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いつもの帰省時は、熊本空港からまっすぐ実家に向かうのですが、たまには別のコースも使ってみましょう。空港から無料のシャトルバスでJR肥後大津駅へ行けると聞いたので乗ってみたい!

くまモンが描かれたバンタイプのタクシーがシャトルバスです。

このときは乗車人数3人でした。
15分ほどで肥後大津駅に到着。
無料なんてありがたい。
はじめてきた駅です。
有名な杉並木を見てみたいです。
この区間の豊肥本線は車の道と合わせて昔の大津街道だったらしい(それほどお広くて大きな道だったんですね)ので車窓の景色が楽しみです。
短いですが車窓からの景色の動画です。
杉の木が続いているのがわかります。
いつか、歩いてみたいものです。
途中には台湾の半導体会社TSMCの工場も造られてるはず。
見えるかな?
見えました!
ニョキニョキと不自然なほどたくさん生えてる巨大なクレーンたち。
きっとあそこに違いありません。

光の森駅で降りてショッピングモールでお昼ごはんを食べます。

肥後大津から光の森まで4区間の列車の旅でした。
JR九州の列車はデザインも独特で乗るのが楽しいんです。
光の森からはバスで武蔵塚公園へ。
この日(10/1)バスの運賃は100円均一でお得でした。

前回の帰省のときに霊厳洞へ行って、今回は武蔵塚。
いい流れです。
とは言うものの、武蔵塚と宮本武蔵が関係あるとは今回まで全く考えてませんでした。
もちろん、武蔵塚とか武蔵ヶ丘といった地名は子供の頃から知っていたし、宮本武蔵が熊本にいたことも知ってはいたんです。
でも、日頃関東地方に住んでいて「武蔵○○」という地名を数多く目にしていると、熊本の武蔵ヶ丘とかも普通名詞のような感覚になっていたんです。
肥後大津駅周りで行くなら、どこに寄ろうかな?と考えながら沿線の地図を見ていたときに、
「もしかして宮本武蔵関係なの?!」
と思いいたり、調べてみたらお墓があったという話。
これは見ておきたい。
武蔵のお墓=武蔵塚 があるところは公園に整備されていました。

宮本武蔵の銅像や説明版。
武蔵好きならぜひ訪れたいところだと思います。

お墓
出身地岡山のゆかりの人々の子孫が植えたという木や記念の碑がありました。

こちらはおまけ。
西南戦争のときに亡くなった松浦新吉郎と言おう人のお墓です。
遺言で武蔵塚のそばに葬ってほしいということだったのだそう。

バス賃が100円と知ったので、武蔵塚から水道町までもバスに乗り、くまモンスクエアとか鋒楽饅頭とかに寄って健軍の実家まで帰りました。
市電にのったらこちらも100円。助かったな~。

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横浜ランドマークタワー展望台は通常1000円かかりますが、誕生日は無料です。
誕生日の夕方思いついて、仕事帰りに寄ってみました。

受付で誕生日の無料があるかを聞くと、やってるという話でした。

おめでとうございますと言われながらエレベーターへ。
照れ(。>﹏<。)
分速750m!
美しい夜景が眼前に広がります。
みなとみらいから横浜インターコンチネンタルホテル、コスモワールドの観覧車、ハンマーヘッドまで見えます。

こちらは桜木町駅側。

大さん橋、山下公園氷川丸が見えます。

手前に11月1日オープンと書いてあるビルはずっとコロナの隔離施設だったアパホテルです。 

記念撮影スポット。

横浜の現在の地図の上を歩くと古地図が浮かび上がるコーナー。

日本一高いところにあるライブラリー。

本は自由に読むことができます。

平日の夜は展望台も割と空いていてゆっくり夜景を楽しむことができました。

来年もお天気が良かったらここに来ようと思います。

2

新町(洗馬橋)からスタートした街歩き。
次に向かうのは明八橋を渡って「古町エリア」です。
青物市場・魚市場
明八橋近くの川岸に青物市場と魚市場があった。野菜類は南は本庄、春竹、宇土方面から、北は島崎、花園、芳野村、河内から集まって来た。魚市場には島原、天草、筑後からは米、酒、薪炭を積んだ船が、高橋、小島、塩屋など河内海岸や宇土半島の網田、赤瀬からは魚を積んだ船が坪井川を遡ってきた。因みにこの市場は昭和38年に魚市場、同39年に青物市場が田崎市場へ移転した。
この日は10月だというのに真夏のような暑さで、結構体力消耗してきました。日陰日陰を選んで歩きます。
明八橋の上で記念撮影。
こうやって4人で街歩きしたのですが、洗馬橋電停前の文林堂のところで父の説明を聞いていた時に、ちょうど信号待ちしていた方がなんとなく父の説明に耳を傾けている気配。
「何の集まりですか?」と尋ねられました。
きっとこういう街歩きや歴史がお好きな方だったのではと思います。
私もよく横浜で、ガイドさんについてぞろぞろと歩いている人たちと一緒になると、ついついガイドさんのお話に耳をすましたりしますもん。
3丁目御門(明八橋)
新町と古町をつなぐ橋で新町側に御門があつた。この門は柳御門或いは3丁目御門とよばれた。この門を潜ると熊本城内であるので門の管理は厳重であった。高麗門と同じく朝6時に開門夕方6時には閉門した。なお「明八橋」の由来は明治8年に眼鏡橋に架け替えられたことによる。橋の工作者は石工橋本勘五郞である。

全景の写真を撮るのを忘れたのですが、下の写真の右上に写っている丸い街灯は、大正時代の写真と同じデザインでした。
西唐人町
幕末から明治、大正にかけて清永家の全盛期。この町は清永家の町と言ってよいほど清永一族の商店が軒を並べていた。清永家の当主は代々板屋猪太郎を名乗る名字帯刀の家柄で、幕末ペリーが来たとき熊本藩は横浜本牧の警固を命じられるが、その軍用金3000両、5000 両を清永家の口利きで此の地の商人が用立てた。その証文が残っている。
景観形成建造物・町屋
明治期の建造物で市の指定を受けている。平成元年(1989 )市景観条例が制定され現在までに18 件が指定されている。
お昼ご飯は唐人町通の店を予約してました。
ここです。
築140年の町家を使ったレストラン「ピュアリィ」。
中はどうなってるんでしょう?
暖簾をくぐって、背戸やみたいなところを通り抜けていきます。
建物は2階建てで、通り側から入ったら、川に向かって一階分下りる形。
もとは米蔵だったという地下空間で食事しました。
なんとも味がありますね。
せっかくなので、川の方へ出てみました。
坪井川です。
むかしは舟運が盛んで、ここから荷物を出し入れしていたのですね。

先に見えるのが明治10年にかけられた「明十橋」。

明十橋から下流右岸には昔米の取引所があったのだそうです。
熊本米穀取引所跡
明治24年に熊本米穀取引所が開設され、昭和16年廃止されるまで相場師たちのいちかばちかの張り合いが展開されて活況を呈した。数十軒の取引仲買人の店舗が建ち並び、そこへ出入りする客を目当てに飲み屋、食い物屋が軒を並べて賑わった。

唐人町通りの中ほど、明十橋のところに立派な洋館が。
大正8年築の旧第一銀行熊本支店跡だそうです。

明十橋を新町側にわたったところからパチリ。

明十橋通り旧第1銀行跡
大正8年第1帝国銀行熊本支店として開業、昭和47年熊本信用金庫唐人町支店となる。現在東京に本社のある空調機メーカーPS工業が空調機器の展示場及びイベント会場として活用している。
古川町・古庄本店
古荘財閥の母体は熊本市古川町の繊維問屋・古荘商店(現古荘本店)である。大正末から昭和の初めにかけて繊維事業に成功し、その勢いで銀丁百貨店、肥後無尽(のち肥後相互銀行)、大阿蘇観光道会社、熊本日産自動車、比島金貨メリヤス(マニラ)などを設立した。また、東京では日清生命保険、大分ではトキハ、小倉では井筒屋百貨店などを次々に傘下に収め、経営した。近代熊本の経済史を語るとき古庄商店の存在感は絶大なものがある。(松岡泰輔氏論文より一部引用)
鍛冶屋町通りは熊本一の高級商店街であった。久留米呉服店、油屋呉服店、森本襖表具店、小寺金物店、迫時計店、八木ラシャ店これらの商店は九州でも1,2 と言われる店構えであった。
鍛冶屋町通は唐人町通とは違うのかな?
お昼も食べて暑さもピーク。
そろそろ桜町バスターミナルに向かいます。
弾丸帰省なのでもう帰京しなくちゃなのです。
古川町にあったタクシー会社に荷馬車の車輪が飾ってありました。
このタクシーやさんも昔は馬車やさんだったのでしょうか?
電車通りをあるいて桜町まで来ると、
花畑広場ではちょうど「九州産交80周年」のイベントをやっていました。
ベンチで休憩していたら、大きなバスが到着してなかからセーラー服の女学生たちがわらわらと下りてきました。
「八代の白百合の制服じゃなかかな?」と父。
果たしてバスには「白百合女学園」の張り紙が。
すごいね、おとうさん。
楽器を運んだりしている様子、きっとこのイベントで演奏するのでしょう。
とおもっていたら、父がサッと女学生たちに話しかけています。
「何時からの出演ですか?」
もうすぐ次の出番のようです。
はつらつとした高校生がまぶしかったので、後姿をパチリ。

おまけ。

産交バス(回送)の行き先表示が80周年記念バージョンに。なってました。

10月の初めに一泊二日で熊本に弾丸帰省してきました。

JAL でマイルを貯めてるのですが、「どこかにマイル」という面白い企画があるんです。それは普段よりもぐんと少ないマイル数(往復6000マイル)で往復の飛行機に乗れるというもので、どこに行くかは JAL にお任せというもの。


JAL にお任せとはいっても候補を4つぐらいまでは絞ることができます。
JALから4つの行き先の組み合わせが提案されますが、その候補は何回か選び直せて、「この中のどこに決まっても文句ナシ」と思えてから申し込みます。
一泊二日なのであまり遠いところ(例えば沖縄とか)は避けて、大阪、熊本、宮崎、松山という組み合わせで申し込みをしました。
夫の実家は大阪ですし、私の実家は熊本。
宮崎も松山もいったことがない県庁所在地。
このところ、各県の県庁所在地の街歩きが楽しそうだなと思ってるところなので、どちらになってもいいなぁ。県庁所在地って歩いて行ける範囲にぎゅっと歴史的見どころが固まっているので、一泊二日でも結構楽しめそう。

そんなこんなでどこに決まるかな~とワクワクしながら申込み。
申し込んで2〜3日で、乗る便のお知らせが来ます。
今回は熊本に決まりました。
6月に帰省したばかりだけど。
JAL 様のお告げで旅をするのも、人任せでなかなか楽しいものですね。
マイルの特典で普通に東京熊本を往復するなら1万5000マイルかかるところですが、これでいくと6000マイルでいいので半分以下、かなりお得です。
候補が示される画面の例

20年来の友人に誘われて、千駄木にある旧安田楠雄邸へ出かけてきました。
友人はここに住んでいた安田さんの親戚だそうで、子どものころに来たこともあったのだそう。一般公開されてから、初めての訪問だったそうです。
素晴らしい邸宅。
大正時代の日本家屋が関東大震災、戦災もかいくぐり、奇跡的に残されていました。

東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園【 東京都文京区】

旧安田楠雄邸庭園は、かつて学者、実業家、文化人が多く住み大邸宅が多く存在した屋敷町、千駄木(東京都文京区)にあります。
邸宅と庭園は、「豊島園」の創始者である実業家、藤田好三郎(ふじたよしさぶろう)によって1919~1920年に造られました。関東大震災後、旧安田財閥の創始者・安田善次郎の女婿である安田善四郎が藤田家からこのお屋敷を買い取り、安田家の所有となりました。そして1995年、当主の楠雄氏が他界した後、夫人により公益財団法人日本ナショナルトラスト(JNT)に寄贈され現在に至ります。
 

友人の高祖父は明治天皇の侍医で、曾祖父は森鴎外と一緒にドイツ留学したとか、いろいろ興味深い話をきいたことがあります。
応接室(洋間)家具は元の住居のものだそうです。
この変わった形のテーブルは上が回転するらしい。

2階の客間の書院。

昭和初期に新妻のために改築された台所。
北向きなのにガラスの入った天窓のおかげでとても明るい。
銅製の流し台はアイランド!お客も多かったのでしょうね。

網戸が付いた食器棚は双方向から取り出し可能。
硝子戸の向こうは女中さん部屋(この建物には2か所あり)。
友人の話によると、友人のお父さんも小さいとき(戦前)はきょうだいひとりひとりに「姉や」がいたのだそう。
別世界!

友人も世が世なら近づけない「おひい様」だったのかも~。


家族の茶の間についた水や。
ここで簡単なお茶は沸かせるようになってるんですね。
便利ですね~。

応接室を囲むサンルームの床はゴム製のタイル。
大正時代にこういうものがあったのですね。

四季折々の風情が楽しめる庭。
枝が曲がっている大木は柏だそう。
この家の屋号も「かしわ」だったのだとか。
このお宅は庭に防空壕もまだ残っているそうです。
石造りの立派なものだそうです。
こんな古いお宅を見るのは結構好きですが、ゆかりのある人と見るというのはまた格別でした。案内してくださるボランティアスタッフの方も親切で、大事に守っていらっしゃるのがよくわかりました。
それにしても、いかに立派な建物とはいえ、大正時代に建てられた家に平成まで創建時のまま大事に暮らしていらっしゃったとは、安田楠雄夫人のお人柄がしのばれますね。

9月10日と11日、横浜中心地で「ベトナムフェスタ」が開かれました。
そんなに宣伝とかもなかったような気がしたのですが、行ってみたらすごい人でにぎわっていました。
きけば、神奈川県に住んでいる外国籍の人口、1位は中国ですが、2位は去年から韓国朝鮮を抜いて、ベトナムなのだそうです。
そりゃー盛り上がりますね。
食べ物のブースはどこも行列!
おいしそうだけど、熱い中並ぶのも大変ということで、ただ、雰囲気だけ味わいました。

でも面白かったのがこの「水上人形劇」
このために、象の鼻パークに特設プールが作られていましたよ。
【参考】

ベトナム 水上人形劇 ベトナムフェスタ2022
昼だけのイベントでしたが、夜はランタンがともっていてきれいでした。