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今日は衆議院選挙。
いつもながら投票率が気になります。
関東地方は天気が下り坂。
でも全国的にはまぁまぁのお天気のようですね。どうか投票率が上がりますように。
私は今回は期日前投票しました。
国民審査もしっかり考えて☓つけてきました。

注目してるのは東京12区。
神奈川2区、13区。
です。
いい結果を見たいです。

今月帰省したときに父が市民農園で作っているさつまいも(熊本ではカライモ)の大きいのを一つもらってきた。

早速我が家のシェフに調理をお願いする。
はじめは輪切りにして天ぷらにしてみたけど、まだまだたくさんあるので、芋けんぴみたいに細切りにして、軽く粉をつけてあげたあと、グラニュー糖で作った蜜に絡めて大学芋風にしてもらった。
出来立てホクホク、とっても美味しかった。
それでもまだ残っているので、グリルで焼き芋にしてお弁当のおかずに入れてます。 1個で使いでがある~。
秋の味覚。美味しい美味しい。
ごちそうさまでした。

先日10月16日(土)にすみだトリフォニーホールで行われた、新日本フィルのチャリティーコンサート「星に願いを」に行ってきました。
ひがしんという銀行がスポンサーで、ファミリー向けの楽しいコンサートでした。4歳から入場OK。
お目当ては、ニューヨークで活動中の「クラウン」岩佐麻里子さん。
このコンサートのために帰国して隔離していたそうです。
大変ですね。
道化師のいるクラシックコンサートなんて初めて!

指揮者の藤野浩一さんもノリノリでこういうコンサートに慣れていらっしゃるご様子で、おしゃべりも説明もお子様向けなのでとても分かりやすく、大人も十分に楽しめました。
特にオーケストラの楽器紹介は楽しかった。
新日本フィルは50周年とのことで、記念グッズが販売されていました。
「ブラボー手ぬぐい」を1000円で購入。
いまは声を出すことも自粛なので、「ブラボー!」と声かけたいときにはこの手ぬぐいをバナーのように振るとよいとのこと。
ロビーには「新日本フィル50年の軌跡展」というような写真パネルが。
これすごい!
1972年の結成特別コンサート。もちろん指揮は小澤征爾氏。
すみだトリフォニーホールは錦糸町の駅前にあります。
ここに来たの、5年ぶり。
前回は熊本地震の直後、小澤征爾指揮のコンサートを聴いたんでした。
「熊本地震被災者のために」ということでG線上のアリアが特別に演奏されたのでした。
終演後、錦糸町から両国まで散歩をかねて歩きました。
錦糸堀あとにある公園「おいてけぼり」の河童の像がありました。
両国駅近くには「芥川龍之介成育の地」がありました。
今は居酒屋さんでした。

平日休みは人気店にランチを食べに行くのもいい。やってきたのは、横浜麦田町にある「奇珍楼」。
創業100年以上の老舗中華料理店。
テレビでも何度も紹介されている有名店。
私がこの店を知ったのは、博物館にあった横浜華僑のライフヒストリーをまとめたインタビュー集。ここの先代(故人)が関東大震災や戦災などをくぐりぬけてきた話を読んだことがきっかけ。⇒過去記事
店の前は何度も通るものの、ごはん時じゃなかったり、混んでいたりで再訪していなかった。
きょうは名物の「竹の子ソバ」を注文しよう。
ここでいう竹の子というのは、しなちく=メンマのこと。ほかのお店のと違って、分厚く大量に入ってる。
とってもおいしかった。
お店はとってもレトロ。
お客は平日昼間ということもあり、高齢者が大勢。
みなさん、常連さんかな?
1人で行くと、10人掛けくらいの丸テーブルで相席になってしまうけど。
レジ打ちしてるのは、今の店主さん(おそらく私がインタビューを読んだ人の娘さん)でかなりのご高齢。「美味しかったですよ~」と声をかけると「竹の子ソバはものすごく手がかかるのよ~」と。
ほかのテーブルで食べてた「揚げワンタン」おいしそうだった・
サクサク音がしてた。
また行こう。

生まれてはじめて街頭演説に能動的に参加してみました。
というのも、菅元首相が近くで応援演説するとわかったので。
一度くらいみておいてもいいかな?と。
全く心に響かない話を繰り返す首相は一体どんな人だったんだろうとこの目で見てみたくなりまして。
バスに乗って行ってきたのは、神奈川6区の松原商店街(ちなみに私は神奈川1区、菅さんは2区)

旧東海道保土ヶ谷宿手前にあるこの商店街、そんなに大きなところでもないので、一体どこで演説があるのかな?

バスを降りてすぐ、候補者のポスター持った人に

「菅さんはどこに来るんですか?」と尋ねましたら親切に教えてくれました。支援者と思われたんだと思います。ビラももらったので、候補者本人にも目ざとく見つかり、ふかぶかとお辞儀をされてグータッチまで求められてしまいました。
商店街は歩行者天国になっているので商店街の外れに須田さんの車が効くようですそこまで行ってみるとすでに SP とかがたっていて、商店街の役員さんと思しき人らによる場内整理が始まっていました。神奈川新聞の記者も脚立を持って取材の構え。でも、狭い路地で集まってる人30人くらいかな。

「本人」もやってきて菅さんお迎え体制に。

予定の時間をずいぶん回ってようやく「菅前総理がお着きになります!」というアナウンスが流れ、みんながスマホを向けるようになりました。

随分小さな人だなというのが第一印象。

ようやく人の隙間から顔が見えました。

この後菅さんは商店街を少し歩いて会場の公園に向かうという話。人混みは嫌なので公園に先回りして待つことに。商店街近くの小さな児童公園でした。

集まった人はざっと見回して200人程度?
ドブ板っぽい手作り感。

菅さんが登場すると、さすが地元。

もり上がってました。
初めてこういうのに行ったので(これまでは大きな駅前とかでやってるのにたまたま通りがかったくらい)比較できないけど、人少なすぎでは?と思いましたが。
北朝鮮ミサイルで野党(特に立憲と共産)を攻撃。「日米安保に反対してる人たちに任せられますか?どうですか?」と。
首相としての実績として携帯料金値下げと不妊治療保険適用をアピール。
応援の候補本人が横浜市議だったのでこういう問題に気がつくのは市議出身だからと言ってました。
首相の仕事としては小さいと思うけど。会場からは「そうだ!」とか「菅さんありがとー!」とかいう声が飛んでました。さくら?本気で?

私の感想は「原稿見なくても話せる人だったんだ。」でした。
このあとは千葉の方を回るといってました。ここは一応6区のエリアでしたが、数ブロック先は2区、菅さんの選挙区なので、応援というよりほぼ地元でしたね。40〜50代くらいの人が多いのが印象的でした。


でも、ちょっとしたお祭り感あったので
他の候補者の街頭演説とかも能動的に見に行こうかなとおもいました。
明日は横浜駅西口に維新の党首来るらしいけど、どうしようかなー。
元首相なのでSPついてます。眼光鋭い。

6

先日誕生日でした。
晩御飯のごちそうを近所の肉屋さんに買いに来ました。
肉屋さんの前に猫がじーっとうずくまってました。
声をかけても微動だにせず。
寝てたのかな??

ホールケーキなんて何年ぶりでしょうか!

夫が近所のケーキ屋さんに予約してくれました。
約束の時間に取りにいったら、どうも定休日だったみたい。わざわざこれだけのために店で待ってくれてた模様。申し訳なかったデス。シェフありがとう。

二人なので、もちろん一番小さなサイズですが、甘さ控えめだったし果物いっぱいだったので、ぺろりと平らげてしまいました。

肉屋で買ってきたごちそうは、このローストビーフ。
大きな塊からスライスしてくれるので、ジューシーで美味しい。
自分でお肉を買ってきて作るのとコストは同じくらいなのに、数段美味しい(家では小さな塊でしか作れないからね)。
これとスーパー惣菜コーナーのスモークサーモンで、いかにもお酒呑みのディナーになりました。

贅沢させてもらいました。

感謝感謝。

熊本から帰ってきました。
ここは横浜です。
横浜でもちょっと歴史散歩してみたくなりました。
普段触れてる横浜の歴史は開港以降のものばかりなので、今日はもう少し古い所へ行ってみよう。
横浜市金沢区にある「金沢文庫」と「称名寺」を目指します。
まず、京急線でその名も「金沢文庫」駅へ。
目的地はここから徒歩15分くらいです。
駅前に案内板がありました。
金沢八景の方へは去年の今頃行きましたね。
駅から国道16号を渡るとすぐ静かな住宅地になります。
そしてその住宅地の中にいきなりありました。
県立金沢文庫。
金沢文庫は鎌倉時代のこの辺の武士「かねさわ氏」(北条氏)が所蔵していた書物~蔵書のことです。当代随一のりっぱな蔵書で、日本最古の図書館と言われると学校でも習いました。
鎌倉幕府の滅亡、金澤北条氏の滅亡に伴ってその蔵書はおとなりの称名寺(金澤北条氏の菩提寺)に保管がうつるも、徐々に散逸していくのですが、価値が高いのであちこちの偉い人たちの手により保管されていました。
そして近代以後、金沢文庫の再興が試みられ、現在は県立の博物館になって貴重な書物などの保管研究をしているそうです。
「よみがえる中世のアーカイブズ」という企画展をやっていました。(といっても古文書がずらーっと並んでいるだけなので・・・)
常設の金澤北条氏の歴史の解説や称名寺の仏像や壁画のレプリカなどは見て楽しい(興味を惹かれる)ものでした。
といっても、観覧者ほとんどいなかったけど。
金沢文庫と称名寺は隣り合ってるのですが、このトンネルを抜けていきます。
横浜もこの辺まで来ると、鎌倉っぽいですね。
上の写真のトンネルの隣にある「中世のトンネル」
いまは通れないようになっています。
こんな無粋な柵じゃなしに、もっとちゃんと見えるようにしてほしいけど、予算がないのかな?
トンネルを抜けると、そこは「称名寺」です。
古刹なのだけど、みょうにのんびりとしたゆる~い空気が流れていました。
平日の昼間だったので、幼児を連れたお母さんたちがつどって子供を遊ばせながらおしゃべりしてたり。
池のカモの写真を撮ろうとカメラを構えるおじいさんがいたり。
公園みたいな雰囲気。
りっぱな池や太鼓橋のある浄土庭園。
とっても平和な空気が流れていて、これが「お浄土」なのかもと思ったりもしました。
本堂と鐘楼。本堂には博物館で見た重文の弥勒菩薩像がいるはずですが、扉が開かず中を見ることはできませんでした。
本堂脇の釈迦堂は草ぶき屋根。
けむりだし(?)のところにミツウロコの紋(北条氏の紋)
阿字が池の上の太鼓橋からのながめ。
仁王門。
りっぱな仁王さんがいました。
この写真は仁王門の外に出てお寺の方を振り返ったアングル。
赤門からつづく参道がきれいに整備されています。
以前は大きなお寺で、仁王門の外には塔頭が並んでいたと思いますが、いまは住宅街になっています。
赤門。
ここは鎌倉時代に「忍性」というお坊さんがやってきたことで「真言律宗」のお寺になったそうです。門にもミツウロコの家紋があります。

池辺寺跡を見たあと、せっかくここまで来たからと、熊本港に寄ることにしました。
熊本港。
1993年開港なので子供の頃にはなかったし、初めて行きます。いつも飛行機の上からは見てるんですけどね。
熊本~島原を結ぶフェリー(60分で島原へ)が就航しています。
行ったときちょうど九商フェリーの出航時間でした。
写真にあるのは、高速船オーシャンアロー(30分で島原へ)。
機材不良のため欠航してるみたい。

島原の観光案内カウンターがありました。
島原なんて小学校の修学旅行以来です。
コロナ前は結構にぎわっていたそうです。
いつか私も行ってみたいな。
セーラー服のくまモンいました。
くまモンの写真撮りに行ってたら、父が売店でソフトクリーム買ってました。
(父はよくソフトクリーム買ってくれる)
ボリュームたっぷりでとってもおいしかった♡
ごちそうさまでした。
船が出て行ってしまったので、がらーんとしてます。
熊本港はこの遠浅の有明海に突き出た人工島にあるのですが、干潮になると全く水がない!(人工島と陸地を結ぶ橋の上から撮影)
こんな浅い海に港を作るのは相当大変だったでしょうね。

2

帰省初日、父が「チヘンジに行ってみようか?」という。
「チヘンジ?」聞いたことないけど、お寺かな?
父によるとなかなかいいところだという話。
これまでの経験上、父がこうやって誘ってくれるところは間違いなく興味深い場所なので出かけます。
みちみち説明を聞くと、どうやら奈良時代創建の古いお寺の跡らしいとわかりました。遺跡らしい。
へー、熊本にそういうところがあるんだー。
詳しいことは、こちらの公式ページへ。
熊本市西区、海に近い方にあります。
金峰山に連なる山がいくつかある中に「独鈷山」と呼ばれる山があります。なんと、空海が唐から法具を3つ投げ日本に届いたうちの一つ独鈷がここに落ちたのだそう。(ホンマカイナ…)
池辺寺の遺跡はそこから近いところにありました。
遺跡に到着。

発掘された礎石などから復元した本堂模型。

本堂の入口ナノでは?と考えられているところ。大きな平たい石がありました。

さて、お寺の跡なら日本全国あっちこっちにあるでしょうが、池辺寺の特徴的な遺物はこの「百塚」(「百塔」とも)
百基ある石塔です。

こんなふうに縦10基×横10基、計100基の石塔跡が、本堂の背後に見つかったのだそう。本堂の前には池などのある庭園も見つかりました。

見つかる前からこのあたりは「百塚」という地名があり、耕作してはいけないと伝えられてたのだそう。
なだらかな斜面に規則正しく並ぶ石塔。
「塚」と呼ばれてきたけど墓ではないらしいです。では何だったのか?
わからないんだって!
こういう建造物は日本全国的にも珍しく、何なのかわからないそうです。
ロマンだ!
下の写真は復元された石塔です。

百塚の上から斜面の下の方(熊本市内)を眺めます。
写真ではわかりにくいですが、正面に花岡山の仏舎利塔が望めます。

石塔の周りは舗装されたので、石塔の中に草がたくさん生えてる。

本堂のあったところを横から眺めたところ。
人影が見えるのが本堂のところ。

訪問した日、熊本は10月というのに30度を超える真夏のような陽気でしたが、ここに吹き渡る風がとても気持ちよかった。

景色も良くて、古代にここにこういう大きな寺が作られたのもわかるような。
創建は奈良時代。
ということは国家鎮護の仏教だったはずで、お寺が大学みたいな教育機関でもあった頃。
今行くと、熊本の市街からも離れた辺鄙な山の中にあるイメージですが、奈良〜平安初期にかけてはある程度交通の便もよかったはず。熊本にあった国府は今の国府電停のあたりなんでしょうから、そこからは相当離れてますが。
研究が進んでもっと色々わかったら楽しいですね。
つらてこられてよかった。
お父さんありがとう。

荒瀬の道の駅で鮎を食べたあと、また坂本橋を渡って油谷川をさかのぽります。
この辺りもいわゆるバックウォーター現象により被害の大きかったところです。
川沿いの家屋は撤去が進んており、景色が一変していました。
昔の製紙工場跡地にできた大きな児童公園「くまがわワイワイパーク」は災害ゴミの集積所になっていました。
この山の上には祖母のお墓もあるのですが、今回はお墓参りはスルー。
更に上流へ向かいます。
父は行きたいところがあるようです。

鮎帰にある西福寺。ここのご住職に会いたかったようですが、あいにくお留守でした。

念仏者九条の会というのがあるのですね。

現代の感覚だと鮎帰は球磨川沿いの鉄道や国道からも離れた山奥と思ってしまいますが、江戸時代以前はむしろ街道沿いの文化の出入口だったかもしれないそう。

ずい分前からバスも通らなくなり、住民の足は乗り合いタクシーだそうです。

油谷川。大きな岩がゴロゴロ。

鮎帰からさらに上流へ向かい、ヘアピンカーブの続く山道を登っていくと「日光(にちこう)」という集落があります。棚田が有名なところ。
祖母の生家があるのてすが、はじめてきました。
かなり上ったところにある集落、日当たりがいいですね。でも、学校に通うのは大変だろうなぁ。

棚田は更にその上にあります。

何枚かは水田でしたが、芋、そばなどの畑の方が多くなってました。

こんなところにこんな棚田を作るのは相当な苦労があったことでしょうね。

かなり高いところだと思うのですが、水源がよくありましたよね。

ちょうど稲刈りが終わったところでした。

そばの花。

油谷川沿いを離れ、今度は中谷川沿いを登って木々子を目指します。こちらは祖父の生家があったところ。今もその家があるのかどうか、親戚付き合いもなくなっていてわからないようです。

木々子集落も谷を随分上がったところにありますが、山の中にちょっとした平地が広がっていて、家もまだまだたくさんありました。暮らしやすそう。

木々子の隣の衣領(えり)集落。

伯母の家がありました。何度か遊びに来たことがあるので懐かしく写真を撮りました。この丸木橋は、伯母の家の前にあったもので、ここを渡って川向うの畑で野菜などを作ってました。今見ると恐ろしいようですね。

道の駅の復興商店語彙で見た木々子の七夕飾り。なぜ木々子にだけこういうものが伝わっているんだろうと思ってたのですが、行ってみてわかりました。地形的にも他の集落とは違い、戸数も多いし独特の文化が育ちやすかったと思われます。(もっと他に歴史的な理由があるかな?)

被災しているところばかりを見るのも心苦しく、上流の日光や木々子へ行けて良かった。どちらも私のルーツに繋がってくる場所でした。

帰省の2日目、父が「坂本に行ってみようかね」というので一も二もなく賛成。水害のあと初めて行きます。
「荒瀬で鮎を食べられるかも」と母。
クラファンに参加した「さかもと鮎やな」のことですね。やった!
天気が良い。良すぎてまだ夏のよう。
でも、田んぼは黄色く色づいてる。
熊本から八代を経由して球磨川沿いの坂本へ行く。八代の宮地側から西部大橋を渡って219号線へ向かう途中、段駅あたりで線路の草取りをする人々がいた。JR肥薩線も去年の水害で壊滅的に被災して不通になっているのだけど、きっと近隣のみなさんがキレイにしたいと言うことで草取りしてるのだろう。

深水橋のあったところに来た。

跡形もなくなっていた。

深水橋の親柱。

深水橋のたもとには親戚の家があったらしいが、早くに無人となり荒廃激しく判然としなかった…

219号線は災害復旧のダンプなどが多く走る。親によると「お盆に来たときより少ない」とのこと。週末だからかな?

仮設の坂本橋を渡る。
川の中には、まだ流されたもとの坂本橋の残骸が見える。

坂本橋を渡ったすぐのところにあるみねとま医院も解体工事中だった。ここ子供の頃にお世話になったなぁ。

坂本駅。

浸水したとはいえ、こうしてみると駅舎は無事のようだけど…

線路へ行くと、ホームよりも高く砂利が積まれていた。これからどうなるのだろうか??

坂本から藤本集落へ県道側を走る。

話には聞いていたけど、県道が途中から崩れてなくなっているので、並走する肥薩線が道路になっていた。(写真右手が元の県道)

藤本小学校跡。

懐かしいのでいつも寄ります。
この運動場は水害の時に SOS の表示が出ていたところ。

藤本小学校が創立百年を迎えたときの記念碑。このとき在校していたので、なつかし!

葉木橋を渡って荒瀬の道の駅へ。

道の駅には「復興商店街」ができていました。そせて、さかもと鮎やなもここで営業していました。
テントの下で鮎を焼いています。

食堂はこの中。

復興商店街には「木々子(きぎす)の七夕飾り」がありました。

去年の水害で流されたけど
見つかった看板(新聞記事になっていました)

鮎の塩焼き定食が1650円。

鮎の甘露煮、田楽、天ぷらまでついてる鮎づくし定食は3300円デシタ。
(写真は1650円の)

久しぶりに鮎食べたー!

ご飯も鮎ご飯、お味噌汁にも鮎が入ってました。それに懐かしい生姜の味噌漬け。坂本の親戚がよく漬けてました。懐かしい味。

堪能してお腹いっぱい。

このあとはその名も「鮎帰(あいがえり)」へ向かいます。
あゆがえり?
あいがえり?

6

コロナも随分状況が改善したので、今のうちに!と思い、2泊3日で帰省してきました。
あまりゆっくりする時間もありませんでしたが、初日には「池辺寺跡」を見学したり、2日目は去年水害で大被害を被った球磨川へ行くこともできました(球磨川のアユを食べました^^)。そして3日めは、単独行動で熊本市内を散歩しました。
まずは、その記録を写真でつづってみたいと思います。
目的は上通の蜂楽饅頭を買うことだったのですが、たまたま乗った電車が「上熊本」行きだったので、行ったことのないところを歩くのもいいかなと思って、終点「上熊本駅」を起点に少し歩き回りました。
上熊本駅。
ここに来たのは初めてのようです。
同じ始発駅でも健軍の電停とは違いますね。
車庫もあり、単独軌道もあり。
(わが輩ポストってなんだろ?)
わが輩通り界隈マップ。
これで散策するのはかなり難しいマップ!
ここから「草枕」の旅も出かけられるらしい。
むかしは徒歩だったんですよね。
JRの上熊本駅駅舎。
木の風合いが素敵です。
日曜だけど人影まばらな上熊本駅構内。
くまモンハロウィン扮装。かわいい。
上熊本は漱石先生推しなんですね。
こちらは熊本電鉄の上熊本駅。
くまモンラッピング電車が来てました。
「鉄」なおじさまがバシバシ写真撮ってた。私も負けずに撮る!
道を渡ると小さな緑のコーナーあり、そこに銅像が。上熊本に下り立つ若き日の漱石先生だ。イケメンですね。
2ショット写真撮りました。
漱石ファンは上熊本に行かなきゃですね。
ここから、京町台地に上がって熊本城経由で上通を目指します。
初めての土地。ワクワク。
京陵中学校。名前は知ってたけど、ここにあるのか~。門のわきの楠が立派!
ここにも漱石先生モノあり。
句碑です。
「すみれ程の小さき人に生れたし」
京町本丁漱石記念緑道。
界隈一帯は漱石先生で町おこしかな。
本「丁」というあたりが古い町という感じがしますね。
堺市も「丁」を使ってました。
なにかありま。

近寄ってみると「清正のまちと街路つくり」の案内板。
京町は加藤清正によって整備された町なのですね。地図は細川時代のもの。
「京町は清正公さんのおひざもと!!」だそうです。
ここまで来ると、漱石の影がうすらいだかな?
これは何だろう?
いかにも古そうな味噌屋さんがありました。創業寛政四年の池田屋醸造。
台地だから、阿蘇まで見渡せる。

「裁判所前」のバス停があり、横を見たら見覚えのある建物が。
「あ~これはここにあったんだ~!!」
よくニュースで出てくる、熊本地方裁判所ですね。レンガ造りの味のある建物です。水俣病とかハンセン病などの裁判は全国区のニュースだったので、見覚えがあります。
入り口もスタイリッシュ。
台地なのであちこち坂があり、いちいち名前がついています。
さすが、古い町ですね。

加藤神社は一時期、熊本城内ではなく京町にあったんですね。
けっこうな高低差。
住んでる人は大変でしょうね。

磐根橋。ここをわたると熊本城。
案内板によるとむかしは堀の役目もしていたそうです。そして電車が開通したころ、さらに掘り下げられたらしいです。
目が眩むほどの高さ。
ここを渡って熊本城へ。

まだまだ地震からの復旧は道遥か・・・のようです。

それでも今年のGWごろから天守の周りには入られるようになっているみたい。時間がなくて行きませんでしたが、天守が美しくそびえているのはいいですね~。
この二の丸からの眺めは(平成の大改修で長塀ができる前の)私の子供時代の熊本城の姿です。
熊本城から、賑わいを取り戻していた城彩苑を抜けて下通へ。
そこそこの賑わい。
パルコが無くなってた!
こちらは上通り。
道幅の違いもあるけど、こちらの方がにぎわってるような??
私が熊本にいた30年前ごろは上通にはあまり魅力を感じなくて下通にばっかり行ってましたが、いまは上通の方に魅力を感じます。
なぜかな?
そしてようやく目的地、鋒楽饅頭へ。
みんな大好きほうらくまんじゅうですね。こことこむらさきと紅蘭亭とかっぱのまるぶんがあるから上通が好きなのかも?
最後にお約束のアングル。
通町筋から市電に乗って帰宅します。

10月とは思えないほどの陽ざしに気温。
暑さにくらくらしながら散策を終えました。育った町熊本ですが、知らないところがまだまだ多くて歩くの楽しい。
今度はちゃんと下調べをして漱石先生の「わが輩界隈」を歩いてみたいと思いました。


正式名称
ベーリックフェスティバル2021 セント・ジョセフフェスタ
ベーリックホールは名前の通り、ベーリックさんの邸宅だったわけですが、そのあとは戦後の米軍接収を経て、1958年からセント・ジョセフ・カレッジの寄宿舎として使われました。今は改修されてベーリックさんの時代に戻され保存されてるので、寄宿舎時代の様子は簡単には想像できません。
セント・ジョセフカレッジはいわゆるアメリカンスクールです。1905年開校、のちにセント・ジョセフインターナショナルスクールとなり男子校から共学へ、そして2000年に廃校となりました。
週末、寄宿舎時代を紹介するイベントが行われ、セント・ジョセフ卒業生によるガイドツアーがあるというのででかけてきました。
案内してくれたのは、小学校から寄宿舎生活をしたという私と同世代の方でした。幼かったから、この建物には懐かしさよりも寂しさの思いのほうが強いとおっしゃっていたのが印象的でした。
ベーリックホールの玄関扉は、優雅なアイアンワークなのですが、それすら「当時は監獄のような印象」だったと仰っていて、小1からの寄宿生活は功罪あるなと思いました。
でも、規則正しい生活(学習時間多し)身の回りのことは全部自分でやる、お小遣いなく買い食いとかしない、学校と寄宿舎の往復生活(中学〜高校くらいになると抜け出して元町に遊びに行く人もいたらしいけど)といったしつけの厳しさは人格形成には良い影響があったようでした。
建物も狭いし、ガイドツアーの定員は5名。
当時の写真なども使って、寄宿生活のあれこれを伺うことができました。
コロナ禍以降、室内の写真撮影が全面禁止になったので写真がないのが残念(昔撮ったのがあったらあとで載せますね)

天気が良かった!



先週封切られたジョニー・デップの映画「MINAMATA」。
今日30日に見てきました。
緊急事態宣言は今日まで、明日から映画館の入場制限がなくなるので、その前に行っとこうかなと思って。(でも明日なら1日だから安く見られたんだって。知らなかった。

平日の夜だからか、元々人気のない映画なのか、10人も入ってなかった。「水俣病」ってことで重そう、暗そうって感じなのかな?ジョニー・デップなんだけどなー。残念。


特殊メイクしてるとはいえ、ジョニー・デップはいいおじさんになったなー。
昔(20年以上前)、大好きで出演作を色々見てたけど、久しぶりにジョニデ満喫しました。やはりいい役者さん!
ビル・ナイも良かったね。
撮影は日本ではなく東欧(セルビアとモンテネグロ)でやったらしいので、どこか謎な場所での物語のようだったけど、世界的な作品だからそれはそれで良いよね。
冒頭の海沿いを走る列車の俯瞰シーンだけは熊本で撮ったのかな?と思いましたが。(オレンジ鉄道が最後のクレジットに出てきたから)
でも、日本家屋の中の様子やデモ、座り込みの様子など、美術さんたち(みな東欧の人たち!)はいい仕事してたと思う。日本人としてみていてもしらけちゃうような勘違いなど全くなかった。これはすごいこと。
日本人キャストもとても良い芝居をしてました。
真田広之の熊本弁満喫しました(字幕なしで全国の皆さんわかったのカナ?)。國村隼もいつもながら良かった。
浅野忠信のところだけ妙にドキュメンタリータッチだった。
なんでだろ??
アイリーンも良かった。
はじめてみた女優さんだったけど、美しくて強さもあって。
あの映画は一応ユージーンスミスとアイリーンの物語なんでしょうね。こちらは水俣の話と思って見てたけど。アイリーンさんは、この映画にも随分関わってたらしいですね。


ここからネタバレします。
未見の方はご注意ください。
細かな違和感を言うのは野暮かな。
蝉が鳴いてるのにみんな晩秋のような服装だったり。昭和40年代の水俣の庶民の家でウイスキーが簡単に出てきたり。子どもたちがサッカーしてたり(そこは、野球だろ!みたいな)
ちょっとそういうことはあったけど、本筋とは関係ないので拘泥しないほうが吉。「水俣」が舞台ではあるけれど、「MINAMATA」という普遍的なテーマを描いた地球的な作品だと思えば、細かなことはどうでもよい。
一つだけ、本筋に関係ある違和感としては、ユージーンたちが病院に潜り込んで、会社の病院側の隠してあった資料を見つけるところ。
え?ほんとに??
映画的な脚色なんだろうと思ったけど、日本で作ったらあんなふうな脚色は無理だろうな(それとももしかして事実なのだろうか??)
前に水俣裁判の記録の本で、会社側の医師の記録も読んだ覚えがあるけど、実際はどういう経緯で明らかになっていたのだろうか?
もう一度読み返してみよう。
映画見ながら、この映画がジョニー・デップによって撮られた意味を考えてた。
映画としてはそれなりに盛り上がるところもあり、起承転結のカタルシスもあるように作られてるんだけど、でも消化不良で終わった。
それは水俣病はもちろん、環境破壊とそれで苦しむ人々の悲劇は全然終わってないってことが、この制作陣にもわかってるから、スッキリさせてくれないんだろうと思った。

終盤「勝訴!」っていうシーンがクライマックスとして扱われてるのだけど、そのあとすぐに
「裁判では想いは晴れない。本社へ行こう!」というような横断幕が映し出され、そうそう、これでは全然終われないんだ。と思った。
実際水俣病裁判はあれからずっと続くし、今も解決してないのだもの。
でもあの横断幕、裏から撮られてて読みにくかったし、あれ翻訳ついたんだろうか??(真田広之の台詞でも、戦いは続く!と言ってたけど、あれはちょっとわかりにくかったかも。)

最後に、
全体的に低予算な感じだったけど、演者の演技が素晴らしかった。
ジョニー・デップの情熱かな。
日本人としたら、ジョニーが水俣を取り上げてくれたことだけでも意気に感じて頑張っちゃうだろうと思う。そのあたりのチームワークの好影響を感じた。
そしてその根底には、「今」も続いている環境破壊への怒りや、何とかしなければ!という思いが強くあったのだろうと思う。
それと、「写真」ってすごいんだなと。ほんとにすごい写真をみると、それはわかるもんなんだな。ただシャッターを押せばだれでも撮れると思ってたことを反省。
水俣の話だけど、水俣に限った話ではない。
MINAMATAの映画。
おすすめします。