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今月二回めの台湾から戻ってきました。一回目は一人旅でしたが、二回めは久しぶりの夫との二人旅。一回目は現地滞在50時間。二回目は40時間と、更に駆け足の忙しい旅となりました。短い中でもたくさんの人に会いました。忙しかったけど、楽しかった。

ではちょっとダイジェスト。

Day-1
仕事を1時間早退して成田へ。
成田の第二ターミナルは久しぶり、かなり様変わりしていました。
成田9:30発→桃園00:00着(でも少し遅れた)
空港からはタクシーに乗ってホテルへ。タクシー待ちの列が長かった。タクシーの運転手さん高速を飛ばしまくって30分くらいで到着。1:30amチェックイン。

Day-2

午前中に両替、買い物、データ通信の開通などすませ、ランチ会場のお気に入りレストラン「鶏家荘」へ。
ランチには、夫が久しぶりに会いたい人びとに声かけました。台湾人2人、現地在住の日本人3人、日本から旅行中の日本人5人の合計10人で会食。メンバーの中にちょうど誕生日の人がいたので、バースデーケーキを持ち込み、サプライズでお祝い!

一度ホテルで休憩してから、コンサート会場の「台北アリーナ」へ。
今回は、夫が大好きな劉若英の6年ぶりの台北コンサート。前回も一緒に行った5人がそろって渡台しました。
そろってとはいっても皆旅程はバラバラ。会場では劉若英ファンクラブの人に会って応援グッズを分けてもらったり、先週この会場で会ったばかりのギタリスト振栄くんに会ったり(彼はお母さんを連れて見に来てた)。

コンサートは午後7時半から11時半ごろまで。終演後タクシーを飛ばして長安東路の熱炒街へ。遅くまでやってる台湾居酒屋で夜食。
1時ごろ解散。ホテルへ。

Day-3

翌朝はチェックアウトまでごろごろしていようと思っていたのだけど、「10時半から知り合いの出るチャリティーコンサートがあるって!」と夫。眠い目をこすりつつ、シャワーを浴びてパッキングして、チェックアウトしてから、会場の花博公園へ。そこで知り合いの演奏を聴いて、そのまま一緒に中山北路の「高記」へ。そのお店出たとこで記念撮影してると、日本の俳優「鈴木亮平」さんご一行にばったり遭遇。

ホテルへ戻りタクシーを呼んでもらって空港へ。
17:00ごろ遅れた飛行機で台湾を離れ、帰宅したのが22:30ごろでした。

2回目は日本人とばかり会って話した印象。
個別の出来事は個別の記事で少し詳しく記録します。

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台湾からの帰りの飛行機で見ました。
日本語の字幕がなかったので、全部は理解してないけど、面白かった。
この映画も台湾でかなりヒット(台湾映画として歴代5位の興行収入!)したそうですが、わかるな~。

「あの頃、君を追いかけた」と同じ時代背景、1994年の高校生の物語。
「あの頃~」が男性側からの視点なのに対して、こちらは女の子の立場で描いてるので、やはりこちらの方が相当面白かった。全てがいちいち身に覚えあるようなないような。
「わかる~!」って話ばかり出てきた。

話は「マンガ」です。(原作が漫画という意味ではなく)
可愛くもなくてドジでのろまで、でもいろいろ一生懸命って言う女の子が主人公で、学園の優等生とケンカっ早いちょっとワルな男の子二人に大事にされるという、少女漫画王道のシチュエーション。表現も漫画っぽくて、声に出して笑うシーンが多かった。

「あの頃~」の感想にも書いたけど、台湾の90年代の学生生活って、日本人の私の80年代の学生生活ともわりにかぶってて(それとも、どの場所でもここ数十年の学生生活ってあんな感じなのかしら?)、懐かしさハンパなかった。

・スカート丈まで厳しい校則
・体罰
・厳しすぎる生活指導に反抗する生徒
・仲良しグループ(あるいはクラスメート)でキャンプ
・個人の電話はなくて、家にかかってきた電話に親が出る
・同級生と放課後勉強、一緒に勉強するのがデート。

私は、高校生の頃にアイドルに夢中になったりはしてなかったし、
サイン帳みたいなものは小学生の時しかやらなかったケド。
台湾の学校の購買部って、食堂も併設なんだな~。
(これは学校によるのかも)

時代を感じるキーワードがいろいろちりばめられています。
・小虎隊の蘇有朋が活動停止とか
・ヘルメットかぶらずに(ノーヘルって言葉いま通じる?)バイクに乗るとか
・憧れのデパート「新光三越」とか
・好きな女の子のタイプは内田有紀か酒井法子とか

極めつけは・・・・
・不幸の手紙!!!
  中国語では「幸運の手紙」ていうんですね。
  でも中身やシステムはほとんど同じだった。

仕事や恋愛やいろいろなことに疲れた大人の女性たちに、一時のお伽話を提供する映画ですね。
ヒットするのもわかるなー。
今の30代が見たらきっと泣くよね!(30代じゃないけど泣きました)
「何で私たち、こんなに疲れているのかしら?」って、見た人きっと思うと思う。

それと、主人公が大ファンである香港のスター「アンディラウ」の存在が活きてたな~。
30年間スターの座に君臨し続けているアンディじゃないとできない話だったかも。

朝ドラの「あまちゃん」で80年代のアイドルの写真やレコードなどを部屋にいっぱい飾ってるの出てくるけど、主人公の部屋が全く同じテイストだった。
日本だと高校生でアイドルにはまる人はあまりいなかったような。
中学生の頃は多かったけど。
そして今日本でアイドルの追っかけみたいな人は皆いい大人なのが面白いですね。

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来月、東京の台湾文化センターでワクワクのイベントがあります。

「台湾カルチャーフェスティバル」のオープニング企画
トーク&ライブイベント+写真展
「台湾の音楽フェスへ行こう!」
http://jp.taiwan.culture.tw/information_34_46653.html

【開催日程】2016年6月11日(土)~2016年6月13日(月) 
【開催場所】台北駐日経済文化代表処台湾文化センター
〒105-0001東京都港区虎ノ門1-1-12虎ノ門ビル2階
【入場料】無料
【観覧方法】メールで申し込み

私が皆さんにご紹介したいのは、3日目!
月曜の夜という地味目な時間帯に開催されるものですが・・・・

[DAY 3] 2016年6月13日(月) 18:30開場 / 19:00開演 ~ 21:30終演予定

▶THIS World Music Fest @ Formosa 這・世界音楽節
2015年12月4日~6日、台北市花博公園・舞蝶館にて第1回が開催された、台湾初のワールド・ミュージックに特化した音楽フェスティバル。入場無料。台湾原住民や客家(ハッカ)を初め、アジア各地のエスニックな音楽アーティストを招き、セミナーやフォーラムも開かれ、エスニック文化を学び、体験できる貴重な場となった。主催は台湾文化部と角頭音楽。

▶スピーカー
Chang43 (張四十三)
角頭音楽董事長
「THIS WORLD MUSIC FEST@Formosa」オーガナイザー

▶アーティスト
查勞(Chalaw 原住民アーティスト)
黃連(客家アーティスト)

黃連!!!!!

私の愛しの陳昇さんと20年位前からユニットを組んで、台湾語~客家語~原住民のパイワン語の音楽をやっている「新宝島康楽隊」の一人ですよ。彼の音楽人生もいろいろあったようですが、最近はソロ活動も充実で、客家語アルバムが金曲奨取りました!!今月はアメリカ3都市でコンサートやってました。
なんとその彼がミニライブとは言え日本でライブやってくれるなんて!!
感激です。

このイベントのあとは、日本のファンの人たちに声かけて、飲み会でも開催できたら楽しいだろうと思ってるんですが、果たして実現しますやら。思うだけならいろいろできますね~。


2000年にもらったサイン。

今、台北にはお洒落なホステルがどんどんできているので、一周してみようかな~などと考え中です。

下一站台北 ( 站前店)
Next Taipei Hostel Taipei Station Branch

台北市開封街一段33号

初めて台湾泊まったホステルは西門町の「Next Taipei Hostel」でしたが、ここはその支店。一応台北駅前です。年末年始に泊まったアパートメント10Fがよかったのでも再度そこに泊まろうとしたら、満室だったので探してここにしました。

女性専用8人部屋2泊で1022元。
一泊1300円ってところかな?

ここは「台北日記」という別のホテルの建物の一角を間借りしてるようなつくりで、台北日記のフロントの横に、小さなカウンターがあり、そこにホステルのフロントがあります。

今まで泊まったホステルはすべて雑居ビルの上階だったのですが、ここはホテルの1階、しかも外から自動ドアで入ってきたら部屋までドアがないというかなり開放的なつくりでした。部屋にはカギがないと入れませんが、シャワーやトイレに行くときの寝巻状態が外から見えそうな感じです^^


個人用の靴箱、滞在中ずっと同じサンダルでいけるのはなんとなくいい感じ。ホステル内は土足禁止です。


廊下。部屋は片側に並んでいます。
できたばかりの新しい感じ。
廊下の突き当たりに、男女別のトイレとシャワーと洗面台があります。シャワーの数が多くて全く不便を感じませんでした。(香港のはひどかったな~)


部屋は8人部屋でした。
多分どの部屋も同じつくりではないかな?
ウナギの寝床みたいな奥に長い2段ベッド。かなり頑丈なつくりであまりきしみません。
コンセント2つ。ライトもありました。狭いけどベッド半分の長さの小物が置けるタナもあり。カギのかかるロッカーもあり、そこに入らないスーツケースは空いたスペースに置けるようになってました。新しいので設備は文句ないのですが、西門町にあったキッチンはなく、くつろぐスペースは狭かった。ランドリースペースは新しい洗濯機と乾燥機が3台ずつ入ってて、使ってないけど便利そうでした。

このホステルの利点は、あさごはんですね。

キッチンがない代わりに、「台北日記」のレストランを24時間使えます。(ドリンクは飲み放題)夜はカップラーメン作って食べてる人もいました。朝ごはんの券をつけてくれたので、たいしたことないだろう~と思いつつ行くと、かなり充実でした。
おかゆ、ごはん、うどん、パンなどはもちろん。その場で作ってくれる「たあみー」なんかもあったりして。おかずも豊富でホステル泊なのにいいの?
って感じでした。

ただし、台北日記の客と一緒になるのでめちゃ混みあいます。
初日は相席になったシンガポールの人とおしゃべりしたりして楽しかった。
2日目は、早い時間に行ったのでゆっくり食べられました。

今回は同室の人に恵まれず、夜中に部屋でずーっと話している二人組人いて、注意しても話をやめないので困りました。若い女の子たちはちょこっと話してくすくす笑って、というのを繰り返すんですよね。何を話しても可笑しいらしく押し殺した声なんだけど、全部聞こえるから気になると余計に気になるんです。最終的にはイヤホンで音楽聞きながら寝ました。
こういうのは運ですよね。どうしても嫌ならこういうところには泊まれないですね。

いつも女性部屋にする一番の理由は、冷房が寒いのが苦手だからですが、このホステルは暑いくらいでした。(私にはちょうどいい)真夏でもこうならいいけど・・・・

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またまた、仕事を早退して駆けつけました!恩師主催の講演会です。人手不足とのことで運営のお手伝いもすることになりました。

テーマ:「子どもたちに幸せな未来を」
昔ばなし研究所主催。
ゲスト福島みずほ氏。
会場は吉祥寺駅近くの武蔵野公会堂。
参加費500円。

私は普段あまり政治的な活動はしていませんし、社民党支持でもないし、恩師の関係がなければ関心も持たなかったと思いますが、縁とは面白いものですね。

主催の小澤俊夫先生はドイツ文学者で昔ばなし研究者で、大学を退官されてからも「昔ばなし大学」という勉強会を全国で開催されていて、80を超えるご高齢ながら、毎週全国各地を精力的に飛び回っていらっしゃいます。私は昔ばなしを勉強もしてませんが、ただ先生とお酒を飲むのが愉快なので、機会があるとご一緒させていただいてます。

先生は、満州生まれで戦時中は軍国少年だったそうで(終戦時中学3年生)、そのご自身の体験から、昨今の安保法制や、安倍さんに代表される右傾化をとても危惧しておられまして、これまでも何度となく、考えを発信して来られたんですが、ついに黙っていられなくなり、この講演会を計画されたそうです。

私は戦後生まれですし、先生ほどの強烈な思いをどうしても持つことができずにいます。さらには安倍さんの言うこともわかるな~などと思ったりするわけですが、今回はいい機会なので勉強のために参加することにしました。

開演前に会場近くのカフェに打ち合わせに行ったら、先生と一緒にご家族もいらっしゃって、なんと小澤征爾氏まで同席されてるではないですか!一気に緊張しましたが、図々しく写真一緒に撮ってもらいました。きゃー!舞い上がってしまったので、この間の新日フィル演奏会の感想を伝えることも忘れました。熊本地震追悼のG線上のアリアで泣いた話なんかすればよかったなー。と帰りの電車の中で思いました。

講演会は福島みずほさんが舞台に立って原発の話、戦争の話、安保法案の話、憲法改正の話などをされてました。原稿も何も見ずにあれだけの話をするというのはすごいな~、と思いました。
へ~と思ったのは彼女の本籍地が熊本だったという話やお父さんがアメリカ生まれで、親戚は戦争中強制収容所にいたという話など。こういう会だったからでしょうけど普段テレビなどでは聞けない話で興味深かった。

もう一人制服向上委員会のシンガー・ソングライターの女性が登壇して歌を披露してくれました。感想は………自粛します。

講演会の後半、客席の質疑や感想コーナーがありましたが、これが面白かった。

戦没者遺族という八百屋さんの女性。
「どんな戦死も全部犬死だ。どんなに美化しても犬死だ」

高校教師を長年つとめたという82歳の男性。
「暴走族や右翼に走る少年たちは家庭からも社会からも学校からも締め出されてるの。彼らと話をするのには半年はかかる」

中国帰国者の女性。
「終戦後の中国で身内がどれだけ苦労したか、自分の祖父母、母後と涙と引き換えに手にしたのが日本国憲法だ」

先生のつながりがなかったら絶対行かなかったであろうこの手の集会。小澤征爾さんも、「生まれて初めて政治家の話を聞きました。自分の人生にとって、とても大きな意味のある体験になった」と言ってましたが、私も良い勉強になりました。

私なりに戦争をしないですむにはどうしたら良いか、考えていこうと思います。

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今月封切られた台湾映画を見てきました。「 傻瓜向錢衝 」。
英語のタイトルは「Two Idiot」。

去年見て台湾でも話題~なにより台湾好きの日本人の間で話題~になったドキュメンタリー映画「湾生回家」の監督が撮った最新作。見に行った一番の理由は、知り合いの俳優さんが出ているから。タイトルが難しくて覚えられないので、映画館の窓口で「さーぐわシェマシェマダ」(シェマシェマダっていうのは、なんとかかんとか みたいな云いかた)って言って買いました。ちゃんと買えてよかった。

お馬鹿な映画と聞いていたんですが、意外と感動させられ、最後泣きそうになりました。ストーリーはひょんなことから借金取り立て屋の下っ端になった情けない男二人のドタバタ物語。これ、台湾で大ヒットした「海角七号」より面白い。と個人的には思いました。(へたな日本語が出てこないから入り込めたのかもしれない)

人物の描かれ方がベタなんだけどハッキリくっきりしていてよかった。海角七号にも出てた歌手の小應がパワーアップしててすごく良かった。 小應は今の台湾映画界で代わりのいない地位を築きつつあるんじゃないかな?小ネタ的に面白かったのは、 小應の持ち歌「轉吧!七彩霓虹燈」をカラオケで本人に歌わせてたシーン。観客がニヤリとする場面ですね。ちなみに「海角七号」でもこの歌は登場してて、その時は小應のセリフのバックで歌われてました。

映画のラストで台湾の海岸線の風景にかぶる主題歌が「亂彈阿翔」でびっくり、喜びました。何時聞いても渋くていい声だな~阿翔。ということで、わたし的にはパーフェクトな映画でした。

シネコンの割と小さなスクリーンで見たんですが、ほぼ満席でお客さんも楽しんでたみたい。台湾だと映画見ながらでもおしゃべりしたり携帯電話で話してたりするんですね。かな~り自由な感じでした。

最初のクレジットで、○○指導というのがたくさん出てきました。この監督さん、商業映画を初めて撮ったのかもしれません。

ヒットしてほしいな。
そして小應には、もっともっとビッグになってほしいなぁ。

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台湾の総統が代わった。6人目の総統が5/20に誕生した。そして最近の台湾で変わった事は…みんなが口々に言うのが、中国人旅行者が減った。5~6割減とか?そして、そのせいかどうかわからないけど今回はホステルでも話したのは韓国人、シンガポール人だった。

今回は短い旅程の割に、それなりに中国語を使ったと思います。

到着してすぐ、携帯電話のデータ通信を申し込むとき。更にコンサートの楽屋でバオブくんとマネージャーさんと。朝食で相席になったシンガポール人の男の子と。いつも行くエステの先生の家におじゃました時。など。初対面の人やそれほど親しくない人と長く話をする機会に恵まれました。

一番大変だったのは、エステのとき。
たまたま予約したい日が定休日だったので「自宅でならやってあげられるよ」、ということで今回はエステティシャンのご自宅まで行きました。そうしたら、ご両親に弟さんまでズラリ応接間に並んでいてお茶を出されておしゃべり。

おおお~。
中国語の面接みたい。
エステ終わってからは健康についての話題。お母さんも漢方の専門家らしく、健康用語、医学用語、など専門用語の飛び交う会話になった。ノート持っていけばよかった。いつもながらエステで癒やされるんだけど、アタマはフル回転。

今回ご自宅ということで手料理をごちそうになりました。面白い体験でした。そして、その食べ物についても気候と味付けの関係などプロの話になるのでした。写真は客家料理の「粄條」。下の写真は「紅豆薏仁(小豆とハトムギ)」のお汁粉です。台湾のはあまり甘くなくて豆の味がします。美味しい。

シンガポール人の男の子とは、朝ごはん会場が混んでて、相席したので少し話しました。たまたま日本に住んでいた人で、結構楽しく会話できました。台湾人と変わらない感じの中国語だったような気がした。多分ネイティブが聞けば違いがわかるんでしょうね。シンガポール人の台湾旅行で行く場所なんかの話をしたり。私が好きなシンガポールの歌台の話をしたり。家族で4泊5日で旅行に来て、淡水、台北101、中正紀念堂、夜市などに行ったらしい、日本人と変わらない観光コースですね。

台湾映画を見たのも中国語の勉強になりました。台湾語の分量も多くてそこは字幕頼みだったけど、ストーリーを理解するために集中して字幕の中国語を読み、台詞を聞きつ、なのでかなり濃密でした。

覚えた中国語は…
台北駅付近のことを「北車」というとか。
あれ?
ほかは思い出せない…ヤレヤレ。
とはいえ、毎回このくらいの分量を話していればかなり訓練になるだろうな~。いつもはこんなに話す機会がないんだよね。

台湾で中国語を話すと必ずお世辞でほめてくれて、どこで勉強したのか?って聞かれる。日本で。というと先生は中国人か台湾人かとかまで聞かれることも。台湾人の先生に習ったというと納得顔になる。そりゃそうでしょうね。発音から語彙に至るまで台湾の中国語だけ習ってますから。

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今回無茶なスケジュールながらも台湾に来た理由がこれです。動力火車というロックデュオのコンサート。昔からの知り合いで今はこのデュオのサポートをしているギタリストの振榮が、とにかくすごいから是非見に来て!!と熱烈推薦してくれました。(前記事「動力火車 台北公演」

台北アリーナは台湾の人気アーチストなら誰でもやりたいと思ってる会場でしょう。実力派の動力火車も初めての開催なんだって。(残念ながら私のボビーさんはここでソロコンサートやったことはありません)

振榮に買っておいてもらったチケットを受け取りに会場へ行くと、既にリハーサルが始まったので迎えの人をやるから表のコンビニで待ってての指示。日本から同じコンサートを見に来た友人のまゆみさんと合流して待ってると、かわいい女の子が迎えに来てくれてバックステージパスを貸してくれました。

パスを首から下げて楽屋口から侵入。リハーサルやってる音が聞こえます。台北アリーナには何度か来てますが楽屋の方へ来るのはもちろん初めて。楽屋は何部屋も並んでいて、それぞれ使う人が決まってるようです。私たちはバンドの楽屋(楽手休息室)に通されました。リハが始まってるのでほとんど人がいなかったんですが、見覚えのある人がいます。

あ!フィンガー奏法ギターの名手、保卜(BAOBU)君では??

この台湾行きの前にたまたま、夫がBAOBU君のギター弾いてるところをyoutubeで見つけて、「CD買ってきて欲しい」と頼まれていたのでした。
なんという巡り合わせ!


後日買った保卜のアルバム「BAOBU」

挨拶して話を聞くと、今日ゲストで出るんだそうな。ひゃー!ラッキーだ。「数年前に陳昇のコンサートにゲストで出た時見ましたよ~」とか話をしました。マネージャーさんに
動力火車とどういう知り合いですか?とか、失礼な質問をいろいろしたけど、外人だから許してね。マネージャーさんもどういう知り合いがわからないと言ってたけど、原住民ミュージシャン同士、いろいろ縁があるらしい。みんなパイワン族だし。

ギタリストさんからリハ見においで~とメールが入り、ばおぶのマネージャーさんに案内してもらって客席へ。

やってるやってる!

サウンドチェックや照明チェックや色々やってるのを最前列に座って見てたら、ステージ奥の方に何やらオーラのある女性がいる。あの雰囲気はゲストかな?むむ、アーメイ(張恵妹)に似てるんじゃ?まさか、アーメイがゲストなの?だとしたら嬉しすぎるんですけど…

そして歌い始めました。
やっぱりアーメイだ!!

彼女は自分の登場の仕方、トークの流れ、立ち位置など細かに何度も確認してました。やっぱり人柄があらわれるな~。真面目で気配りの人。アーメイがリハにいる時、客席の関係者が一気に増えました。みんな見たいのね…ふふふ。

リハが一段落し休憩になったので、ステージから降りてきた振榮からチケットを受け取り、一度会場を出て宿にチェックインしに戻りました。

「コンサート入場するときも連絡くれれば楽屋から入れてあげる。外で並ぶと大変だからね」と言ってもらったので、7時ごろ台北アリーナに戻り、再度楽屋に回りました。みんな衣装に着替えててさっきとは雰囲気が違います。昼間コンビにまで迎えに来てくれた人たちはストリングスの皆さんでした。関係者に顔見知りがいたのでおしゃべりしながら開演を待ちます。そろそろ時間となると、楽屋前の廊下に出演者が勢揃いし円陣を組みます。そして、キリスト教徒の原住民アーチストだからでしょう、お祈りが始まりました。パイワン語と思われます。漢民族のアーチストなら、線香持って拝拝バイバイする場面なのかな。興味深かったです。

楽屋でのあれこれは写真は遠慮しました。撮りたかったけど。

さあ、開演です。
客席へ向かいましょう。

ライブレポは得意じゃないので、省略。めっちゃロックでストレートで楽しいライブでした。お客さんたち大合唱でいい感じでした。アーメイが登場した時はアリーナが壊れるかというくらいの歓声が上がってました。スーパースターですね。

コンサートの内容を紹介してる新聞記事
動力火車攻蛋 阿妹幫腔騷尬舞

コンサートの終了時間がおして15万元の罰金が課されたらしいです。確かに終わったの夜11時過ぎてた。で、二人はゲストのアーメイがしゃべりすぎたからアーメイに罰金払ってもらおうと言ったとか(笑)

さて、またかとお思いでしょうがまた台湾へ行きます。
今回はなんと2週連続で行くことになっています。
それぞれの週末に台北アリーナで開催されるコンサートを見るのが目的です。

第一弾は一人旅。
コストを安く抑えるため、格安航空会社利用でホステル泊です。

自宅は羽田空港の近くなのですが、成田から出発。
バニラエアです。バニラエアのサイトを見ると機内持ち込み手荷物サイズが、私の持ってるスーツケースと微妙に違っているのでスーツケースはやめときます。多分、大丈夫だと思うけどルールはルールですからね。
スーツケースにジョイントして使えるようにということで買っておいたサブバッグに全部収まったので、それで行きます。コンパクトな荷物はホント楽です。
電子機器関連をもたなければ相当軽くなるんだけど、今のところ、そのへんは手放せず。重い充電池などをいろいろ携行します。

成田の第三ターミナルは、コンパクトで機能的で、ターミナルビル内は歩く距離も少ないし、カジュアルな雰囲気も好きです。これが羽田にあればな~。


バニラエアは事前のwebチェックインなど出来ないのですが、空港の自動チェックイン機で簡単に手続きできます。(帰り桃園空港ではカウンターでのチェックインでした)

朝ごはんに長崎チャンポンリンガーハットの皿うどんをたべました。
第三ターミナルは食事も安く上げられるのがいいですね。

これは朝ごはん用のミニサイズ480円。コーヒーはコンビニみたいにカップをもらって自分で淹れるタイプ150円。

ゲートから飛行機へはバスで向かいます。天気が良くて、気持ちいいです。雨の日はちょっと嫌でしょうね~。階段も多いです。(桃園空港ではボーディングブリッジが使えて楽です)

今回の飛行機の客層は若者が多く、グループでキャッキャッしてる人たちに囲まれて機内へ。修学旅行みたいで楽しい雰囲気。みんなガイドブックなどを広げてわくわくしてる感じが可愛い。私の左隣は若いカップルで、ここへ行こうあそこへ行こうと、楽しそうに相談してる。右隣は一人旅の男の子。ガイドブックの研究に余念がない様子。みんなにどんな旅程なのか一人ひとり聞きたいな~。周りの人が持っているガイドブックをちらちら見ると、知らない本がたくさんある。たくさんの種類のガイドブックで台湾が紹介されて嬉しいですね。

バニラの機内であれ?と思ったのが、離陸前の安全装置の説明が日本語と英語だったことです。中国語はないのかしら?台湾便なのに。

台湾到着。


台北駅へ向かうバスは10分おきにでていますが、この行列です。並びました。台北駅まで125元です。

最近ネットで「文庫川柳」とか言うのがちょっと流行ってるらしい。どういうなのかな?と、のぞいてみると、手持ちの文庫本のタイトルを何冊か並べて、川柳に見立てるというもののようだ。早速本棚の前で、あーでもないこーでもないとやってみた。
で、何とか整ったのが、この2つ。


そんなバカな!
硝子戸の中
11人いる!

 ※「硝子戸」の付いた食器棚を思い浮かべてください(笑)

そんなバカな!でもうひとつ

そんなバカな!
老後のお金
西郷札

 ※「さいごうさつ」って読んでくださいね。西南戦争の時に西郷軍が出した軍票のことですよ。

去年の夏から、どんどん手元の本を処分しているので、なかなかできませんでした。いま文庫本100冊もないかも。今月も処分したんですが、ここに寄贈しました。


熊本大学古本募金

古本を売ったお金を大学に寄付するというもので、全国の国立大学に寄付できます。
ご家庭にある本をまとめて段ボール箱に入れて、連絡するとクロネコさんが集荷に来てくれます。金額的には微々たるものなんですけどね。家の片づけなどされる際にはどうぞご利用ください。


★きょうから台湾に新しい総統が誕生ですね。日台友好がさらに深まることを期待しています。

さて、台湾旅行の準備です。自分のための荷物準備メモ。
台湾旅行 季節は夏 LCC利用(荷物預けない) 一人旅 ホステル泊 2泊3日
スマホ/iPad/ガラケー
充電池/充電ケーブル/イヤホン
タオル×3(シャワー用と枕カバー用)
手ぬぐい×1(ハンカチ兼用)
Tシャツ2枚/羽織るもの1枚
ボトム2枚
寝巻1組
下着2泊分
傘or合羽 /洗面用具/化粧品
ガイドブック的なもの1冊
パスポート/交通カード/クレジットカード/キャッシュカード

こんな感じでいいかな?

旅が終わって、使わなかったものは・・・
・手ぬぐい
・ガイドブック   でした。


今週の土曜日、台北アリーナで「動力火車」のコンサートがあります。
世界ツアーの一環らしい。
「動力火車」といえば、私が台湾に興味を持ち始めた1997年にデビューしたロックデュオです。台湾原住民のパイワン族の男性二人組。当時、台湾の音楽に何でも興味があったので、テレビの音楽番組なんかでかかるものを聴いてたし、実は一度ライブも見ています。1997年末の台北市政府前で行われた年越しコンサートに出てきたような気がする。

パワフルな歌声、男声ユニゾン、ハーモニーもいい。
また音楽的には、ストレートなロックなのもいい。

そんなに熱心に聴いてきたわけではないのですが、今週末のこのコンサートに行ってきます。というのも、97年の初台湾旅行で知り合ったギタリストのおにーさんが、いまこのデュオのバックでギターを弾いていて、「すごいからぜひ見に来て!」と熱烈推薦を受けたので、出かけることにしたのです。
彼らは最近、中国大陸でも大変人気があるようで、その他東南アジアでもアメリカやヨーロッパでも公演しているみたい。すごいなぁ‥。

予習のために古いライブのCDを引っ張り出して聞いてみましたが、この人たちの芸風なのか、ほかの人のヒット曲をロックにアレンジして歌うのが多いみたいですね。
だとすると、あまりよく知らなくても楽しめるかな?


ライブアルバム2枚組(1998年)

この18年前のライブでも、張惠妹,哈林,黃品源,王菲何かのヒット曲を歌っています。

2016年4月15日(金)
中野 劇場MOMO

都市開発の進む東京下町。
その片隅にある、今にも傾きそうな古本屋兼下宿屋「桃山荘」に、ある日突然、新しい入居者がやって来た。彼らはある人との約束を果たすためにここにやって来たというのだが・・・その日を境に、桃山荘では何故か次々と事件が起きる。将来は?仕事は?夢は?家族は?
ちょっと変わった住人達に巻き起こる、笑って泣けるハートウォーミングファンタジー!
この春東京印が送る、夢に真っ直ぐ向き合えなくなった全ての人へ
『夢を、想いを、意志を・・・繋ぐ心が力になる!!』
大切な人へ届けたいものはありますか……?

東京印公式サイト

ちょっと前の話になりますが、また見に行ってきました。
東京印さんの舞台は毎回毎回見ています。
楽しくて元気になります。割とパターンはあるのだけど、これだけシリーズになってくると寅さん映画的な楽しみ方に近くなりますね。


ロビーの花。


完売ですよ!

チケットは大体毎回完売になります。今回は4200円。舞台の質から言ったら、もっと大きなところでもう少しチケット高くてもいいんじゃないかと思いますが、いろいろ難しいところもあるんでしょうね。

役者さんたちは、コアな人たちは固定していますが、客演というか、毎回新しい人がいたりして楽しいですね。この辺が劇団とは違うところなのかな?あまりその世界のことを知らないので何とも言えませんが。

日向、安藤、清水、安芸といったおなじみの面々は、役柄もあてがきっぽいテイストで、役名は毎回違うものの、同じようなキャラを演じているのですが、今回清水さんの演技は初めて見るもので楽しかった!
また次回も楽しませてくださいね。


台湾の大使館にあたる代表処の施設、台湾文化センターで映画の上映会があったので行ってきました。この台湾文化センターはいろいろな興味深いイベントを無料で開催しています。今回は、台湾で数年前に大ヒットした映画「あの頃、君を追いかけた」の上映と、台湾に詳しい江口洋子さんのお話を聞く会です。定員100人事前申し込み制。一ヶ月前の受付開始日に申し込みました。

知った顔がいるかな?と思いましたが、最近はこういうイベントに行ってもなかなか知り合いに会うことは少なくなりました。それだけ台湾好きの人口が増えたんでしょうし、世代交代的なこともあるのかもしれませんね。

会議室を大きくしたような部屋に100人入れてプロジェクターで上映する形なので、映画鑑賞としては理想に程遠いものです。何しろ字幕が前の人の頭で見えないんですから。(今後このイベントに出席するときは、整理券を早めにもらった方がいいですね)でも無料ですし、文句は言えないかな。トークショーは興味深く内容も濃かった。

映画は、ずばり青春映画です。
監督は30代前半の若い小説家で、初監督作だとか。小説家としては絶大な人気がある人らしいですが、映画は素人、その素人が作った、しかも出てくる人たちも、ほぼ新人というフレッシュな映画だそうです。それが大ヒットしたんだからすごいですね。台湾映画で歴代興行収入4位の作品だとか。

公式サイト(日本語)
原題:那些年,我們一起追的女孩
監督 ギデンズ・コー(九把刀)
製作総指揮 アンジー・チャイ(柴智屏)
出演者 クー・チェンドン(柯震東)
 ミシェル・チェン(陳妍希)
 スティーブン・ハオ(郝劭文)
 ジュアン・ハオチュエン(荘濠全)
 イエン・ションユー(鄢勝宇)
 ツァイ・チャンシエン(蔡昌憲)
 フー・チアウェイ(胡家瑋)

舞台は1994年の彰化の高校。
台湾の90年代というと、私が台湾に行き始めたころと重なります。だから見ていてとても懐かしい。当時、女の子たちは誰もヘアカラーなどしておらず、みんな真っ黒の髪をしていました。日本ではルーズソックスなどが流行ってましたが、台湾では制服を着崩すような子供はあまり見かけなかった。日本とは違うな~と感じたものでした。日本と比べるなら、むしろ80年代に10代を過ごした私の世代に近いと思います。学生寮に電話がなくて、共用電話に列をつくる学生たちというのも、自分の学生時代を思い出して懐かしい。(これ、年末に見たフランス映画「あの頃エッフェル塔の下で」の時も感じた)

ケータイの普及。
誰しも聞き覚えのある着信音。
そして921の台湾大地震(1999年)の描写。
拝むように携帯電話の電波を探すポーズ(昔ほんとに皆あれやってた!)
ほんのちょっと前のことだけど、もう今では見なくなった風景。

それに、初恋の実らない感じ。
大学受験の失敗。
え?そんな理由で?っていうことで別れて行ってしまう彼と彼女。
この辺は、多分台湾に限らず割と普遍的なのかもしれないですね。

トークショーの台湾でヒットする映画の要素についての話はなかなか興味深かった。
台湾はメディアのプロモーション等でヒットが形作られるということがあまりないらしい。
いわゆる「口コミ」の力が大きく作用するそうだ。

今でも記録をもっている「海角七号」
あの大ヒットは誰も予想せず驚いていた記憶があります。監督は当時やはり新人同様だった。(エドワードヤンの弟子ではあったけど)私の周りの台湾人も何度も見ていたから、ヒットしてるのは間違いないと感じたのだけど。でも自分で見に行って、「え?これそんなにすごい作品か?」と思ったのが正直なところだった。役者はみんな素人だったし・・・。ツッコミどころが多かった。でも台湾語、日本時代への視点など、熟成されてきつつあった台湾人のアイデンティティーを揺さぶるものがあったのだろうし、やっぱり音楽映画はいいものだ。

この「あの頃、君を追いかけた」も、90年代という、たった20年前だけど、今とはかなり違う台湾の生活が見る人に懐かしさを覚えさせただろうし、やっぱり青春、初恋映画は強い。って思いました。

それと、「海角七号」も「あの頃、君を追いかけた」もギャグのセンスというか、笑いのポイントが独特で日本人から見るとついていけない・・と思うようなものでも、台湾の人にはむしろそういうのが歓迎されるところがあるのかもなぁと思った。

台湾映画、そんなに見てるわけじゃないから、ただの感想ですけども。

前回1964年の航空写真を見ましたが、ほぼ同じエリアの1982年の写真を見てみましょう。
撮影日:1982年5月22日。
18年間の変化がよくわかると思います。

1964年のものより低空での写真なので、別窓で画像だけを表示させれば、拡大したものがご覧になれます。ご興味のある方はどうぞ。

1964年と同じものにアルファベットを振りました。

A:自衛隊の整備工場
1964年と何ら変わりないですね。
でもその東側の区画が、畑から自衛隊の敷地に変わったように見えます。
弾薬庫と認識していますが、今もそうなのかな?

B:新外
新外の集落は、様変わりしました。
まさに私が住んでいたころです。私の住んでいたアパートもあります。
竹藪の面積が減り、住宅が増えて集落の切れ目が曖昧です。それでも南側の集落(「山ノ神」といってました。)との境の田んぼはまだ健在ですね。

C:健軍飛行場
飛行場は移転してしまっていて、周りは急速に宅地化が進んでいます。
そもそも飛行場の移転は、大型機のための滑走路が足りないことと、周りの宅地化がすすんで騒音問題があったことなのでした。
ターミナルビルがあったところには大学がやってきました。
このころは熊本県立女子大ですね。

D:飛行場への誘導路
ここも土地割は鮮明に残っているものの、宅地化が進んでいます。
もともとこの辺の土地はちょっとした丘陵地になっていたため、この誘導路だけ平らにならしてあったから宅地になり易かったものと思われます。


E:尾ノ上小学校

周りに家も立ち並び、小学校の校舎も増え学校らしくなっていますね。南側には「錦ケ丘公園」も整備されました。健軍川沿いに住宅が増えてます。

F:四時軒
この写真には載っていません。

G:健軍神社
周りの木立が減ったので、神社の場所がくっきり分かり易くなりました。
小学校や中学校の写生の時間にこの神社の巨木の絵をかきました。

H:佐土原
まだ周りに田畑が残るものの、だいぶまわりの宅地化がすすんでいます。
自衛隊のところから東ににょきっと太い道路ができています。これがのちの第二空港線です。

I:現東稜高校
茶業試験場

J:健軍飛行場滑走路跡
滑走路はつぶされ、そのあとに、日赤病院や免許センターなどができました。「J」の文字のところにあるのが免許センターですね。拡大図で見ると試験場のコースが見えます。今はどこに移転したんでしょうね。

K:錦ケ丘中学校
1964年には畑しかなかった錦ケ丘。ちゃんと宅地として区画され、住宅も増え学校ができてます。82年4月には、生徒数がどんどん増大してきて、新しく東町中学校が開校したのですが、秋に校舎ができるまで、錦ケ丘中に共存していたのです。運動場にプレハブ校舎がたくさん並んでいます。この時期は運動会もできないので、水前寺競技場で「陸上記録会」というものが行われていました。今はちゃんと学校で運動会をやっているようですね。

L:第二高校
1964年ではただののっぱらだったところに県立第二高校が移転してきたのは1968年だそうです。この健軍三菱の跡地の南半分は、東町団地というアパート群と、小中高校、聾盲学校、税務署、消防署、警察署、などなど公共の施設の立ち並ぶエリアとなりました。

M:健軍商店街
昭和30年代から発展してきた商店街。
このころまではまだアーケードはできてないようですね。

夫がチケットを買ってくれて、二人で見に行きました。
会場のすみだトリフォニーホールはJR錦糸町駅前にあります。
職場から錦糸町に向かうには、定時まで働いていると間に合わないので、またもや早退しました(最近早退ばっかりしてる‥)

すみだトリフォニーホールに来るのは初めてですが、素敵なコンサートホールでした。
クラシックな雰囲気。パイプオルガンもある。
シューズボックス型で音響もよさそう。
家の近くにあればなぁ~。

さて、演奏会。
まずはじめに、熊本地震による犠牲者追悼のためにバッハの「G線上のアリア」が演奏されました。
プログラムに注意書きがはさんであります。
「拍手しないようにお願いします」
去年、水戸で聴いたときにもこの追悼曲の演奏があったのですが、この形式好きです。

演奏は、1~2音聞こえたあたりから、なぜか涙が出ました。
何か理由はわかりません。
他の曲ではそのようなことはなかったので、やはり追悼のメッセージが届いたのかもしれないと思ってみたり。ただの疲れ目だったかも?

その後、いちど楽団員も退場して、仕切り直して演奏会が始まりました。

小澤征爾&新日本フィルハーモニー交響楽団 特別演奏会2016
 グリーグ作曲  組曲「ホルベアの時代より」 op.40 (指揮:小澤征爾)
 モーツァルト作曲  セレナード第12番ハ短調 K.388 「ナハトムジーク」(指揮者なし)
 ベートーヴェン作曲  劇音楽「エグモント」序曲 op.84 (指揮:小澤征爾)

2番目のモーツアルトの「ナハトムジク」は、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各2台計8つの楽器による管合奏で新鮮でした。管楽器の皆さんは、音を出してない時間もいろいろやること多くて忙しいんだなと思いました。

最後の「エグモント」序曲。
これ、短い曲ですが圧巻でした。
小澤征爾さんの身体から音が出ているように感じました。
あれはすごいな~。何なんだろう。

終演後、ホールの廊下を出口に向かって歩いていたら、人波に逆らってくる人たちとすれ違いました。
お顔を見て、あ!
小澤征爾氏の弟さんだ。
あれ次にきたのは水戸室内にいる友人だ。
そして、この人も顔知ってる…あ、わかった久石譲さんだ!

楽屋に向かわれていたんですね。
さすがに久石さんは有名人で、周りの人がざわざわしてました。

ロビーに出ると、楽団員の方々が募金箱をかかえて、熊本地震への義捐金のよびかけをしていました。
有難いことですね。
少し募金しました。
「熊本県 ふるさと納税 義援金口」というところに送ってくれるそうです。

帰りに錦糸町で夕食をとりました。
ここのところ読んでいる「半七捕物帳」の舞台に近づく感じもあり、ワクワク。
まるっきり江戸の雰囲気はないですが、やはり「土地」の歴史が持つ力は感じるような気がします。


地震とは関係ない記事シリーズになりつつあります。

航空写真を見始めたら止まらなくなりました。
時代も場所もあっちこっちをさまよって楽しみます。

今回降り立ったのは、1947年11月1日の水前寺駅上空です。
写真の下に横に伸びるのが豊肥本線。
プラットホームが白く見えるのが水前寺駅です。

写真の中央の四角い部分が今の県立熊本高校。
グランドの下に四角く見えるのが、当時から50mコースを備えていたプールです。
1945年7月1日の熊本大空襲でしょうか、校舎などは全焼してしまったそうです。
校史に「図書館を残して全焼」とあるので、きっと右隅に四角く見えるのが当時の図書館なのではないかと思います。全焼したとはいっても、グランドや校舎の配置などは私が高校生だった頃と同じなので、同じように再建したのでしょうね。

熊高の西隣の今の開新高校は校舎も残っているように見えますし、熊高と水前寺駅の間にある民家も見えますが、焼け残ったのか、再建が早かったのか、どちらなのでしょうね。

8


今回の地震のため、熊本の地図をいつも以上に良く眺めました。
また、帰省した時に車で走ったりして自分の育ったところをよくよく眺めてみると、新しい道ができていたり学校ができていたり、マンションがどんどん建っていたりして、自分の知ってる町とはかなり変わってきているというのを実感しました。

自分の歳を考えれば当然なのですが。

国土地理院のホームページに昔の航空写真を見るサービスがあります。
そこで、今回走ってきた範囲の航空写真を眺めていました。興味深い(とはいっても、自分にとってだけですけど)ことがいろいろ読み取れたので、ここに書いておこうと思います。

取り出したのは、1964年(昭和39年)の航空写真です。
私の生まれる前ですね。さらに私が熊本市に引っ越してくるのは、昭和50年代なので、私の知ってるずっと前の様子ですが、今とのあまりの違いに興味をひかれます。現在この範囲の航空写真を見れば、自衛隊などをのぞいてほとんどが住宅地です。このころは、ほとんどが畑地ですね。

A:健軍の自衛隊

もともと戦時中に三菱重工の戦闘機工場として用地買収され、熊本市の東の端にこの長四角の土地が造成されました。
航空写真ではわかりにくいですが、Aの文字のそばにあるのは戦時中から使われている(今も!)ギザギザ屋根の工場です。

B:新外(しんほか)

私の住んでいた家があった場所です(この写真ではまだ畑)。
今はどこまでも続く住宅地の一部ですが、江戸時代から(?)の集落のようです。
新外という地名は、もともと「たけみや(健軍/竹宮)村」というところがあり、本村のほかに下村、外村、西外村、新外村と呼んだのがいわれらしいのですが、いまは「新外」の地名以外は残っていないようです。(http://www.wakabauu.net/rekisi/takemiya1.pdf

先日、食事をした「泉樹庵」もこの新外集落にあります。
もこもこ見えるのは竹林かと思います。
私が子供の頃は、馬を飼っている家もありました。

C:健軍飛行場

特攻隊機も飛び立った、健軍飛行場です。
三菱の戦闘機工場で作った飛行機を飛ばせるためにつくられた飛行場です。
Dのところに他と区画の違う部分がありますが、三菱工場から空港まで飛行機を運ぶ道路だったそうで、今も土地割に残っています。

幼稚園の頃に遠足で空港見学に行った写真が残っています。
1971年まで使われたそうです(そのあと今の阿蘇くまもと空港の場所に移転)

Cの部分は空港のターミナルビルですが、今は熊本県立大学ですね。
滑走路の部分に、熊本赤十字病院があります。
昔は免許センターとかもありました。
この滑走路の長さの分だけ、まっすぐで道幅の広い立派な道路が突如現れるので、何だろうなぁと高校生くらいの頃は思っていました。いまは、国体道路という大きな道路が東西に走り、都心まで続いているので滑走路だったとは気がつきにくいでしょうね。
空港の周り、今の月出、長嶺のあたりは全く家がありません。
長嶺あたりのこの30年の発展はほんとにすごいな~と思います。

E:尾ノ上小学校

DからEにかけて斜めに流れているのが健軍川です。
そしてEの場所にポツンとあるのが1964年に開校したばかりの、尾ノ上小学校、私の母校です。
小学校と健軍川を挟んで対岸にある錦ケ丘中学校(こちらも私の母校)は影も形もありません。
周りは畑しかないわけですから、まだ学校はいりませんよね。

F:四時軒

沼山津にある秋津川のほとりの四時軒、横居小楠の旧居です。
今回の地震ではかなりの被害を受けてしまったようで、私の実家からすぐの場所にあるのですが、行こう行こうと思いながら行かないうちにこんなことになり、とても残念です。(四時軒被災 熊本震災4)この写真では切れてしまっていますが、秋津沼山津のあたりには古くから家も多く、横居小楠がいたのも頷けます。

Fの文字のところに、白くて丸いものが見えますが、浄化センターですね。今もあります。熊本地震で、うちの実家のあたりに届いた救援物資はこの浄化センターで仕分けされて運ばれたらしいです。

G:健軍神社

こんもり木立が見えるあたりが健軍神社です。
「健軍」の中心地ですね。
写真ではわかりにくいですが、西の方からまっすぐに参道が続いています。
戦時中、三菱の工場の周りには何もなく、空襲があると走って健軍神社まで逃げ込んだという記録があるそうです。かなり距離があると思いますけどね。


H:佐土原(さどわら)

佐土原の集落も、古くからあるようです。
いまは第二空港線が通り、スーパー銭湯の「一休」なんかがあるあたりですね。
この佐土原から北側に榎団地とかがあり、南側に桜木の住宅が広がります。

I:(現)東稜高校

ちょっと特徴的な区画になっています。畑なんですが一枚一枚が小さい。
何だろうと思って、今の地図を見ると同じ形ですが高校になっていました。
私が熊本を離れてからできた新しい高校です。

以前は何だった???
一生懸命考えて思い出しました。「茶業試験場」です。
そういえば、バスルートに「茶業試験場行き」というのがありました。
その跡地に高校ができたんですね。

茶業試験場は前身が昭和8年にここにでき、昭和23年に「茶業試験場」と名称変更したようです。そして平成元年に御船町に移転したようですね。東稜高校は昭和62年開校。あれれ??

その他あれこれ

健軍自衛隊~東町団地の大きな長方形の南西に広がる住宅地が、健軍商店街を中心にする若葉~泉が丘の住宅地です。
若葉小、泉ヶ丘小、東野中、などはしっかり見えますね。
このあたりも戦時中に三菱の社宅や寮として宅地化がすすめられたのが始まりのようです。
1956年(昭和31年)の航空写真では、健軍商店街一体が社宅だったのがよくわかります。

市電の走る電車通り(県道熊本高森線)が秋津新町のあたりで急に細くなっています。
ここから益城に続く道は、まだ整備されていないようですね。もちろん高速道路なんて計画しかなかったでしょうね、計画すらなかったかも?

自衛隊の北の端から西に延びる道路は工場のための引き込み線の跡ですね。
この写真だとよくわかりませんが、それより古い米軍による写真だとわかります。

京塚のバス停のあたりの道路が変に交錯するのが、この引込線のせいだったことが理解できます。
道路と鉄道だと思えば納得です。
一方が鉄道だったことを知らないと、同じような道が2本絡み合いながら伸びるのが理解しにくいです。
高校のころ新外から水前寺まで、この引込線の跡をまっすぐ自転車で飛ばしてました。
京塚の南に広がる住宅(京塚本町)も画一的ですね。やっぱり三菱寮なのかな?

このシリーズまたやるかも。
戦前の航空写真もあったら見てみたいですね。

もう少し時代が下った、まさに自分が暮らしていたころの航空写真も見てみようかな。

健軍三菱についての参考記事
女子挺身隊 のこと その5

今回の帰省で、父と話をしているときに「お前は半七捕り物帳を読んだことがあるか?」という話になった。
名前は聞いたことがあるけれど読んだことはないというと、「実は半七は日本のシャーロックホームズなのだ」という。

え?どういうこと?

「青空文庫にあるけん、読んでみるたい。」
と言われ、さらに「お父さんも以前全部青空文庫のをプリントアウトして読んだ。それが残っとるかもしれん」とごそごそ探して、「津の国屋」という一篇をプリントアウトしたものを渡してくれた。


帰りの飛行機で読んだ。
幽霊が出てくる怪談風味のおはなし。
コワイの苦手だよ~と思いつつも、語り口が非常にスッキリ読みやすく、テンポも良くて、どんどん先へ読み進めさせる。結局、熊本から東京までの機内で読み終わった。


感想、ものすごく面白かった!

大正時代に書かれたらしいが、今の小説と感覚的には全く違いがない。
古さを感じないというのは、人間の普遍的なものを描いているということか?
文章が分かり易くシンプルなところはコナンドイルにも通じると思う。
必要なことだけすっきり書いてて、前へすすんで行くと、いつの間にか読者は物語にどっぷりつかっている。そんな文章、憧れるなぁ。

ちょっと調べてみると、作者の岡本綺堂は明治5年の生まれで、漢文や英語を能くし、新歌舞伎なども評判だったらしい。ある時シャーロックホームズを原語で読んで感銘を受け、探偵小説を江戸を舞台に書いてみようと思ったそうだ。そして誕生したのが「半七捕り物帳」シリーズ。コナンドイルのホームズものと同様、60数篇があり、「日本の探偵小説の嚆矢」とされているとか。

早速、帰宅してから青空文庫で第一作目の「お文の魂」を読んだ。
これも幽霊の話で怪談風味、しかも前半半七が全然出てこない・・・・でも、最後まで読むと納得の面白さだったのでした。半七があんまり活躍しないで事件が解決するところなんか、すごくホームズっぽい。探偵の謎解きより、出来事の面白さ、奇怪さ、に心奪われていくのがホームズ風。

わ~い、これからちょっとずつ読もう。
江戸風俗の考証なんかもばっちりで、文体も読みやすく、シャーロック・ホームズときては、期待がいや増しますね。まだ読んだことのない話ばかり60編以上あるなんて、幸せすぎる!

父が紹介してくれる本には、時々大鉱脈があるなぁ。
子どもの頃のシャーロックホームズ、大人になってからの宮本常一、イザベラバード、そして今度は半七捕り物帳。

2

食事の後、両親の提案で合志の熊本県農業公園カントリーパークにあるバラ園に行ってみることにしました。

父はバラの写真を撮りたいようです。

農業公園というところ、私は初体験です。
多分、私が熊本を出た後にできた施設でしょう。
ここも、地震のため休園していたようですが、5/1から再開したそうです。

県の農業関係の施設の中にある公園で、中に入ると広々とした芝生が広がり、牛などの動物もいたり、子供向けの遊具も充実していて、地震の続く中ではありますが(だからこそかな?)家族連れでそこそこにぎわっていました。

バラ園も見事です。
入り口で、ばらは2分咲きと書いてありましたが、何のなんの、結構咲いていました。
急に暑くなったから咲き進んだのかもしれませんね。

例年は「バラ祭り」というイベントがあるようですが、今年は中止になっていました。
見ごろのバラ園にしては人も少なくゆっくり鑑賞することができました。
暑すぎましたが・・・。

この広い場所も地震の被害と無縁ではいられなくて、大きな建物に立ち入り禁止で、パーゴラ等も一部は立ち入り禁止で黄色いテープが張られていました。

バラの名前はいろいろあって面白いですね。

ベルばらにちなんだバラも植えられていました。
残念ながら、まだ花はあまり咲いてませんでしたけど。

カントリーパークは熊本市の北隣、合志(こうし)市にあります。
うちからは東バイパス~北バイパスを通って行きました。
もうどこも渋滞はなくスムーズです。
北バイパスを出たら、熊本電鉄(愛称:菊池電車)と並走します。
電車がやってきました!なんとくまモンラッピングカーです。
カワイイ!!!!
乗りたい!!

写真うまく撮れなかったんですが、駅に停車中のをパチリ。

そして気がつきました。
この電車に乗って熊本電波高専の文化祭に来たことがありました。
中学生の時でした。
友達のお兄さんが高専生だったんですね。
いまは熊本高専というのかな?

懐かしいです。

帰り道、北バイパス沿いに、1階部分が完全につぶれたマンションを見ました。
遠くから見た時は無傷に見えたのですが、そばまで行って驚きました。
一階部分がなくなっていました。
この形でつぶれているビルが何軒かありました。

今回の熊本滞在はわずか1泊。
前回のようにあせあせとはたらくことはせず、なにか気分の変わることをしようと思いました。私が働くと、母も一緒になって働くのでかえって疲れさせてしまうのでした。(私が働かなくても母は働いてる)

初日の夜は、母の手料理をいただきましたが、二日目のお昼は外食に出ました。

懐かしの母の混ぜご飯。

前回帰省した時に、昔住んでいた場所を見に行ったことを書きましたが、その近所に素敵な和食屋さんができていることを知りました。どうせ行くならそこにしよう。電話をかけると営業してますとのこと。予約して出かけました。

お店はここ。
泉樹庵
■住所/熊本県熊本市新外3丁目1-50
■TEL/096-285-6464 ■FAX/096-285-6411
■定休日/水曜日(祝日の場合は営業)

地元ではそれなりに有名らしく、母は友人と新年会を開いたことがあると言っていました。
父は初めて来たみたいです。
お店の人に話を聞くと、地震の後4/29から営業を再開したそうです。
新しい建物でしたが、やはり壁に亀裂など多少見受けられました。

ランチも2000円以上~というお店ですが、それなりに賑わっていました。
周りのテーブルも、似たような年恰好の家族連れ、漏れ聞こえる話から、東京などにいる家族が帰省しての食事会のようです。

母は食事の準備をしなくてもよいということもあり、とても喜んでくれましたが、父はあまり食べ物に興味がないたちなので、すごいご馳走を前にしても淡々としています。特に余所行きの気分ともならず、家にいるのと大して変わらない食事風景になりましたが、まぁよしとしましょう。

ここに住んでいたのは私が10歳の時から大学進学で家を出るまで。
両親は20年位前まで住んでいました。

この場所が以前なんだったかという話になり、空き地だったのでは?ということに話が落ち着きました。
そういえば、そうかも。
父が言うには、以前ここに住んでいた時に健軍川が氾濫して膝くらいまで水が来たことがあったそうです。その時、自動車を川沿いの駐車場からこの空き地に避難させた記憶があると。

  え??家の裏の健軍川が氾濫?そんな記憶ないけど・・・。

  じゃ、お前は家にいないときか。

調べてみたら、1988年だと分かりました。
5/3(ちょうどいまですね!)に熊本市東部から益城にかけて集中豪雨があり、健軍川が氾濫し、普段は高台のこの辺りが床上浸水した記録がありました。

その時、父は昼間テニスの試合をしていて、雨のため一中断・・・とおもってたらとんでもない雨になり、翌日にかけ、川が氾濫して、同じアパートの人も留守してて車を避難させなかった人の車は浸かってしまったとか。

そんな話を聴いたりしました。

このレストラン、なかなか手の込んだお料理を出してくれて、美味しかったのでした。
おススメです。



長年暮らした土地のこと、お店のお隣は同級生の家。
農家だったので、広い庭でバドミントンやったりしたな~。
その隣も同級生の家で建具屋さんで、カブトムシを飼うときなどのおがくずをもらいに行ってました。
懐かしい。訪ねていく勇気はなかったけど、元気にしてるかな。

地震後2回目の帰省では、私も両親もわりに平常に戻ったような気分で、過ごすことができた。というか、そのように過ごすように努めたともいえる。

テレビをつければ、地震情報、地震速報がこれでもかというくらいに頻繁に流れ、まだまだ震災のさなかにいることを思い知らされる。自宅の玄関には、緊急建物診断の「要注意」の黄色い紙が貼られており、近所を歩けば「危険」の赤い紙が貼られた建物も多く、それらのほとんどが手つかずで放置されている。家の中は少し片付いたとはいえ、食器棚に戻せない食器、本棚に戻せない本が床に置きっぱなしになっている。
風が吹けば、近所のブルーシートがはがれたり。ゴミ置き場に山積みの震災ゴミは一度収集に来たが、また山になってしまった。

それでも避難所や自主避難所になっていた学校の運動場の車はだいぶ減ったようだ。
学校も来週からの授業再開に向け、準備に入っているだろう。
避難所の集約も始まっているようだ。

スーパーやコンビニも営業しているところでは、何事もなかったように物が流通している。一方建物に被害があった店舗は閉まったまま。

頭の上を通過するヘリコプターの音はいくらか減ったようだ。
実家近くのライフラインは復旧したので、道路工事などもいったん落ち着いているように見える。
揺れは収まっていないものの、震災は新しい局面に入ったと感じる。
家に戻れない人たちの救済、仕事が始められない事業者の救済がこれからの課題だろう。
どれだけのお金がかかるのか。
一般人にできることは何なのか、これから情報を集めよう。
おそらく、嫌な話もこれからは耳に入ってくるだろうと思う。
いったん、命が助かったと胸をなでおろす時期が過ぎ、ストレスMAXのなか不満が噴き出すのは無理もないこと。

一方で、日常に戻れる人たちは日常に戻るべきだろう。
前のエントリーで、遠方にいる我々は気落ちすることなく元気に冷静に支援を!
と書いたが、被災地にあっても、そのことが必要なのではないかとGWの帰省で感じた。

熊本の人はみなそれぞれ震災によって傷つき疲れている。
特に、病人やハンディのある人は大変だろうと思う。
元気になれる人から元気になって、支援する側に回ることも大事だし、支援できなくても自立していくことだってとても大事なことだと思う。そして、その助けになるよう、遠方にいる自分は家族の支援をするところから。




一つ情報
避難所ごとに支援物資を直接送るプロジェクトが立ち上がっている模様。
これが欲しいというちょっとした物資を依頼に応じて送ることができるようだ。
私も実際に参加して送ってみた。
amazonから送ることができるので、とても簡単です。

必要な人に
必要な支援を
必要な分だけ
スマートサプライ

クリックして「支援対象一覧を見る」というボタンを押すと必要としている災害ごとに表示されます。

熊本地震関係を直接見るならこちらへ

熊本駅から市電に乗って健軍の実家に向かいます。
朝から嵐だったのが、雨は上がってきたみたいです。


熊本駅から市内中心部へ向かう市電の路線は熊本城下町の古い町を通ります。
街の名前で城下町の町人町だったことがわかりますね。
米屋町、魚屋町、紺屋町、大工町...
戦災でも焼け残った老舗などの建物も点在していたのですが、やはりこの地震では大きな被害があったようです。新しく建てられた鉄筋のビルが無傷に見えるのに対して、古い木造家屋には赤い危険の張り紙が痛々しい。

街の様子も見ていきたいと思い、辛島町で途中下車することにしました。


熊本交通センター付近は再開発中。話には聞いていましたが、実際来るのは初めて。景色が変わっています。交通センタービルや百貨店のビルが取り壊され、更地になっていたようで、そこに今回の地震のボランティアセンターが置かれていました。


夕方だったので、それほど人はいませんでしたが、連日受付以上の希望者があるようでした。
頭が下がります。

サンロード新市街へ。
アーケード内の店舗は多くが営業していましたが、建物に被害があるところも。
そして至るところに、「がんばろう」系のスローガンが。

サンロードにある、競輪の場外車券売り場が以前同様賑わっててなんだかホッとしました。


熊本一の繁華街~下通り。
ゴールデンウィークです。若者を中心にそれなりの人出がありました。

熊本随一の老舗デパート鶴屋は一部のみ営業とのことで、下通りに特設の食器市を開催してました。
この地震では家の実家もそうですが、熊本中の食器が割れまくったことでしょうから、食器市はいいですね。
しかもさすが鶴屋、ノリタケなどのブランドもの、山中塗りなどの高級品が特価で出ていました。買って帰りたかった…。

下通りは商店会で「がんばろう熊本」というスローガンを決めていたようで、どこの店舗にも店頭に張り出されていました。復興セール!なんて打ち出してるお店もあったり、たくましいなぁと思いました。
マクドナルドや老舗中華料理店の紅蘭亭などは建物に被害が大きいということで、開いていませんでした。

下通りの出口まで歩き、そこから熊本城の方へ歩いてみました。
熊本城は報道にある通り被害が大きく入場できませんが、見えるところまで・・・と思って。

厩橋から右の方へ、稲荷神社のところから見える石垣が大きく崩れていました。

そこから見えるホテルキャッスル(熊本では老舗ホテル)の壁も大きく損傷しているように見えました。
電車通りまで戻り、今度は堀に沿って西へ少し歩いてみました。熊本城が誇る美しい長塀も無残に倒壊してました。長塀はずいぶん前に市民から寄付を募って修復していました。きっと今度も美しくよみがえってくれることでしょう。時間はかかると思いますが。

驚いたのは、坪井川に沿った電車通りの歩道に亀裂が入り、でこぼこになっていたことです。
これまで歩いてきた道はどこもそんな風になってなかったのに。熊本城の石垣があんなに崩れたのも、ここの地盤に何か関係があったのかもしれません。

市役所前から市電に再び乗って、終点の健軍まで。
途中、水前寺公園の出水神社の鳥居が柱だけになっているのを見ました。

東バイパスを過ぎるとブルーシートが再び増えるように思いました。

新幹線さくらは熊本止まり。
車窓からも、ブルーシートの屋根が見えました。上熊本あたりから地震の被害が感じられました。

熊本駅。
やはり、地震の営業で新幹線ホームのエスカレーターが使えず階段で出口へ。


巨大なくまモンの頭!
上野駅のパンダを思い出しますね。


くまモン駅長室なんてものも。中ではくまモン体操のビデオが流されていて、子供が二人踊ってました。


もう熊本駅にはそこかしこにくまモンがいます。そうでした。くまモンは九州新幹線関連のキャラクターとして誕生したんでした。熊本駅に多いのは当然ですね。

改札を出ると、熊本駅からの手書きのメッセージがありました。全国からの支援に感謝!という内容でした。
じーん。


ちょっとお土産物屋さんをのぞいてみましよう。


もう、「がんばるばい熊本」なんていうスローガンが。


くまモン駅長からのメッセージも!

二階に上がってガリレオっていう洋品店に行きました。くまモン柄のオリジナルシャツやバッグを売ってます。
トートバッグが可愛くて目移りしましたが、新作ですよという言葉に心動かされ、ジャージー素材のバッグを購入。それにくまモン柄の七分袖シャツも買いました。女性に人気とか。お店の人と少し地震の話をしました。こちらは住人ではないのに逆に心配されてしまった。


熊本駅正面。やっぱり「くまモン駅」って書いてある!

ここから市電に乗ります。

2

福岡の朝。よく寝ました。エアコンつけないで寝ちゃって暑かったけど。窓の外はすごい風、そして雨のよう。
ホテルの朝ごはんは9時半までとのことで、ぎりぎりに滑り込む。スープと野菜と卵の朝食。いつも食べないのに旅行中は食べる。

10時にチェックアウト。
外は嵐。
今日はどんたくの日なのに、出来るのかしらと心配になる。ホテルから駅までの濡れないルートを教えて貰い、天神駅から西新駅を目指します。

天神地下街って色使いや照明がおしゃれですね。ここに初めて来たのは18歳の時だったか、スゴイ都会だと思いました。東京を先に見てるのに、なぜそう思ったのかな??

西新というところは西南学院大とか修猷館高校などがあるみたい。商店街も賑わってていい感じですね。

元寇防塁跡なんていうの見に行きたい!今日は嵐だから、また今度。

今日の目的地は、 ぺぺ島田さん のアトリエ。猫の絵(だけじゃないけど)を描くアーチストです。音楽もやってる人。一度福岡にぺぺさんを訪ねたいと思ってたんです。


ぺぺさんのアトリエは西新の商店街から路地を入った素敵なカフェの二階にあります。大雨だったのでカフェの写真など撮るの断念しました。

ペべさんの製作中の絵がたくさん置いてあって、楽器もたくさんあって、すてきでした。香港で出た新作のCDを買ってきました。上の写真の真ん中の。香港フリンジクラブの上に猫が寝そべってるジャケットデザイン。

アトリエでおしゃべりしたあと、もうひとつの目的地、スリランカカレー屋さんへ向かいました。

いつも、ぺぺさんがここのカレーの写真をSNSにアップするので、洗脳されてしまっています。一度絶対行きたい!と思ってました。

大雨の中、でかけます。赤坂のけやき通りにあるヌワラエリヤという店です。
私は単にぺぺさんが好きなカレー屋さんとしか認識してなかったんですが、なんかすごい有名店らしいですね。建築家が作ったお店で、天井まで届く本棚に本がぎっしりだったり、とっても雰囲気の良いお店でした。

スリランカカレー。サラダとデザートと紅茶がついて1080円。

ここからぺぺさんとは別れて、私は博多駅へ向かいます。九州新幹線で熊本に帰るのです。
実家へのおみやげに「博多通りもん」を購入。意外と隣県のお土産品などは食べる機会少ないかも。私も食べたいし!

自動販売機が見つからず、みどりの窓口に並んで切符を買いました。直近のが指定席も買える列車だったので、指定を買ってみました。


大阪方面から乗り入れる号は、指定販売ありで、九州内だけを走る号は全席自由で運行らしいです。

九州新幹線に乗るの2回目。座り心地良くていいですね。

熊本までは40分間。あっという間です。

これは地震の前から予定していたGWの旅行です。

福岡一泊、熊本一泊。

仕事場を早退して、羽田へ。先々週よりもガラガラな空港です。時間帯によるんでしょうか??
羽田発福岡行きに乗ります。


熊本へ行く飛行機とは航路が違ってて新鮮です。山陰の海岸線を見ながらの空の旅。


福岡の海岸線も個性的ですね。


到着してすぐに地下鉄で街へ。福岡空港は日本の国際空港の中で最高に便利なところにあると思います。


祇園駅。
駅の地下道に自転車置き場が併設。初めて見ました、こう言うの。

これから、大学の恩師を囲んでの食事会です。(簡単に言うと飲み会)
福岡在住の同級生と先生の教え子さんなどが参加しました。先生が出演されてる福岡のラジオ番組の収録に合わせ実現した会でした。これからも時々やりましょうという話でした。


博多は食べ物美味しいですね。
幹事さんが飲み放題にしてくれてたので、焼酎を飲み過ぎました。
あは、いつものことです。

福岡在住の友人で先生のファンにも声をかけたら駆けつけてくれました。30年位前の先生の本を持参しててサインをもらってました!スゴイ。先生も喜んでくれました。

帰りはタクシーで先生をホテルまで送り、私も天神のホテルへ。
楽しい宴でした。


ホテルはレディースフロアにしてくれてました。嬉しいマッサージ機!

7

この4/30は、もともと高校の同窓会が熊本市で予定されていました。卒業以来初めてくらいの学年大同窓会です。私のところにもハガキで知らせが来たのですが、月末最終日は休めないので断念しました。

そこへ今度の地震です。
会場に予定されていたメルパルクも被災してて営業できないという連絡があったそうです。それでもみんなこんな時だから集まろう、中止にはしないぞ!ということで幹事さんたちが急遽新しい会場を探し出し、予定通り開催できました。

当初120人が参加予定で、結局90人に減ってしまったそうですが、それらの方は公務員だったりで仕事のため現場を離れられなかった人や、家族のケアで家を離れられなかった人、県外にいて熊本入りを断念した人などでした。むしろ県外から参加した人が目立ったみたい。私の世代は地元熊本にいれば、陣頭指揮を取るような責任ある立場でしょうからね。

さすが熊本人、飲みまくって3次会まであったとか!熊本の飲食店は1~2週間くらい休業を余儀なくされてましたから、90人の宴会は助けになったでしょうね!

今回は世の中も自粛自粛となっていないようで、ホッとしています。熊本を応援するのは義援金もそうですが、県産品の消費や県内での消費。大事ですよね。


その意図なのかどうか、実家から送られてきた、熊本ラーメン20食分!周りに配って熊本ラーメン宣伝します!