前回1964年の航空写真を見ましたが、ほぼ同じエリアの1982年の写真を見てみましょう。
撮影日:1982年5月22日。
18年間の変化がよくわかると思います。
1964年のものより低空での写真なので、別窓で画像だけを表示させれば、拡大したものがご覧になれます。ご興味のある方はどうぞ。
1964年と同じものにアルファベットを振りました。
A:自衛隊の整備工場
1964年と何ら変わりないですね。
でもその東側の区画が、畑から自衛隊の敷地に変わったように見えます。
弾薬庫と認識していますが、今もそうなのかな?
B:新外
新外の集落は、様変わりしました。
まさに私が住んでいたころです。私の住んでいたアパートもあります。
竹藪の面積が減り、住宅が増えて集落の切れ目が曖昧です。それでも南側の集落(「山ノ神」といってました。)との境の田んぼはまだ健在ですね。
C:健軍飛行場
飛行場は移転してしまっていて、周りは急速に宅地化が進んでいます。
そもそも飛行場の移転は、大型機のための滑走路が足りないことと、周りの宅地化がすすんで騒音問題があったことなのでした。
ターミナルビルがあったところには大学がやってきました。
このころは熊本県立女子大ですね。
D:飛行場への誘導路
ここも土地割は鮮明に残っているものの、宅地化が進んでいます。
もともとこの辺の土地はちょっとした丘陵地になっていたため、この誘導路だけ平らにならしてあったから宅地になり易かったものと思われます。
E:尾ノ上小学校
周りに家も立ち並び、小学校の校舎も増え学校らしくなっていますね。南側には「錦ケ丘公園」も整備されました。健軍川沿いに住宅が増えてます。
F:四時軒
この写真には載っていません。
G:健軍神社
周りの木立が減ったので、神社の場所がくっきり分かり易くなりました。
小学校や中学校の写生の時間にこの神社の巨木の絵をかきました。
H:佐土原
まだ周りに田畑が残るものの、だいぶまわりの宅地化がすすんでいます。
自衛隊のところから東ににょきっと太い道路ができています。これがのちの第二空港線です。
I:現東稜高校
茶業試験場
J:健軍飛行場滑走路跡
滑走路はつぶされ、そのあとに、日赤病院や免許センターなどができました。「J」の文字のところにあるのが免許センターですね。拡大図で見ると試験場のコースが見えます。今はどこに移転したんでしょうね。
K:錦ケ丘中学校
1964年には畑しかなかった錦ケ丘。ちゃんと宅地として区画され、住宅も増え学校ができてます。82年4月には、生徒数がどんどん増大してきて、新しく東町中学校が開校したのですが、秋に校舎ができるまで、錦ケ丘中に共存していたのです。運動場にプレハブ校舎がたくさん並んでいます。この時期は運動会もできないので、水前寺競技場で「陸上記録会」というものが行われていました。今はちゃんと学校で運動会をやっているようですね。
L:第二高校
1964年ではただののっぱらだったところに県立第二高校が移転してきたのは1968年だそうです。この健軍三菱の跡地の南半分は、東町団地というアパート群と、小中高校、聾盲学校、税務署、消防署、警察署、などなど公共の施設の立ち並ぶエリアとなりました。
M:健軍商店街
昭和30年代から発展してきた商店街。
このころまではまだアーケードはできてないようですね。