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来月、とっても久しぶりに緑島へ行ってきます。12年ぶりです。
緑島というのは台湾東部、台東の沖合に浮かぶ小さな島です。サンゴ礁の島でダイビングやシュノーケリングが盛ん。近年ものすごく人気があるらしい。このまえ、NHKの旅番組「二度目の台湾」でも取り上げられていましたね。

このブログを始めた頃に写真をあげてます
初めて行ったのは2000年。
陳昇が緑島でコンサートをやるというので行きました。当時はファン仲間がみな若くて、何かあると集まってワイワイやってる頃で、とりあえず台北までたどり着けば、あとは連れて行ってもらえるというような団体旅行でした。その頃は緑島もそれほど観光地化が進んでいなくてまだまだ素朴な島でした。民宿一軒を借り切って、夜暗い中、磯を沖合まで歩いていって海底温泉に入ったり、コンサートも楽しかった。
次に行ったのが12年前、やっぱり陳昇のコンサートで。
このときは自力で行ったのですが、手違いで宿がとれてなくて、結局コンサート当日バンドの人の部屋に泊めてもらったんでした。そしてしっかり予約してた飛行機は時間変更になっててあやうく乗り遅れそうになったり(水着のままで飛行機に乗った!)ハチャメチャでした。

そして今年。
今回は、しっかり準備しました。
今では緑島の民宿もネット予約できるところも増えてて、何はさておきbooking.comで宿の予約しました。(教訓がいきてる)、そののち宿の人にLINEで連絡取って、往復のフェリーと島内のバイクの予約もお願いしました。台北-台東間はエクスペディアで国内線を予約。そしてさっき、最終日の台北の宿を予約しました。もう完璧です。

旅程

初日 東京-台北-台東(台東泊)
2日目 台東-(フェリー)-緑島。
3日目 緑島滞在(コンサート)
4日目 緑島-(フェリー)台東-台北(台北泊)
5日目 台北-東京

緑島は民宿とはいっても結構高額な宿に一人で泊ることにしたのですが(リゾート地だからか高い!)、台湾の友人が「一緒に泊まれる?」って聞いてきたので、快くOK(12年前のことを思えば当然ですね)イベントが正式発表されたので、もういい宿が取れないらしいですね。ベッド一つだけど、仲よくシェアしようと思います。

あとは、台風が来ないことを祈るだけです。

これまで幾つかの家に住んだ。
結構な割合でなくなってる気がするから、検証してみる。
ホントにどうでもいい話(笑)

1.生まれて10歳まで住んだ家 数十年前に取り壊され、土地も削られて地面もない。
2.高校卒業まで住んだ家、老朽化で取り壊され、建て替えられた。
3.学生寮、ここは残ってる
4.学生アパート、当時もぼろかったのにまだ現役。
5.就職して初めて住んだアパート(青葉台)取り壊されてた。
6.アパート(水戸)当時新築だった ある。
7.アパート(千葉)無くなってる
8.アパート(仙台)ここもまだある
9.アパート(千葉)ここもある
10.同僚とシェアハウスした新築アパート(埼玉)ある
11.一人暮らしに戻ったアパート(足立区) ある
12.世田谷区のアパート、取り壊しまで住んでた
13.今の家

集計結果、全13軒中、取り壊されてたのは5軒で案外少ないと思っただけど、子供時代を住んだ家がないのがさびしいな。


生まれた家。
重機が停まってるあたりの山側に家があった。道路拡張で削られてしまってる。


学生寮。
改修されているみたい。
住んでいた棟とは違うけど。


学生アパート。
クラスメイトとルームシェアしてた。
ここも改修されてる。
築年数相当たってると思うけど、大家さん頑張ってるなぁ。


青葉台のアパート跡地は建売住宅に。


水戸のアパートは新築だったから、まだ健在ですね。
アパートの名前は変わってた。


築浅で入ってた仙台の可愛いアパート、ロフト付。
名前が変わってた。
不便な場所だったのだけど、なんと地下鉄開通で駅徒歩2分に大出世!


千葉のアパートは当時と同じ名前で健在。
職場から徒歩30秒だった。最後職場の経営状態が悪化して、私のこのアパートが事務所になってしまったっけ。(正確にはこのアパートに事務所の電話を残し、営業所こっそりたたんで本社に戻ったのだった)


埼玉でルームシェアしてた3DKの新築アパートも健在だった。
倒産前後の経済的に苦しいときに何人かで助け合いながら暮らした思い出の部屋(メンバーも数回かわった)


8年住んでた世田谷のアパートは、老朽化で立ち退きを迫られた。
引っ越し代出してもらって、今の家に移ってきた。
今は建て替わりスーパーマーケットになってる。

ボーっとしてたら、そろそろ台湾行の航空券の手配をするべき時期になってきました。
数年前までは、JALの特典航空券とかも取れたのですが、ここのところまず無理なので、LCCにシフトしています。
LCCもこの時期はさすがに高い・・・。
とりあえずスカイスキャナーで調べてみた。

◆往路
12/29(この日仕事かもしれないので、夜発です)
21:15 成田発ジェットスター ¥26,190
22:00 成田発バニラ ¥29,120

12/30
5:00 羽田発タイガー ¥26,770
5:50 羽田発ピーチ  ¥37,638
9:00 成田発バニラ  ¥38,520

◆復路
1/1
16:55 成田行バニラ  ¥19,220
23:50 羽田行タイガー ¥20,096

1/2
2:00 成田行ジェットスター ¥18,560
2:00 成田行バニラ     ¥21,780

安いのは
12/30 5:00 羽田発タイガー ¥26,770
1/1 23:50 羽田行タイガー ¥20,096
この組み合わせかな。羽田の方が家から近くて便利だし・・・でも朝5時羽田発はほぼ寝ないで行く感じですよね。

前回の続き。
レートのことを考えて見たいと思います。

6万円を仁川空港の銀行で両替したら57万ウォンでした。
1万円⇒95000ウォン (9.5)

クレジットカード払いのものを検証

仁川からのエアポートバス
 W14000 ⇒ ¥1420(9.86)

ホテル
 W134600 ⇒ ¥13582(9.9)

参鶏湯
 W16000 ⇒ ¥1623 (9.86)

マッサージ
 W44000 ⇒ ¥4463 (9.86)

コーヒー
 W4600 ⇒ ¥467 (9.85)

ロッテマート
 W49,560 ⇒ ¥5040(9.83)※円建てで決済

キャッシング
 W50000 ⇒ ¥5045 (9.9) 手数料込

こうして見ると、クレジットカードの方がはるかにレートが良いことがわかります。
9.5から9.9までの幅があります。
キャッシングしても空港で両替するより良いとは!
次回は空港で両替しないようにします。
今回は、チケット代を5万円分くらい立替えてもらっていたのを現金で渡したので、こんなに両替しましたが、いつもなら1万円程度しか両替しないので、それほどの差はないか・・?
いやいや、9.9なら1万円で99000ウォン、9.5なら1万円で95000ウォンでその差、4千ウォン。
4千ウォンあればカフェのコーヒー代くらいだし、やっぱり大きな差ですよね。

※ロッテマートでは、知らないうちに円建て決済になっていたようです。カード会社の明細見るまで気がつかなかった。レシートは確認してたのに・・・。通常、外国で円建て決済するとショップに都合の良いレートを適用されてしまうので、現地通貨で決済するのが基本なのですけど、ここのレートはそれほど悪くなかったです。

キャッシングが手数料込でもこんなに好レートなのは何故だろう?
もしかして手数料は後日請求なんだろうか???

今回の旅のお金メモ
両替レート 6万円⇒57万ウォン(空港の両替はレートが悪いですね!)
キャッシング 4万ウォンして手数料がW3500位でした。

ホテル代 
 ホテル2.4 (2泊) 合計料金 W134,600
 simpleHouse W40,000
 手数料 W3,500

滞在中の交通費
 空港バス(仁川国際空港⇒夢村土城)W14,000
 タクシー W3,000
 地下鉄等テイモニカード2枚分チャージ W20,000
 ※使用したのはおそらく1万ウォンくらい。次回のため二人分をチャージ

食事
 参鶏湯 W16,000
 空港コーヒー W4,500
 ロッテモールアイスコーヒー W4,600
 SHERLOCKカフェ W,7500
 ペプシ W1,200
 水 W850
 サンギョプサル(2人分) W57,000

買い物
 ロッテマート W49,560

アトラクション
 マッサージ W44,000
 コンサートチケット(3回分)W470,000
※コンサートチケットは今回分が、W113,500で、12月の分(2枚)がW356,500

ウォン計 W464,250(約48,800円) (次回のコンサート代と買い物含まず)


日本で

 WIFI ¥1,800
 ガイドブック \1,200
 スカイライナー \2,500

飛行機 JAL特典航空券 負担額¥6,300

日本円計 ¥11,800

旅にかかったお金 約6万円 でした。

旅行記でも触れましたが、改めてSHERLOCKカテゴリーに、まとめます。韓国ソウルにあるSHERLOCKをテーマにしたらしいカフェに行ってきました。

221B in Seoul

旅行のしばらく前にネットで存在を知って、ソウルに行くならぜひ訪ねてみたいと思っていました。場所を調べると江南で、滞在場所からもそれほど遠くないみたい。
詳しく住所を調べたら、江南区庁駅から歩いてすぐのようです。(韓国のグーグルマップは、お店の登録があまり進んでいないようで、みんな他のアプリ使ってるのかな?NAVERとか?)
確信はないけど歩いていきます。
でも果たしてちゃんとありました。

店の前のベンチにインバネスコート姿のホームズ銅像。写真撮影用ですね。撮らなかったけど。で、このホームズ像は顔が完全にベネさん!ここは、ホームズカフェではなく、SHERLOCKカフェなんだと確信。でもこの像、なんであのディアストーカーかぶってないんでしょうね?


お店は地下です。
階段を降ります。


降りきったところに入り口。
あのパスワードが!
ソフトクリームもあるのかな?


入りました。(この写真は帰る前に撮ったものなので人がいっぱいいます)


オーダーカウンター。
ここもソウルに山ほどあるカフェ同様、先払い方式の気軽な店です。
お店の人に英語通じますヨ。


レジにも221Bの文字が。
おしゃれですね。


ホームズ関係の本が色々おいてあります。
日本語の本もありますね。
下の方の段には、ロンドンのホームズ博物館のオミヤゲやさんの紙袋までおいてある!
何でもアリか?


こちらはSHERLOCK関係かな。
ジョンとシャーロックとハドソン夫人の人形が可愛い。


ソファ席。
奥の鏡には、SHERLOCK関係の映像がスライドショーでずっと映っていました。
パソコンのモニタになっているようですね。


クッションにもあの文字が!
あとからグループ客が入ってきたので席を譲ったのですが、その中の若い男の子、ずっとこのクッションを抱いてた。深い意味はないんだと思うけどw


このシカの頭って見たことある。
1-3で爆発する前は部屋にあったのこれだったっけ?


注文できたよお知らせブザーも凝ってます!
レシートにWIFIパスワードがあるんだけど、見えますか?sherlockedですよ。うふふふふふ。


sherlockcoffeeデス。
この他にプレーンヨーグルト食べました。サンドイッチとかクッキーなんかもあります。

お昼前に入ったら、全然人がいなかったんですが、すぐに混みだしました。近隣にお勤めしてる人たちが昼休みにやってきたのかしら?ご飯は食べられないけど。隣のソファ席に座ってた4人組の若者たち、コンビニで買ってきたみたいなポテチなどのスナックを広げて食べてた。持ち込みOKなのかしら??

概ね居心地の良いお店でした。
お店の人にはシャーロック話などは振らなかったんですけど、一定の知識はある人たちなんだろうか??ファンなんだろうか??
次に行く人聞いてみてくださいなー。

前回より少しは時間に余裕のあった今回のソウル行き。感じたことを少しメモ。
前回は日本との共通点を強く感じたんですが、今回もそれを認識。
街の作りがとにかく似てる。街角を切り取ってみると、日本にいるみたい。
でもその中にやっぱり「韓国だー」と、20年くらい前にはじめて来た頃に感じたことを再確認。

まず、街角の口論
初日空港に着くなり、バスのりばでおじさんが係のおにーさんに食って掛かってた。何を言ってるのか分からないけど、おにーさんの方は慣れた様子で意に介してない感じ。
韓国だなぁ。
このレベルの口論、日本だったらちょっとビビる。

それから地下鉄の物売り
これも日本にはなくて最初来た頃新鮮に感じてた。今回一回だけ、靴磨きを売りに来たおじさんに遭遇。嬉しかった。

それと、地下鉄の席
昼間に乗ったときに強く感じたんだけど、若い人は座らない。年寄りばかりが座ってる。日本だと、よほどヨボヨボの人には席を譲るけど、それ以外だと若い人も年配者も割と平等(イメージは60代以下はみんな現役)でも、ソウルでは年齢順に座ってるような印象。席が空いても、自分より年上がいたら座らないようなそんな感じを受けた。

あと、おせっかいなおばちゃんたち
例えば地下鉄で立ってたりすると目の前に座ってるおばちゃんが荷物を持ってくれたりする。今回は荷物がスーツケースだったからそんな場面には出会わなかったけど、席が空いたことに気が付かなかったときに、近くのおばちゃんがわざわざ「空いたよ、座んなさいよ」って教えてくれた。
それからスーパーでお土産の食品なんか買い物した時、スーツケースに入らないかもと思い、エコバッグも買ったんだけど、レジで「袋いりますか?」と聞かれたので(多分袋は有料)貰って、買ったものをレジと同時進行で詰めていると、最後にエコバッグを買ってるのにレジの人が気がついた。そうしたら、レジのおばちゃん、「さっきの袋はキャンセルして、これに入れたらいいじゃない?」と言い始め、買ったエコバッグをその場で開けて(袋はおばちゃんがさっさと捨ててくれた)詰めなおした。こういうの東京のスーパーでは出会えないこと。
久しぶりの「おせっかい」が新鮮でした。

韓国人のファン友達と食事したときにもこういう話になった。彼女は今年から日本に来て仕事してる。その理由が、韓国だとも結婚しろって言われるのがうるさいからと言ってて、もちろんそれだけが理由じゃないんだろうけど、「おせっかいな人が多い。もちろんそれがいい面もあるけど面倒くさいです」
わかるわー。

コーヒー屋さんの多さにも驚いた。
韓国で20数年前は美味しいコーヒー飲ませる店に出会えなかった印象で、いわゆるコーヒーショップじゃないところに行くと平気でインスタントコーヒーを出してくるようなとこあったと記憶してるけど・・・カフェが乱立してた。日本の倍くらいあるんじゃなかろうかと感じた。
しかも美味しい。2009年に行ったときですら、駅に入ってるスタンドのコーヒーが色水みたいな香りも何にもない不味いコーヒーだったことを思うと、すごい進化を遂げてるんだな~。件の韓国人の友だちは「日本はコーヒー屋さん探すのに苦労します。しかも美味しくないです!」だって。確かにそうかも。たぶん、コーヒーの好みが両国で違うと思われます。
韓国のコーヒーについては、次回もう少しリサーチしてみようと思った。果たして韓国に私の好きなコーヒーは見つかるのか?

最終日は帰ってくるだけなのですが、短く記録。
5時半にアラーム。
皆寝静まってる。サクッと支度して、ベッドを整えゲストハウスをあとにする。
ちなみにこんなところでした。


リビング


キッチン


私の部屋


家の前はこういう感じでドンづまりになってたから、夜窓開けて寝てたけどすごく静かだった。
まだ暗いですね。


駅にはエレベータで。地下へ。
一駅で金浦空港。近いわ。やっぱり、ここに泊まっておいてよかった。


国際線は右へ。国内線は左へ。


券売機。テイモニカードのチャージとかもこの機械で。マルチリンガル対応。素晴らしい。次に来るときのために一万ウォンチャージ。

これは…独島(竹島)のジオラマだ!こんなところでも領有権の主張?むむむ。


空港構内案内図


チェックインを済ませて、出国。
金浦空港は改修工事中でした。古いですものね。

昨日までと打って変わって湿気があって蒸し暑い。そして冷房きいてない。蒸し蒸しソウルです。なのに、わかりますか?上の写真のなか、ダウンコート着てる人います!!!同じ東京行きの飛行機でした。山にでも登るのかしら???

機内食出るだろうから朝ごはんは食べずにコーヒー飲みます。朝だからエスプレッソにお砂糖たっぷり入れてイタリア風。

7時半に搭乗。
機内食出ました。
チャーハン。

韓国は曇ってて景色を見れなかったんだけど、日本上空は快晴。


アクアライン。

飛行約90分で羽田に到着。
近い!!
荷物受け取って、WIFIルータ返却して、バスで帰宅しました。

楽しかったです。
私と韓国との付き合いも、新時代に入ったなと感じる旅でした。

行ってきました。
連休だし、チケット取ってもらったし、行けるときに行っておきたい、イスンファンのコンサート。
東京大阪の公演のころを最後に4ヶ月間ほど活動休止してて、再開第一弾となった、ファンたち待望のコンサートです。いわゆる「ファンじゃない友達を誘わないほうがいいよ」という警告の出てたタイプの公演。なぜ誘っちゃいけないかというと、ヒット曲あまりやらなくて、ファンじゃない人来たら退屈で、友人関係も気まずくなるからだそうな。面白いね。

会場はオリンピック公園の中にあるKアートホール。テコンドーの会場だったとこだそう。
僅か380席!!
ステージの後ろと横の席にはお客を入れないので、ほんとにこぢんまり。
私の席は一番後ろ。何しろ販売席数少ないから…この前の日本公演で知り合った人が苦労してキャンセル席を買ってくれました。感謝感謝。でも狭い会場だし、すり鉢状だったので全体がよく見えてかえってよかった。

そして内容は、警告通りに、めちゃくちゃ渋い曲ばかりが並ぶコンサートだった。
来日公演でやったようなメジャーな曲は一曲くらいしかやらず、あんなに聞いてきたのに知らない歌がまだあったヨ。
噂には聞いていたけど、よくまぁこんな内容でできるもんだと感心しちゃった。

多くのファンが複数日聞きに来たみたい。
そんなコアなファンたちにとっては、この内容は大喜びだったことでしょう。
今回の私の感想は「いいもん聞かせてもらいました」ほとんど座って聞く静かな歌ばかりで、そこはちょっと好みとは違うんだけど、そういうのはまたの機会があるでしょう。バラードじゃない曲ばかりでこれくらいのレア感出してくれたら泣いて喜びますけどね。

そのレアなセットリストは以下の通り。

비누
그저다안녕
너의기억
화양연화
<멘트>
푸른아침상념
그늘
김광진-엘비나
확인
<세션소개>
사요나라
<멘트>
------------팝송
Kenny Loggins - The more we try
barbara dickson - across the universe
Extreme - More Than Words
...................
<멘트>
시련은끝난다
남편
아무말도
그들이 사랑하기까지
<멘트>
삼촌장가가요
나잡아봐라
스타워즈
<멘트>
만추
가을흔적
마지막인사

〈アンコール〉
돈의신


自分でもメモしながら聞いてたんだけど、手元が暗すぎて文字の上に重ねて文字書いたりしてて、判読できない…

<멘트>というのは、MCのことです。イスンファンよく喋るんだけど、韓国語…全く聞き取れない。悲しー。ま、それは仕方ない。

でもでも、隣の席の人(知らない人です)が、突然日本語でMCの内容を説明してくれて、たいへん驚きマシタ。開演前に特に挨拶とかしたわけじゃなかったからなおのことびっくり。ひゃー驚いた。
それは「花様年華」のあと「今日の内容の中でヒット曲はこの曲で終わりです」って言ってますよって。初めて台湾で陳昇のコンサート見たときにも、隣がたまたま日台ハーフの人でMCを翻訳してくれたのを思い出した。
ツイテル私、ツイてるよ!!

そして、こんなこともあった。
バンド紹介のときに、日本留学経験のあるギターくんが日本語の話をしてたようで、そのときに隣の人がいきなり私の腕を掴んでステージに向かって振り始めた、私は訳もわからず手をふることに(笑)まぁなんの反応もなかったけど。

「さよなら」でありがとー!の話

それともう一つ。
開演前にファンの人たちと話をしていて、昨日までのコンサートのMCのなかで、イスンファンが日本の公演で日本語の歌を歌ったときに、間奏中に会場から「ありがとー!」って叫んでくれた人がいて、すごく感動したって話をしてたそうで、
「YOKOさん、今回その曲のときにぜひありがとー!って叫んでください、歌手さんが絶対喜びます」
って言う話になった。
え?!それ言うの?私が??
と思ったけど、何人もの人にその話をされて「頑張ってー」とか言われて、あとに引けなくなった。
「だって、その話2回もしたんですよ!すごく感動したって!」

折角うしろの席でのんびり聞けると思ったのに、プレッシャーかけてくれるなよ…(笑)
案の定、その「さよなら」が始まったら緊張して心臓バクバク言い始めた。何しろシーンと聞かせる曲だし、間奏で叫ぶなんて絶対無理、周りの観客からひんしゅくかうよ。でも曲が終わったらみんなの拍手で叫んでも聞こえないだろうし…ドウする?ドウする?
かなり難しいミッションだけど、(一部の人に)期待されてるし、ガッカリさせたくないなー。
結局、曲終わりの拍手が沸き起こる直前に「ありがとー!」って叫んだ。
あのタイミングしかないって感じだったと思う。
ふー。
やり遂げマシタ。
でもあの雰囲気の中でそうとう浮いてたゾ。
大丈夫だったのかな?
ステージからも特にその後そこに言及されることはなかったしなー。
何とも宙ぶらりんな。

それでも、終演後、「YOKOさんやりましたね!」と数名からハイタッチ。
「歌手も日本人のファン来てるって絶対知ってるんですよ、YOKOさんがあそこに座ってるっていうのもわかってたと思いますよ。ありがとー!も絶対嬉しかったはずです。嬉しいけど言わないんですよ。そういう人なんです」

へー、そういうもんなの?
まぁ熟練の現地ファン達がそう言うならそうなんだろう。
イスンファンのためというより、むしろそういうファンの期待にこたえられて良かった。

陳昇に対してと違って、イスンファンについては純粋に歌を楽しませてもらえれば満足なので、日本から応援してるよーとか、私のこと認識してほしい〜ナンテ言う欲は無いんだけど、それでも、彼も日本で公演したからには日本人の反応は嬉しいだろうし、そういう積み重ねが、また日本でコンサートやろうという動機になってくれたらありがたいよね。(前回の日本公演は案の定赤字だったらしい、私も買ったTシャツなどのグッズ販売で穴埋めしたらしい)
それでも本人は日本でコンサートやる意欲を見せてるんだそう。
うん、ぜひまた来てね。

目が覚めたら8時半だった。さて、今日はどこへ行こうかな。考えつつ、お風呂に入ったり荷造りしたりしてチェックアウトしたのは11時。昨日の人たちに見習って荷物を持って遊ぶことにする。ソウルは広いし荷物預けても戻ってくるのも大変。

地下鉄夢村土城駅から蚕室、ソリョンと乗り換えて江南区庁駅まで。なんだかんだでもうお昼だ。

第一の目的地はソウルにあるという、SHERLOCKのカフェ。
「221B in Seoul」
江南区庁駅から徒歩3分くらいのとこにあります。きれいでおしゃれなお店。
昨日食べすぎたので、プレーンヨーグルト4000Wとシャーロックコーヒー(チョコレートが混ざったらしいコーヒー)4500Wランチタイム割引で7500W。入ったときはお昼前だったからお客がいなくて静かだったんだけど、10分もしたらたちまち若者たちで大賑わいに。広いソファ席に座ってるの申し訳ない。

シャーロックのカフェには一時間くらいいて、ガイドブックでマッサージ屋さんが近くにあるのを発見、行ってみることに。ガイドブック買ったから使わないとね。日本語OKと書いてあったけど通じず、身振り手振りと片言で疎通を試みる。フットマッサージ60分をオーダー。イヤーキャンドルのサービス付き。44000W
多少痛かったけど、終わってみたら足がかなり細くなってた。むくんでたんだなー。

15:00 地下鉄で江南区庁駅から、高速ターミナル駅乗り換えで景福宮駅を目指します。結構長旅。
土俗村という参鶏湯やさんに行こうと思う。

景福宮駅を降りたら人が多い!さすが観光地。チマチョゴリを貸してくれる店もあるようで、4時間15000Wとか。
土俗村には何度も来てるので、迷わず到着。店の前で香港人が記念撮影してた。

毎回通されるのは一番奥の大広間、ここを仕切ってる店員さんは中国人みたいで、店員さん同士中国語で話してる。中国人観光客対策なんでしょうね。日本人全然いないよー。

普通の参鶏湯16000Wを食べる。
安定の美味しさ。

さてお腹もいっぱいになったので光化門広場を歩いて、今日の宿へ向かうとしましょう。


この花かわいい。
景福宮の横で。


光化門

光化門駅から金浦空港方面に向かいます。地下鉄5号線。ソジョン駅下車。

今夜はゲストハウス。やっぱり現金支払いってことで、宿の人と一緒にコンビニのATMまで行ってお金おろして宿代払いました。4万ウォン。

その足で金浦空港にあるロッテモールへ。昔イーマートあったような気がするんですが…金浦空港まで歩ける距離です。


色々買いました。


今夜の部屋はこんな感じ。
四畳半ってとこでしょうか。個室です。今日はあんまり人がいないです。

明日早いから寝なくちゃ。
オヤスミナサイ。

よく眠れた!
目が覚めたら9:25
夜中一回も目が覚めなかった。
いつもは5時とかに起きるのに。
よほど疲れていたかな。

ゆっくりシャワーして支度して、お昼前にホテル周りを散歩。天気がいい。

お昼から昨日会った友達たちに合流させてもらってランチ。何でもかんでもお任せで、ついていく。
ついたのはポッサムの店。わーい。

東京や大阪のコンサートで会ってる人もいたけど、改めて自己紹介。少し韓国語の単語を話すだけで喜んでくれるけど全く会話は成立しない。友人がすごいスピードで通訳してくれる。たすかるなー。

ご飯のあと、コンサートまでの時間は会場近くでのんびりするというのでまたまたついていくことに。こういう流れに身を任せるのも面白いの。


途中、イスンファンの自宅マンションの一階にあるスタバでコーヒー買う。
なんと、皆さん部屋番号まで知ってるらしいヨ。

彼女たちは韓国の地方からコンサートのためにソウルに来たという人たちで、ガラガラとスーツケースなどを引きながらの移動。私だとめんどくさい、どこかに預けたいと思っちゃうけど、気にしないみたいね。


こんなのに乗ったり。片道1000ウォン


ピクニックしたり。

誕生日が近い人がいるというので、途中で買ったケーキでお祝い。それにしてもこのシートも持ってきたんだねー。コンサートの予習の歌の練習したり。
いろいろ面白い。


バラ園もある。

しばらくこんな風にしてたが、虫の攻撃激しく、撤退を余儀なくされる。今日のコンサート会場「Kアートホール」まで行って開演を待つことに。


お!歌手さんの車だって。みんなよく知ってるね〜。


席の確認。
私のチケットは、キャンセルが出たところを買ってもらったので一番後ろの席ですが、会場が小さいので問題ないでしょう。

まだ開演まで2時間以上あるのにどんどん人が集まってきて、社交場と化してきた。みんなはここで開演までおしゃべりして過ごすみたい。ここで一旦私はホテルに帰ることに。着替えたりしたいしね。

暑いのでタクシーを拾えというアドバイスがあり、3000ウォンの距離だけど、乗ってみた。会場には歩いて戻る。


電線が放射状だ。


歌手の住んでるところ。

ほんとに天気がよくて、風が爽やか。
初めて韓国来たのも秋でその時はもっと涼しかったけど天気の気持ちよさがすごく好印象だった。今回それが味わえて良かった。公園にいるし。


西洋風蝶草の丘


丘を登りきった東屋には、屋根にスイカ


キバナコスモス

さていよいよコンサートへ。
行ってみるとDF民(イスンファンのファン)の仲間たちが一層増えてた。私も挨拶しつつ開場を待つ。いつも陳昇のコンサート前にやってること。どこも同じだなー。

コンサートの内容は別記事にします。
6:00〜20:15

コンサートのが終わり、みんな口々に「良かった、良かったー」と言うような顔で出てくる。日曜なのでこれからご飯食べに行こう、という展開ではなく、みんなそれぞれの家に帰るみたい。釜山の人も汽車で帰ります。って言ってた。新幹線KTXできてから近くなったんだなー。

友人が「みんな帰るって、ご飯食べに行くの私とYOKOさんだけです」
むしろそれがありがたい。私もあなたとゆっくり話ししたかったんだ。

彼女も明日の朝イチの飛行機で大阪に帰るとのことで、今夜は空港で夜明かしするんだそう。10時半にここ出れば大丈夫らしく、近所の繁華街までゴロゴロスーツケース転がしながら、コンサートの内容について、おしゃべり。

彼女とは5月のコンサートで2回会っただけで、まだゆっくり話したことがないから、この時間があって良かった。

行ったお店はサンギョプサルの店。
ハナムテジチプ


これ初めて食べた!ふわふわの卵蒸し??

お腹いっぱい食べて、ビール飲んで、二人で57000ウォン。お世話になったのでここは私のおごりです。でも、忘れてたけど昼間全然払ってなかった。お昼、コーヒー、園内のりもの…誰かが出してた。お世話になりました。

チャムシル駅まで彼女を送り、私も地下鉄一駅乗ってホテルまで。23時でした。

今日は全然一人旅じゃなかった。
韓国に妹たちがたくさんできた一日でした。
もっと言葉を覚えないと!!せめて昔話せた程度には、ね。

夕方発の飛行機だから旅の準備は起きてからやればいいや、と思っていたのだけど、準備が完了していない落ち着かなさのせいか、ほとんど眠れなかった。そして例により旅行前の憂鬱症発症中。
私一人旅嫌いなのかしら??
睡眠のリズムを崩すのは体調管理上あまり良くないんだけど、コンサートは明日で、今日は移動だけだから、ま、いいか。

朝ごはん食べて、台風に備えてベランダのプランタの処置などして、洗濯物干して、よっこらしょと荷造り開始。
3泊分の着替え、洗面具、電源関係程度だから簡単。今回はJALだから荷物の制限もない。ホテルに泊まるからタオルも不要、(あ、あれ?!最後はゲストハウスだった。タオル忘れた…)

そういえば、韓国の電源プラグってどんな形だっけ??調べてみるとCとかSEというタイプらしい。引き出しをごそごそしたら持っていた。
あれ?前回どうしたっけ?覚えていない…。とりあえずこれで電気周りは大丈夫でしょう。

少し早めに家を出て、スカイライナーの予約を電車の中でして、なんでもギリギリですが、時間は余裕。
成田でWIFIルータを借り、チェックインしてソウルのガイドブックを遅ればせながら購入。そうそう久しぶりに免税店の化粧品コーナーに寄ってランコムのマスカラ買った。

JL959はバスゲートでした。
18:50出発。
やっぱり夕べ寝てないのがこたえてて、パニック発作手前のが現れ、薬を飲む。機内では落語を聞いてた。落語は落ち着く、音楽よりなにより。

しかし寝不足によるだるさが最高潮でたった2時間のフライトなのにしんどかったーー。

いくらご飯の機内食。ワイン飲んだ。(これ意外と美味しかった)

 

定刻より少し早く21時過ぎに到着。でも、イミグレの列が長く出てきたときには一時間が経過してた。

両替。チケット代の支払いあるから6万円。570000ウォン。うち47万ウォンはチケット代(3枚分今回のと12月のと、あ、12月も行くんです)

リムジンバス6006でホテルへ向かいます。チケットの買い方を調べてなかったので人に聞いたりして少し時間がかかって一本逃したかも。
時間が遅いので窓口開いてなくてカード専用の完売機で買います。バス番号だけは調べておいたのでスムーズに買えて良かった。


 
バスに乗る時運転手さんにチケットに書かれたバス停名を指差し、前にさやかちゃんという友達に教えてもらった「よぎえとーちゃっかみょん、あるりょじゅせよ」を使ってみた。
「ここについたら教えてください」という意味らしい。
ちゃんと通じて、それなら最後のバス停と言われた。良かった、間違えなさそう。運転手さんは親切。シートベルトの確認も出発前に見回ってくれる。

6006番バス14000ウォン。
22:45出発。
ホテル最寄りバス停についたのが24時。

それからホテルにチェックインして、コンサートのチケットを買ってくれた韓国人の友人にホテルまで来てもらってお金を渡したり(私と同じようにコンサートのために近くに泊まってる)なんだかんだで一時回った。寝よ寝よ。

大田区矢口渡にあるワインやさん(イタリアワインの専門店)に、イタリアから蔵元さんがやって来るっていうイベントがあったので出かけてきました。

ここはレストランではなく、ワイン販売店。でも、グラスワインとちょっとしたオツマミを角打ちスタイルで気軽に楽しめるなかなかいいお店です。

この日は、15人くらいのお客でぎゅうぎゅう。

蔵元さんと販売会社さん、二人のイタリア人が登場。販売会社さんは日本語堪能。蔵元さんのイタリア語の説明をどんどん訳してくれました。

イタリアの蔵元さんは、ロンバルディア州でフランチャコルタを作ってる、レ・マルケジーネ社のロリスさん。シャンパン製法(瓶詰め後さらに発酵させる)でスパークリングワインを作る産地は世界に3つしかないそうですが、そのうちの一つだそうです。あと2つは、シャンパーニュとカヴァ。

試飲は、3種類のスパークリングワイン。一つずつ、作り方のこだわりや合う料理なんかを説明してくれます。ワインのことは全くの素人なので猫に小判状態でしたが。興味深いお話でした。

この日はイベントなのでお料理も豊富。イタリア帰りというシェフが出張でいらっしゃってました。参加費5500円ということで、おつまみ程度が出るのかなーと思ったらフルコースでした(立食ですが)食べ切れないほどの量、内容も本格イタリアンで初めて食べるものもたくさんあり、オトクなイベントでした。

このお店おすすめです。イタリアワインがグラスで500円くらいから。立ち飲みオンリーですが、その分手軽に楽しめます。午後3時開店。木曜定休。禁煙。
ラ・カンティネッタ多摩川
https://www.ilglicine.tokyo/
東急多摩川線矢口渡駅からすぐ

はじめて来たかもしれません。
セルリアンタワーがオープンするとき、能楽堂がついてるホテル!!ってかなり話題になったですね。
友人の所属する喜多流の発表会(のようなものだと思います)を見に行ってきました。友人の出てるところだけだから、正味30分くらいしかいなかったかも、もったいないけど、忙しかったので。
見たのは「船弁慶」「田村」「高砂」あと何だったかな??
能の素養ないので、あまりよくわかりませんが、新鮮でした。

友人曰く、能のおけいこは、文科系クラブと体育会の両面があって面白いのだそうです。


こういう催しです。
近所の友人が2人、習い始めてて、二人とも出るというので見に行ってきました。


アプローチ。


8人で謡。
斜めに座るのはなぜかしら?


こんな素敵な舞台に立てるのはなかなかに贅沢なことなのでは?

昔、能の世界は武家がスポンサーについていたので栄えましたが、明治以後は衰退の一途だったそうです(と言う話は、数年前に同窓会でお話した熊本金春流の能楽師さんが話してくれました)今も経営はけっこう大変でしょうね。こういう風におけいこ事として、楽しむ人が増えれば、この文化を支えていくことができるのかも。

SHERLOCKカフェに行ったシャロ友さんとは、朝ドラぴよ友でもありまして…カフェのあと三次会で新宿高島屋で開催中の田中達也氏のミニチュア展に行ってきました。

朝ドラ「ひよっこ」のオープニングで登場するミニチュア世界を作った人です。


ひよっことのコラボ展示。


オープニング映像と、あのバス停!


不思議な写真世界


こちらはミニチュア
たわしの稲刈り


写真だけならネットでも見られますが、写真に使われてる人形が額縁の隅っこにw


これ一番のお気に入り!
自分の家でもやってみたい。


映像作品もありました。


遊園地のこのブランコ、大好きだったなー。気持ちいいのよね。


とうもろこしロケット。


これみえるかなー?
斜塔周りの観光客のポーズに注目!

この他、ひよっこのオープニングにも出てくるパンの電車「新パン線」はちゃんと動いてました。

あとで聞いた話では、台湾でも同時開催中。台北の友達が「私も今日行ったよー」って教えてくれました。朝ドラもやってるしね。

おまけ、あかね坂商店街の地図。
へーこんなふうになってるんだ。

今度の連休、韓国ソウルへ一人旅してきます。
昨年10月に続き今回も、コンサート見るのが目的です。私の海外旅行、そればっかりですね。

旅程
初日夕方成田発で夜9時半仁川空港着。最終日は朝8時金浦空港発。
正味2日間といったところ。

ホテル
初日と2日目は、コンサート会場近くの安いホテル。
妙に安かったので、調べてみたら、どうも立地がラブホテル街。そのホテルもラブホテルを改装した模様。今は普通のホテルみたいですけどね。

3日目はキンポ空港そばのゲストハウスにしました。早朝出発のため、気を遣わなくていいように個室(バストイレは共同)。それでも4000円しないお値段。韓国のゲストハウスは前回も泊まったのですが、一般の家を改装してあって、フロントみたいなのがない。誰にお金を払ったらいいのかわからなくて困ったので、今回はちゃんと連絡取って行こうと思います。

ネット環境
前回はアメリカの従量制のSIMをローミングして使ったら、1日半程度の滞在で結局5000円くらいの請求が来ました。もうちょっと安く上げたい。友人のすすめで空港でWIFIルータを借りていくことに。初日の到着が夜遅いため、カウンターが閉まってしまうかも。なので、日本で借りていきます。4日間で1800円でした。安いですね。
コネスト

やってみたいこと
今回は正味2日間あり、コンサートも標準の長さのようなので(前回は9時間くらいコンサートにかかった)
すこし観光できそうです。気候もいいと思うので、街歩きも楽しみ。

江南の「SHERLOCK」をテーマにしたカフェに行ってみようと思います。
221B in Seoul

あとはどうしようかな~。
今のソウルってどういうところが面白いのかな?
おススメがあれば教えてください!

SHERLOCKについて、色々いちゃもんつけたようになってしまった前回の記事でしたが、先日、早川書房が開催してる期間限定イベントSHERLOCKカフェに行ってきました。
愛はあるのですよ。
ここ数年夏場にオープンしてて、ホームズ関連のトークショーなんかも開かれたりして楽しませていただいてます。
今年は、延長に延長を重ね、9/16(土)までやってるそうですから、興味のある方、急げ!!

場所は、神田の早川書房のビル内1階にあるカフェクリスティ
住所:東京都千代田区神田多町2-2

今回も、ネットを通じて知り合ったシャロ友さんと一緒に行ってきました。
ホームズ話をしながらホームズカフェでお茶&お酒なんていい時間だわ。
Nさんいつもありがとうございます♪

写真をどうぞ。

看板

ウィンドウ

メニュー、ホームズやSHERLOCKに関係するネーミング!

5つのオレンジの種とコカジン7%溶液!ホームズ愛用のコカインではなく(当たり前です)コーラとジンのジンコークです。昔よく飲みましたね~。
早川書房の茶封筒にはあの文字が!!
そして封筒の中にはちゃんと5粒入ってました。凝ってる!(入ってたのはオレンジの種ではなくてナッツ^^)

ホームズパンケーキ

店内ではクイズに挑戦できます。
これが難しい!
出版社ならではのマニアックな楽しい企画です。

閉店まで粘ってしまった!
店内の様子です。

SHERLOCKのパネルあり。
これで記念撮影した人多いでしょうね。

インバネスコートで記念撮影もできるよ!
一人で来ていた若い女性がお店の方に写真撮ってもらっていました。

オマケ
帰り道に行ってみた新宿伊勢丹のショーウインドウ

BBCの「SHERLOCK」は一応の完結を見てしまいましたけど、来年もやってくれるかしら?

英国版DVDを手に入れたのは早かったけど、結局英語では1話しか見ずに、NHKの放映まで待ちました。英語だけで見るのってものすごく大変なんですもの。細かくポーズボタン押して英語字幕を読み進めなくてはいけないから‥。

今回も3エピソードあります。
見終わった印象だと、BBCドラマSHERLOCKはここで一旦完結のようですね。
では、感想をチラチラかいていきましょう。

第一話「六つのサッチャー」

言わずと知れた「六つのナポレオン」が下敷きです。
正典ではナポレオン像が壊される事件が続いて・・・ですが、同じようにサッチャー元首相の胸像が連続で壊されます。
サッチャーさんってああいう風に崇拝されるひとなんですね。そういえば、第2シリーズの「バスカヴィル」に登場したバリモア少佐もサッチャーファンでしたね。

正典からの引用はほかにもいろいろ、犬のトビーが登場して大追跡が行われたり(四つの署名)、ここまではまぁ通常運転だったのですが・・・・

イギリスでこれが放映されて以後、インターネット上にはいろいろな情報が溢れていたのですが、ネタバレしたくない思いからそれらから完全に離れて過ごしていました。

ようやく見終わったので、他の人の感想などちょっと見て回って、ビックリ!
ケチョンケチョンに書いてある。
ほほほー、やはり愛が深い分だけ辛口になってしまうのでしょうね。分かる…。

私も今回の3エピソードもそれなりに楽しみましたが、ゆっくり反芻してみると、これは何度も見返したくなった第1~2シリーズとは相当かけ離れたものになっていることに気がつきます。
お話は派手だし、予算も使ってるし、俳優さんたちはうまいし。
楽しめることはもちろんなのですが、カルト的にはまってしまうような内容ではなかったなぁ。

なぜかなと分析してみたのですが、これは私の「ホームズ物語」への愛情のせいだろうという結論に至りました。
結局、子供のころから慣れ親しんで何度も何度も読み返してる、ホームズ物語の範囲で現代版が描かれることに興味があったので、正典を離れて新しい創作で飛ばされると振り落とされてしまうんだなぁと。

それと、もう一つ。
私は 特に映像作品に多い、モリアティーが敵役として大活躍したり、アイリーンアドラーをファムファタルとして大きな位置づけにすることにアレルギーがあって、 いわゆる「パスティシュ」があまり面白いと思えないのですが、SHERLOCKもやはりその点はもとから不満ではあったんです。
まあ、30年にわたって60作品書いたドイルと違って、短期決戦になってしまうから仕方がないんだとは思ってますけど。

シリーズ3以降はパスティシュの一つになっちゃったなぁ。と言う感覚ですね。が、今回のシリーズ4ではそこも越えていましたね。ある意味相当すごいわけですけど、私の見たかったのはこれじゃなかったかな。

では、何が見たかったのかと言うと…シリーズ1の第2エピソード「死を呼ぶ暗号」のような話を畳かけてきてほしかった。

これにつきます。

死を呼ぶ暗号にもモリアーティの影はあるんだけど、まぁあれくらいは許容範囲。

そもそも、私の抱いてるホームズ物語の魅力と言うのは、宿敵モリアーティとの対決ではなく、もちろんアイリーンとの恋愛未満物語でもなく、ワトスンとの友情物語でもなく、やはり頭脳明晰でちょっと変人の紳士ホームズが、当時の世界最先端の都市で奇妙な犯罪や社会問題を相手に謎解きしていくってトコに尽きるわけ。ホームズ物語を読むと、あの世界に生きているようなリアリティがあって、依頼しに行ったりできるかも?みたいなのがいい!

よく言われることだけど、あの時代のロンドンが主役みたいなもんなんですよ。(私にとっては)

SHERLOCKも、ピンク色の研究のときはそのテイストが色濃くて「わかってるじゃーん」って思ったんですが。

でも、贅沢言うのはやめよう。
自分と趣味がちょっとくらい合わなくても、素晴らしい作品です。それは間違いない。関わった人たちは出世してるし、めでたいことだ。
それに私もお友達できたしね。
英語の勉強にもなったし。 

ありがとう
SHERLOCK!

個別の感想は気が向いたら書くかもしれません。

有休とって国会図書館に行ってきた。
今日こそ、ホトトギスをゆっくり見て祖父の俳句を見つけるぞ!前回は時間がなく慌ててたから、今回は三時間近くかけてじっくり「虚子選」の投稿俳句を見ていった。毎号それこそ何千句とあるので大変。

でも、ついに発見!
祖父の俳号である「礁舎」の「礁」の字が「樵」になってるけど、間違いない。

  どの顔も戦禍の民や秋耕す  中支南昌 樵舎

同じページに祖父の手記に登場する「親友」の奈良邯子氏の名前も見つけた。

  梅雨の扉に入城の日の文字のこる  中支 邯子

どちらも戦時中の句だなぁ。

一年分の虚子選を読んだので(超絶斜め読みだけど)幾つかの俳号を覚えた。毎号毎号選ばれる常連さんがいたようだ。

熊本の人だと、草餅さん とか
南京の下村非文さん、
漢口の佐藤一村さん、
倶利伽羅の竹中一峰さん、
中支の大刀さん…

有名人の名前もある。
草田男、青邨、汀女…父が最近話題にしていた、横井迦南も常連さんだ。面白いところでは中村吉右衛門なんていうのもあった、芝居の俳句なのであの吉右衛門だろうけど、何代目かな?(初代だそうです。虚子の弟子だったとか @wiki)

この虚子選に投句してくる人々は、日本全国はもちろん、当時外地と呼ばれたアジア、南洋、そして、戦線からもたくさん送られてきてる。入院中の兵士は傷病の文字があり、時には戦死と注意書きのあるものもある。現代より俳句人口が多かったのだろう、特に若い人に。それと、戦地にあっても俳句をよむ情熱がすごいと思った。。

ホトトギスは戦争中もしっかり発行を続けていたようだが、昭和20年になるとどんどん内容が少なくなる。紙が手に入らずやむなくページ数を減らしたようだ。最後の頃は、投句の「虚子選」だけが掲載されるようになる、虚子自身も小諸に疎開し、投句の宛先も小諸に変更される。そして、昭和20年の4月号まで出したところで、発行困難になり、次は10月号、11月号が発行された。12月号は出なかったようだ。国会図書館にもその10月号はなかった。混乱期のためか?11月号を見たが、急に英語のページが登場し、驚いた。

ホトトギスはすべてデジタル化されているが、ネット公開はされていない、また時間を作って読みに行こう。

国立公文書館 アジア歴史資料センターの軍の文書に、祖父の書いていたことを裏付けるものを見つけたので、また書き起こしてみます。字が読めないところもあったりするのですが、おおむねこんな感じです。
原文は漢字とカタカナで書かれていますが、よみにくいのでカナはひらがなに改めてあります。また漢字も新字体にしてあります。句読点がほとんどないのは、書き手のためか、それとも当時の文書はこういうスタイルだったのか?

(第11軍軍医部)

第七 居留民の状況並に之が衛生指導

南潯地区に於ける居留民は約三二五〇名にして 時局の急変に至る迄は南昌、九江及石灰窟の三地区を中心として居住しありたり 一般に終戦当初精神的に大なる衝動を受け 行動の帰趨に迷い 自棄的状態に陥るもの、中国人の甘言に乗ぜられ儚き夢を描くもの 或は旧来の利己的又は放縦なる生活を脱し得ざるもの等ありしが 逐次平静に帰するに至れり 

軍は集中管理保護の必要上 各地区毎に一定の地域を劃して 自発的に集結せしめありしが 九月下旬中国側の要求に依り 全員湖口及彭澤に集結すべきこととなれり 然れども同地区には全員を収容し得る適当なる家屋なかりしを以て 中国側に折衝の結果、十月に至り石灰窟地区の居留民は従来日鉄使用の家屋に引続き居住することを許可せられ 又湖口地区は中国側の都合により 家屋の使用困難となりしを以て 彭澤の集中居住地施設概成と共に九江より移動を開始し 十一月末集結を完了せり 該施設は倉庫を改造せるものなるを以て越冬には支障なきを保し難きと共に極度の狭縮舎営にして 防疫には○甚なる注意を必要とせり

当時に於ける集中状況左のごとし

 石灰窟 約一五〇〇名
 九江  約 四〇〇名
 彭沢  約一三五〇名

石灰窟の居留民は 其の殆んど大部分が日鉄関係の職員及之を対象として商業を営みありしものなり 九江に残留せしは 病院、食料品加工業、燃料及電気関係等の工場経営者及其の従業員、同家族等にして 中国側の接収未済或は中国側の工場操業の援助の為残留を命ぜられたるものを主とし 患者及其の家族若干を含みあり 彭澤に集結せる居留民には普通商店、会社員、軍に関係ある嘱託、外務省官吏等あり 南昌に居住しありたる居留民をも含みあり 

石灰窟地区は中国行政区画上湖北省政府の管轄に属し 食糧補給及管理の都合上不便勘からざりし為 累次に亘り中国側と折衝の結果 本年初頭より湖北省側に於て管理することに決定せしを以て 軍側の管轄を第六方面軍司令部に移管せり

管理は当初受降主官直接之を実施しありたるも 十月末より日本官僑民管理処設置せられ 居留民の管理をも担任することとなり 十二月には更に江西省政府に移管せられ 之が直接管理機関として 彭沢に江西省日僑集中管理処設置せられ 爾後其の管理下に置かれたり 居留民側に於ては 九江に日僑会、石灰窟及彭沢に夫ゝ日本人会を設け 軍司令部及九江総領事館監督の下に自治的に業務を実施し 中国側の管理に服したり 

軍司令部は居留民の取締及中国側との連絡に任ぜしむる為 石灰窟に連絡所を設置し 又彭沢には現地兵団より派遣隊を派し 以て業務の円滑なる遂行を期したり 中国側の幹部特に日僑管理処の幹部は 開設頭初より渉外品贈与に関係し 概ね平穏に生活することを得、停戦直後 一般民衆の一部の不法行為ありたるの外、多方面に聞知するが如き極端なる迫害の少なかりしは幸いとする処なり

朝鮮人は其の大部分が 軍事委員会韓国光復軍独立支隊部なるものに進て加入し 或は加入を強要せられ 日本居留民より離脱せり

給養は当初兵站総幹部に於て日本軍人同様の取扱を為す旨中国側より通報あり 軍より米塩の外副食物をも立替え補給しありたる処 十月分副食代金受領に先立ち 居留民の補給担任は管轄行政機関に移管せられたる旨通報ありたるを以て 九江総領事より軍を経由し 中国側に申請し 概ね十月以降手持品の給養保持期限を画して補給を受くる如く指令せられたり 十二月末彭澤に江西省日僑集中管理処開設せらるに及び 之が担任を同処に於て実施せらるることとなりたり 然れども爾後に於ても補給は○く円滑を欠き停頓すること勘かなりし為 日を追うて窮迫に陥り 携行しありし家財衣類を処分して食料を購入する等の状況に立ち至りたるを以て 共同炊事を奨励し 燃料其の他の節約に努めせしむると共に 軍に於ては極力之が援助に務め 多面中国に折衝し補給の促進を図りし結果 居留民第一次帰還として 彭澤居留民七五〇名を五月十日出発せしむるに際しては 主食約二十日分 副食代金約十五日分以上の携行を可能ならしめ得たり 
石灰窟の居留民はその大部分が元日鉄職員にして 終戦前より相当の蓄積をなしありたる為 食糧に関しては何等中国側の援助を受けざりき 

居留民の受けたりし主食及副食代金受領標準は左の如し

米  大人一日一人当  二十五両(781.25瓦)
   小人(満六歳以下) 十一両(343.17瓦)
塩  一日一人当   五銭(15.63瓦)
副食代金 一ヶ月一人 二四〇〇両

居留民に対する衛生指導は居留民の医師を指導しつつ居留民内に於て自治的に実施せしむる如くなすと共に現地軍に於て居留民の医師に対する協力援助を協力に実施し九江に於ては揚子江方面海軍特別根拠地隊九江方面警備隊軍医長海軍軍医少佐羽田春兎よりも密なる連携を得たり 軍は終戦後に於て其の保有衛生材料の一部を居留民に支給し長期に亘る集中営生活間の防疫診療に遺憾無からしむる如く図りたるも軍事隊の保有量僅少なる為 其の支給量亦微々たるに過ぎざりき

同仁会南昌診療防疫班は九月十四日中国第五十八軍により同仁会南昌博愛園癩研究所と共に接収せられ班長代理医学士吉村正一以下職員は南昌居留民と同行 九江に引揚げ爾後居留民の彭沢集中に伴ひ全員之と行を共にし集中営に於ける衛生指導並に診療に努力せり

同仁会九江診療防疫班は其の使用建物が中華キリスト教衛理公会保管の故を以て第九戦区陸第九十九軍司令部を通じ米国人に接収せられ管理人の要請により班長医学博士高田之以下五名引続き同会の旧同仁会医院の施設を利用し経営する美国九江生命活水但福徳連合医院に於て医療に従事し其の他の職員医学博士鶴野六良以下六名は中国側の希望により頭初九江県立医院に次で江西省立九江医院に職員として奉職し夫々生活の不如意を克服しつつ中国医療関係者の教育、九江地区の診療防疫に貢献せり

石灰窟地区には日鉄病院長医学博士高木起作以下三十三名の医療関係者あり 何れも居留民集中営内にて衛生指導並に診療に努力せり

南潯地区同仁会診療防疫班は何れも熊本医科大に於て編成の上派遣せられたるものなり

居留民の衛生状態に就ては九月より十月に亘り漢口地区より侵入せるデング熱九江に於て猖獗を極め其の罹患率約八〇%の高率に及び余病の併発により死亡せるもの四名を生じたりしが時候の寒冷に向ふと共に終息するに至れり 同仁会九江診療防疫班への来診患者の主なるものは「マラリア」及「アメーバ赤痢」なり 彭沢に於ては環境の不良なると共に倉庫を改造せる宿舎への圧縮舎営なりしを以て現地兵団をして特に防疫上の見地より衛生思想の普及に努め指導の適正を期せしめありしが四月に入りA型パラチフスの散発を見るに至り防疫処置に遺漏無からしむると共に患者はこ之を独立混成第八十四旅団解説の患者療養所に収容するの外 帰還輸送に支障を来さざらしめんが為 全員の菌検索を実施し所要の患者及看護人を在九江兵站病院に収容する等 万般の措置を講じたる結果 帰還輸送の本格化せる五月中旬には全く終息せしめ得るに至れり
石灰窟地区には特記すべき疾病の発生無かりき

以上

徒手官兵
戦友会 副会長 岡村寧次

蒋総統の声明

 講和独立後、初の八月十五日を迎えるに当り私が先ず思い出すのは、終戦当時の蒋介石総統が声明した言葉である。
「降伏した日本軍に対してみだりに報復したりしてはならない。暴に報ゆるに徳を以てせよ」
 この声明は長年中国を敵とし中国と戦って来た当時の日本人をいたく感激させたことは有名である。しかし敗戦後の引き揚げ、其の他の状況下に、この声明が事実上いかに実施されたかといふことになると、当時中国から引き揚げてきた二百万の日本軍民が、部分的、断片的に知っている以外には、あまり知られていないようである。
支那派遣軍総司令官として降伏の調印をし、引き揚げに際しては総連絡部長官といふ職を中国からあたえられた私は、終戦後の中国政府の好意が、この蒋総統の声明に基づいて、的確に実行されたことを、多大の感銘と共に知らされている。私はこの厚意に対する感謝の気持を昨年の二月十四日、日華文化協会の主催でちょうど来朝中の何應欽将軍を迎えて、歓迎感謝の茶会が開かれた折に、列席の文化人諸氏にお話したところ、多大の感銘を呼んだとみえ、会が終わった直後、七、八名の名士から、非常に丁寧な挨拶をうけた。またその後にもこの会に列席した人、あるいはそれを伝えきいた人々から直接間接に、「あのときの君の話には、実に感激した」と賛辞をもらった。

寛大な取扱い

第一に私の言いたいことは、終戦当時引きあげてきた人々を、普通は俘虜及び居留民と呼んだものだが、中国では厳密にいってこの俘虜といふものが一名もいなかったということである。
だいたい私の隷下にあった将兵の数は、終戦当時百二十二万、居留民が大体八十五万、合計二百十万の日本人が、中国に抑留されていた。そのうち居留民の一部は住宅を引き払われ、便宜上一カ所に集められたものもあったが、将兵は、はじめから一カ所に集結していたから、そのままの状態をつづけ一度も俘虜の取扱いを受けたことはなかったのである。
そして中国政府では、これらの日本軍を徒手官兵と呼び、公文書にもそう書いたものである。
徒手とは素手の意味で、官兵とは日本語の将兵に当たる。つまり武装していない将兵として、われわれを遇していたのである。もちろん当時の中国政府でも、これに対して多数の人が、あたりまへの俘虜の取扱いをせよという意見を出したのだが、何應欽将軍、その他日本通の人々も多数いて、日本人の性格を理解し、こうした形にすることが最も秩序を保つ上に有利であると主張して、降伏した敵側の軍司令官である私に対して、総連絡部長官という職を与へ、中国各地に散在する隷下各部隊の軍司令官十数名を、何々地区連絡部長官とし、これ等の総指揮に当らせたわけである。
だから武器を持たなくとも、従来通りの軍隊のまヽで、指揮に必要な通信機材、飛行機、自動車、自転車、といふものも、一旦接収されたものを返してくれるといふ状態だったから、このために私の隷下部隊の引き揚げは実にスムーズに行うことが出来たのである。

   多かった携行品

 引き揚げに際にしても、軍人、居留民を通じて、寝具のほか各人三十キロずつの携行品と、居留民千円、軍人五百円の現金携帯を許可してくれたことも、ほかの地方からの引揚者とくらべて、実に寛大なものであったといえよう。もちろん、居留民の中には、多年中国にいて、経済的基礎をきずき上げた人が多かったのだから、こればかりのものをもって引き揚げなければならぬということは、実に惨たんたるものであり、悲惨な気持で帰ってきたことと同情を禁じ得ない。しかし、これらの人々も内地に着いて見て、他の各地域からの引揚者が内地の港に着いた姿を見れば、中国のとった処置がいかに寛大であったかを知ることが出来たろうと思うのである。
当時私は、中国帰りの者は携帯品が多すぎて、内地へ上陸してから、各地方まで帰る汽車輸送に、大へん支障をきたしたと、進駐軍からしばしば文句をいわれる始末であった。しかし私はだまって、これを押し通してしまったが、この一事をみても、他の南方諸国からの引揚者から見れば、中国からの帰還者の携帯品が何如に多かったかをうかがい知ることが出来るのである。

   非例の復員

 敗戦の当初には、中国側の新聞、ニュースがこぞって日本内地の混乱ぶりを報じて来た。内地の軍隊が、一種の虚脱状態において、とうてい信頼出来得る状態ではないというよう情報が、頻繁に私の耳に入る。
外地のわれわれは、これをきいて、大いに迷ったものであった。そこで私は、中国派遣軍は、自力で復員しようと決心した。そして多数の先遣部隊を、各部隊の将校、下士官、兵を集めて編成し、内地へ派遣した。それに対しても中国側は、非常な好意をもって船を出してくれた。参謀副長の岡田少将が、大宰府に本部をおいて、博多、佐世保、鹿児島、仙崎等というところに派遣軍だけの復員準備部隊を設置したのも、このためであった。
内地頼むにたらずというより、戦勝国の好意によって、復員者を出す方と、受け入れる方との両方の仕事を、敗戦軍の指揮官がやったなどといふことは、今までの戦史に例のないことであった。

   好意の輸送計画

 中国の好意はこればかりではない。引き揚げを迅速に完了するためには、あらゆる障碍を排除して、輸送機関を総動員してくれたことも、その一つである。
一時的ではあったが、あの混乱の時期に、一般交通を圧迫して、汽車、汽船を総動員してくれたことは、中国政府にとって少なからぬ犠牲であったろう。具体的な例として、揚子江の船は経済交通をとめて、日本軍の輸送に当ってくれた。漢口、南京、上海と帰ってくるには、漢口から北上し信陽でのりかえて津浦線を迂回しなければならないのだが、これに対しては一般交通をやめて、輸送機関を全部日本輸送に向けてくれた。
こうした引き揚げに対する協力が、後日、国民政府に対する経済界の反感となって今日の苦境に立たねばならなくなったことを思えば、こうした輸送命令をあえて出した中国政府の好意というものは実に甚大なものであったのである。
終戦の翌四月ごろになると、漢口には日本人三十万人の中居留民一万五千人ほどが残ってしまった。ところがその頃になるともう交通機関はなくなってしまっていて、歩いて帰らねばならぬといふ状態になっていた。しかし、もし歩いて旅をするとなると、どうしても五千人は途中で死んだり落伍したり、危険がある。とくに女、子供、病人は、とても歩けるものではない。
そこで私は何とか交通機関を利用させてもらえないものかと、何應欽将軍に交渉した。何應欽将軍は、快くこれを承知してくれると、直ちに重慶方面から南京方面に出てくる中国人旅行者を停めてしまって、揚子江の全汽船力を、日本人の輸送に集中してくれた。
それだけでも足りないというと、全力をあげても一日十一本しか編成できない鉄道のうち七本から、多いときで八本までを、こちらの要求に応じて廻してくれたわけである。
しかもこの状態を約一ヶ月半にわたってつづけてくれたので、案ぜられた漢口の三十万の日本人は、無事に上海から乗船して帰国することができたのである。

   何應欽将軍の言葉

 私が国民政府に対して降伏調印をしたのは、昭和二十年の九月九日であった。そのとき、国民政府代表として出席したのが何應欽将軍であった。ところが、その翌日の朝、何應欽将軍から私へ細部にわたる打合せをしたいからすぐきてくれといふ連絡があって、私はとるものも取敢ず、出かけていった。そのときの同行者は小笠原参謀一人である。ところがそこで私が命ぜられたのが総連絡部長官の職であった。
その席で何将軍が傍にアメリカの軍事顧問がいるにかヽわらず、最初に言った言葉は「日本は今や再び武力を以て中国を侵略するような事はなかろう。だから、これからがほんとうの中日提携である。この終戦は、日本と中国が真の親交を結ぶ絶好の機会であると思ふ。大いにやろうではないか」と言うことであった。

私は帰還以来国際政治に関することや、一個人にわたる談話の公表を一切さけてきた。
しかし終戦当時の蒋総統以下、中国官民の敗戦日本に対する好意を伝え、あやまった宣伝を修正し、真の中日提携が行われる日の早からんことを、心からねがうものであることだけを記したいと思ったのである。

昭和二十七年「話」九月号掲載

 九江市は中国側の警備がきびしく一応平静さを保っていたが、毎夜のように戦勝の爆竹が鳴り喧騒を極め、中国民衆のわれわれを見る目には憎悪が充ちみちて、何かのきっかけがあれば忽ち、掠奪、暴行が起り得る要素を孕んでいた。

この年はこの日本人小学校で越年するかに思はれたが、中国側の警備の都合からであったのであろうか、十月の初旬一隻の汽船に乗ることを命ぜられ、揚子江を百キロばかり下った「膨沢」と言ふところで降ろされた。

 この膨沢と言う所は、前に揚子江、後に小高い山が連なり、一筋道の両側には萱で葺いた屋根の民家が三十戸ばかり立っているだけで、誠に貧弱な寒村であった。

少し歩くと、周囲を鉄条網を張りめぐらした二階建トタン葺き木造の建物が十数棟立ちならび、聞くところによると、この建物はかつて日本軍が此処を通過するときの一時の仮活用に建てられたものであると言う。

中にはいると古びた畳が敷いてあり、日本軍が昨日まで使っていたと思はれる、水溜めのドラム缶、ドラム缶の風呂、木造の火鉢、大釜にかまど、鉄線を張った物干しまであり、木炭、灯油、塩も少々残っていた。

吾等がこれを最大限に活用したことは言うまでもない。この建物の周囲に張りめぐらしてある鉄条網は、日本軍がここに宿泊するとき自衛を容易にするために日本軍が張ったものと想像された。

九江、南昌の居留民凡そ八百名の秩序を保つために軍隊式に一つの大隊(南潯大隊と稱す)とし、その下に各々出身県別に中隊を作り、その核心となる「長」は皆んなが最も信頼する者を据えて、自治の態勢が一応できあがった。
中隊と言っても、独身の男女、筆者のように妻子をもつ世帯、まぎれこんできた復員軍人、軍属等で構成されていて、無秩序に雑魚寝するわけにもゆかず、日本兵士が残して行った「古筵」を使って、男女の区別、又世帯毎に筵を張って風紀上の秩序に配慮して寝起きした。

此処では中隊長が父、副中隊長が母、年長者が兄、姉として名実ともに形を変えた立派な家庭であった。
男は薪とり、副食の魚とり、井戸がないので揚子江の水汲み、女は炊事、洗濯、つくろい物に従事した。
「灯り」がないので暗くなれば眠り、明るくなれば起き出て自活の仕事にはげむ原始的な生活であったが、全員無事に故国の土を踏むと言ふ共同の目的が支へとなり、互の絆は強くなっていった。
吾々の中隊には終戦まで看護婦として活躍してゐた、二十才から二十六歳位までの若い未婚の女性が十数名いた。化粧は一切せず素顔のまヽ黒髪も男のように刈りこみ、中国警備兵の目を惹かないようによそおはせてゐたが、小麦色にかがやく健康色は隠すすべもなく気にかかった。

   筵の戸互に開けて初笑
は明けて昭和二十一年の元朝の句である。
昨日まで戦勝国の国民として、中国の民衆に接していた者が一夜にして乞食同然の境涯に転落した、今日の姿を客観的に見た感慨の一句である。

新年と言ふと中国側も何か目新しいことをして見たいのか「中食を共にして日中戦争をテーマに懇談したい」と言ってきた。
警備本部の一室に日中双方の主だったものが相対して通訳つきで懇談が行われた。懇談と言っても、勝者と敗者の懇談で対等に意見を述べられる訳でもないのに中国側は、「日本の敗戦の理由」「今後の日中関係」について日本側の率直な意見を強くもとめた。第一の問題については積極的に発言する者がなく、只今後のことについては、同文同種の民族として仲よくやってゆこうと言ふことで終った。
木々が芽ぶき春風が吹いて清朝時代の詩人「杜牧」の詠った

   「千里鴬啼いて綠紅に映ず
    水村山郭酒旗の風」

の詩を思わず口ずさみたくなるほど江南の春は駘蕩としていた。

青柳のクリークには、鮒や鯉が手掴みにできるほどいて獲っては目刺にしてよく食べた。食ふだけの貧しい明け暮れであったが、中国当局のあたたかい取扱いに救はれて心にいくぶんの餘裕さえ生まれていた。

中国の警備兵とわれわれ相手にラーメン、支那万十を出す店もできて、三十戸ばかりだった寒村は百戸ばかりに膨れあがり一筋道は活気を呈しはじめていた。

居留民の中にはこっそり衣類などと交換した支那酒を収容所に持ちこみ酔い痴れる者もいた。
五月になると雨の日がつづき揚子江は急に水嵩を増して川幅を広げ海のようになった。
そんな或日中国側から配船の手当がついたので、明後日上海に向けて出発すると知らせがあった。
あわただしく身のまわりの物をまとめて、八ヶ月ばかりすごした膨沢とも別れる日がきた。

乗船して三日目に上海に到着「日僑収容所」と看板の出ている倉庫の筵に落ちついた。
自活に必要な炊事道具等一切備付けがあり、昨日まで帰国を待つ日本人が住んでいたことを思わせた。倉庫であるので採光の悪いのは当然として、多人数に便所の少ないのには困惑した。

外出は危険と言ふので一日中うす暗い土間にごろごろしていた。二週間ばかり過ぎた頃から、不衛生と栄養失調から皮膚病と眼病が流行し、収容所の生活が限界にきていることを思った。

上海での抑留生活も二十日ばかりで終止符を打ち、昭和二十一年六月二十二日梅雨の真只中にアメリカのリバティ型の船で博多に上陸、十ヶ月餘に亘って苦楽を共にした南潯大隊はここで解散して、それぞれの故郷に帰って行った。

   ふるさとに山河のありて蛍とぶ

 歴史の風化と共に茫々四十年の昔を必死に思い起し、事実を正確につづったつもりであるが、筆者の記憶違いがあるかも知れない。
それは偖ておいて、裸一貫が引揚者の代名詞と言われた当時、われわれは寝具の外に各自三十キロまで携帯して帰国をゆるされ、家族と共に健康で無事帰国できた裏には、時の支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の苦心と、国民政府陸軍総司令官何應欽将軍の暖い配慮があったことを知り、一人でも多くこのことを知って貰ふために、「何應欽上将軍著(台北正中書局刊行)中日関係と世界の前途」の中に附録として、岡村寧次大将の書かれた「徒手官兵」と題した記録を末尾に付す。

この日を境に南昌は大混乱におちいった。

 混乱の模様をいちいち写しとったら、きりがないので省略するが、東京の外務省からは領事宛に、「在留日本人をまとめて無事帰国せられたし」との電報を最後に、一切の通信連絡はとだえた。機を失せず、南昌市の辻という辻に壁があれば壁に貼り出された国民政府軍最高司令官、蒋介石氏(故人)の「暴に報いるに暴をもってするな、日本人に理由なく危害を加えた者は直ちに死刑に処す」との佈告を読んで少しは落付いたが死の恐怖は去らなかった。

 当時私には妻と五才と三才の子供がいて、明日の運命さえ予測され難い極限状態におかれると、「詩」などを生む余裕は失われていた。其のなかに或晩句友が見せた、

   さすらいの民に雲濃き今日の月
   月今宵傷心覆い難き身の

の句は忘れ難く今でも憶えている。

 日本軍は早晩武装解除が行われるであろう。そうなれば、女子供を含む約三百人の在留日本人の運命はどうなるか?糸の切れた凧みたいな存在になるのは目に見えていた。
協議のすえ当面の自衛策として、先ず米と塩をたくわえ、小銃、手榴弾等を隠匿して、最悪の事態に備える事にした。

 或日街の中に爆竹等が鳴り騒然となったので、出て見ると、何度か嫌政府で談笑し飲食を共にした事のある、県長(知事に相当)以下逃げ遅れた幹部等が敵国に協力した漢奸(祖国に弓をひいた最大の裏切者)として、後ろ手に縛られ、頭には「三角帽」を被せられ、洋車(やんちょう)(人力車)に乗せられて市内を引廻されているところであった。

 あまりにも変わり果てた県長の姿に一瞬息を呑み、正視することが出来なかった。
 こうした事態の中で、未だむきずの日本軍将校の或る者は、飲酒抜刀して「俺は降伏などせん」と料亭の柱に切りつけたり、訳もなく拳銃を発砲したり、いたる所で、其の狂気が見られた。

 終戦後素早い行動をとったのは憲兵であった。彼等は凡ゆる交通機関を利用して、街から姿を消した。今考えて見ると最も賢明な行動であったと思はれる。

 前面に展開していた、大陸では不敗の日本軍大部隊が揚子江を目ざして大移動を開始したのは、終戦後七日ばかりしてからであった。日本軍の武装解除を目前にして、軍から「南昌郊外を通過する部隊のために御迷惑と思ふけれども「湯茶の接待をして貰えないか」との申し出があった。総軍司令部から派遣されて慰問に来て居て、たまたま終戦に合い滞留していた、軍楽隊と共に南昌郊外の森に、あらん限りのドラム缶を集め、毎日そのドラム缶に湯を沸かし、通過する兵士にさヽやかな湯茶をふるまった。

 中国大陸の南方から真黒に日焼して汗にまみれ、近ずくと異様の臭気を放つ兵士が完全武装のまヽ続々と吾等の待つ広場に、しばしの憩をとった。一杯の湯茶に喉をうるほした兵士の中には「日本人の女が居る」と感動のあまり棒立になる者も居た。永い間戦塵にまみれ中国奥地の山ばかりを見てきた兵士には日本婦人の着物姿はたまらないなつかしさを覚えたに相違ない。

 大休止が解けて、赤茶けた丘の上で軍楽隊が奏する「蛍の光」は恰かも帝国陸軍の最後をみとる葬送曲のように聞こえて、言葉では言い現せない悲しみが胸を突きあげてきた。横に整列した、女接待員等は、ハンカチで目を押さえすすり泣いて行軍の兵士を見送った。日本軍の敗戦を信じ難い様子の行軍兵士には「何故泣くのか」判らなかったかも知れない。日本刀を吊し背を正した馬上の部隊長、それに続いて歩いて行く兵士の横顔に折柄落ちかかった大陸の夕日が紅く染めてゐた。

 世界最強の軍隊として世界中の人々に怖れられ、吾々日本人も心からそのように思っていた、日本帝国陸軍の最後の姿がここにあった。

八月十五日の終戦記念日が近ずくと、その時の光景がまざまざとよみがえる。

その頃北満はソ聯軍の侵攻により毛沢東の率ゆる共産軍の手に落ち、南昌前面には、「新四軍」と言う共産軍が国民政府軍の目をかすめて出没しては、密かに日本軍に「吾々に味方しないか」と誘いかけてくると噂の種にされていた。
もともと国民政府軍と共産軍共同で日本軍に当たっていたが、今、日本の降伏によって、遅かれ早かれ国民政府軍と戦わなければならない宿命にある共産軍にとって降伏した日本軍兵士を一人でも多く自己の陣営に引き入れたかったであろう。

 この新四軍という共産軍は、一般社会では当然のことであるが、農民達が野菜をくれても、或いは泊っても必ずその代価を支払い、必要があればよろこんで農家に奉仕すると言うぐあいで、今までの「奪う」「犯す」「焼く」の兵隊とは、うって変って厳正な軍紀のもとに行動する軍隊として、民衆の心をしっかり掴んでゐるようであった。
国民政府側では武装のまヽの日本軍を放置して置くのは危険と感じたのか、終戦から十数日過ぎの暑い日に吾々が最も恐れていた日本軍の武装解除が行われた。もうわれわれの背後には力強い後楯はない。自力で生きてゆくほかはないと決心した。

階級章だけつけた丸腰の兵隊は「徒手官兵」と稱され復員に便利な揚子江沿岸の荒地に自から竹の柱に萱を葺き、自給自足の態勢で船を待つことになった。

日本占領時代の和平地区では、南京臨時政府発行の「儲備券」が唯一の通貨で、吾々の月給もこの通貨で支払はれていたが、終戦と同時にこの通貨は紙切れ同様となり、代って国民政府の発行する「法幣」が流通することになった。このことは和平地区の民衆とわれわれが無一文になったことを意味する。

 日本軍武装解除後の南昌市の治安は中国軍の警備に任されていたところ、或る日日本人商店に陳列してあった、綿布を暴民が持ち去ろうとしたのを警備の兵士が阻止しようとして爭になり、これを口火に掠奪は全市にひろがり、日本人が市内に雑居していては、いつどんなことが起るか判らない状態になったので、警備当局の好意を受けいれ、昨日まで日本軍の司令部であった跡に集まり難を避けた。翌々日だったと思ふ、自活に欠くことのできない食糧品、綿布等を二十余隻の帆船に積み込み瀋陽湖を経て揚子江沿岸の港町、九江市の日本人小学校に辿りついた。

つづく


祖父の書いた戦中戦後の回顧録を従妹が持っていました。今回、従妹から見せてもらい、その内容に大変驚きました。知らないことばかりが書かれていました。
それほど長い文ではないので、ここに数回に分けて再録しておこうと思います。


山河ありき

 筆者が中支の南昌日本領事館警察署の警察官として赴任したのは、支那事変が拡大の一途をたどり、漢口がやっと陥落した昭和十五年の夏であった。

当時同市に行くには、先づ長崎から船に乗り、上海に上陸して大陸の内航船に乗り換え揚子江を北上し、首都南京を経て更に同江を遡航、二日がかりで九江市に到着、ここから鉄路を西南に向け、軍事輸送の貨車の片隅に八時間ばかり座って居て、やっと南昌に着くと言う経路をとっていた。

 南昌は中国大陸の東西南北のほぼ真中に位置し、江西省の省都で、当時人口約三十万と言われ、日本人はもとよりかって外国人が住んだことのない、最も排他的思想の強いところといわれていた。それだけに四千年の歴史をもつ中国奥地の中国人の素顔が「生」で見られた。例へば女の纏足(幼少の頃足指をまるくしておき活発に外に出られないようにして浮気を封ずる)男の弁髪(黒髪を肩まで垂らす)の遺風がいたるところで見られた。

 周辺には日本軍約二個師団が展開、南進の拠点として重要視されていた。在留日本人も六百人をかぞえ、主として軍相手のサービス業、貿易等に従事していた。南昌警察署は警部署長以下十二名で構成され、在留日本人犯罪の取締りと言うより、むしろ指導に重点がおかれ、日本人の保健衛生から戸籍事務等まで担当し、言うなれば警察権を持った町役場のような存在であった。署長は福島県人で、号を「桃村」といい、大変俳句の好きな人であった。土曜日には全署員が広い署長室に集合、句会が開かれるのが常であった。しかしみんな進んで出席していたわけではなかった。「趣味の押し売りだ」とぶつぶつ言いながらも、出席しないと署長の機嫌をそこねるからである。

 当時の外務省警察官の昇任はその所属長が推薦した者のなかから、競争試験で昇任する制度であったから、まず所属長の気に入らねばならない事情があった。「俳句の一つも出来ないようでは常識人としての教養に欠ける」と言うのが、俳人署長の口ぐせであった。従って毎土曜日の句会のやりかたは独善的で誤字脱字があろうものなら「それで報告書が書けるか」と其の場で叱られた。

 其の当時の句で今も記憶に残っているのは誰の句であったか、「移り住む難民の群夏木立」の句である。現在のカンボジヤの難民を想起させそうな句である。

 俳句の先生であり、署長である「桃村」師の俳句指導は、あたかも大工見習いが師匠に手を取って教えられるようにして、頭から俳句をたたきこまれた。桃村師との出合いが、すなわち私の俳句につながる出合いであった。否応なく強制されて俳句の世界に踏み込んだが、一年以上も俳句に親しんでいると、自然に俳句の「よさ」、「面白さ」がわかって来て興味を覚えるようになった。「ホトトギス」にも投句をはじめた。

 当時のホトトギスは極めて厳選で、一年つづけて投句しても、一句も入選しないのが常識とされていた。
私に俳句の目を開かせた恩人は、福井県人で、しかも親友の奈良邯子であった。彼は若い頃から俳句に興味を持ち、その当時すでにホトトギスへの入選の経歴をもっていた。俳壇の消息にも通じ、虚子のホトトギスを「一つの企業」と言い、「虚子は偉大な俳人であると同時に企業人である」と評していた。

 当時南昌には軍報道部が発行していたタブロイド版の新聞があるだけで、ラジオさえ聞くことは出来なかった。中国本土の奥地にあっては、この新聞が戦争の行方、国内の情況、世界の大勢を知る唯一の拠りどころであった。毎日戦況を知らせる景気のよい活字が列んでいたが、敗色はおおうべくもなく、連日の爆撃と重慶側のゲリラにふりまわされ、夏雲を仰いでの嘆息の毎日であった。

 昭和十九年も末になると、在留日本人で妻子を内地に帰すものが急に多くなった。

 揚子江(今は長江と呼ぶ)は日本陸海軍で何とか(昼間は米機の爆撃で危険)安全が保たれていたが、上海─長崎間の海上航路は、潜水艦の出没で危険となり、はるかな鉄路をとって、当時の首都南京に出て、京漢線を北上、現在の首都北京を経て満州に入り、朝鮮半島を縦断して南下し、終点の釜山から、旅客船で下関に上陸するという大変な旅行をよぎなくされた。

 外務省の警察官は外地に三年間大過なく勤めたら、官費で帰朝することができ、三ヶ月間内地で静養できるしくみになっていたが、有資格者であっても戦争中のことであり、なかなかその権利行使ができにくい状態であった。しかし、親友「邯子」君は家庭の事情を訴えて再三帰朝願を出し、三ヶ月以内に任地に戻る事を条件に許可され、妻子を連れて福井市に帰郷した。

 同君が帰って来たのは昭和二十年四月で、「日本の国土のほとんどが制空権を失い、焦土と化しつつあり、国民は疲れきってゐて、今講和がなければ破滅するのではないか」と、その帰国談にはただただ驚くばかりであった。そうこうするうち、欧州ではその年の五月一日、米英ソの連合軍がベルリンに突入し、ヒットラー総統は自殺したと伝えられた。

 その時の気持ちとして、じっとしておれず、当時南昌市唯一の台湾銀行の応接室でドイツ滅亡の追悼句会を開いた。憲兵に知られるとめんどうになるので本当に気心の知れた一心同体の者七、八名が集った。
残念であるがその時の句は、私の句を含めて次の四句しか記憶していない。

     ドイツと言ふ国かつてありき花茨(いばら)   邯子
     もう出ない陽が沈み行く夏野かな        鶴子
     バラ活ける刻も失いドイツ逝く         了夏
     巨(おお)いなる国の崩るる日の薔薇(さうび) 礁舎

ドイツは二度までも大戦を引き起こした張本人として、再び日の目を見る事はなかろうと言うのがその時の我々の結論であった。

 我々の身にふりかかる破局は間もなくやって来た。八月十五日の無条件降伏である。
                                

...つづく