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4/22に東京から熊本へ向かった飛行機は、阿蘇を過ぎてからいったん有明海の方まで出てUターンし、熊本港から熊本中心街をまっすぐ横切る形で、阿蘇くまもと空港に着陸しました。

市内の様子を見たいと思い、今回は窓際席にしました。阿蘇のあたりは雲が多かったのですが、金峰山のあたりから市内にかけては雲も晴れ(雲の下まで降りた?)よく見えました。


雲の切れ間からのこぎりのような根子岳が頭を出してます。
北側から阿蘇谷(宮地)を望みます。


坪井川、白川の河口と海に突き出した熊本港。
北側から南を見ています。
この後旋回し、東向きに進路が変わります。

私の席は左の窓際なので熊本市の北方向が見えていました。熊本港、花岡山、熊本城、通町辺りの繁華街、水前寺などをみたあと、急にブルーシートが増え、そこから動画を撮影しました。


おそらくこういう飛行ルートだったと思います。(クリックで拡大します)
水前寺を過ぎたあたりから空港までが動画に入っています。
周りの乗客も大分上空辺りから窓にくぎ付けになっており、方々からカシャ、カシャ、というシャッター音が聞こえていました。

まずは写真から。


左から白川にかかる長六橋、世継橋。中央の緑は熊本城です。


画面上の緑が熊本城。天守閣も見えます。お城のすぐ下の白っぽいところが繁華街。下通り、新市街など。
白川の対岸が熊大病院。
このあたりは、マンションが多いのでしょう、ブルーシートはあまり見えません。


大江あたり。
画面左下が豊肥本線水前寺駅。その上のグランドが開新高校と熊本高校、中央の緑の多い茶色の建物が県立劇場と学園大。ここから一気にブルーシートが増え始めます。


左下から右上に伸びる幹線道路は熊本東バイパスです。赤と白の鉄塔は帯山のNTT。上の緑は立田山です。
東バイパスから東はブルーシートだらけです。

この辺から動画撮影に切り換えました。

2016.4.22 熊本市内上空

<動画解説>
動画の始まり、一番手前にみえるのは、帯山あたりの産業道路です。
手前の大きな黄色っぽい壁の建物はヤマダ電機ですね。画面真ん中にみえるのが西原(にしばる)中学校です。
そのあと見えてくる縦長の大きな屋根は「シュロアモール長嶺」
00:10あたり、一番手前にひし形を二つつないだように見える建物が熊本赤十字病院です。
00:25あたりから一番手前に見え始めるのが、SMAPの中居くんが炊き出しにあらわれたという長嶺中、長嶺小ですね。ここから畑が多くなります。
00:43あたり、高速九州道が縦に走っています。当時この区間は、災害派遣関係車両のみ通していましたので、通行量はとても少ないです。
00:55過ぎ、一番手前に見える山は戸島山。向こうに見える山の裾に運動公園のグラウンドとパークドームが見えます。

右側の窓際席に座っていれば、激震の益城町のあたりや実家あたりの様子も見えた事と思います。

その日、羽田から熊本行に乗った人たちは、大半が熊本に家族がいる人だったのではないかと思いますが、飲み物サービスの時に乗務員の方から「熊本にはご親戚が?」と声をかけていただきました。飲み物も2種類出してくれたり、キャンディーもたくさんくれて、いたわってもらったなぁと思いました。
到着時のアナウンスでは、乗務員の方も熊本出身の方だったようで、うっかり涙をこぼしそうになりました。

4/25に東京に戻るときも同じ乗務員さんで、コーヒーのミルク有り無しをおぼえてくれてて、感激しました。
ありがとうJALさん!

熊本での最終日です。
午後の飛行機で東京へ戻ります。

家の片づけも、できるるところはやったので(まだたくさん残っているが、やらなくていいと言われた場所も多かった)気になっていた、家具転倒防止のツッパリポールを買いに行こう。
自衛隊健軍駐屯地の先にあるホームセンターへ。


ダイキ。
開いていました。建物は被害があるようで、ひさしの下での青空マーケットです。(雨降ってたけど)
細かなものは売ってませんが、さしあたり必要なようなものは並んでいました。
雨具、カセットコンロ、米、コンクリートブロック、などなど
そんな中に、ありました、突っ張りポール。


突っ張り棒を買いました。


設置してみたところ。

これまであまり地震の無い土地柄だったせいか、家のどの家具も固定されていませんでした。
この地震で食器棚が2つ転倒してダメになり、処分しました。
さらにガラス扉の付いた書棚も転倒してガラスが割れました。

そして、うちの実家には家具の無い部屋というのがありません。
大きな箪笥のある部屋で寝起きしているのです。
「震度6~7でも倒れなかったから大丈夫」と言いますが、安心できません。
本当は、金具で固定したいのですが、売ってなかったので、応急処置です。

東京に住む自分自身は東日本大震災をきっかけに、寝室の家具を一掃しました。
和室に寝ていますが、電気スタンド以外は何も家具を置いてません。マンションが倒壊すれば別ですが、万一激しい揺れに襲われても家具の下敷きになることはないという安心感があります。

その安心感を実家にもほしいですけど、どの部屋にも何かしらの家具があります。
仏壇、大きな箪笥、ガラス扉付の書棚やパソコンやプリンターが載った机、鏡台、ライティングデスク(ガラス扉付、ガラス扉の付いた食器棚もあと2本くらいはあるし。いくつか処分して、家具が何もない旅館の部屋みたいな寝室で寝てほしいです。


昼ごはんは冷凍ピラフや炊飯器で調理した冷凍ハンバーグ。
電子レンジで作る目玉焼きも、ずいぶん慣れていい加減に半熟になってます。

食事して、家じゅうの家具に突っ張りポールを設置した後、空港に向かいました。
もう渋滞などはないのがわかっていたので、家の車で空港まで送ってもらいました。


熊本空港。
土産物屋も半分くらいは営業していました。
でもクレジットカードは使えなかったり、品数も少なかったですけどね。


火曜に来たときは営業してなかったゲート前の売店も開いていました。
同じく火曜に来たときは壁が崩れてて使えなかった搭乗ゲートも、復旧していてそのゲートからの搭乗でした。

私の乗る飛行機が、と東京から到着したようで、乗客が降りてきました。
復旧作業の応援なのでしょう、作業服の人が目立ちました。それから、ボランティアでしょうか、登山するようないでたちの人もたくさんいました。また迷彩服の自衛官も見かけたけど、旅客機に乗ってるとは思えないので、空港で作業してたのかな。


台湾の高雄と熊本は交流してるんですよね。くまモンが高雄に行って活動してるニュースを見たことがあります。今回の地震に際して、高雄の市長さんは1か月分の自分の給料を全額熊本に送ってくれるのだそうです。ありがたいです。ほんとに。

熊本はくまモンのおかげでアジア地区でもかなり知名度を上げてきてます。
昔は台湾に行って「熊本出身です」と言っても反応鈍かったのが、いまは「くまモン大好き、熊本行きたい!」って反応が多くてびっくりしますもの。


搭乗。
大して役に立たなかった気持ちますが、身内の顔を見て話をして、っていうことが大切だと感じました。
これまらまだまだ大変だと思いますが、できる支援をしていきたいと思います。

2

熊本入りして3日目です。
父が、「もう明日帰るのか…」と寂しそうです。
ごめんね。
母も今日は疲れがたまってきたと見えて「朝起きてすぐからからだがきつい」と言っています。

非常時は神経が高ぶり、いつもよりも元気が出たりするものですが、その疲れはどっと後から出てきます。地震発生から10日、両親の疲れももうギリギリのところでしょう。

ボランティアの依頼書がポストに入っていたようです。

家の片づけを私がやろうとすると、母が一緒に片づけをしようとするので、ちっとも母を休ませてやることにつながりません。自分のやりたいことが相手の役に立つはずというのも思い上がりですね。

仕方ないので、片付けはぼちぼちにして、買い物に行こうと誘ってみました。
父の車を私が運転し(2年ぶりくらいの運転!)周辺のスーパーなどを巡ります。ついでに周辺の様子も見て来ようと思います。久しぶりの運転で、アクセルとブレーキの位置も最初ちょっと混乱してましたが(大丈夫か…?!)すぐにカンが戻りました。

実家から2キロほどのスーパーが営業していました。
昨日載せた写真のように、最寄りのスーパーが倒壊しているので、これからはこういうところに買い物に来なくてはいけません。視察です。こんな非常時でも母の値段を見る目はいつも通りに厳しく、底値じゃないと買おうとしません。それでも合格点をもらえた、食パンやヨーグルト、牛乳、お米などを購入。

次に車を回して、別のイオン系スーパーへ。
ここは駐車場もいっぱいで、大人気です。
中に入って人気の理由がわかりました。お総菜を売ってます。車中泊の人たちもお総菜なら温かいものが食べられますね。お総菜コーナーが大人気でした。うちも焼き鳥など、少しお総菜を購入^^ちょっと生活に彩りを持たせたいと思って、お菓子やワインなんかも買いました。

買いたいものは大体そろったので、帰り道少し遠回りして、私の母校の小中学校の方まで車を走らせました。被害の濃淡があることがわかりました。
地盤なのか、町のできた年代なのか、桜木や東町ではそれほどの被害は感じなかったのが、錦ケ丘にくるとブルーシート(屋根が壊れた家)が多くなります。鉄筋コンクリートのビルもコンクリートが剥げ落ち、鉄筋がぐにゃりをむき出しになっていたり、マンションの壁が×印に亀裂が入りコンクリートが崩れ落ちていたり。錦ケ丘の自衛隊通りは店はほとんど開いていませんでした。ナフコ(私が子供の頃からやってるホームセンター)とか崩れていて被害大きそう。

熊本入りしてから3日、通りがかりに見えた学校の運動場には、例外なく車がたくさん停まっていました。避難してきている人たちの車です。実家の近所の子供も「夜は車に泊まってる」と言ってましたし、車中泊は相当数に上ると思われます。

錦ケ丘公園では、自衛隊の車が来ていて、人々が長い列を作っていました。
おそらく炊き出しだろうと思います。
中身はわかりませんでしたが。

買い出しを終えて帰宅したころ、市内に住む弟から自宅の水道が復旧したのでお風呂に入れるよと知らせてきました。弟のマンションはオール電化なので、ガスは関係ないらしい。
夕食前に母を連れて弟宅へお風呂をもらいに行きました。私は翌日帰るし、車を止めるところもないので、母だけおろして、近所を走ってみました。

東京にいる同級生たちの自宅もこの辺にあるし、心配しているので雰囲気を知らせたいと思ったからでした。

まず、私が10歳から暮らしたアパートのあった場所へ行ってみました。もう建物は建て替えられ、空き地だったところも住宅になり、様変わりしています。私のいたころからある家は軒並みブルーシートです。
おや、と意外に思ったのは、伝統的日本家屋の農家だった近所の同級生の家が、見た目上は何の被害もなさそうだったことです。子供の頃でも相当古いと感じた母屋も納屋も無事でした。被害のあるなしはどういう要素が関係するのでしょうね?

それから、小峯地区へ向かいました。小学生の頃、通っていたお習字の先生の家や同級生の家があるところです。ここも古い住宅地だし、益城町とも隣り合ってる地区で被害がかなり大きかったようです。それから月出を通って、県立大や日赤の方へ。長嶺の住宅地は小峯ほどひどくはありませんでした。それでも営業していないスーパーなどもあり、それなりのダメージあはあったようです。

お風呂上りの母を拾って、帰宅し夕食。
約1週間ぶりにお風呂に入った母はいくらか元気を取り戻したようです。
お総菜や電子レンジで温めたレトルト食品などを食卓に並べ、ワインも開けていつもの帰省時のような楽しい雰囲気で食事をしました。

2

翌朝、土曜日です。いい天気です。
朝食はトーストやヨーグルトなど両親が毎朝食べているものをいつもどおり食べられました。


写真は3日目の朝食(東京から持ち込んだシリアル)

朝食後、父が車で出かけるというので同行することにしました。
街の様子も知りたい。

健軍電停から県道28号高森線を益城方面に走ります。
実家があるのは、熊本市東区の健軍電停(市電の終点)あたりです。一番被害の大きな益城町とは隣り合っているところで、実家の周辺も崩れた壁、屋根瓦など地震の爪痕があちこちの建物残されていますが、益城町に入ると更に厳しい状態でした。

もちろん各種報道で知ってはいましたが、実際目の当たりにすると更にズンと心にくるものがあります。道の両脇に倒壊家屋が続き、道路もデコボコ。マンホール部分、橋の両端はほとんどが陥没しています。でも、車道に関してはかなりの部分で応急処置が施され、渋滞もなくスムーズに走れます。

一番被害の甚大だったところは通行止めで信号機も消えたままでしたが、その他の場所は信号も点灯していました。一週間でこれだけ復旧しているとは。関係者の皆さんの不眠不休の働きがあったんだろうと思いました。それでも、歩道や私有地のデコボコはそのままで、崩れ落ちたブロック塀、石垣、家屋、看板などが延々続きます。

益城町役場の前はボランティアの若者が交通整理をしていたようでした。ほんとにご苦労様です。役場のあたりはやはり災害対策本部があり、支援活動の拠点でもあるので人々の出入りが多く、変な表現ですが活気がありました。支援物資を大きなビニール袋に詰めてオオクニヌシかサンタクロースのように肩に担いで運ぶ人たちの姿も。

避難所の駐車場脇に、犬小屋ごと連れてこられたワンちゃんが繋がれていました。家ごと避難できてよかったね。

建物の危険診断も始まったようで、木山地区あたりは「危険」「注意」「調査済」の紙が貼られた家屋もたくさんありました。調査員らしき人たちも何組も見かけました。
ご苦労様です。

益城町は田畑が広がる田園地帯ですが、田んぼにはレンゲの花がびっしり咲いていてとてもきれいです。
そんな田んぼのの広がる一角に、たくさんのはがしたアスファルトが置いてあるところがありました。道路工事も急ピッチで進めているのが伺えます。

水道が復旧していないので、田んぼの中で水が湧いているところに汲みに来ている人々もみかけました。

用を済ませ、帰宅して家の片付けをやったあと、今度は母と外出。
近所の商店街へ食料品の買出です。


八百屋さん


魚屋さん

他にも花屋さん、洋服屋さん、たい焼きやさん、弁当屋さんなど営業中。
野菜果物を中心に買い出しができました。お店が開いているとホッとしますね。

商店街では、朝日新聞の記者が取材していました。
店舗が被災して路上で商品を売ってるお店には「写真、取材お断り」の張り紙があり(なので私も写真は撮ってません)その店主さんに取材していました。
こういうところでの取材は大変でしょうね。
「取材って言ってカメラを向けるんじゃなくて、いろんな話を聞くようにしたほうがいいよ」とその店主さんが記者に話していました。たぶん、店主さんは無遠慮にカメラを向けられた経験があったのだと思います。


対象的なのは、同じ商店街にあったスーパー、サンリブ。
アーケードに覆いかぶさるように倒壊していました。


帰り道、ガス管緊急工事をやっていました。熊本市全域でまだまだガスは復旧していません。大阪ガスの車が停まってました。工事してる人に話しかけると、やはり大阪から応援に来てるのだそうです。ありがたい事です。聞くところによると大阪ガスの応援は600人とか。近所で見かけたのは大阪ガスでしたが、きっとほかのところからも応援がたくさん来ているのだと感じました。

商店街で買ったものとレトルトで夕食。
グリンピース美味しかった。


(写真は、被害の大きかった熊本県益城町辺りの倒壊した住宅です)

地震発生から一週間後、4/22金曜日に熊本の実家に帰りました。

仕事場も急な休みを快諾してくれました。熊本にいる弟や両親に必要なものを聞いて買い出しに行ったりAmazonで注文したり。いつも荷物の少ない私ですが、今回ばかりは大きなスーツケースで熊本入り。

空港は本震から4日たった火曜日に再開したところ。
再開初日に名古屋から熊本入りした弟は、ターミナルビルには入れず青空手荷物引き渡し所だったそうだが、金曜はターミナルビルも半分くらいは使えるようになっていた。


リムジンバスで実家ちかくの「東町中央」まで。
途中の道はガソリンスタンドに行列もなく渋滞もしていない。第2空港線の高速入り口「益城IC」は閉まっている。ランプの入り口に警官がたち、災害支援の車両のみ通しているようだ。


リムジンバスを降りたところ。
自衛隊駐屯地の前なので、「災害派遣」という印をつけた自衛隊の車がたくさん通る。


実家に戻り、両親の顔を見て、東京から運んだ「おみやげ」(食パン、牛乳、豆腐、納豆、ヨーグルト、お惣菜のレトルトなど)を渡したあと、近所の公民館に支援物資が届いているかもというので父と出かける。昨日はおにぎりが届いたらしいが数が少なく貰えなかったので、再チャレンジらしい。おにぎり食べたいなら東京から運んだのに。

行ってみると今日の分はまだ届かないとのことで空手で帰宅。暫くして町会長さんから、届きましたよと電話が入った。母と貰いに行く。菓子パンとおにぎりと災害用ビスケット。一人一個という割合でもらってきたのだが、賞味期限が迫っているので、届いた分量が捌けないらしい。二階で片付けものをしていたら、近所の人が、追加で更に持ってきてくれた様な声が聞こえた。
支援物資のお昼ごはんを頂いた。
ワタシまでもらった形で申し訳ない。

大阪のオニギリ、横浜市の災害ビスケット。遠くから支援物資が届いていることを実感する。

午後は、家の片付けをして過ごし、夕方、弟の家に頼まれた物資を届ける。
弟の家はマンションだが、貯水タンクが壊れてしまい、水道が使えない。そのため、バケツ、水のいらないシャンプー、体拭きシート、ウエットティッシュ、それに食べ盛りがいるのでご飯の友などを運んできた。

義妹は市内の中学校の教師。職場が避難所になっているので今夜は夜勤とか。阿蘇まで勤めに出ている弟はまだ帰宅しておらず、中学生と高校生の子どもたちだけで留守番していた。学校は5/8まで休校らしい。スポーツをやっている姪は、連休に予定されてた合宿が中止になったと残念そうだった。

実家の状況は、電気、水道は復旧しているが、ガスがまだ。
夕食は電子レンジでできるものや家庭菜園で取れたもの、「備蓄の鬼」である母の買い置きをいただきました。筍は地震発生後に知り合いの山まで行って掘ったらしい。たくましいなぁ。
父がビールを用意してくれたので飲んだら眠気がおそって、なんと9時就寝。

5

あれ?ここ数日の私の記事がFBでシェアされてるようですね。
別にシェアは全くかまいませんが、どなたがしてくださってるのでしょう?
ちょびっと気になる。
ツイッターは辿って行けるのですが、FBは辿って行けない設定なので。

17日の日曜日、まだ、少し心が動揺していたのでしょう、遊びに行く気にもならないので、家で「非常持ち出し袋」の点検をやりました。
ずいぶん以前に用意してましたが、再点検です。
案の定、使い捨てカイロの期限が来てたり、ラジオが壊れたりしていました。
入れたことを忘れているものもあったりしたので、再確認できてよかった。

それから、備蓄品もすこし増やすことにしました。
カセットコンロ用のボンベや非常食などを買い足しました。
今、熊本の両親をそれほど心配せずに済んでいるのは、自宅に水や食料を備蓄していると分かったことも大きかった。(父はキャンプ用のガスボンベも持っていました。庭で調理できたようです)ふだんから、二人暮らしなのになぜそんなに冷蔵庫にものが入ってるの?と不思議に思うほど、備蓄癖のある母(あの年代の人に共通かな?)あれなら1週間以上大丈夫だ。と思いました。

断層は日本中にあるそうですね。
今回の地震のようなものは日本中どこで起こってもおかしくないらしいし、それ以上に東京はもっと別の地震の可能性も盛んに叫ばれている場所。
東京で起きたら?
熊本の両親のところでも避難所に入れずに自宅に戻ったくらいですから、東京で何か災害があったとき、私たちは避難所に頼ることはできなさそうです。
家に居られるなら家、無理なら真剣に東京脱出を考えないとと思います。
羽田までは10キロくらいなので歩いていって、船で脱出とかできるといいですけどね。

それから、朝日新聞に揺れやすさを調べられる記事がありました。(ここのところ、朝日新聞によい印象がないのですが、これを載せてくれたのは嬉しい)
数値化された揺れやすさと、その場所の地形が調べられます。

揺れやすい地盤 災害大国 迫る危機

これで見ると、熊本の実家(ローム台地)より今私の住んでいるところ(自然堤防)ははるかに揺れやすいことがわかりました。
職場はローム台地、夫の職場は埋め立て地。
今のうちに、いろいろ知って覚悟しておくことも必要ですね。

といいつつ、地形好き、地図好きなので、マニア的にいろいろ調べて楽しかった事をここに白状しておきます(笑)

日本全国揺れやすいと思ったら、実は山の方は揺れにくいのですね。
私が生まれた熊本の山奥は、分類は「山地」で「揺れにくい」ところでした。
それでも山は地すべりとかもあるから、安全とは言えないか・・

昨日(4/19)、熊本空港再開したので、名古屋に住む弟が実家に行ってくれました。弟が写真を撮って送ってくれたので、初めて家の様子を見ました。
家にいられる状態とは言っても、ちゃんと検査を受けたわけではありませんし、写真を見ればやはりひどい状態です。弟の応援で少しでも安全を確保できる状態になればと思います。でも、親にしてみれば物理的支援より、弟の帰省でかなり気持ちが落ち着くのではないかと思うので、それがありがたいです。

同じく昨日の朝のこと、母の携帯に電話をしたら、「いまお風呂に入っている」との話でした。ガスはまだ復旧してないので、熊本市から離れて公衆浴場(温泉かな?)を目指して甲佐町の方まで行ったそうです。通りがかった知人の家に寄ったら、「お風呂に入りませんか?」と言われて、貰い風呂したそうです。5日ぶりのお風呂ですね。良かったです。

熊本市内でも銭湯など入浴できるところはあるのですが、大変混雑しているそうで、不自由な暮らしは続きます。実家と同じ東区にある末弟のマンションは、貯水タンクが壊れてしまい、復旧には一ヶ月かかるとか。水道は復旧したのに残念ですね。現地はあちこちそういう場所があるでしょうから、順番待ちなのは仕方ないですね。

さて、今朝(4/20)からは九州新幹線の新水俣以南が運行再開。更に、熊本市電も全線運行再開。厳しい中にも、明るいニュースも聞こえてきました。

私も明後日から熊本に帰ります。
弟と入れ替わりです。
先週土曜の朝、2度目の大きな地震のニュースを聞いて、1週間後の便を予約を入れておいたのです。1週間の間には運航再開するかなと。状況はいろいろ変わるだろうけど、とりあえず、行ける状態なら行こうと思って。会社にも休みの申請をして、仕事の段取りもすませました。昨日から空港からのリムジンバスも通常通りの運行になったそうだし、とりあえず実家へたどりつけそうです。

まだ大きな余震が続いているので、早く収束してくれるのを祈ります。

7

今回の熊本地震。
発生時から熊本の家族と連絡が取れるまでは、かなり動揺していたのは、2つ前の投稿で書いた通りです。ですが、その後は非常に心安らかになっています。もちろん、亡くなった方がいるとか、まだ地震が続いている不安などはありますが、心がぐちゃぐちゃになるということはなく、それなりに理性的にすごせています。

たぶん、311の時に学んだのだと思います。

東日本大震災の時に、おびただしい情報とどう向き合うか、自分の心をどう持っていくか、相当悩んだり考えたりしていました。地震、津波、原発と非常に多くの要素が絡み合う災害だったし、東京も情報被災地だったからでしょう。今思えば、色々不味い対応をしてしまったという反省もあります。

今回、家族の安否という311の時とは違う要素に翻弄されましたが、とりあえずの無事が確認できた後は、東京にいる自分が何をすべきかは、はっきりとしていたので、その意味では心が安らかだったのです。

私が熊本出身だと知っている方々から、仕事関係などでもたくさんお見舞いの言葉をかけてもらいました。とてもありがたい気持ちでした。特に、家族の様子がよく把握できなかった時期にはとても励まされました。ただその中には、「テレビの前から動けません」とか「自分の無力に落ちこむ」とか、おっしゃる方もいて、こちらが心配になるほどです。遠隔地にあって、そういうことで疲労を募らせる必要はないと思います。

遠隔地にいる私たちが、災害直後に被災地に向けて、積極的にできることは、
 「お金を送ること」これだけです。
あとは、特別なことは何もしないことが、肝要。

この機に乗じて政府批判したり。
電気が必要なのに、原発原発と騒いで九電に電話したり。
やたらめったら情報を発信して、人々を混乱させたり。
被災地の状況は刻一刻と変化するのに、古い情報をシェアしたり。

こういうことは、遠くにいる人間がテレビの煽るような情報に踊らされて、平常心を失っているからやってしまうことです。物資については、災害の質にもよると思いますが、今回のような災害では物資の絶対数が足りないということはないはずなので、遠隔地から下手に物を送って、現地の物流を混乱させるのもマイナスかと思います。

現地が混乱するのは仕方ないです。大きな地震を何度も体験しつづけたり、目の前に壊れた建物や怪我した人々が大勢いれば、平常心でなくなるのは当たり前です。ストレスも溜まります。

でも遠くにいる人間は落ち着きましょう。
落ち着いているからサポートもできるのです。
被災者に心を寄せることは、一緒になって混乱することではないと思います。
(今回も時々、このことを自分に確認しています)

熊本地震。
4/16の午後実家と電話で話をしました。
その時は、まだライフラインは全滅と言ってましたが、16日の夜から電気が復旧したそうです。
そして4/17夜。父からメールが届きました。
家の近所の商店街の被害を写真付きで送ってくれました。
電気が通ったことで、パソコンに向かう事も出来たようです。

余震が続く中、カメラを手に近所の様子を見に出かけたんでしょう。
危ないから安全なところでじっとしていて!
と思いますが、その渦中にあれば、私も同じようなことをするでしょうね。
じっとしていられない気持ちわかります。

ご丁寧に、キャプションまで付けてくれています。

倒壊している建物は、昭和50年築(らしい)のマルショクサンリブというスーパーです。鉄筋コンクリート3階建てかな?私が子供のころからずっと営業していて、経営は変わったものの地域の核になってるスーパーでした。さすがに古かったですね。アーケードに覆いかぶさるように倒れているので、アーケード自体も危険でしょう。

この商店街は、健軍ピアクレス商店街といって、実家から徒歩数分の場所にあり、母は毎日買い物に行っていました。とても立派なアーケードがあり、以前は熊本でもかなり賑やかな商店街でしたが、今は郊外のショッピングモールなどにおされて、ごたぶんにもれずシャッターも目立っていました。余震が収まっても、しばらくは影響が残るでしょうね。もともと体力が落ちている商店街だったから心配です。

電話を入れた時に、こちらに様子を知らせるため、長文のメールを書いていたら「瞬停」になって消えてしまったので、書き直す気力がないと言ってました。「瞬停」なんて言葉知りませんでした。瞬停のあと、一度戻った電気がまた数時間停電して、また復活したともいってましたね。不安定なのでしょう。そんな中必死で復旧に尽力している方々に頭が下がります。

水道も、先日ブラタモリでやってた「健軍水源地」が、4/17午前中に試験的に供給開始したそうで、うちの実家にも水が出たようです。漏水などのチェックのための供給再開らしいので、またいつ止まるかわかりませんが、貯められるだけ貯めたと言ってました。ガスが来てないから、庭でキャンプ用のバーナーで焼きそば作って食べたよとか、たくましくサバイバルしてくれているようだし、連絡もちゃんととれているので、私も精神的にとても楽になりました。

ただ、老父母だけで家の片づけなどをするのが心配なので(するなと言ってもするでしょうね)今週、熊本飛行場が再開したら(再開するかはわかりませんが)いちど帰ってこようと思っています。

6

4月14日 午後9時26分熊本で震度7を記録する大きな地震がありました。

その夜、ここ東京の自宅で、録画したテレビ番組を見ていました。9時前に東京でちょっと強い揺れを感じ、地震速報やってるかな、とテレビに切り替えました。9時のニュースが始まり、地震のことも速報で出ましたが、東京震源の小さな地震だったので安心してそのままニュースを見ていました。
9時半近く、けたたましい音が鳴り、緊急地震速報が入りました。

 熊本?!

心臓がドキドキしてきました。
画面が熊本からのものに切り替わり、熊本城を望むどこか高い位置に据え付けられたカメラの映像が映し出されました。縦横めちゃくちゃに揺れるカメラ。熊本城から水煙みたいなものが立ち上っている。

 なんだこれは?

そのあと通町筋の交差点(熊本市の中心の繁華街)の俯瞰映像に変わりました。人々が慌てる様子もなく横断歩道を渡っていました。少しホッとしました。

 熊本地方で震度7・・・!?

 ほんとに?!

各地の震度がどんどん発表されていきます。間違いなく、熊本の実家のあたりが一番揺れているようです。
両親は?弟家族は?きっと、大丈夫だろうと思うものの、震度7なんて東日本大震災の時の宮城の一番揺れた地域の揺れ方です。熊本は一体どうなってるのだろう?実家は私が大人になってからの建物だから、家が倒壊することはないだろうとは思うけど、家具が倒れてきたり、たまたま外に居てそこへ何かが落ちてきたり、いろいろと考えられます。

電話は当然通じません。(ほんとは掛ける行為もいけないんですよね。反省)
落ち着こうとしても、おろおろするばかりの私に、夫が「メールして!」と言いました。

 あ、そうだ、メール、メール。

スマホを取り出しメールしようとするのに、ツイッターとかフェイスブックとか違うアプリばかり立ち上げてしまって、なかなかメールできません。夫の方が先にメールを送り終えていました。
私も、なんとか、父のメアドにメール。
そして母の携帯にSMS。
母の携帯メールにもメール。
弟にはフェイスブックでメッセージを入れました。

 見てくれるかな?

愛知に住む弟からも連絡があり、熊本と連絡取れないという話。
待つしかありません。

そうこうするうち、熊本の弟から、無事の知らせ。

 ひとまず、ほっ。

フェイスブックを見ると、熊本の同級生たちがどんどん状況、安否を書き込んでいます。
大阪の夫の家族からも続々心配して連絡が入ります。

愛知の弟から「実家から無事の連絡あった!」の知らせ。

 心底ホッとしました。

ほどなく、夫や私の方にもメールが入りました。

地震発生から、無事を確認するまで30分。
たったの30分ですが、これが長かった。
無事だったので、良かったのですが、待つというのはなかなかに大変なことだと思い知りました。そして自分が、いざという時、おろおろしてしまって、ぜんぜん役に立たないということもよくわかりました。まだ311の時の方がしっかりテキパキやってたと思います。訓練しなくては。

うちの実家から数キロ離れた益城町が一番被害が大きいようです。
そこには、今は海外に住む友人の実家があり、気になっていました。でも、無駄な問い合わせをしてもかえって負担をかけてしまうと思って、連絡しないでいたら、今朝友人から、家族は無事と知らせてきました。
良かった。避難所にはいるようですけど。余震もものすごい回数で続いているようですが、被害が広がらないことを祈ります。

速報時に見た熊本城の水煙のようなものは、石垣や屋根瓦が崩れたものだったのですね。熊本城に関しては、地震発生が昼間でなくてよかった。


この地図は、朝日新聞に載っていた4/14夜の地震発生10分後に計算された、推定全壊棟数分布図(防災科学技術研究所)です。青い星印は実家のあたりです。実際の被害状況とは異なるかもしれません。震源と被害の大きい場所とのずれがありますね。そしてやはり益城町に集中しています。この図で見ると熊本市東区の県道木山線から下江津湖にかけての地区(うちの実家の近く)もかなりの被害が出そうですが、実際はどうだったのでしょう?秋津、栄、広木、水源あたり??気になります。


4/16また大きな地震。
熊本の実家では最初の地震よりもっと大きく、気象庁でもこちらが本震だったといってますね。
実家でも被害が大きく、車で夜明かししたとのこと。弟家族も避難所に避難。停電してるようで、今後は連絡すら取れなくなるかもしれません。これ以上被害が大きくならないよう祈るばかりです。

4/16 午前1時25分の地震の推定全壊棟数分布図(防災科学技術研究所)です。赤の星は震源でしょうか?青い星は私の実家あたり。

実家近くの健軍商店街のスーパーが倒壊したという話を聞き、ツイッターで検索したら写真が投稿されてました。母が毎日買い物に行ってる商店街のアーケードに崩れ落ちています。
近所のパチンコ店もガラスが粉々になってるとか。

心配しすぎるといいことないと思って、それからテレビのニュース見るのをやめました。見たってできることないし。


16日(土)午後、電話で実家の両親と話しました。

思えば、木曜の夜に最初の地震が起きてから、初めての肉声。メールではやり取りしていたものの、やはり声を聞くと違いますね。詳しく状況も聞くことができました。電気、ガス、水道のライフラインが全滅しているとのことで、町内の人が避難所に行くよう呼びに来たそうです。行ってみたけど、食料も水もなく、人であふれていたので帰ってきたという話。自宅は家具が倒れて食器などがが散乱してはいるものの、壊れてはいないそう。車にガソリンもあり、シガーソケットで携帯に充電もできるとか。良かった。これで連絡取れなくなる心配がなくなりました。

大変な状況ではあるものの、声は落ち着いていて、片付けものなどもやっている様子。あれこれ言う私に、
「心配なのはわかるが、大丈夫だから心配するな」と、父。
その元気があるなら大丈夫ね。

幸い、水や食料の備蓄もあり、自宅でもなんとかなるようです。これ以上ひどい揺れが来なければ、ライフラインの復旧までしばらくかかってもそれほど心配しなくてもよさそうです。とりあえず、安心しました。

4

韓国語の勉強を再開しようかな~なんて思って、本棚を見に行ったら色々持っていた韓国語の教本がない!辞書もない!!どうも、去年の「段捨離」の時に全部きれいさっぱり処分していたようです。そのときは韓国語をこんな風に復活させようとは夢にも思っていなかったのですね。

仕方ありませぬ。
そのうち図書館で借りてこよう。それまでの間、この情熱は、ネットにあるNHKハングル講座のストリーミング放送にぶつけるか…。でもさすがにテキストなしではよくわからない・・・。それでは、と、「ゴガクル」のサイトで、韓国語のフレーズ聞き取りなどをやってみたり。なんだかんだと韓国語に触れています。

そんなことしていたら、会社に行く途中、とある歌のフレーズがぐるぐる頭の中でリフレイン始めました。キムゴンモですね。イスンファンと並んで、最初の韓国旅行で買ったCDの人。別に最近聞き直したわけでもないのに、ぐるぐるぐるぐる・・・・

不思議です。

出だしは「ぬんむり~ふろ~♪」=「涙が流れ~♪」ですね。ところどころ、断片的に覚えているフレーズが蘇ります「するぷん~~はなどねげじゅんぶんはにか」とか。合ってるんだか、よくわかりませんが。曲名もわからなかったのですが、「キムゴンモ ぬんむりふろ」で検索したら、わかりましたよ。すごい世の中ですね。

それが、これ

  ↓

「アルンダウンイビョル」 日本語に訳せば「美しい別れ」でしょうか。
読み返して、歌詞覚えて歌ってみよう~♪ゆっくりした歌なので、カラオケでも歌えそう。ついでに翻訳に挑戦すれば、韓国語の勉強にもなるね。こういうことがあるたび、韓国語というのは日本人にとって、とても親しみやすい言葉だな~と思います。

김건모 - 아름다운 이별
 読み方と訳は、適当です(特に訳)

눈물이 흘러 이별인걸 알았어
ぬんむり ふろ いびょりんごる あらっそ
涙が流れ、別れだとわかった
힘없이 돌아섰던 너의 뒷모습을 바라보며
ひもぷし とらそっとん のえ とぅいもっすぶる ぱらぼみょ
力なく背を向けた 君の後ろ姿を眺めたら
나만큼 너도 슬프다는 걸 알아
なまんくむ のど するぷだぬん ごる あら
僕と同じくらい 君も 悲しんでると分かる
하지만 견뎌야 해 추억이 아름답도록
はじまん きょんでょや へ ちゅおぎ あるんだとろく
だけど、耐えなきゃ 追憶が美しいように (=思い出を美しくするために?)
그 짧았던 만남도 슬픈 우리의 사랑도
くちゃるばっとん まんまむど するぷん うりえ さらんど
その短かった出会いも 悲しい僕らの愛も
이젠 눈물로 지워야 할 상처뿐인데
いじぇん ぬんむるろ ちうぉや はる さんちょぷにんで
今では 涙で消さなければならない 傷だけなのに
*내맘 깊은 곳엔 언제나 너를 남겨둘꺼야
ねまむ きっぷん ごせん おんじぇな のるる なむぎょどぅるこや
僕の心の深いところには いつも君を残すだろう
슬픈 사랑은 너 하나로 내겐 충분하니까
するぷん さらんうん の はなろ ねげん ちゅんぶんはにか
悲しい愛は 君ひとりで 僕には 十分だから
하지만 시간은 추억 속에 너를 잊으라며
はじまん しがぬん ちゅおく そげ のるる いじゅらみょ
だけど、時間は追憶の中で 君を忘れていく
모두 지워 가지만 한동안 난 가끔 울 것만 같아
もどぅ ちうぉ かじまん はんどんあん なん かっくむ うる ごっまん かった
全てを消してはいかない しばらくの間は 僕は ときどき 泣くこともあるようだ
두눈을 감고 지난날을 돌아봐
とぅぬんむる かむご ちなんなるる とらぼぁ
両目を閉じて 過ぎていく日を 回想する
그 속엔 너와 나의 숨겨 둔 사랑이 있어
く そげ のわ なえ すむぎょ どぅん さらんい いっそ
その中には 君と僕との 隠しておいた愛がある
언제나 나는 너의 마음속에서 느낄 수 있을 거야
おんじぇな なぬん のえ まうむそげそ ぬっきる す いっするこや
いつも 僕は 君の心の中で 感じることができるだろう
추억 속에 가려진 채로
ちゅおく そげ かりょじん ちぇろ
追憶の中に さえぎられたままで
긴 이별은 나에게 널 잊으라고 하지만
きん いびょるん なえげ のる いじゅらご はじまん
長い別れは 僕に 君を 忘れろって言うけれど
슬픈 사랑은 눈물 속의 널 보고 있어
するぷん さらんうん ぬんむる そぎ のる ぼご いっそ
悲しい愛は 涙の中の 君を 見ている
Kim Gun Mo - Beautiful Goodbye 김건모 - 아름다운 이별

NHKの中国語講座のストリーミング放送をネットで聴いてみました。

レベルアップ中国語

ラジオドラマ風のスキットが流れました。
ラジオと違って、ネット放送だと繰り返し聞けるので、途中で止めたりしながら、聞き取ったのをノートに書いてみました。北京が舞台で、私の苦手な大陸のアル化中国語。中検の勉強をやめてから大陸の中国語を聴く機会がほとんどなかったので、新鮮でした。軽声とかすっかり忘れてるので「想想」みたいな簡単なのが聞き取れなかったり。単語もちょっと違います。

memo なんじゃこりゃ?的単語(生詞ともいう)

公安局
派出所
大巴  機場巴士のことみたい。
师傅?师父? 司機先生のこと。これは知ってた。
团团转  繁体字が思いつかない・・・團團轉、初めて見た。
美女 小姐のこと。流行語らしいです。

热锅上的蚂蚁(熱鍋上的螞蟻)は昔習ったことありました。
熱い鍋の上の蟻のようにじりじりするっていう例え、なんちゅう残酷なことを…!と思って覚えてました。

NHKの教材だから仕方ないとは思うのですが、「口音からして中国人じゃないね?」なんてセリフがあるのだから、それっぽい口音の人を使って欲しかったなぁ。日本語なまりの中国語でもいいですよね。ダメ?:p

内容も割と面白く、展開が楽しみです。
中国語も勉強し続けないとね。

この日曜は、何も予定を入れずに家で夫婦で片づけをして過ごしました。
夫は半年以上なかなか休みが取れず、やっと最近まる一日休めるようになってきました。そうなると、どこかへでかけたい、遊びに行きたい、用事を足しに出かけたいとなってしまって、家でゆっくり一日過ごすなんて本当に久しぶりのことです。(私ひとりで休みの日に引きこもってるのはよくあること^^;)それでも夫はどこかへ出かけたそうでしたが、ここのところ、ずっとせわしなく忙しいような気分で、ストレスが積み重なっているような気持だったので、曲げてもらって一緒に家の片づけをしました。


しまいっぱなしで、ほとんど聞くことがなくなっていたCDをもう一度整理して、埃をはらったり、あちこちに山積みになってる古雑誌などをまとめたり、ダンボールをつぶしたり・・・。買うだけ買って本棚に入りきれなくなっている本の山を寄付すべく箱詰めしたり。(うちが寄付しているところ⇒藝大古本募金「本のチカラ」プロジェクト

結果、夕方、それなりにきれいになった部屋を眺めて、すーっとしました。

ストレスがたまってる時は、発散のために出かけるんじゃなくて、家で掃除をした方がいいのだな。と心の底から思いました。

これでもまだまだやりたい片付けの3分の1くらい。
来週もできたらやりたいものです。

一人でもやればいいんでしょうけど、なぜか一人だとやる気にならない・・・・
(捨てる基準がわからないというのもあるけど)


片付けの効用。
行方知れずになっていたイ・スンファンの9集の中身が発見され、無事ケースに収まりました。
片付けの間中、20年位前に買い集めていた韓国のCDをかけていました。
懐かしい。
そして韓国語は聞き取りやすい(対英語・中国語比)


前に書いた記事「韓国でおすすめされたCD」の一つ。
パクサンミンの『火山』
20年ぶりくらいに聴いてみました。

悪くないぞ!

イ・スンファンの話題ばかりで恐縮ですが、これが「祭り」なんですね~。

毎日、ネットからイ・スンファンの情報が入ってきます。
もちろん、これは私が取りに行くようになったから入ってくるのですが、ここのところ、この人に関する情報量がものすごいです。なにしろ、ライブを毎週毎週やってるし、そのライブも今やってるものだけでも3種類の形態があり、更にイベント関係もあります。4/7は「東アジア文化都市2016 済州」の開幕式で済州島でコンサートやってましたし、4/9は「セウォル号」の追悼コンサートに出るようです。さらに、今月はついに新曲が発表されます。
こういうことがあるたびに、ネットのニュースにも載るし、公式からのアナウンスもあるし。追いかけていくのが大変です。

で新曲の話。

イスンファンは、2014年に11枚目のアルバム「Fall to Fly」を発表したんですが、当初二枚組にする予定だったのが1枚だけ先行発売するという形になったらしく「Fall to Fly 前」として発売されました。「Fall to Fly 後」の分も、録音は済んでいたようですが、なかなか出なくて、その間に「3+3」とかいうミニアルバムが出たりしてました。

で、4/21に「Fall to Fly 後」の中の1曲を、先行シングルとして発表することになったそうです。ニュース記事によると、録音済みのほかの収録曲のうち、7曲を破棄して、新しく作り直すことにしたらしいです。もったいない‥でも納得がいかなかったんでしょうね。アルバムとして出るのはさらに先になるのかな。

先に発表されるシングルは「10億光年の信号」というタイトルらしいです。
4/21には、新曲発表SHOWCASE いうイベントをソウルでやり、それを世界にネット生中継するそうですよ。
見なくては!

4/21は木曜日ですが、その前後の週末は2週にわたって梨花女子大のホールで「Only Ballad」というタイトルの、バラードだけ歌う(のかな?)コンサートをやる予定になっています。機材などもしっかりそこにセットしてあるので、その中間の日にそこを使うんでしょう。

ただ新曲一曲歌うんじゃなくて、2時間のコンサートにするらしいです。
お客さんも入れて。(チケットは急きょ発売されてました)
そのうちの1時間分がネット配信されるのだとか。

モバイルで見るには、NAVERが出している専用のアプリが必要なので、わたしもそれを入れておこうと思います。
PCで見るならサイトに行けばみられるみたい。

PC用 www.vlive.tv
iOS用V – Live Broadcasting APP
アンドロイド用 V - リアルタイム放送APP

ドキドキする。

5

いろいろな音源を聞くにつけ、イスンファンの喉がいま絶頂期にある気がしてなりません。
もっと若いころに比べても、今の方が確実に上手くなっているし。
昔も「歌が上手い歌手だ」と思ってたのですが、今とは比べ物になりません。
おそらく、発声法を徹底的にトレーニングしたように思われます。
今の彼の喉はすごいです。
こういう喉のすごさというのは、CDなどに収まりきれるものじゃなくて、現場に行って生で聴くのが一番いいんです。
陳昇の時もライブで聴く度に「なんでCDには、このすごさが入らないんだろう??」と思ってました。

多分このあと5年くらいが彼の「喉」のピークと思われるので、なんとしてもこの絶頂期のステージをできるだけ見ておきたい!
これは、人間も生き物なので、しょうがないんですよね。体力とも違う「喉」の問題。
陳昇も10年以上前に一緒にライブに行ったひとに、「今が彼の声のピークだよ。今の声を覚えておいてね。」とか言われたことがありました。その時は、全然ピンとこなかったのですが、今になってみるとよくわかります。

井上陽水も、私が初めて聞いたのが10数年前でしたが、その時がピークの最後くらいだったかも。今も、もちろんその辺の歌手がたばになってもかなわないくらい歌が上手いけど、それでも本人比では喉が変化していますよね。クラシックの声楽の世界でもやはり50代半ばくらいから喉が変わっていくそうです。もちろん歳をとった分、表現力とか味とかいろいろな要素で魅力が増して全体としてバランスされてるわけですけど。

というわけで、やはり、あの素晴らしい声を聞いてしまったら、
「今のうちに!あと5年位のうちに!」なんて焦る気持ちになってしまうわけですよ。

韓国では毎週毎週コンサートをやってます。
行きたい行きたい!
韓国に飛んで、その会場いる一員になりたい!
でも、イスンファンのチケット取り扱ってるインターパークは外国人はチケット買えない仕組み……

泣~

何か手を考えなければ!


5月に台湾に行く予定です。
(実は2週連続で・・・そのまま行きっぱなしにして、10日間くらい滞在したいところですが、仕事もあるのでそうもいかず、週末ごとに往復します)

2回とも目的はコンサートです。
5/21の動力火車。
5/28の劉若英。
いずれも台北小巨蛋(台北アリーナ)で開催されます。
そしていずれも、お付き合いです。
陳昇のコンサートも見たいですが・・・

5/28の劉若英のコンサートは夫が大ファンだからなのですが、肝心の夫が休みが取れるかとても微妙でした。そのため5/28コンサートの当日の夕方に着く便をLCCで予約しました。(最悪早朝出勤してから空港へ向かうことも考えてた)そして帰国便はまだ予約してませんでした。

今月になってやっと夫の仕事も少し落ち着いて、2日くらいは休めそう。ということで、航空券の予約を見直し、結局、金曜の深夜着日曜夕方戻りに変更することにしました。

先にとっておいたLCCのチケットは払い戻し不可のものだったので、そのまま捨てることになります。

ああ~もったいない。

大人の良識として一応キャンセル手続きはしておこうと、SCOOTのサイトへ行って予約の状況を確認すると、「払い戻し」というリンクがあります。あれ?払い戻しはないはずだけど?と訝りながら手繰っていくと、「ChangeYourFlight」という提携のサービスがあることがわかりました。

本来、払い戻しのできないチケットでも(もちろんそれは承知で購入してる)、もしキャンセルが出るならほかのお客を乗せたほうがいい。エコの観点からもね。ということで、予約した客の旅程が変更になった際に、ちゃんとキャンセル手続きをしてもらうための仕組みのようです。払い戻しが全くないなら、予約をそのままにしておく人も多いでしょうからね。

でも本来払い戻しはない条件、その分安く設定されてるわけだし。
じゃあ、どうするのか?

・払い戻しがあるかどうかは確約できないけど、いくらか戻るかも。
・いくら払い戻してほしいかは、客が決めてよい。
・額が増えるほど、払い戻しの確率は下がる。
・払い戻しは現金ではなく、次回その航空会社で使用できるクーポンになる。

と、ざっというとこんな感じです。

私の場合は、1枚¥14,000くらいのチケットを2枚買っていました。
払い戻しの条件は、3000円、4000円、5000円、あるいは自分で額を決める。となっています。3000円戻るのが一番確率が高いらしい。

いろいろ考えましたが、3000円の一番確率の高いので申し込んでみました。
どうなりますか・・・・。


こんなかたちの島です。

この小さな島に3万人が暮らし、更に休日ともなれば大勢の観光客・行楽客が香港からやってきます。
島には自動車が走っていません。
わずかに救急車、消防車のみ。
あとは自転車!

なんて素敵なんでしょう。

でもなにもない素朴な島、というわけではなく、リゾートアイランドですね。
くびれた部分の西側には、港があり、食事するところ、お土産物屋などぎっしりと並んでいます。
そして東側は白砂のビーチです。


今回の行動範囲。
全て徒歩ですぐのところ。

イスンファン祭りはいまだに継続中です。
持っている音源を聞き直すのはもちろんですが、更に最近のコンサート動画の音声を毎日会社の行き帰りに聞いています。

で、例によってコンサートの中で何を喋っているのか気になって来ました。
どこの国のコンサートでもMC聞き取りたくなるんですよね…
でも私の韓国語力では聞き取るのは夢のまた夢です。
ネットに上がっていた韓国のテレビ番組で歌手に密着するドキュメンタリーがあり、コンサートのMCに字幕がちらっと付いているのを発見。毎日聞いてるコンサートでも同じこと言ってる気がする。(その程度はわかる)

何度も動画を静止させて、字幕を書き取ってみました。

なんとか数行書き写したので、よし、辞書で調べてみよう!と思ったら、辞書が見当たりません。学生時代に韓国人の友人にプレゼントされた辞書なのに。去年の蔵書大処分の際に処分しちゃったのか?!
仕方がないので、これをさらにタイプしてインターネットの翻訳機にかけてみました。
今は、iPadで簡単に韓国語が打てるんですね~。
ほんとに便利。

가수의 고령화에 따른 관객의 고령화 여실히 증명되는 여러분들의 주섬주섬 일어나기 신공
쑥스럽게 남들 눈치 보며 일어서기 신공
여러분 굉장히 걱정 스럽습니다 !
착석 플리즈
이 노래를 마구 즐 거워하시면서 마구 읏으시거나 따라 부르시거나 하시면
여러분들의 나이가들통 나는 순간입니다
마 모쪼록 모르는 척 해 주시면서 근엄하게 봐 주시기 바랍니다

機械翻訳してみても、やっぱり意味わからないところある。
ツイッターに投稿してみた。誰か教えてくれるかも。
果たして、イスンファンのファンだという韓国の人が英語で解説してくれました。親切な人はどこにでもいますね。

"From the singer's aging his fans are old too. U R struggling to stand up from the seats. I'm very worried please have a seat"
신공 is " god's ability or super power " He was about to say we are trying to stand up using god' effort during his singing
流行語!He like to use this kind of words as he is very very young artist! You must be very young!! Good to have JP fan

さらに、職場の近所のレストランに行ったらアルバイトさんが韓国の人だったので、もう少し詳しく教えてもらいました。そのアルバイトさんは、留学生なんだけど、中国やアメリカにも住んでいたことがあり、中国語も英語もできるらしい。日本語はアメリカの学校の寮にいた頃、日本のアニメのdvdばかり見てて覚えたんだとか。
すごいなー、天才?!

まわり360度どこにでも先生がいる、素晴らしいです。

大体の意味を書いておきます。
逐語訳ではなく(今の私にはムリ)なんとなくの意味だけですが。

『歌手の高齢化に伴い、観客の高齢化も如実に証明されていますので、皆さんが、ひとりひとりそれぞれに立っている神技、恥ずかしそうに周りの目を気にして立っている神技、
皆さんのことがとっても心配ですから、どうぞ着席してください。
この歌をとっても楽しんだり、すごく笑ったり、一緒に歌ったりしてしまったら、皆さんの歳がバレる瞬間ですよ。真面目な顔をして聞いてください。』

と言って、「トンビンマウム」(デビュー曲)を歌い始めるのでした。こら2012年のコンサートでしたが、去年のコンサートでも「歌手の高齢化に伴い~」ということを喋っているので、もしかするとほとんど毎回言っているのかもしれませんね。

チュソムジュソム(주섬주섬)という言葉は、うまい訳語が見つからないみたいでしたが、「バッグにいろいろな種類のものを一個一個詰めてくみたいなイメージの言葉です。入れるってことじゃないんですけどこういう風なしぐさのことです」と、ジェスチャーで説明してくれました。

前にも書きましたが、コンサートに行って以来、この歌手のこれまで歩んてきた道とか、人となりというものにも興味が出てきました。それでインタビューとか、ネットのニュースとかも見たりしています。下の書き取りは、彼の自宅紹介みたいなTV番組のネット動画のもの。何を食べるかとか、そんなことを話してるのですが、この程度のことでも全然読めないので、全部タイプしてネット上の翻訳機にかけてみました。

発音は大体わかります(ハングルは表音文字)
それに適当な訳を付けました。語尾の変化をよく理解していませんので、間違ってるところ多数と思いますが、だいたいこんな感じです。


もっちあんぬんでーばんそんいにか~
  (~普段はこんな優雅には~食べないんですけど、放送ですから~)
むおがじょむあんしょんねよ?
  (なにか、ちょっと、惜しいですね。)
むおがよ? 
  (なにが?)
やっかん、するっするへよ?
  (若干、寂しいですね)
ちょぬん、あんくろったにかよ 
  (私はそうでないです)
そんぎょくたっといっこ、ふぁんぎょんたっといっこよ 
  (性格のせいもあり、環境のせいもありますね)
のむ ふぁんぎょんえ いっすっけじょぼりょそよ 
  (とても環境に慣れちゃうんですよ)
いろけ ほんじゃいんぬんごせ ほんじゃいっそど はるごし まなよ
  (こんなふうに 一人でいることに 一人でいてもやることが多いんです)
ちゅみがまぬにっかよ くろんごっどぅろ いぎょねんだぬん ぴょひょに まっけすむにだ
  (趣味が多いので、こんなことも勝ち抜いていくという表現が合いますね)
うぃろうむる いぎょねんだぬんげ
  (孤独をかちぬいていくために)

後略・・・

4


ジョンメレンキャンプが、今年のASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)のASCAPポップ・ミュージック・アワードで、音楽界に多大なる貢献をしてきたアーティストに贈られるという「FOUNDERS AWARD(創立者賞)」をもらうことに決まったそうです。

JM公式サイトの記事

この賞どんな位置づけなのかな?
気になったのでASCAPのサイトで、これまでの「FOUNDERS AWARD(創立者賞)」受賞者の顔ぶれを調べてみました。

1984 Stevie Wonder
1985 Paul McCartney
1986 Bob Dylan
1988 Berry Gordy Jr. and Motown Industries
1988 Smokey Robinson
1988 Jule Styne
1991 Jerry Leiber & Mike Stoller
1993 Burt Bacharach & Hal David
1994 Don Henley & Glen Frey
1994 Tito Puente
1996 Ashford & Simpson
1996 George Martin
1997 Billy Joel
1999 Garth Brooks
1999 Joni Mitchell
1999 Stephen Sondheim
2000 Steely Dan
2001 Elmer Bernstein
2001 Arturo Sandoval
2001 Tom Waits
2002 James Taylor
2003 Elvis Costello
2004 Jackson Browne
2004 Emmylou Harris
2005 Rubén Blades
2005 Neil Young
2006 Annie Lennox
2007 Melissa Etheridge
2008 Alan & Marilyn Bergman
2009 Ann & Nancy Wilson of Heart
2010 Alan Jackson
2010 Dr. Dre
2010 Patti Smith
2011 Sean "Diddy" Combs
2011 Rod Stewart
2012 Carly Simon
2012 Quincy Jones
2013 Steven Tyler & Joe Perry
2014 Tom Petty

この賞は大物ソングライターたちが順繰りに受賞しているようですね。私が知らない名前もありますが。
この賞をもらえるということは、名実ともに大御所ってことなのでしょう。
おめでとうございます。

ところで、ジョンはまだまだツアー中のようですね。

JOHN MELLENCAMP  2016 THE PLAIN SPOKEN TOUR

Fri 1-Apr - Tulsa, OK - Brady Theatre
Mon 4-Apr - Springfield, MO - Juanita K. Hammons Hall for the Performing Arts
Tue 5-Apr - Davenport, IA - Adler Theatre
Thu 7-Apr - Duluth, MN - DECC Symphony Hall
Sat 9-Apr - Lawrence, KS - Lied Center of Kansas
Sun 10-Apr - Springfield, IL - Sangamon Auditorium
Tue 12-Apr - Muncie, IN - Emens Auditorium
Wed 13-Apr - Huntington, WV - Keith-Albee Theatre
Sat 16-Apr - Wheeling, WV - Capitol Theatre
Sun 17-Apr - Erie, PA - Warner Theatre
Tue 19-Apr - Hartford, CT - The Bushnell
Wed 20-Apr - Portland, ME - Merrill Auditorium
Fri 22-Apr - Rochester, NY Kodak Hall
Sat 23-Apr - Albany, NY - Palace Theatre

64歳のジョンメレンキャンプ氏、今年も精力的ですね!
一か月に14公演とか、すごいな~。
行ってみて分かったけど、彼のステージはそんなに長くはない。それでも北米各地を移動しながら、2日に一回のステージを作っていくのはほんとにすごいことですよ。

アメリカまで行くのは大変だけど、またどこかで見たいなぁ~。
その時は、大金を払ってプレミアムVIPチケットを買いたい。

その内容は・・・

THE DIAMOND PACKAGE
Each ticket package will be $225.00 and includes one concert ticket - price includes all fees and service charges except for facility fees - Limit of 6 packages/tickets per order.

Each package includes:

• One Amazing Top Price Reserved Ticket in the First Ten (10) Rows *
• One Limited Edition, Silkscreened John Mellencamp Tour Poster (Designed Exclusively for the Plain Spoken Tour)
• One Exclusive John Mellencamp VIP Gift (Created Exclusively for VIP Package Purchasers)
• One Commemorative John Mellencamp VIP Tour Laminate
* Venue seating configurations can vary market-by-market

つまり、225ドルで
・コンサートチケット(10列目まで確約!)
・ツアーポスター
・それとなんかしらのVIP用オリジナルグッズ
がついてくるらしい。

それにしても、今年のツアールートはよく知らない街ばかりです。タルサとかエリーとかはなんとかイメージできるけど。小さな町もきめ細かに回っていらっしゃる。いいことだ。日本からの直行便など無い街ばかりなので、今年は見送りですね、ってもともと行く予定はないけど・・酸っぱいブドウの心なのだ!(小沢昭一風に)


最後の日、お昼は利苑で食べます。
利苑~レイガーデン~は香港にいくつも支店を持つレストランです。
私も以前チムシャーチョイの店に行ったことがあります。

ここ、セントラルのIFCモールは、空港へのエクスプレスも出ているし、インタウンチェックインもできるし、とても便利です。(上の地図を参照ください。薄い黄色で囲ったのがIFCモールです。)
帰国の日のお昼をここで食べてから、空港に向かおうというわけです。
わたしも長洲から船で着いたら、フェリー乗り場からすぐのところなのでとっても好都合。
スーツケースがらがら引きながらでも、全然ストレスがありません。


雨のフェリー乗り場

ジョニさんと朝ごはんを食べ、いっしょに船に乗りました。
月曜の朝なので割とすいています。
並んで座っていると、ジョニさんの息子もやってきました。
いっしょに香港へ行くらしい。

レイガーデンで待ち合わせしてるというと、前まで連れて行ってくれました。
IFCモールは広いので、助かります。
ジョニさんとはここでお別れ。
今回もとってもお世話になりました!

受付で友人の名前を言うと、友人たちのいる席へ案内してくれました。
スーツケースは受付で預かってくれます。

この店はちゃんとテーブルクロスのかかっている高級店です。
ミシュランの星もとった店らしい。
予約しないと入れないという評判で、ランチタイムは、前半後半と2つの時間枠があらかじめ決まっているらしい。
人気あるんですね。
満席でした!


四川風皮蛋

腸粉~上品!

絶品の「本日のスープ」

本日のスープの出汁に使われた食材(食べてもいいらしい)

蓮のおこわ

青菜の腐乳炒め



デザート

噂にたがわず、美味しかったです。
美味しいものの食べすぎですよ。
中華はやっぱり人数大事ですね。
堪能しました。
案内してくれたCさんありがとう。
同行の友人たちもとても愉快で、楽しい旅となりました。

ここでいったんみんなとは別れて、IFCモールでお土産の買い物します。
高級スーパーのCITYSUPERに行ったのだけど、大したものが買えず、同じIFCモールに入ってる中華ベーカリーの奇華で買いました。

4

北角で夕食食べて、セントラルに移動して世紀広場でマッサージ行って、次にやってきたのがここSOHOエリア。
セントラルの山側、ヒルサイドエスカレーターのあるあたりに広がる、飲み屋街です。
飲み屋街というと新橋のガード下みたいなイメージになる?
もちょっとおしゃれな、バーとかレストランが連なるエリアです。

詳しくは香港ナビの記事をご覧ください。

たくさんの欧米風の飲食店があり、なぜか欧米系の人々が道まであふれて立ち飲みしている。
この人たちはどこに行っても同じだな~。
シンガポールのクラブストリートでも見たし、バンコクでも、ロンドンでも見た。
どこでも道にあふれて立ち飲みしていた。
我らは立ち飲みはいやなので、座れる店を探します。
が、結構どこもぎっしりいっぱい。
土曜の夜ですからね。

でも、どの店でもいいというわけではないらしく、香港通のCさんには行きたいお店の候補があったらしい。
で、ようやくその候補の中から席のある店を発見。
入りました。
満席だったのでベンチシートにつめつめして座りました。

Quinaryというお店。
創作カクテルで有名なお店らしい。


皆別々のカクテルを注文


私の飲んだのは、牧場の何とかという名前だった


これがこのお店の一押しらしい。飲んでる人いっぱいいた。


おまけ。
帰りのトラムから見た風景。

勘定書き公開
高いね!ご飯より高い!
私の飲んだ「オンザミドウ」なんてサービス料まで入れたら1杯2000円だ。
ひゃ~!
これも「大人の遠足」ですね。

4月1日が来ると、あの日のことを思い出します。
香港のスター、張國榮(レスリー・チャン)が亡くなった日。
2003年のエイプリルフールに飛び込んできたニュース。
SARSの脅威で香港中が皆マスクをしていたころです。
「いくらなんでもひどい冗談・・・」と思ったら、本当の話でした。

亡くなったときレスリーは46歳。
ずっと、お兄さんだと思ってましたが、いつの間にか彼の年齢もこえてしまいました。

今回の香港旅行で、やっぱりレスリーの存在の大きさを感じました。
長洲のカラオケ店で、張國榮の歌が入るとやっぱりすごく盛り上がる。
そこにいる人みんなが歌える。
そんな大スターなんですね。

私がレスリーをちゃんと知ったのは、映画「金枝玉葉」のころだから、1994年です。
その前年、やっとテレビとビデオを買って(それまでテレビなしの生活をしていた)、自宅でレンタルビデオを見まくっていました。最初は、ハリウッドものを見ていたのですが、そのうち見尽くしてしまって、「何かほかに面白い映画はないかな?」と思っていた時に出会ったのが香港映画でした。香港映画は今でもファンが多いですが、当時は本当に面白くて、80年代からの作品をどんどん借りてきて、レンタルビデオ店も10か所くらいメンバーになって、見漁りました。

レスリーを認識した映画「金枝玉葉~君さえいれば」、そしてその次の年の「金玉満堂」のコミカルな演技にファンになり、当時はまっていた韓国旅行の最中にも、ビデオパンに行って、一人でレスリーの出てるビデオを一日中見てたりしたこともありました。

映画の方面では、ハリウッドもの→香港映画ときて、レスリーのファンになるわけなんですが、もうひとつ音楽方面からもこの映画にたどり着くラインがありました。この辺がもう運命的かなと思うわけなんですけど。

私は10代のころからいわゆる洋楽、特にアメリカンロックが好きでした。青春のスターが「ジョンメレンキャンプ」なのは何度かこのブログに書いています。で、80年代~90年代の前半は、そういうロッカーたちの来日公演なんかにもせっせと出かけていたものですが、だんだん洋楽シーンが面白くなくなった…と感じ始めました。90年代に入って、欧米の音楽がラップとかサンプリングとかが台頭してきて、新譜を追いかけるのをやめたんです。最後に買った新譜が、フーティー&ザブロウフィッシュでした。1994年ですね。

それで、しばらくはCDショップに行くと「ワールドミュージック」のコーナーをウロウロし、試聴し、好みに合う音楽がないか探していました。そして、そこで出会ったのがシンガポールのディック・リーでした。
ディック・リーの分かり易い、耳になじむ音楽。アジアの懐メロなんかを巧みに取り込んで新しくする手法なんかにいっぺんに虜になり、まだ見ぬアジア各国の音楽への扉が開かれたようで、一気にCDを10枚くらい買い揃え、ファンクラブにも入り(はじめて誰かのファンクラブというものに入りました!)、コンサートも行きました。ディックの音楽は彼自身がシンガポール人としてのアイデンティティーを探るのがテーマだったということもあり、私にとっても欧米の音楽ばかり聴いていた自分の根っこを見直す機会となり、急速にアジアに目が向いていくのです。

そして、そのディック・リーが香港映画のための音楽を作りました。
それが「金枝玉葉~君さえいれば」で、ディックの作った主題歌をレスリーが歌ったのでした。

こういうきかけで「金枝玉葉~君さえいれば」を公開時に見に行くことになり、そこで、レスリーをはっきり認識し、それから出演作を追うようになります。

実をいうと、今、大ファンになっている陳昇を知ったのも、映画「金枝玉葉」でした。
この映画のサントラに陳昇の歌が入ってたのです。
よく台湾の人に「なんで陳昇のファンになったの?」と聞かれましたが、「金枝玉葉のサントラで」と説明するとみんなすんなり納得してくれました。日本人が陳昇のファンになるのは不可解でも、張國榮のファンになるというのは、有りそうなことだというわけですね。

ちなみに「金枝玉葉」というのは、「ローマの休日」の香港公開時のタイトルだったとか。
1994年~1997年の私の環境はめまぐるしいものでした。
韓国に行ってイスンファンを知ったのも1995年だし。とにかく、アジアのものに目が向いて、旅行も音楽も映画も言葉もすべてが新鮮で、新しいものを知るのが楽しくてしょうがありませんでした。

で、レスリーの話に戻りますが、1993年の映画「さらばわが愛」で芸能界復帰(一時引退していた)したあと、アイドルではなく、アーチストとして認められるようになり、日本でも人気がどんどん急上昇していたので、1997年には来日ツアーがありました。私も、東京公演を1月に2回、6月に2回の計4回見に行きました。初回の時は、そりゃあドキドキしたものです。1997年は香港返還の年でもあり、とにかく香港に関することがあちこちで大きく熱く取り上げられていました。

狂ったように香港映画を見ていたあの頃(だいたい一日平均1本は見てました)レスリーの出演作も見尽くしていました。
コンサートでの魅力全開なところも堪能しました。
4回目のコンサートを見終えた時、「これで卒業だな」と感じました。
ほんとうにお腹いっぱいになり、大満足し、「卒業」という言葉が自然に頭に浮かびました。

日本でのレスリー人気はそれからもどんどん盛り上がり、何度も来日していましたが、私はコンサートには行かなくなりました。たくさん買い集めていたCDや映画のパンフレットやいろいろなものもほとんどヤフオクで(!)手放しました。

46歳で時間を止めてしまったレスリーですが、たくさんの作品の中でいつでも会うことができます。今この世にいないと思うのは寂しいことだけれど、出会えて良かった。いいものを見せてくれてありがとう。

卒業したとはいっても、
やっぱりレスリー好きなんだなぁ。
こんなに熱く語ってしまった・・・。
命日だから、こんなのもいいでしょう。

久しぶりに「白髪魔女伝~キラーウルフ」見ようかな。あのレスリーはとっても良いのです。マンガのような正統派二枚目剣豪を演じていて、昔は恥ずかしかったけど、今なら堪能できる気がする(笑)


これです「白髪魔女伝~キラーウルフ」
相手役は台湾出身、美女の代名詞だったブリジット・リン。