる人は直接ゲートいってOKだと聞く。
全てオンラインだからチェックインカウンターに行く必要はないんだって!
なーんだ!

【29日目】デトロイト→ミネアポリス。
今度はカウンターへ行かずに直接ゲートへ。
時間が迫ってたから焦って走ったけど、2時間のディレイでしかも空席いっぱいで結果オーライ。
ディレイの説明をする係りの人が面白かったらしくみんなドカドカ笑ってたけど、全然わかりませんでした(-_-)
英語・・・・。

【29日目】ミネアポリス→デンバーの機内では3人掛けの真ん中の席。
男性と女性に挟まれた形。
隣の女性はロサンゼルスで大学職員をしているという人だったが、いろいろ話が弾んで、私が図書館で資料を探しているという話をしたら帰国前にその方を訪ねれば図書館を案内してもらえる話になった。

一通り話をしてしまうと、私の英語力ではそれ以上の話ができなくなり、私を挟んだ両隣で話が弾み始める。
お互いの仕事の話、政治談義、フィリピン情勢。アキノ、マルコス、レーガンという名前だけ聞き取れる。
デンバーには夜9:30ごろ到着予定。ボウルダーまでバスがあるかな?

【29日目】機内食が出た。ニューヨークから、デトロイト、ミネアポリスと乗り継いで、途中飛行機の遅れもあり、デンバーに着くのはすっかり夜になってしまう。
デンバーに着いたあと今夜の最終目的地はボウルダーなんだけど不安だ。
隣の席の女性がバスの乗り方など教えてくれることになり心強い。

【29日目】デンバー着。
隣の席の女性がユースに電話を入れてくれた。泊まれそう。
しかし!私の荷物が出てこない。

ガーン・・・これが噂のロストバゲージ

オタオタしてるとまたも彼女が手続きを手伝ってくれた。
更にボウルダー行きのバスを教えてくれ、同じユースを目指すモロッコ人に私を託してくれた。
感謝感謝。

【29日目】ボウルダーのユースに着いたのは真夜中だったけど、同行者がいてくれたおかげで心強かった。
広くて心地よさそうなユースだ。
でも着替えも石鹸もタオルもバッグの中。機内に持ち込んだのは土産物ばかり。仕方ない。弟への土産にするつもりだったシャツに着替えよう。

【30日目】8/2ボウルダー。
昨日は長い一日だった。
目が覚めると8時半。
フロントに行くと日本人のスタッフみたいな人がいて色々話をする。
シャンプーや朝食を買ってシャワーを浴びたけど、下着の替えが無い。気持ち悪い。
グランドキャニオンで会った日本人夫妻に電話して今夜訪ねることになる。

【30日目】ボウルダーはコロラド大学のある大学街。フロントで地図を借り、大学を通ってパールSt.へ。
下手な大道芸がいた。バスターミナルで路線図を手に入れる。
映画館では1st show半額というので1時から見る。
LAで看板を見たトムハンクス主演の「Dragnet」。台詞がちっとも分からず。

【30日目】映画の後、大学のカフェテリアへ。
昨日一緒だったモロッコの人とその友人にばったり出会う。アラビア数字の起源について説明してくれてとても興味深かった。
夕方、Kさん宅へ。久しぶりの日本のご飯だー!ビールもいただき、いろんな話をした。素敵なご夫婦。いいなー。
9時半ごろ宿へ。

【30日目】宿に戻ると私のバッグが届いていた!!
これで着替えもできるし、洗濯もできるー。Kさんところで日本の雑誌-週刊新潮とかフォーカスとか-を何冊かもらって来たのでそれを読みながら洗濯。Kさんに、外国にいるとこういうのがお宝だよねと言われたけど、確かに。日本語はいいなぁ。

【31日目】8/3 ボウルダー。
朝はゆっくり起きて、大学へ。
カフェテリアで朝食を食べてから図書館へ。ここの図書館の検索はフィルム(長いやつ)を借りて来て見るらしい。
カウンターで人口センサスが見たいと言うとあっちあっちと教えてくれた。必要な部分をコピーする。AZもNMもめちゃ薄い。
コピーは一枚10セント。カードも使える。2州合わせても100ページくらいで済んだ。

図書館のソファーは座り心地もいいし、昨日貰った雑誌を読んだりして夕方までくつろぐ。
郵便局とスーパーに寄って宿で夕食を自炊して寝る。