
球磨川の豪雨災害から2年が経ちました。
(実家の皆さん、2冊買ったので1冊は送りますね)
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●【店頭販売】 550円(税込)
gooブログ終了にともない引っ越してきました
球磨川の豪雨災害から2年が経ちました。
無断転載はできないのでちらっと雰囲気だけ。
小さい頃、祖母の家に行くたびに駄菓子などを買いに行ってた「よねだみせ」も2階までがらんどうに…(涙)
下は2015年に帰省したときに撮ったの同じ店の様子。
熊本地震から3年がたった。
全国版のニュースでもここのところ連日熊本の話題を届けてくれている。
今朝、阿蘇の地獄温泉清風荘の営業再開のことをテレビでやっていた。
ここは濁ったお湯の混浴露天風呂が全国的にも有名で、震災前からたびたび目にしていた。
地震で山間の温泉までの道が寸断され孤立、更には地震のあとの豪雨による土砂災害で壊滅的な被害を受けたとのことだった。
それが日帰り温泉だけではあるものの今日再開するらしい。
3年もかかるのか。
やっぱり大変なんだなぁ。
と思ったら、ここへの道はやっぱりまだ開通していなくて、遠回りをしてくるルートしかないのだそう。
復旧復興にはまだまだ時間がかかるのだ。
この清風荘は懐かしい温泉だ。
小学生の頃の林間学校で滞在したところ。
それ以来行ってないけれど、楽しかった思い出のある場所。
この温泉からすぐの「垂玉温泉山口旅館」も懐かしいところだ。
ここは、高校生の頃にクラスメイトと夏の合宿をした。
旅館の離れの小屋みたいなところに泊まったのを覚えている。
ここも震災以来休業したままらしい。
早期再開を祈る。
今週は香港の友人が熊本に遊びに行くそうだ。
6日間だって。
レンタカーで阿蘇や天草をドライブ旅行するという話。
観光にもまだ不便が残っているだろうけれど、楽しんで帰ってほしい。
そして帰国して周りの人に熊本旅行の宣伝してほしい。
私も来月1年ぶりに帰省予定。
3月に帰省したときに熊本城へ行き、復興城主に参加しました。
その時の説明で
「後日正式な城主証を郵送します。今の感じだと7月頃になります。」ということでした。
それがついに届きました。
寄付したお金は全部熊本城のために使って頂いたほうが良いのですが、それでもこういうのが来ると嬉しいものですね。
ご存知ない方のために解説すると
「城主証」という文字の上にある「C」みたいなマークは熊本市章、
蛇の目の紋は加藤清正の家紋、
大きなまるを小さな八個のまるで囲んでるのは九曜紋と言って、細川家の家紋です。
熊本城の復旧には20年がかかると言われています。
というか、誰もどのくらいかかるかわからないのかもしれません。
石垣を一個一個元の通りに組み直すなんて考えただけでも気が遠くなります。
でも熊本城が復興することで熊本にはいろいろなパワーがもたらされると思います。
よろしくお願いします。
この寄付は今も受け付けています。
関心がある方、下のリンクをご覧になってみてください。
一口1万円から、寄付ができて「復興城主」になれます。
この復興城主、台湾の友人も賛同してくれて「寄付がしたい」と言ってくれたので、代理で申し込んでいます。
彼女の分の城主証はいつごろとどくかな。
次に台湾に行くときに持って行ってあげたいです。
去年4月中旬、熊本では最大震度7を記録する地震が2回起きました。熊本に起きた地震は、日本列島どこにいても安全なところはない、と思い知らせてくれました。また、あんな大きな地震が立て続けに2回も起こるなんて、自分たちの知識の当てにならなさも思い知りました。
先月帰省して、復興はまだ手を付けたばかりということも実感してきました。
災害列島である日本、ほかにもたくさんの被災地があります。
被災直後、いちばんにきめ細かく支援の手を伸べてくれたのが被災経験のある人たち・自治体等だったのも印象に残っています。
災害の多い国なのは仕方ありませんが、そこから学んでいけば「叡智」というものが蓄積されていくはずだと信じたいですね。
今現在グーグルマップの航空写真やグーグルストリートビューで熊本を見ると、被災直後の様子が見えます。(ストリートビューは去年の9月のもので、航空写真は5~6月位じゃないかと思います)おそらく時がたてば、どんどん更新されていくでしょうから、少し残しておきたいと思います。
うちの実家の近所。
屋根のブルーシートは先月もあまり変わっていませんでした。
写真中央の道路におかれているいわゆる「震災ゴミ」の山。
どんどん増えて大変でした。
健軍商店街ピアクレスのアーケードとスーパー「サンリブ」。
サンリブには重機が入って解体作業が進められているようです。アーケードはまだ壊れたまま。
先月帰省した時に行ったら、アーケードはきれいに修繕されていました。サンリブは更地になっていました。
実家近くの小学校。
校庭に避難者の自家用車がたくさん停まっています。
いつごろまでこのような状況が続いたのか、よくわかりません。
学校自体は5月の連休明けから再開されましたが。
こちらは益城町のグラウンドです。
テレビのニュースでもよく見た、益城町の避難所です。
トラックにテントが張られています。
これは登山家の野口さんたちの支援だったんじゃなかったでしょうか。
見るのが辛い写真ですが、益城町の様子です。
全壊している家屋がたくさんあります。地震の怖さが伝わります。
水前寺公園です。
湧水で満たされていた庭園の池が半分干上がっています。
この池に水が戻ってきたのはいつでしたっけ?
ストリートビューでみた2016年9月のスーパーサンリブとアーケードの様子。
更地になっていますが、アーケードの修繕はこの時点ではまだのようですね。
AMAZONでは「がんばるけん!くまもとけん!熊本県フェア」というフェアをやるようですよ。熊本の美味しいものを食べて飲んでみてください!
私の今日のお勧めは、これ!
「パール柑」先月帰省した時に(おそらく初めて)食べて、おいしいい!!!ってなりました。東京にももって帰ってきて、夫にも食べさせたら「おいしい~」って感動してました。デコポンも美味しいけど。パール柑あっさりしてていいですよ。
![]() |
青秀 熊本産文旦(パール柑) |
くまもと風土 | |
株式会社コムセンス |
帰省中、母の誕生祝いで街まで食事に出た。
ランチだったので、食後熊本城の様子を両親と見に行った。
作業の様子を説明するパネルがいたるところにありました。
こうやって説明してもらえると、理解が進むし、良いことだと思います。
崩れた石垣を整理して、番号を振って保管しているようです。
でも手つかずのところもまだまだ多い。
薬研堀のところ。
この空堀は父が若いころはソフトボールの練習会場だったらしい。
仕事の昼休みにやってきては同僚とソフトボールやってたんだとか。
写真手前にバッターボックスがあって、いま崩れてしまってる石垣越えをさせるのを目指してたんだとか。
巨木も崩れたままになっていました。
加藤神社前。
人を通すところはこのようにがっちりと補強しているようです。
石置場
立ち入り規制。
城彩苑の上のところ。行幸坂を望む。
復旧には20年かかると言われている熊本城。
20年なのかどうかは、やってみないと分からないのかもしれません。
東京にいる時は「崩れてしまっても熊本城が無くなったわけじゃないし」なんて思ってたのですが、やっぱり実際に足を運んでみて、いつも行けた場所があちこち立ち入り禁止になっているのを見ると、とても切なくなりました。
天守閣に近づけないのもとても寂しい。
「城彩苑」というお土産物を売ったりしている施設はオープンしていました。
行ったらすごい人気で、ごった返していました。
その中に「復興城主」の申し込みカウンターがありまそいた。
つまり熊本城の復興のための寄付の受付です。
これまでも平成の大改修などでも「一口城主」等と言って一般の寄付を募っていましたが、今回もそういうものです。
ここに寄付をすれば熊本城のために使われます。
早速、受付に行って「城主」になりました。
その話をFBで友人に伝えたら、台湾の友人も寄付したいと言ってくれて、代理で手続きしました。
ネットからも申し込めてクレジットカードで入金できるので便利です。
彼女はまだ熊本城に行ったことはないそうですが、天守閣に近づけるようになったらぜひ案内してあげたいと思います。
「城彩苑」で見かけた中国語の張り紙。
バオビン~かき氷のことですね。
城主になったあかしの城主手形。
熊本で色々の特典が受けられるらしいですが、熊本に次に帰るのはいつかな?
昨年の5月に帰省して以来、10か月ぶりに熊本に帰りました。
阿蘇くまもと空港に父に迎えに来てもらい、健軍の実家にもどるのに、津森経由にしました。
津森は父が子供の頃に住んでいた土地で、なつかしいというのもあり、また、ここから帰ると木山を通ることになるので、地震後の益城町の様子も見られるということでこういうルートになったのでしょう。
父の子供時代の思い出話などをききつつ津森を通り、木山、安永、馬水、惣領、沼山津と地震の被害の大きかったところを通りました。
飛行機の窓からも確認できていたのですが、屋根の修繕が終わらず、ブルーシートを貼ったままになっている家屋が予想以上に多い。
県道の両脇、地震直後は崩れた家が立ち並んでいたところはかなりの割合で更地になっていた。
家の近所まできても状況はあまりかわらず。
壁が崩れた家が「危険」の張り紙もそのままにされていたり、隣の家も屋根にブルーシートをはったままだったし、更地もちらほら増え、取り壊しの工事をしている家もあったりと、地震後の復旧作業がゆっくりゆっくり進んでいるという状況だった。
業者さんの数が足りず、地震の直後から頼んでいてもなかなか順番が来ない。ということもあり、またもともと年寄りが多いので、家を空けて施設に入っていたりで家を手直しする人がいないということも多いようだ。
健軍商店街のアーケードも見に行った。
鉄筋コンクリート3階建てのスーパーが倒壊していた現場は、建て替えの工事に取り掛かっているようだった。アーケードは修復が終わり、きれいに塗装されていた。それでも更地もあり、廃業した店もあり。もともとシャッター商店街の様相だったので、復活は遠い道のりのように思える。
(地震直後の様子)
熊本を離れていると、こういう生の情報にはなかなか触れることがなく、ブルーシートなどはかなり減っているものと思い込んでいた。
反省。
同級生の家もちょうど解体が始まったと言っていた。
地震直後には被害が少なくて一部損壊程度だった友人の実家も、その後の余震で被害が大きくなり、再検査したら大規模半壊となったとか。まだ修理ができないので不安の中暮らしてるそうだ。
改めて天災の恐ろしさを感じた。
<<追記>>
津森を通りながら、父が話してたことのメモ。
祖父は「駐在さん」だったので、父たち家族は駐在所に住んでいて、それは津森小学校の近くにあった。今はもう建物もなく、【がけ崩れ危険地区】という看板が立っていた。去年の地震とは関係がなく、昭和54年と書かれていた。その駐在所から、学校まで竹馬に乗って行ったことがあったとか。家の縁側から竹馬に乗り、はだしのままで行ったとか。
途中、道が木山川に沿っていた。
津森神宮などもあるところ。
「木山の初市には、この道を木山まで歩いていったなぁ」とか。地図で見るとちょうど4キロの道のり。小学校低学年時代の思い出らしいので、結構遠かったですね。
木山の初市ってなんだろうと思ったら、今でもやってるそうですね。毎年3月に開催しているらしいです。
ハロハロさんが古い記事にコメントをくださるので、自分でも読み返してみたりしました。
ありがとうございます。
2歳の記憶の記事に書いた熊本県西原村(山西)のことがふと気になり、グーグルストリートビューで見てみました。
2016年5月の地震の直後の様子のようです。
訪ねたあたりも家々に青いビニールシートがかぶり、倒壊した家も。
祖父母の話を聞いた酒屋さんは店の構えはご無事ですが、少し引きで見ると屋根には一面のビニールシートですね。。
熊本地震で益城町と並んで被害の大きかった西原村。
痛々しいです。
駐在所のあった(と記憶する)場所は住民の広場のようになっており、この撮影の時に炊き出しのようなことが行われています。
今は少し落ち着いているとよいのですが。
今日渋谷に出かけた。
お昼をどこで食べようかな?
あ、ヒカリエの8階にあるd47食堂とかいうカフェに久しぶりに行ってみよう。
12時前なのにもう何人も待ってました。さすが、人気あるなぁ。
ここは、色んな土地の逸品を探してメニューにしてるカフェです。今日行ったら、オススメが熊本定食でした。わーい。
納豆、煮豆、煮しめ、鶏汁。本当はノビルの酢味噌和えもあったのですが、今日は品切れでした。残念。
納豆は山都町の水増ーみずまさりー地区というところの八天狗という大豆をマルキン食品が納豆にしたものだそうです。硬めのしっかりした納豆でした。
鶏汁は、これにお餅入れたらうちの実家のお雑煮!って味でした。
今年のお雑煮は違う味だったからもう一回これで作ってみようかな。
このメニューは2月中旬まで楽しめるようです。始まったときはくまモンも来てくれてイベントやったみたいですね。
写真は、イギリスの新聞ガーディアン紙 The Guardian に掲載されたくまモン特集記事。今年7月の記事ですが、ロンドンの友人が航空便で送ってきてくれました。タイトルは「この熊はなぜこんなにかわいいのか?」かな?
ネットでも読めます。The new science of cute「新しいカワイイの科学」(意訳)
今年4月の熊本地震の際、多くの人が心配したのが「くまモンは無事?」だった、と記事は始まります。
記事の前半はくまモンの紹介。特に、今年3月のくまモンの誕生祭りに訪れた海外からのファンのインタビュー、そして地震後ネットから発信するのをしばらくやめていたくまモンに対しての人々の反応などの紹介が興味深い。後半は、表題にある通りカワイイの新しい科学について発展していきます。
海外の新聞なので、日本人のことより海外ファンを取材しているのが新鮮でした。熊本での誕生祭に駆け付けたある香港のファンは、香港でもくまモンのバースデーイベントがあるのにもかかわらず、わざわざ熊本までやってきて、最前列を確保するために朝の3時に並んだ。とか‥‥熱い!
ひとつ気になったのは、ここ。
He’s not sexy, but when the Empress Michiko met Kumamon – at her request – during the imperial couple’s visit to Kumamoto in 2013, she asked him: “Are you single?”
彼はセクシーではないが、美智子皇后が、天皇ご夫妻の2013年の熊本訪問時にくまモンに会った時に~それは彼女の要望で実現したのだが~、「あなたは独身ですか?」と訊ねた。
ここの Are you single? は素直にとると「独身ですか?」ですよね。「くまモンはセクシーではない」から流れているところから考えても。「女の子のくまはいないの?」とかそういう意味で尋ねられてると・・・。多分この記者は勘違いをしていますね。
あの時、皇后陛下は「くまモンはお一人でなさっているの?」と声をかけられたはず。
つまり、くまモンの着ぐるみに入っている人は一人だけですか?あるいは、くまモンの着ぐるみは一つだけですか?ということですね。全国各地、更には海外までも出かけて行って、八面六臂の活躍をしていることをご存知で、その忙しさをねぎらうお気持ちで出た言葉だと理解しています。
でも、その時、同行していた蒲島熊本県知事は、かなり慌てて「・・・・・こどもたちの夢もありますから・・・・」みたいなことで言葉を濁していたような(笑)くまもんは「ぎくっ」というようなジェスチャーをしてた気が。
“Are you single?”にはそういう意味もあるのかしら??
いずれにしても、とっても微笑ましい場面でしたね。皇后さま自ら「くまモンに会いたい」っておっしゃったそうなので、嬉しかったですね。でもくまモン体操をお二人とも立ってご覧になってて、「座ってください」って思いました。
熊本出身の若手アーチストたちによる競演。日本橋タカシマヤで開催されます。
熊本地震復興応援企画 ヒノクニ 瀧下和之・武田双雲・山本太郎
■9月21日(水)→27日(火)■6階 美術画廊
※最終日は午後4時閉場。
日本画の山本氏は高校の後輩。書道の武田氏は中学の後輩です。とは言っても、歳はずいぶん離れてますから、一緒に通ったわけではないですけどね。山本氏とは数年前の同窓会で知り合って、画集を買わせてもらったり、個展におじゃましたりしています。とても新しい視点のユニークな日本画をかくひとです。(上のオフィシャルページの絵も山本氏の作品。伝統的な絵柄か…と思いきや、ん?「清涼飲料水紋図」??
よーくみると、何やらジュースの缶が!おもしろいでしょ?
日本橋のあとは新宿にも巡回するようですから、お時間ある方ぜひ足を運んでみてください。
Gooブログつながりのおれんぢぺこさんから教えていただきました。
熊日からこの5月に発売された熊本地震の報道写真集です。
東日本大震災の時の河北新報が出した報道写真集が、気仙沼で家と店を流された取引先から送られてきたのを思い出します。あのときは職場から送った支援物資のお礼のような形で届いたのでした。
今でも職場においてあります。
見るのはつらいですが、風化させないためにも、手元においてみておくのがよいのでしょう。
先日熊本南阿蘇へ震災ボランティアに行った友人が、「ボランティアの体験を通して、自分の住む地域に災害が発生した時の心構えなどを養うことも大切」と言っていました。ボランティアは今そこで役に立ち、更に未来にあちらで役に立つのですね。
写真集もそういう意味があると思います。
販売は熊日出版へ
http://shop.kumanichi-sv.net/shopdetail/000000000093/
amazonでも販売があります。
![]() |
平成28年熊本地震 特別報道写真集 -発生から2週間の記録- |
熊本日日新聞社 |
おれんぢぺこさん、お知らせいただきありがとうございました。
1983年の熊本城。
二の丸公園からの眺め。堀の向こうに見える大天守と小天守。
ブラタモリで「五色沼」をやってたのを見て、「そういえば昔五色沼へスケッチ旅行にいったことあったっけ?」と思い出し、昔のスケッチブックをめくってて、この絵をみつけた。
多分日曜日に友達と出かけてスケッチしたもの。
現場のスケッチはカラーのコンテでやって、水彩絵の具での彩色は帰宅してからやったんだろう。
よく見ると、この絵には今はある天守閣西側の長塀が描かれていない。
面倒くさくて省略したのだろうか?
調べてみたところ、そこの塀は「西出丸の塀」と言って、2007年の築城400年記念事業の際に本丸御殿などと一緒に復元されたものらしい。
なので、この絵になくても当然というわけですね。
こうして考えると、最近見ていた熊本城の姿も固定の姿ではなくて、どんどん変化してきたものなんですね。地震からの復旧は大変なことだと思うけど、少しずつ前進していくのを期待したいと思います。
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去年の10月に撮影された「うつくしいひと」という映画を見てきました。熊本出身の監督、俳優さんたちによる熊本映画。短編です。
この映画自体は地震とは関係ないのですが、上映会は熊本地震チャリティーです。行定勲監督と出演者の米村亮太朗さんも登壇してトークもあり、とても内容の濃い上映会でした。
参加費500円で、これは全部熊本へ義援金として送られ、その他に募金箱もありました(帰るときに監督と米村さんの前をみんな通るのですが、その前に募金箱があってみんな入れてくれてました。)会場は文化シヤッターBXホールというところで150人入る綺麗なホールでしたが、なんと無償提供だったそうです。心意気ですね。
映画は短いので、監督のトークがかなりの時間を占めましたが、前半は撮影秘話のようなもので、笑いっぱなしでした。行定さんって面白い方ですね。後半は熊本地震について彼が思うこと、感じていることの話でした。最後は政治批判になり、彼も「自分の話は行きすぎかもしれないけど」と何度も口にするほど過激に話してましたが、東京での上映会ということを考えればこのくらいでちょうどよかったかもしれません。やはりどうしても被災地とは温度差があるでしょうから。(監督が政治的発言をしていることを非難する人もいますが、発言はしてよいと思います。私の考えとは違いますが)
映画は、探偵が出てくるサスペンス仕立てのストーリー。高良健吾君扮する探偵がカッコイイ(昔の永瀬正敏の濱マイクみたい)。姜尚中さんがおいしい役をやっています。自治体も関係している映画らしく、観光スポットも出てきますがあまりストーリーには関係がありません。監督も「ご当地映画だからと言っても、熊本じゃないところでとっても通用するような話にしたかった」と言ってました。つまり、普遍的なものにしたいということでしょう。
くまモンは出てくるんですが、くまモン登場シーンが謎でブラックでした。監督は出したくなかったみたいですけど(笑)やっぱりかわいい。
ロケ地は熊本市内だと江津湖、市電、熊本城、夏目漱石旧居など。
ほかに阿蘇、菊池渓谷、通潤橋などが出てきます。
江津湖や菊池渓谷の水の美しいこと。
熊本城の石垣も美しかった〜。
監督の話で知ったんですが、黒沢映画「影武者」は熊本城でロケをやってたんですね。影武者そういえば見たことない。行定さんは子供のころそのロケを見たことが映画の道にはいることにつながったと話してました。
会場には高校の同級生も来ていました。
帰るときに監督と話ができたので劇中の「黄線学帽」についてききました。(どうでもいいことですが)姜尚中さんの関係のようですね。やっぱりあの学校を表してるんですね。
同級生と監督たちと「私たちも熊本なんですよ」なんて話になり、「へ~どこですか~」「健軍です」「わ~近いですよ」「どこですか?」「新生です」「あ~派出所のとこの!」「マクドナルドのとこですね」「その近くです」なんて、思いっきりローカルな話題になってしまいました。映画の話をした方がよかったですね。
この映画は、今や熊本地震チャリティー使節の様な使命を帯び、全国を巡回しています。
またネット配信も始まりました。配信料300円は全額熊本への支援になります。
40分くらいの短い作品ですし、ぜひご覧いただきたいと思います。
「うつくしいひと」熊本支援チャリティ上映スケジュール・インターネット有料配信
『くまモンの休日』
くまモンが温泉に入ってる!しかもほんとに!
しごとで辛いことが多いので、この画像見て癒されよう・・・。
いつも読ませていただいている熊本の「徒然なか話」のFUSAさんのブログで、福島県白河市から熊本城に支援の申し出があったと知りました。
それで探した記事が以下↓↓↓↓
熊本城修復を支援 白河市長視察職員派遣の意向
福島民報 6月10日(金)9時29分配信
東日本大震災で被災した小峰城の復旧を進めている福島県白河市の鈴木和夫市長は9日、4月の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本市の熊本城を視察し、要請があれば修復の担当職員を派遣する意向を示した。 鈴木市長は河田日出男熊本城総合事務所長の案内で奉行丸、西出丸、本丸の石垣が崩落した箇所などを約1時間かけて回った。熊本市役所で大西一史熊本市長と会談した。 鈴木市長は福島民報社の取材に対し「小峰城復旧に携わった職員の経験を生かした支援をしたい」と述べた。
熊本城は国指定重要文化財13件を含む建造物32件全てが損壊、石垣全体の約1割に当たる8200平方メートルが崩れた。現在、二の丸広場など一部の場所を除き、立ち入りが規制されている。
小峰城は2年前の5月に熊本の両親と旅行したところです。
お城の修復工事の真っ最中でした。
熊本城もこれから、修復復旧への道を歩むのでしょう。
先輩からの応援はありがたいですね。
2014.5.12 福島県白河市の小峰城にて。
今日、6月10日、台湾南部の2大都市高雄市と台南市の市長がそろって熊本訪問します。画像は午後4時にキャプチャした、台南市長の頼さんのフェイスブックの記事です。
今回の熊本地震については熊本と友好関係にある高雄市の陳菊市長さんは、地震発生直後に「熊本のために市長給与の1か月分全額を寄付する」と話していましたし、台湾でも募金などが集まっているようです。その義捐金をもって来熊してくれるはず。
どんな活動があるのか、注目したいと思います。
あ、記事中の中国語は、こんな感じです。
「311の時、日本を一番心配したのは台湾でした。高雄のガス管爆発事故の時、台南の地震の時、一番心配してくれたのは日本でした。今回の熊本地震のため、高雄と台南の市民皆で義捐金を集め、高雄市の陳菊市長とともに両市民の愛と祝福を持って行きます。復興が成功し、被災者の皆さんが早く元の生活に戻れますように」
ここまでアップした後、もう一度見に行ったら、下の投稿がありました。早速、県庁訪問したのですね。蒲島知事と一緒に持ってるのはなんだろう?そして、黄色いくまモンの缶バッヂをつけてるのが可愛いです。どんな絵柄なんだろう??
台南市長の投稿
「今天陳菊市長與我,以及高雄市、台南市所組成的熊本加油團,帶著兩市市民的愛心與祝福前往熊本,為熊本加油、打氣!
我們抵達熊本後,發現這次地震影響範圍很大,造成許多民房受損,在人力、物力不足的情況下,仍未全然修復,有許多民房尚暫時以藍色帆布覆蓋著屋頂。
下午,我們偕同謝長廷大使,共同拜會熊本縣知事蒲島郁夫,表達我們的關心與支持;我也代表台南市捐贈善款5,173萬日圓給熊本縣,並致贈台南市民為熊本祈福的相簿與熊本呼呼祈福卷軸,傳達台南對熊本地震的關心。
5年前,日本發生311大地震,台灣最關心日本;2年前的高雄氣爆與今年台南0206地震,日本最關心台灣。今年熊本發生地震,不僅高雄與台南,全台灣都十分關心,可見台日雙方的情誼越來越緊密,同時也印證「患難見真情」的真諦。
今年台南0206地震時,日本各界對於台南的協助、慰問與關心,我們滿懷感激,我也再次表達謝意,熊本加油!」
拙訳
今日、陳菊市長と私は一緒に、高雄市と台南市から組織された熊本応援団とともに、両市民の愛と祝福を携えて熊本を励ましに来ました!
熊本に到着すると、今回の地震の被害範囲がとても広いことがわかりました。多くの人々が被災し、人力も物資も不足する状況で、まだほとんど修復されず、多くの民家がブルーシートに覆われています。
今日の午後、私たちは大使の謝長廷とともに、蒲島熊本県知事を訪問し、我々のお見舞いの気持ちを伝えました。わたしも台南市民から寄せられた5173万日本円を熊本県に渡しました。また、台南市民が熊本の皆さんのために作った写真帳と寄せ書きを手渡し、台南の熊本地震へのお見舞いを伝えました。
五年前、日本で起きた311大地震では、台湾が最も日本を心配しました。2年前の高雄のガス爆発第事故と今年の台南の0206地震については、日本が一番心配してくれました。今年の熊本地震は、高雄と台南だけでなく、全台湾が心配しています。台湾と日本はますます密接に友好関係を築いていますし、今回も「まさかの友こそ真の友」という真理をを確認します。
今年の台南の2月6日の地震では、台南での支援のため、日本国民は、同情と心配を寄せてくださり、私たちは感謝の気持ちでいっぱいです、私はもう一度感謝の気持ちをお伝えします。熊本がんばれ!
両市の義捐金は合わせて約6516万台湾元(約2億1600万円)だとのことです。
熊本地震発生後、東京でも多くのところで募金活動、義捐金の受付などをやっていました。店頭の募金などは5月まででいったん終了するというところも多かったのかもしれません。うちの近所のセブンイレブンでは5月31日までと書いてあり、2万数千円の募金があったと店頭に貼り出してありました。
さて、そうやってたくさんの方が寄せてくれた義捐金は今どうなっているのでしょう?熊本市や熊本県のホームページを見に行きました。
■日本赤十字社、共同募金会及び熊本県に集まった義捐金
5/2 第1次配布金 752,120,000円(4月30日現在確認済の義援金総額の約13%)
【第1次配分の被害別配分基準額】
○人的被害(1人当たりの配分額)
・死亡者:200,000円
・行方不明者:200,000円
・重傷者:20,000円
○住家被害(1世帯当たりの配分額)
・全 壊:200,000円
・半 壊:100,000円
7.5億円が総額の13%ですから、総額は57億円ですね。
6/8 第2次配布金 13,007,000,000円(6月3日現在確認済の義援金総額の約83.2%)
【第2次配分の被害別配分基準額】
○人的被害(1人当たりの配分額)
・死亡者:800,000円
・行方不明者:800,000円
・重傷者:80,000円
○住家被害(1世帯当たりの配分額)
・全 壊:800,000円
・半 壊:400,000円
130億円が総額の83.2%ですから、義捐金の総額は156億円ですね。
156億円というのはとても大きな金額だと思いますが、それでも被害のある人たちに分けてしまうと、少しになってしまう印象です。まだ、壊れた家のがれきがそっくりそのまま残っている益城町などの光景を見ると、これからどれだけお金がかかるんだろうと思ってしまいます。
まだまだ義捐金は受け付けています。いろいろな方法があると思いますが、公的なところを載せてみます。(自分のためにもメモ)
【肥後銀行】肥後銀行
・支店名:県庁支店
・科目:普通
・口座番号:1639261
・口座名義:熊本地震義援金(クマモトジシンギエンキン)
【肥後銀行】
・支店名:熊本市役所支店
・科目:普通
・口座番号:1471670
・口座名義:熊本市災害義援金(クマモトシサイガイギエンキン)
■熊本城災害復旧支援金
またこの地震で、大きな被害を受けた熊本城に対しての支援金も熊本市で受け付けています。熊本城の復興には100年かかるかもという専門家もいるそうです。時間もお金もかかるでしょうね。
【肥後銀行】
・支店名:熊本市役所支店
・科目:普通
・口座番号:1471716
・口座名義:熊本城災害復旧支援金(クマモトジヨウサイガイフツキユウシエンキン)
■益城町への義捐金
被害がとても大きかった益城町への義捐金はこちら
【肥後銀行】
・支店名 木山支店
・科目 普通
・口座番号 1444413
・口座名義 益城町災害対策本部
前回1964年の航空写真を見ましたが、ほぼ同じエリアの1982年の写真を見てみましょう。
撮影日:1982年5月22日。
18年間の変化がよくわかると思います。
1964年のものより低空での写真なので、別窓で画像だけを表示させれば、拡大したものがご覧になれます。ご興味のある方はどうぞ。
1964年と同じものにアルファベットを振りました。
A:自衛隊の整備工場
1964年と何ら変わりないですね。
でもその東側の区画が、畑から自衛隊の敷地に変わったように見えます。
弾薬庫と認識していますが、今もそうなのかな?
B:新外
新外の集落は、様変わりしました。
まさに私が住んでいたころです。私の住んでいたアパートもあります。
竹藪の面積が減り、住宅が増えて集落の切れ目が曖昧です。それでも南側の集落(「山ノ神」といってました。)との境の田んぼはまだ健在ですね。
C:健軍飛行場
飛行場は移転してしまっていて、周りは急速に宅地化が進んでいます。
そもそも飛行場の移転は、大型機のための滑走路が足りないことと、周りの宅地化がすすんで騒音問題があったことなのでした。
ターミナルビルがあったところには大学がやってきました。
このころは熊本県立女子大ですね。
D:飛行場への誘導路
ここも土地割は鮮明に残っているものの、宅地化が進んでいます。
もともとこの辺の土地はちょっとした丘陵地になっていたため、この誘導路だけ平らにならしてあったから宅地になり易かったものと思われます。
E:尾ノ上小学校
周りに家も立ち並び、小学校の校舎も増え学校らしくなっていますね。南側には「錦ケ丘公園」も整備されました。健軍川沿いに住宅が増えてます。
F:四時軒
この写真には載っていません。
G:健軍神社
周りの木立が減ったので、神社の場所がくっきり分かり易くなりました。
小学校や中学校の写生の時間にこの神社の巨木の絵をかきました。
H:佐土原
まだ周りに田畑が残るものの、だいぶまわりの宅地化がすすんでいます。
自衛隊のところから東ににょきっと太い道路ができています。これがのちの第二空港線です。
I:現東稜高校
茶業試験場
J:健軍飛行場滑走路跡
滑走路はつぶされ、そのあとに、日赤病院や免許センターなどができました。「J」の文字のところにあるのが免許センターですね。拡大図で見ると試験場のコースが見えます。今はどこに移転したんでしょうね。
K:錦ケ丘中学校
1964年には畑しかなかった錦ケ丘。ちゃんと宅地として区画され、住宅も増え学校ができてます。82年4月には、生徒数がどんどん増大してきて、新しく東町中学校が開校したのですが、秋に校舎ができるまで、錦ケ丘中に共存していたのです。運動場にプレハブ校舎がたくさん並んでいます。この時期は運動会もできないので、水前寺競技場で「陸上記録会」というものが行われていました。今はちゃんと学校で運動会をやっているようですね。
L:第二高校
1964年ではただののっぱらだったところに県立第二高校が移転してきたのは1968年だそうです。この健軍三菱の跡地の南半分は、東町団地というアパート群と、小中高校、聾盲学校、税務署、消防署、警察署、などなど公共の施設の立ち並ぶエリアとなりました。
M:健軍商店街
昭和30年代から発展してきた商店街。
このころまではまだアーケードはできてないようですね。
地震とは関係ない記事シリーズになりつつあります。
航空写真を見始めたら止まらなくなりました。
時代も場所もあっちこっちをさまよって楽しみます。
今回降り立ったのは、1947年11月1日の水前寺駅上空です。
写真の下に横に伸びるのが豊肥本線。
プラットホームが白く見えるのが水前寺駅です。
写真の中央の四角い部分が今の県立熊本高校。
グランドの下に四角く見えるのが、当時から50mコースを備えていたプールです。
1945年7月1日の熊本大空襲でしょうか、校舎などは全焼してしまったそうです。
校史に「図書館を残して全焼」とあるので、きっと右隅に四角く見えるのが当時の図書館なのではないかと思います。全焼したとはいっても、グランドや校舎の配置などは私が高校生だった頃と同じなので、同じように再建したのでしょうね。
熊高の西隣の今の開新高校は校舎も残っているように見えますし、熊高と水前寺駅の間にある民家も見えますが、焼け残ったのか、再建が早かったのか、どちらなのでしょうね。
今回の地震のため、熊本の地図をいつも以上に良く眺めました。
また、帰省した時に車で走ったりして自分の育ったところをよくよく眺めてみると、新しい道ができていたり学校ができていたり、マンションがどんどん建っていたりして、自分の知ってる町とはかなり変わってきているというのを実感しました。
自分の歳を考えれば当然なのですが。
国土地理院のホームページに昔の航空写真を見るサービスがあります。
そこで、今回走ってきた範囲の航空写真を眺めていました。興味深い(とはいっても、自分にとってだけですけど)ことがいろいろ読み取れたので、ここに書いておこうと思います。
取り出したのは、1964年(昭和39年)の航空写真です。
私の生まれる前ですね。さらに私が熊本市に引っ越してくるのは、昭和50年代なので、私の知ってるずっと前の様子ですが、今とのあまりの違いに興味をひかれます。現在この範囲の航空写真を見れば、自衛隊などをのぞいてほとんどが住宅地です。このころは、ほとんどが畑地ですね。
A:健軍の自衛隊
もともと戦時中に三菱重工の戦闘機工場として用地買収され、熊本市の東の端にこの長四角の土地が造成されました。
航空写真ではわかりにくいですが、Aの文字のそばにあるのは戦時中から使われている(今も!)ギザギザ屋根の工場です。
B:新外(しんほか)
私の住んでいた家があった場所です(この写真ではまだ畑)。
今はどこまでも続く住宅地の一部ですが、江戸時代から(?)の集落のようです。
新外という地名は、もともと「たけみや(健軍/竹宮)村」というところがあり、本村のほかに下村、外村、西外村、新外村と呼んだのがいわれらしいのですが、いまは「新外」の地名以外は残っていないようです。(http://www.wakabauu.net/rekisi/takemiya1.pdf)
先日、食事をした「泉樹庵」もこの新外集落にあります。
もこもこ見えるのは竹林かと思います。
私が子供の頃は、馬を飼っている家もありました。
C:健軍飛行場
特攻隊機も飛び立った、健軍飛行場です。
三菱の戦闘機工場で作った飛行機を飛ばせるためにつくられた飛行場です。
Dのところに他と区画の違う部分がありますが、三菱工場から空港まで飛行機を運ぶ道路だったそうで、今も土地割に残っています。
幼稚園の頃に遠足で空港見学に行った写真が残っています。
1971年まで使われたそうです(そのあと今の阿蘇くまもと空港の場所に移転)
Cの部分は空港のターミナルビルですが、今は熊本県立大学ですね。
滑走路の部分に、熊本赤十字病院があります。
昔は免許センターとかもありました。
この滑走路の長さの分だけ、まっすぐで道幅の広い立派な道路が突如現れるので、何だろうなぁと高校生くらいの頃は思っていました。いまは、国体道路という大きな道路が東西に走り、都心まで続いているので滑走路だったとは気がつきにくいでしょうね。
空港の周り、今の月出、長嶺のあたりは全く家がありません。
長嶺あたりのこの30年の発展はほんとにすごいな~と思います。
E:尾ノ上小学校
DからEにかけて斜めに流れているのが健軍川です。
そしてEの場所にポツンとあるのが1964年に開校したばかりの、尾ノ上小学校、私の母校です。
小学校と健軍川を挟んで対岸にある錦ケ丘中学校(こちらも私の母校)は影も形もありません。
周りは畑しかないわけですから、まだ学校はいりませんよね。
F:四時軒
沼山津にある秋津川のほとりの四時軒、横居小楠の旧居です。
今回の地震ではかなりの被害を受けてしまったようで、私の実家からすぐの場所にあるのですが、行こう行こうと思いながら行かないうちにこんなことになり、とても残念です。(四時軒被災 熊本震災4)この写真では切れてしまっていますが、秋津沼山津のあたりには古くから家も多く、横居小楠がいたのも頷けます。
Fの文字のところに、白くて丸いものが見えますが、浄化センターですね。今もあります。熊本地震で、うちの実家のあたりに届いた救援物資はこの浄化センターで仕分けされて運ばれたらしいです。
G:健軍神社
こんもり木立が見えるあたりが健軍神社です。
「健軍」の中心地ですね。
写真ではわかりにくいですが、西の方からまっすぐに参道が続いています。
戦時中、三菱の工場の周りには何もなく、空襲があると走って健軍神社まで逃げ込んだという記録があるそうです。かなり距離があると思いますけどね。
H:佐土原(さどわら)
佐土原の集落も、古くからあるようです。
いまは第二空港線が通り、スーパー銭湯の「一休」なんかがあるあたりですね。
この佐土原から北側に榎団地とかがあり、南側に桜木の住宅が広がります。
I:(現)東稜高校
ちょっと特徴的な区画になっています。畑なんですが一枚一枚が小さい。
何だろうと思って、今の地図を見ると同じ形ですが高校になっていました。
私が熊本を離れてからできた新しい高校です。
以前は何だった???
一生懸命考えて思い出しました。「茶業試験場」です。
そういえば、バスルートに「茶業試験場行き」というのがありました。
その跡地に高校ができたんですね。
茶業試験場は前身が昭和8年にここにでき、昭和23年に「茶業試験場」と名称変更したようです。そして平成元年に御船町に移転したようですね。東稜高校は昭和62年開校。あれれ??
その他あれこれ
健軍自衛隊~東町団地の大きな長方形の南西に広がる住宅地が、健軍商店街を中心にする若葉~泉が丘の住宅地です。
若葉小、泉ヶ丘小、東野中、などはしっかり見えますね。
このあたりも戦時中に三菱の社宅や寮として宅地化がすすめられたのが始まりのようです。
1956年(昭和31年)の航空写真では、健軍商店街一体が社宅だったのがよくわかります。
市電の走る電車通り(県道熊本高森線)が秋津新町のあたりで急に細くなっています。
ここから益城に続く道は、まだ整備されていないようですね。もちろん高速道路なんて計画しかなかったでしょうね、計画すらなかったかも?
自衛隊の北の端から西に延びる道路は工場のための引き込み線の跡ですね。
この写真だとよくわかりませんが、それより古い米軍による写真だとわかります。
京塚のバス停のあたりの道路が変に交錯するのが、この引込線のせいだったことが理解できます。
道路と鉄道だと思えば納得です。
一方が鉄道だったことを知らないと、同じような道が2本絡み合いながら伸びるのが理解しにくいです。
高校のころ新外から水前寺まで、この引込線の跡をまっすぐ自転車で飛ばしてました。
京塚の南に広がる住宅(京塚本町)も画一的ですね。やっぱり三菱寮なのかな?
このシリーズまたやるかも。
戦前の航空写真もあったら見てみたいですね。
もう少し時代が下った、まさに自分が暮らしていたころの航空写真も見てみようかな。
健軍三菱についての参考記事
女子挺身隊 のこと その5
地震後2回目の帰省では、私も両親もわりに平常に戻ったような気分で、過ごすことができた。というか、そのように過ごすように努めたともいえる。
テレビをつければ、地震情報、地震速報がこれでもかというくらいに頻繁に流れ、まだまだ震災のさなかにいることを思い知らされる。自宅の玄関には、緊急建物診断の「要注意」の黄色い紙が貼られており、近所を歩けば「危険」の赤い紙が貼られた建物も多く、それらのほとんどが手つかずで放置されている。家の中は少し片付いたとはいえ、食器棚に戻せない食器、本棚に戻せない本が床に置きっぱなしになっている。
風が吹けば、近所のブルーシートがはがれたり。ゴミ置き場に山積みの震災ゴミは一度収集に来たが、また山になってしまった。
それでも避難所や自主避難所になっていた学校の運動場の車はだいぶ減ったようだ。
学校も来週からの授業再開に向け、準備に入っているだろう。
避難所の集約も始まっているようだ。
スーパーやコンビニも営業しているところでは、何事もなかったように物が流通している。一方建物に被害があった店舗は閉まったまま。
頭の上を通過するヘリコプターの音はいくらか減ったようだ。
実家近くのライフラインは復旧したので、道路工事などもいったん落ち着いているように見える。
揺れは収まっていないものの、震災は新しい局面に入ったと感じる。
家に戻れない人たちの救済、仕事が始められない事業者の救済がこれからの課題だろう。
どれだけのお金がかかるのか。
一般人にできることは何なのか、これから情報を集めよう。
おそらく、嫌な話もこれからは耳に入ってくるだろうと思う。
いったん、命が助かったと胸をなでおろす時期が過ぎ、ストレスMAXのなか不満が噴き出すのは無理もないこと。
一方で、日常に戻れる人たちは日常に戻るべきだろう。
前のエントリーで、遠方にいる我々は気落ちすることなく元気に冷静に支援を!
と書いたが、被災地にあっても、そのことが必要なのではないかとGWの帰省で感じた。
熊本の人はみなそれぞれ震災によって傷つき疲れている。
特に、病人やハンディのある人は大変だろうと思う。
元気になれる人から元気になって、支援する側に回ることも大事だし、支援できなくても自立していくことだってとても大事なことだと思う。そして、その助けになるよう、遠方にいる自分は家族の支援をするところから。
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一つ情報
避難所ごとに支援物資を直接送るプロジェクトが立ち上がっている模様。
これが欲しいというちょっとした物資を依頼に応じて送ることができるようだ。
私も実際に参加して送ってみた。
amazonから送ることができるので、とても簡単です。
必要な人に
必要な支援を
必要な分だけ
スマートサプライ
クリックして「支援対象一覧を見る」というボタンを押すと必要としている災害ごとに表示されます。
熊本地震関係を直接見るならこちらへ
この4/30は、もともと高校の同窓会が熊本市で予定されていました。卒業以来初めてくらいの学年大同窓会です。私のところにもハガキで知らせが来たのですが、月末最終日は休めないので断念しました。
そこへ今度の地震です。
会場に予定されていたメルパルクも被災してて営業できないという連絡があったそうです。それでもみんなこんな時だから集まろう、中止にはしないぞ!ということで幹事さんたちが急遽新しい会場を探し出し、予定通り開催できました。
当初120人が参加予定で、結局90人に減ってしまったそうですが、それらの方は公務員だったりで仕事のため現場を離れられなかった人や、家族のケアで家を離れられなかった人、県外にいて熊本入りを断念した人などでした。むしろ県外から参加した人が目立ったみたい。私の世代は地元熊本にいれば、陣頭指揮を取るような責任ある立場でしょうからね。
さすが熊本人、飲みまくって3次会まであったとか!熊本の飲食店は1~2週間くらい休業を余儀なくされてましたから、90人の宴会は助けになったでしょうね!
今回は世の中も自粛自粛となっていないようで、ホッとしています。熊本を応援するのは義援金もそうですが、県産品の消費や県内での消費。大事ですよね。
その意図なのかどうか、実家から送られてきた、熊本ラーメン20食分!周りに配って熊本ラーメン宣伝します!