私が目指してるプリンはこれです。
台北の鶏家荘という台湾料理屋さんで出してくれるおまけのプリンです。
素朴な味でおいしいのです。
改めて見ると、かなりカラメルが濃い色で、多めに入ってますね。やっぱりカラメルが重要なのかもしれない。私にとっては。
[追記]2014.6.1.に作ったプリン
全卵2個 卵黄5個 牛乳400cc 黒砂糖5かけ
強火2分、弱火5分 その後自然放置。
カラメル多めに作ったら、容器の底にへばりついて取れなくなった。奥深すぎる・・・・。
gooブログ終了にともない引っ越してきました
私が目指してるプリンはこれです。
台北の鶏家荘という台湾料理屋さんで出してくれるおまけのプリンです。
素朴な味でおいしいのです。
改めて見ると、かなりカラメルが濃い色で、多めに入ってますね。やっぱりカラメルが重要なのかもしれない。私にとっては。
[追記]2014.6.1.に作ったプリン
全卵2個 卵黄5個 牛乳400cc 黒砂糖5かけ
強火2分、弱火5分 その後自然放置。
カラメル多めに作ったら、容器の底にへばりついて取れなくなった。奥深すぎる・・・・。
5月27日 小澤征爾&水戸室内管弦楽団@ミューザ川崎
続きです。
開演前、客席に大学の恩師がいらしていたので挨拶に行きました。2年ぶりくらいにお目にかかりました。先生は今日は静岡出張から駆けつけられたのだそう。84歳になられるのにお元気だ!そして終演後にもご挨拶しようと思ってロビーで待っていたら、「君たち時間大丈夫?楽屋に行ってみようよ。」と連れて行ってくださいました。
キャードキドキ。
実は楽団のスタッフをやっている同級生から、終演後はマエストロが大変お疲れになるので(そのお世話で?)私たちに会いに行けないという断りのメールが入っていました。そうだろう、そうだろう。それなら今夜は彼にも挨拶なしで失礼しようと思っていたのですが、先生が連れて行ってくれるところまでは行ってもいいかな。先生は水戸の団員さんには昔馴染みが結構いらっしゃるみたい。
楽屋口。
先生はいわゆる顔パスです。
ステージ裏は二重構造になっていて、楽団員さんのいる広いところとマエストロのいる奥の部屋(楽屋)があります。楽屋の前はスタッフの人が何人もいます。楽団員の皆さんはもうラフな服に着替えて撤収していくところでした。恩師は顔見知りの楽団員さんに声をかけたり、私たちを紹介してくれたりした後、奥の部屋に入っていきました。私たちはもちろん広いところで待機です。待っている間、恩師の知り合いの音楽記者さんとお話できたんですが、クラシック音楽の素人の質問にいろいろ答えていただけて勉強になりました。お名前を聞きそびれた。いつかまた会えるかな?
そんなことをしているうち、スタッフの同級生にも会えました。仕事中で忙しそうでしたが、彼も恩師にはもちろんご挨拶。そしていろいろこのコンサートにまつわる話をしてくれました。(というか恩師に話してたのを聞いてただけ。業界の話、固有名詞も知らないしであまりよくわからなかった…勉強しよう)
そして、楽団員さんがほとんど帰ってしまったあと、小澤征爾さんが奥の部屋から出てきました。ボストンレッドソックスの真っ赤なスタジャンに、ニューバランスのスニーカーでした。
きやー!
生オザワ!
生セイジ!
そしてなんと恩師が私達をマエストロに紹介してくれました。
不思議とそんなに緊張しませんでした。そういうの飛び越える魅力溢れる方なんでしょう。マエストロは24歳のオーボエ王子をつかまえて「こいつまだ24才なんだぜ」などと繰り返し、悔しそうでした。何だろ?とてもおちゃめな感じが漂ってました。
今回の演奏会、前半は「指揮者なし」での演奏でしたが、スタッフの話によるとリハーサルでは、ばしばし指揮してたそうです。できるだけ体力温存していただきたいのに、始まったら止められない…ようなお話でした。なんだかとっても「らしい」ですね。恩師とは中でも話をしたんだと思いますが、外でもいろいろ話してました。「サイトウキネンでベルリオーズやるよ。」とか。まだまだ残って話したそうでしたが、スタッフに「そろそろ帰りますよ」と促されていました^^。
オーボエ王子(笑)にもお疲れさまーと声をかけることが出来ましたが、ニコニコ手を振ってくれる好青年。
カワイイ!
実は私、20年以上前に一度小澤征爾さんに会ったことがあるんです。その時は征爾さんのお母様もいらしてて、茶話会みたいなイベントが開かれ、友達に誘われて参加したのだと思います。小澤征爾さんの兄弟が揃ってアカペラで黒人霊歌を披露してくれました。それはお母様のためだったと思いますが、ものすごく貴重な体験です。その時の写真がどこかにあると思うのですが、どこにしまったかなぁ。
さて、会場を後にしたあと、随分遅くなってたのですが、恩師と友人と川崎銀柳街あたりに繰り出して呑みました。
御年84歳の先生を深夜まで連れ回してしまいましたが、満州の話、戦時中の話、先生の苦学の話、今の集団的自衛権の話、コンサートの話、小澤征爾さんの話、たくさん聞かせていただきました。う~時間が足りない!
先生はその日は静岡出張から直接コンサートを聴きに来て、翌日は宇都宮だというので、今夜は家に戻らず(先生の家川崎なのに)、東京駅前のホテルに泊まるとおっしゃってました。今度大学の同期会を5年ぶりにやるので、先生もお誘いしたら、もう先約有とのことでした。「いつなら大丈夫ですか?」と尋ねると、「2015年まではいっぱいなので、2016年なら」との話になり、今なんと2年後の同期会の計画が進行しています2年後まで予定ギッシリってすごいですね。超人?!先生、いつまでもお元気で。
素晴らしい音楽を聴き、いろんな人に会って、いろんなことが起こった夢のような一夜でした。
友人からのお誘いで、小澤征爾指揮の水戸室内管弦楽団川崎公演に行ってきました。友人は愛知からこのためにやってきました。演奏会なんてそれほど出かけない私ですが、水戸室内管弦楽団は同級生が働いていることもあり、二回目の鑑賞。前回はサントリーホールのチャリティーコンサートでした。
今回は、小澤征爾さん指揮です!テレビでは何度も拝見してますが、生演奏を聴くのは初めて。会場はミューザ川崎。駅直結のステキなコンサートホール。渦巻状の客席が斬新な印象です。
演目は、メンデルスゾーンのシンフォニア第二番。
モーツアルトのオーボエ協奏曲。
ここまでは指揮者無しでの演奏です。
コンチェルトはソリストが指揮してました。吹き振りっていうのかな?24歳のソリスト、フィリップ・トーンドゥル氏。顔を真っ赤にしてオーボエを吹く様子が可愛かった!オーボエは最近とても気になっている楽器で、オーケストラからオーボエの音が響いてくると嬉しくなってるので、コンチェルト聞けて幸せでした。しかも黒木君(のだめカンタービレ)のピンクのモーツアルト(*^^*)。
フィリップさんは、アンコールの前に日本語で「アリガトウゴザイマス!」って挨拶して、自分でアンコールの曲紹介をしていました。ますます可愛かった!オーボエ王子と呼ばせていただきます。アンコール曲は、「マルチェロのオーボエ協奏曲 ニ短調 第二楽章」でした。
オーボエの音きれい。うっとり。
そして、小澤征爾指揮でベートーヴェンの交響曲第7番。のだめカンタービレのテーマ曲ですね。オーボエ協奏曲といい、のだめコンサートだ!
今回は、チケットは友人任せで席が取れればどこでも!と言っていたのですが、前から7列目というステージにとても近い席になりました(15000円)。こんな席で聞くの初めてです。つい一番安い席を買ってしまうのでNHKホールの3階席とかばかり。しかもここミューザ川崎はステージと1階席がとても近く、高さもほとんど変わらないのです。
感想はいろいろあるのですが、とにかく小澤征爾さんのエネルギーがすごかったです。ご病気されてましたがそんなことを感じさせないパワーでした。終演後話を聞いた人は皆「完全復活!」と言ってました。そして、楽団との呼吸。その空気感。
楽団の結束みたいなものは、小澤さんが登場する前から感じていて、指揮なしの2曲もすごくまとまった雰囲気で、特にコンチェルトでは若いソリストをベテランの楽団員さんたちが見守るような感じで演奏していてすごく温かい空気がありました。
水戸室内管弦楽団は小澤征爾さんが総監督をしている楽団ですし、後で聞いた話なのですが楽団員の中には子供の頃からの音楽仲間もいて、とにかく「ホーム」なんですね。
前半2曲のあと休憩が終わってベートーヴェンが始まる前にオーケストラが入場してくるのですが、急に拍手が一際大きくなったので??と思ってたら、小澤征爾さんは、楽団員と一緒にステージに入ってきたのでした。普通はオーケストラが着席して、満を持して指揮者登場ですよね?オーケストラの一員のように紛れて後方から現れたのでびっくりしました。
あとから聞いた話だと、この水戸と、サイトウキネンだけはこのスタイルなんだそうです。これが「ホーム」感を表していました。そして、指揮台に乗らずオーケストラに食い込んで指揮してました。コンマスなどは指揮者の後ろ姿しか見えない状態。そのくらい前に攻めてくような指揮でした。これもオザワスタイルなのかな?
今回前の方の席だったので、オーボエ協奏曲の時はソリストの指がレバー(キー)をタッチする音まで聞こえました。
交響曲では、各パートがそれぞれ独立して聴こえ、音がとても立体的でした。例えは変ですが「もぐらたたき」みたいな感じに、音がポコポコ盛り上がるのが見えるようでした。
指揮者はこの音を聴きながら音楽をつくだているんだなー。と感じました。3階席では気付くことができなかった生の音です。3階席も音が綺麗にまとまって(レコードと近い音)聞こえるので悪くはないですけど、今回聴いたのは、生の会場ならではの不思議な音でした。これは楽しい!私は音楽は全くの素人なので、演奏の良し悪しとか技術とか全然わかりませんが、感じたのはそんなことでした。
ベートーヴェンの交響曲7番はこれまでも聞いたことありましたが、今回聴いて、第一楽章の終わり近くにある、木管金管の短いソロリレーがとても素敵に感じました。今までは第一楽章の華やかさが好きだなーと思っていましたが、今回は第二楽章の魅力炸裂でした。いつまでも聴いていたいと思いました。
第三楽章から第四楽章に移るときのマエストロの気迫はすごかった。どどど!それまでは楽章ごとに椅子に腰かけ休憩を取ってましたが、4楽章に移るときは一気に行きました。こいうのを「アタッカ」というのだそうですね。知らなかった。
ほえ~。
ネットで見かけた情報。
1楽章が終わった後に、オーケストラがチューニングを始めたんです。あれ~っと思ったんですけど、あれは小澤さんの体を気遣うオケの優しさだったのだとか。
ほえ~。
ミューザ川崎始まって以来初の満場スタンディングオベーション(ミューザのスタッフの方がそう言ってたそうです)で、カーテンコールも何度も繰り返されました。小澤征爾さんは、指揮が終わったあと楽団員全員の席を回って握手しているのが印象的でした。小さめの編成の楽団ということもあると思いますが、楽団横一列になってのお辞儀が新鮮に感じました。客席が360度あるので、後ろ向きにもお辞儀してたのが面白かった。マエストロお疲れだろうと思うのにやっぱり拍手をしてしまって何度も呼び出してしまい、申し訳ありません。という気持ちになりました。
小澤征爾さんはとてもお元気そうでパワーにあふれていました。皆口々に「完全復活だね!」といってましたよ。私は初めて生で拝見しましたが、ほんとにそうだと思いました。
きのうの記事で書いた「ほんがん、すいがん、へいがん」というのは、全国的な子供の遊びで、一般に「水雷艦長」という名前で知られているということが調査で判明しました。
夫の話によると、まず2チームに分かれ、こっちの電柱と離れたところにあるあっちの電柱を陣地とする。2チームに分かれた中でメンバーがそれぞれ「ほんがん、すいがん、へいがん」の3種類に分かれて、それぞれが特徴を持つ。(詳しくわからないけど、すいがんはほんがんに強くて、ほんがんはへいがんに強くてみたいなの)
ほんがん、すいがん、へいがんの3種類は帽子のかぶり方で見分けたそうな。野球帽のつばを前に被るのと、後ろに回すのと、横向きにするのの3パターン。
へー。
へー。
へー。
わかりやすい画像を見つけました。
名前からもわかるように、軍国主義的な遊びで、日露戦争あたりから子供たちに広まったそうです。でもまぁ戦後もやってたわけですね。「ほんがん、すいがん、へいがん」じゃ、意味が分からないけど(実際夫は言葉の意味も分からずやってたらしい)戦後、軍国主義色を薄めるために名前を変えたのかと思ったけど、昭和12年のお義父さんの作文にも「ほんがんをやって遊んだ」と書いてあったので、そうでもないんだな。
夫は、昭和40年代の子供が山ほどいる路地で、この遊びに夢中になってたそうですが、私は記憶にないです。過疎の村に住んでいたので子供がいなくてこういう団体ゲームには向かなかったんです。
とはいえ、私も一度だけ戦争ごっこして遊んだことあります。
それは、山の田んぼやミカン畑、谷川などを舞台にした山地戦。敵の姿が見えないゲリラ戦です。
参加者はかろうじて4人。
2人組になって山に入り、落ちてたみかんなどを投げ合って戦いました。でも兵士の数に対して戦場が広すぎ、ほとんど敵に出会いません。そのうち草木で遊ぶほうが楽しくなって、戦争を忘れるという状態になり、ごっこ遊びは尻切れトンボになってしまいました。
10歳で都会に引っ越してからは、缶けりはよくやりました。
陣取りもやったけど、「水雷艦長」のような複雑なルールじゃなかったので、のめりこむほどじゃなかったかな。缶けりのほうが面白かった。
上の画像はこちらのサイトからお借りしました。
「むかしあそび」の復活
朝ドラの「花子とアン」を見ていて不思議に思ったことがありました。
花子が甲府に戻ってきて、自分の母校の代用教員になるのですが、「安東先生は6年生の担任をやってもらう」という辞令なんです。
あれれ?戦前の尋常小学校って4年までじゃなかったの?
調べました。
明治40年にそれまで4年間だった義務教育を6年間に延長し、それに伴い尋常小学校を4年→6年
高等小学校を4年→2年
に改変したとのこと。だから花子先生は6年生の受け持ちでいいののですね。
さて、大阪の夫の実家に行きましたら、そこで義父の小学校時代の通信簿や期末テストの答案が出てきました。昭和12年で、義父が高等小学校1年生だったころのもの。つまり今の中学1年ですね。
旧仮名遣いだし、まるで古文書です。
すごいです。めっちゃ珍しい。
私が一番反応してて、写真なんかとらせてもらいましたよ。
通信簿には成績のほか、出席状況と健康状態なんかも書かれていて、興味深し。先生からのコメントに「うがいをすること」って書かれてました。(旧仮名で最初読めなかった)
作文もありました。高等小学校に上がって6日目に書いたもの。学校が始まって6日たつのに漢字の書き取りしかやってないとか、友達がまだ少ないので別の学校に行って(おそらく尋常小学校で同級だった子供と)「ほんがん」遊びをやったとか書いてありました。
「ほんがん」遊びと聞いて、夫の兄弟たちが盛り上がっていました。
「ほんがん、すいがん、へいがん」の3つに分かれて遊ぶ陣取りゲームのようです。義父も子供のころに遊んで、その子供たちも同じ遊びをしてたんですね。私はやった覚えがないです。大阪のローカルな遊びかな。
試験問題は「修身」「国史」「国語」「地理」「商業」「簿記」が残されていました。算数や理科などもあったと思いますが、見当たらなかった。ほかに、水彩の絵がありました。きっととても上手だったのでのこしてあったのでしょう。
「地理」の問題には、「アジア」「満州」についての問いがずらり!
時代を感じます。
満州については特に力を入れて教育していたのですね。
「修身」は天皇や皇室について、また「家」とはなんぞや。非常時や平時における愛国とは何か。など。こんな事柄についての問題がテストで出されて、点数がつけられていたんですね。
「国史」では
「聖徳太子は伝来仏教そのままを丸呑みにご信仰あそばされたのであろうか?どうされたか?」
「奈良仏教の弊害は?」
「最澄空海の中心使命を問ふ。四文字で答えよ」
うう、難しいぞ。
「商業」の問題は実用的で、「できるだけ早く手紙を届けたいがどうするか?」とか「この電文をウナ電で●×まで打ったら料金はいくらか?」など、国家の教育への熱意を感じる問題たちでした。この時から10年もしないうちに、日本の教育はガラガラと変わってしまうのですよね。
義父が生きていたらこれらのテスト問題を見ながらいろいろ解説してもらえたかもしれません。
会いたかったなぁ。
法事があって大阪に行ってきました。
とはいっても土曜仕事が終わってから夜の飛行機で大阪入りし、日曜の朝から法事で夕方の飛行機で帰京という駆け足旅。
前回大阪に行ったのは親戚の結婚式。
この時も、1泊でとんぼ返りだった。
お約束!
まずは、立ち食いうどん店。昆布うどん300円。
東京ではまずお目にかかれないお出汁。
そして、戎橋近くでたこ焼き。
川べりで立ち食べ。
デザートエッグタルト。
これも歩きながら食べ。
結局全部立ち食いで済ませちゃいました。
大阪地下鉄。
大阪で見つけたびーる!
プリンが切れたので、また作ってみた。
卵多めレシピ。
卵黄7個 全卵2個 牛乳400cc 黒砂糖5カケ バニラエッセンス10滴
カラメルは三温糖で。
蒸し器強火2分半 弱火2分 あとは放置。
もうすは入らなくなった。
卵黄をこれだけ増やすと、ずっしり系になるなぁ。
時間が短いので固くはないけど。
これでも十分お客さんに出だせるけど、もう少し私好みに固くするには、弱火で蒸す時間を増やすといいのだろうか。
日曜日のお昼にアマゾンさんから届いたので、そのまま読み始め、夕方には読み終わりました。快読という名の通り、とても楽しくどんどん読める本でした。
でも、内容は多岐にわたっていて、「赤毛のアン」を読むにあたってのヒントがいろいろに散りばめられていました。すなわち、当時のカナダの政治状況、住民の宗教意識、クラス意識、民族問題、教育制度、ジェンダーなどなど。
よくまぁこれだけ調べたなぁと思いました。(多少目が回りました)
花子とアンのドラマで、修和女学校の校長室にあるのがなぜカナダのメープルの国旗でないのか疑問だったのですが、そういう事の背景もわかります。
また、当時のカナダの方言と標準英語の話も出て来ます。訳文ではそのニュアンスを出すのは大変ですよね。この本では原文も挙げて解説してあるので、とても興味深く読めます。(上の写真は原文を読むため本を横にして読んでいるところです)
日本で大変人気のある「赤毛のアン」ですが、この現象は海外の研究者にも注目されているかなり特殊な状況なのだそうで、それを知りびっくりしました。
海外でも(英語圏はもちろん)それなりに人気があり、児童文学として認められている本だそうですが、日本ほどの盛り上がりはないそうです。これには花子さんの功績が大なのですね。
海外の研究も少し紹介されていますが、それに対する著者の突っ込みが可笑しい。そうです。日本で提灯を使うのはお盆シーズンばかりではありませんよね。
その花子さんの訳文とその他の翻訳家のものと比較している章もあり、これもとても面白かった。これだけで本一冊になるのでは?と思うほど。
翻訳をするということがどんなに難しいか、よくわかりました。
村岡花子さんは、戦時中にひとりで情報もない中、翻訳していたという話ですが、すごいですね。でも彼女は、アンと同じ時代のカナダの教育をカナダ人の先生から受け、図書館にあった英文学の古典などもアンと同じように(同時代の教育を受けた人と同じように)原書で親しみ、まるでカナダで育ったような文化を身につけた稀有な日本人だったそうなのです。
それで、この翻訳が可能になったのですね。
私は子供の頃に読んだ際、アンの性格に全く共感できずにシリーズを読み進めることができなかった口で、ストーリーもろくに覚えてないのですが(アニメも見なかった)、よく読みこんだ方には、この本で展開されるアンとマリラの関係の話も面白いのではないかと思います。
文学作品の深読みと言うものがとても苦手で、何を屁理屈こねてるんだろ?暇人か?!と、抵抗もある私ですが(世の文学者の皆様暴言をおゆるしください^^;)、こういうふうに解説してもらえると、なるほどーーー!と思わずにはいられません。
ネタバレになるので詳しく書きませんが、モンゴメリが、この物語で伝えたかったこと、批判したかったことがよくわかり、モノを書く人々というのは、こんな風に作品を作り出すのだな、ど感心しました。
売れなきゃならない。
出版社の意向もある、読者のこのみもある。そんな中で自分の思いを効果的に伝えることができる作者というのは只者ではなく、だからこそ時代を超えて長く読みつがれるのだということがわかりました。
私がアンに感情移入できなかったと書きましたが、実はモンゴメリ自身がアンの性格に共感できていないのでは?という著者の指摘も興味深く感じました。
この辺りは、私の育った昭和40~50年代日本の女の子教育(ジェンダー問題)とも関係があると感じている部分でいつか掘り下げてみたいです。
「赤毛のアン」のファンの方、「花子とアン」にはまっている方、更に広く英語に興味がある方におすすめします!