コンテンツへスキップ

4


どんな社会に住みたいか?

★自分達の近くで食べ物を作っている社会
 とても遠くの国や地域から食べ物を運んでこなくても、日常の食事は間に合う。
 そのために「江戸」くらいの和の食生活。
 今のように、いつでもどこでも世界中の美食、食材が手に入る必要はないなぁ。

★ごみをあまりださない社会
 リサイクルの技術は進み、限りある資源を大事に使っている。

★中等教育までは無償で受けられて、職業訓練や高等教育も選択肢はちゃんとある。コース変更も柔軟に出来る社会。

★通勤にかける時間は平均で30分くらい。職住近接。
 満員電車もない。
 朝晩のラッシュもたいしたことない。
 そして田舎でもちゃんとバスが本数多めに走ってる。
 自家用車はかなり田舎に住む人やそのほか必要な人だけが乗り、
 町に住む人はクルマを持たない。

★過労死するほど働きすぎな人たちと、仕事がなくて失業してる人、どちらもなくて、働きたい人みんなが平均して程よく働いていける社会。
 
★各住宅には太陽光発電パネルがあり、家庭で使う電気をまかなえる。

★店は深夜営業をせず、働く人が健康に過ごせる環境になっている。
 24時間営業のコンビにもない。
 みんな夜は寝ている社会。
 テレビもやってない。

★でも今と同じくらいに便利に使いたいものは、携帯電話とネットですね。
 この通信環境は、後戻りしたくないな~・・・

 

お釈迦様の国に行かないと実現しないかも。

生活にはメリハリが必要です。
自律神経も、交感神経、副交感神経が互いに働きあって生命のバランスをとっています。
日常生活も仕事も、忙しすぎても、だらけすぎてもダメ。
忙しいのとゆったりするのとメリハリが重要だと思うのです。

友人がいないのは寂しいことだけど、
時には積極的な引きこもりもよいですね。

たくさん人に会って、山ほどの刺激を受けたあとは、
周りからの刺激をシャットアウトして自分と向き合う。

材料を混ぜ合わせたあと、冷蔵庫でしっかり味を染み込ませる。
そんな感じ。


大震災から1年がたちました。
できるだけテレビなどは見ないようにし、心静かに過ごしたつもりですが、それでもいろいろな思いが渦巻きました。

この一年、人の生死、人間と言う存在、人生の幸せなどについて、いろいろなことを考えました。

そして最近気がついたのは「ひとは必ず死ぬ」ということです。
このことに気がついて以来、いろいろ楽になったことや、納得がいったことがあるのですが、そのはなしはまた今度に譲ります。

今日は、また別の話をしたいと思います。

自分では抱えきれないような苦しみが与えられてしまったとき、信仰に救いを求める人の姿があります。私自身はまだ、抱えきれないような苦しみの経験はないし、信仰も持ってはいないのですが、最近よく思うのは、人間のこの世の人生は、ご褒美のようなものじゃないのだろうか?ということです。

この世の生はご褒美

この世に生きている時間、寿命は長短いろいろですが、それも全宇宙の時間の流れから見たらほんの一瞬でしかないのかもしれません。また、その生きている時間もとても早く過ぎると感じたり、永遠のように感じたり、時間の長さは相対的なものでもあるようです。

その一瞬のな中に喜びや苦しみが繰り広げられているわけですが、一生が終わったら、人は、おそらく「無の存在」に戻っていくのではないかと想像しています。

生きている間、こんなにいろんな経験をし、たくさんの本を読んで考え、記憶を重ね、思い出や思いをいっぱい胸に詰め込んでいるのに、その死の瞬間、すべてのその思いや記憶はなくなってしまうのでしょうね。
「無」に帰るのだと思います。

「無の存在」に比べて、「生命」の状態は、いろいろなものに色彩があり、音色があり、味があり、匂いがあり、喜怒哀楽がある。この「生命」の状態は、もしかするとこの宇宙の中でのご褒美みたいなものかもしれないな~と思うようになりました。

こちら側(この世)は修行で、あちら側(あの世)には極楽が待ってるという考えより、こちら側にいるのはご褒美旅行だと思ったほうが、なんだかしっくり来るのです。

数多ある「無の存在」の中(矛盾した言い方ですけど)で、宝くじに当たったごく稀な人だけが、こっち側に生まれてこられる。この極彩色の味の濃い刺激に満ちた「生命」を生きられる。
だとしたら、この生命の状態を味わい尽くしたい。

ところで、私はものすごく恐がりなので、ホラー映画は一切見ません。
またバンジージャンプなどをお金を払ってまでやろうとする人のことがずっと理解できなかったのですが・・・・

この人生がご褒美だと考えると、説明がつくような気もしてきました。
どうせ無へ帰っていくのだから、波風のない状態より、スリルのある状態の方を本能的に好むのかもしれませんね。
この世に生きることがは、必ずしも楽しいこと嬉しいことばかりでなくて、苦しいこと、辛いこととセットになってるわけですが、それでもご褒美でありえると思えている、この獲得した答えを大事にしたいと思います。

これから、病気や大事な人たちとの別れなどの、今までに体験したことのない苦しいことがあったとしても、ご褒美旅行のアトラクションのひとつだと理解して、「無」にかえる日までしっかり生きて行くというのもいいのじゃないかと思い始めています。

釈迦は人間の苦しみの根本にあるものは、大きく四つあると言ったそうだ。

すなわち 四苦 生・老・病・死

それから2000年以上がたち、釈迦の時代とは一見すると別世界になったのではないか?
しかし、いまだに四苦は何の解決もしていない。

実は、わずかに「病」だけは、医学の進歩で治せる病気が増えたと思っていたのだけれど、根本は変わってないのではないかと思う今日この頃。

確かに昔は死病といわれたものが今ではほぼ治せるようになった。
天然痘、結核、これら、赤痢・・・・
けれども、以前はなかった病気の原因が生まれた。
放射能による内外の被曝など。

この2000年(厳密にはこの100年?)科学を進歩させた人間はいろいろな病気を克服してきたけれど、一方で同じ科学の進歩により、人間の手に負えない病を作り出してしまった。

皮肉なことだけれど、結局はつじつまが合ってる・・・。
住環境の改善で、感染症が減ったのに、その反面アレルギーを発症する人が増加の一途をたどっている。
これも見えない神の手によるつじつまあわせか?

いま、また、人間の幸せとはなんだろうかと考えている。

日本人のがん罹患率(75歳未満)
 男性:約0.41%(0.3%)
 女性:約0.27%(0.23%)
 全体:約0.33%(0.26%)

日本人のがん死亡率(75歳未満)
 全体:約0.13%(0.085%)

※いずれも全人口当たりの数値。
がんは男性がかかりやすいのですね。

喫煙のがん罹患率に対する影響

男性のがん罹患者の29%m女性の3%が喫煙が原因でがんになっています。
(厚生労働省 2004年の発表による)

つまり、単純に数字だけで見ると、日本人全体(赤ちゃんから老人まで)の
 男性:0.41%の更に29%=0.118%
 女性:0.27%の更に3%=0.008%
が喫煙のためにがんになっているということです。

ここまでくると「喫煙者のなかでのがん罹患率」を知りたいところですが、資料が見つかりませんでした。

日本人の喫煙率(2008年)
 男性:36.6%
 女性:12.1%
 全体:23.9%

あ~数字苦手。
私たちはこういうの、放置してますよね。
知ってるけど、気にならないわけですよ。
ギャーギャー騒ぐ人も一部に入るかもしれないけど、今の放射能の比ではないですね。放射能の場合は確立された学説がないらしいですけど、「年100ミリシーベルトの被曝で、がん発生率が1%上昇する」という話を文字通り受け取ると、0.33%のがん罹患率が0.333%になるということですか?
こんな数字並べて何がしたいのかというと・・・数字追いすぎて目が回ったので(!)またこんど。

出典:喫煙のがん全体の罹患に対する影響の大きさについてhttp://epi.ncc.go.jp/files/01_jphc/outcome/jphc_outcome_d_014.pdf

※何度もいいますが、私がタバコ嫌いなのは、がんになるからではないです。私自身もその他大勢の人と同様にタバコの害には感覚が麻痺しているので。髪や服ににおいがつくのと、食事が台無しにされるのが嫌なだけです。

先日、仕事場で古い知り合いとの再会があった。
私が社会人になって間もないころのお客様で、かれこれ20数年ぶり。

お互い「変わってませんね~」などと話しながら、あっという間に気分が20年前へ。

その方は、福島県で美容師をしていたのだけど、原発事故のため県外に避難中。
とある高原の村の民宿にいるのだそう。
そして、うちの会社で開催してるエステの講習会に、高速バスに乗ってやって来てくれたのでした。

「避難所は3箇所目。
でも温泉が出るトコでね~、毎日温泉なのよ~。
それにわたし個室もらってて、ほんとラッキー!
今度ね、村の中でエステできる場所を貸してもらえることになって、それで習いに来たのよ。村の人たちにすごくお世話になってるから、恩返しでね、ボランティアでマッサージとかしてあげたいの。」

とニコニコ顔で話してくれる。

こういう人っていいなぁ~。
そういえば、20年前も明るかったなぁ。
わたしも何か手伝いたい!
って思いました。
とりあえず、私のできることとして、チラシ作りは協力することにしました。

わたしもこういう明るいヒトになりたいなぁと思いました。

アンガーマネジメントという言葉を最近知った。
怒りをコントロールする訓練とかそういうことらしい。

....怒りねぇ。

わたしはむしろ怒るべきときに怒れないという傾向があるかな。
と自己分析。

昨日丸一日考えてたことがあるんだけど、謝謝台湾の企画で(これは今日ついに感謝広告が台湾の新聞に載りました)、菅さんに対してやたらと怒ってる人がいて、謝謝台湾のブログのコメント欄だけでなく、ツイッターでもテレビでもやたらと批判する人がいるんだけども、その批判する人たちにすごく違和感があったのですね。

わたしは今の民主党政権は気に入ってないし、政権誕生するあの選挙に時に、
周りの人や、世論が「一回やらせてみれば?」という論調だったときも、
あぶないな~と感じていて、民主党には投票してないわけで、全く現政権を支持するものではないのですけど、それでも、この期におよんで政府批判やら首相批判をしてる人にかなりの違和感を持っているんです。

で、その違和感は何なんだろう~
と考えてたわけなんですが、その答えっぽいものが昨日思い浮かんだんですよ。

ヒントになったのが文部省の発表した「学校で年間20ミリシーベルトまで許容する」という話で、参与の東大の先生が涙ながらに辞任した、という話を知ったとき。

 涙ながらに辞任するくらいなら、内側にいて自分が反対するものと戦って、方針を変えてほしかったとも思うのですが、ああいう辞任会見をすることで世論を動かそうという思いでなさったことなのかもしれませんね。

多くの人が「20ミリシーベルトの根拠は?」
「あぶないじゃないか?何でそんな基準なんだ?」
などと怒りをあらわにしてるのを聞きながら、

私の頭に浮かんでいたのは「私が政府ならどうするんだろう?」
ということだったんです。

それで、はっと、気がつきました。

これまで政府批判してる人の話を耳にするたび感じてた違和感は
ここにあったんだな~。と。

「あなたならどうするの?もっとうまくやれるの?」
ということだったんだ。

20ミリシーベルトの問題で私が考えたのは

・20ミリでも1ミリでも放射線は浴びなければ浴びない方がいいに決まってる 
          ↓
・じゃ、自然放射量より大きくなる場所では子供の野外活動を一切停止?
          ↓
・それとも学校まるごと移転?
          ↓
・その方法で生じるリスクは?
          ↓
・移転しなら親とはなれて子供が集団疎開?ときの子供のケアは?
          ↓
・それとも疎開するかとどまるかは親の判断に任せるとか?
          ↓
う~ん、どっちがいいんだろう?混乱混乱

というものでした。
専門家じゃないし、判断材料も多く持ってるわけじゃないので、わかるはずもないわけですが、私の頭の中では

「危ないじゃないか!政府は何を考えてるんだ!許せん!」

とはならず、私がその判断をしなければならない立場だったら?と考えてしまうんです。
これは、考え方のクセなんでしょうね。

すぐに怒っちゃう人も同様にそういうクセがあるんだろうと気がつかされました。そういう人は、政府の立場で考えることなんて思いもよらないんでしょう。

だからなんなんだ?
って話ですが、私ってそういう人間なんだな~と気がついたってことです。

昨日は休みでした。
私の仕事はハードではない代わり、休みは多くないです。
週休2日になるのは月に2回。
で、昨日は1日だけの休みでした。

休みが1日のときは
「あれもやろう、これもやろう」とやりたいことがいろいろあるわけなのですが、私の性格的に、だいたいどれもできないまま休みが終わってしまいます。

昨日も、休み前には

・草花と如雨露を買ってこよう
・部屋の掃除しよう
・春ものの服を出そう
・スーツケースの整理をしよう
・布団を干そう
・洗濯しよう
・ご飯作ろう
・選挙いこう

等等と言う野望(?)を抱いていたのですが、結局できたのは洗濯と選挙だけ。
テレビを見たり、お風呂に入ったり、そんなこんなで時間がたちました。

こういう休みを過ごすと、なんというか
「私ってだめだな~」
と思って、サザエさんが始まる頃には、ブルーな気持ちになるわけですが・・・
これって、気の持ち様なんですよね。

「あれもこれもやりたかったのに、洗濯だけしかできなかった」と思うか、
「ゆっくり休めた上に、洗濯もできた」と思うか。

物事の捉え方ひとつで、人生の色って瞬時に変わるんですよね。

タバコ吸う人が「放射能怖い!」って言ってるのをみると、かなり不思議。
他人の前でも気にせず、子供の前でもタバコ吸う人が、「子供のために水を探してる」とか・・

タバコ反対!
のデモなど記憶にはないなぁ。
東京において、タバコは放射能より怖い存在ではないということだろうか?

タバコの害はひろ~く平均してるから?
放射能はある場所でものすごく濃くて、ほかはうす~~~~い。
それでも濃いところのインパクトは強いからかな?

それ以前に、タバコは目に見えるから不安じゃなくて、放射能は見えないから不安という心理的なものかな?

あと、多くの人にとってタバコは見慣れてるけど、放射能って目新しい話題だからかな?

国民全体に及ぼすリスクの総量からいけば、いまのところ、タバコの方が圧倒的に危ないと思うけど。

放射能を心配するのなら、同じようにタバコにも気がついてほしい。

震災以来、こんな変な理由でますますタバコが嫌いになりました。


同じ疑問があった
放射線>タバコ?
http://okwave.jp/qa/q6641881.html

震災以降非日常の中で日常を過ごしている感覚だ。
時間がたてば忘れることもあると思うので、今の私のことを書いておく。

インターネット時代になって、一番自分にとって当事者感のある災害がおきた。
今自分にとっての課題は情報不足ではなく、情報過多であることだ。
情報がむき出しの生の状態に近い形で、世界中から届いている。
それを取捨選択する能力、智恵が問われている時代なのだと強く感じる。

地震、津波、恐ろしいほどの災害で、いまだに被害の全容すら分からない。
でもこのことはきっと復興できる。
時間がかかっても、私たちは復興できる。
これは今までの歴史が証明してくれている。

原発。
これはまさに現在進行形だ。
誰も今後の行く末について分からない。
皆不安で、それゆえパニックが起きる。

だかこれも、私はそれほど心配していない。
最終的には、何らかの解決があるだろうし、あのチェルノブイリ事故であってもウクライナはいまだになくなっていない。
チェルノブイリから100km程度しか離れていないキエフはいまだに首都だし。

放射能の健康上の問題については、この1週間でいろいろな専門家の書いた文章を読み、

・原爆のような大きなエネルギー熱線で被害を受ける可能性は皆無であること。
・大人は放射性物質の影響をほとんど受けないこと。
・60~70年代の核実験が続いていた時代、放射線物質の量はチェルノブイリ事故直後の量が毎年続いていたこと。(その状態を普通のこととして、私たちは過ごしてきていること)
・放射性物質の健康被害を受けたとしても、そのリスクは私たちの日常生活に普通にある(喫煙などの)リスクと変わらないか、あるいはそれ以下であること。

などのことを知り、必要以上に恐れる必要がないことを納得している。

今一番心配しているのは、今、原発で作業している人たちには危険が常に付きまとっていること。
彼らは熱線の急激な被曝もありえること。
避難している周辺住民の暮らしが元に戻るのがいつなのか、誰も分からないこと。

今後原発は、何度も放射性物質を出すことになるだろうし、そうすればその度に周りが汚染され、人々がパニックに陥るだろう。

経済に対する打撃は、東北関東そして日本中に及ぶと思う。
電力問題もあるし、実際私の仕事もどんどん不景気になると予想できる。
今と同じような生活は、もはやできないと覚悟をした方がいい。
でも智恵を絞って、よりよい未来を探っていく必要があると思う。

電機が足りないのは困るが、皆が節電について考えているのは大いによいと思う。

九州でも原発が動かせない事態になっているようだ。
もしかして、荒瀬ダムをそのまま使って再度水力発電をしようということになったりするのだろうか?(発電量が全然違うけど)

私は自分自身がこを乗り切っていくために、起こってしまったことを嘆きすぎたり、現状を心配しすぎたり、未来のことを不安に思ったり、できるだけしないようにしたいと思っている。
そのストレスで身体を壊すのはいやだ。
先のことは誰にも分からないのだから、希望を持つ方が絶対にいい。

私は小心者で心配性だから、自分が安心できる材料を一生懸命探している。
希望の裏づけを一生懸命探している。

その結果、いま80%くらいは安心しています。
買占めをして安心したい人がいるように、私は情報をむさぼって安心しているだけなのかもしれないが。

40


数年前から、更新されるのをとても楽しみにしていたブログが、休止(閉鎖?)されることになってしまいました。ハイレベルな内容だったので、なかなかコメントすることもできなかったのですが、一言一句もらさぬように読んでいました。

ブログの持ち主の方には、ネット上でのストレスがあったのだろうと思います。
あるいはオフラインでのことかもしれません。
ブログが閉じられるに至った本当の理由は他人にはわからないのでしょうね。

私も10年以上にわたり、ホームページやブログ掲示板、SNSなどいろいろなネット活動をしてきましたので、ネット上にはびこる悪意も多少ですが体験しました。
匿名だからといいように他人を攻撃したり、あるいは顔を合わさない文字だけのコミュニケーションによるすれ違いなどもあります。
それが、ネット上で発言する特定の人への攻撃になり、攻撃された人は、ほかに大勢の味方がいても大きなストレスを受けます。
他人を攻撃することでしか、自分を確認できないかわいそうな人たちもいます。
ブログの炎上などは、その最悪の形。

気の毒だなと思いました。
もったいないなと思いました。

すごく面白かったんです。
そのブログ。
私みたいな読者はたくさんいたでしょうね。
私もいつか、ちゃんとコメントして交流したいなと思っていました。

お疲れ様。
誰に頼まれたわけでもなく、自分お楽しみのためにやってるブログでしょう。
だから、いつ辞めたっていいんです。
私みたいな読者がいるからって、全然関係ないですよね。
存在すら明らかにできなかった読者だし。

どうぞ、ゆっくりお休みください。
で、ストレスの元から離れてさっぱりしちゃって下さい。

いつか戻ってきてくだされば、こんな嬉しいことはないのですが。

20


自分の意志とは関係なく、人生がある方向に進んでいくような感覚を持ったことのある人はいませんか?

自分の歩いてきた道の遠いところを振り返ってみて、なぜ、今こういうところに来てるのだろうかと思ったことはないですか?
多分恐らくかなりの方がそういった思いを持ったことがあるのではないかと思います。

さて、私の話。

まだまだ人生半分くらいかな、と思いますが、色々考えても不思議に思うのは、自分と台湾とのかかわりです。

●なぜ台湾にこんなに通うことになったのか?
●なぜ陳昇の音楽を飽きずに(?)聞き続けているのか?
●なぜ台湾にはこんなに友達ができたのか?

このへんの疑問は前々から感じていたのですが、改めて考えてみるとやっぱり不思議なのです。

それと、これは私しか感じていないかもしれませんが、
台湾にいるときの私は、普段日本にいるときの私と少し雰囲気が変わります。
これも不思議。

これまでも海外旅行は好きでいろんなところに行きましたし、その場所にはまって、何度も通ったりすることもありました。
シンガポール、香港、韓国・・・。韓国については、韓国語も勉強したし、学生時代の留学生をはじめ、現地の人とも色々知り合ったのですが、結局今にいたる人間関係を築くことはできませんでした。

音楽にしても、もともとアメリカンロックが好きで、ジョンメレンキャンプの家まで行ったりとか結構熱かったのです。
こんな風にはまっしまった音楽は、何も陳昇ばかりではないのですが、陳昇だけが、本人と知り合えたり、その周りの人々との輪がつながったりして、どんどん発展して行ってるようなのです。コンサートを見に行くことにも障害が少ない。

台湾に関係することは、ちょっとしたこと、たとえばコンサートで隣に座ったとか、ネットで知り合った人とメールしたとかでも、不思議とその種から芽が出て、花が開いて・・・・
という経験が多いんです。
台湾以外の土地では、その場限りになってしまうことが多い。
そもそも、普通の生活だとその場限りになることがほとんどですよね。

結局、結婚も台湾関係からできた縁だったし。

何かあるのかな?
と思ってしまいます。

何かの目的のために、自分の意志とは関係のない力が働いて、ここに導かれているのではないか?
そんな風に思ったりしてしまいます。
熊本のダムのほとりで生まれ育って、台湾には何の関係もない暮らしだったし、20代までは全く台湾に興味のかけらも無かったんですよね。

で、昨日散々考えて達した結論があるのですが、恥ずかしいからここには書かずに置こう・・。

エニアグラムをかじるようになって、色々自分のことが見えてきてるんですが、最近新しいことを始めました。

それは、お客さんのためにブログを利用したホームページ開設を無料で行うサービスです。

どうやるか簡単に言うと、コンピュータに詳しくない人でも更新などができるよう、gooのブログを開設するのを手伝ってあげます。
お店のホームページとして使えるように、少しカスタマイズしてあげたりします。

これがなんで、タイプ5の修行になるかというと、
「無償奉仕」というタイプ5が苦手なことに取り組むから。

無制限奉仕とか無償サービスとか、わけもなく怖いです。
してもらうのもですが、するのも苦手。

無料でできるのは、ここからここまでですよ!
とか決めておかないと、際限なくなるんじゃないかと思って怖いんです。

思えば、社会人となって20年。
「無料でサービスすると、際限がない」
「商売と関係のないことに、時間と労力を使うのは愚かしい」
「タダのものには有り難味がない」
などという言葉が、常に自分の座右の銘状態でした。

大人になって、仕事以外の私生活では奉仕とか、ケチらない生き方を少しずつ始めている私ですが、仕事上のお客さんや取引先との関係では、いつもきっちり仕事の範囲、サービスの範囲を決めていました。
まさに「ビジネス」ライクに。
その方が安心できるから。

ちょっとだけ、仕事の面でも冒険してみてます。
これが修行という所以です。

先日会社の後輩と、客先同行しました。
もうそろそろ入社丸3年になる女性社員です。
入社したばかりの頃は、ちょっと常識がないところ(若い人としては普通?)など、心配なところもあり、手取り足取り教えたものでしたが、

久しぶりに彼女に同行して、とても頼もしく思いました。
何がすごいかというと、

 客先での彼女の態度が、普段の会社での様子と全く同じだった。

つまり、全く緊張したり、自分をよくみせようと気負ってみたり、が一切ない!!

コレって、ものすごくすごいことです。
私は、社会人になって20年、それを目指しているけど、いまだにできません。
(前半はずっと営業やってました。向かないのに・・・)
どうしても内の私と外の私に違いが出てしまう。

客先の方もそのことがとても心地よいのだろうと思います。
とても温かで本音の付き合いをしていただいているようです。

こんな後輩の、エニアグラムのタイプは「8」(と踏んでいます)
8w7といってもいいかも。

とにかく、物怖じしない、自分に自信がある。
怖いものなし。
もし困難があったら、かえって燃えるタイプ。

うらやましいなぁ。

8

突然ですが、あなたコンピュータや機械に向かって怒りますか?

たとえば、パソコンが作業中に強制終了したり、いきなりのフリーズで保存してないデータが飛んでしまったり。ブログや掲示板で、書き込みしようと思ってた文章が消えちゃったり・・。よくありますよね、こういうこと。

そんなとき、怒りますか?

会社に、そういう場面ですごく怒るヒトがいます。
パソコンに向かって本気で怒ってるのがわかります。
そういう場面を見ていると不思議に感じます。

相手は機械でしょ?例え怒っても、謝ってもくれないし、今度から気をつけようなんて思ってくれるわけでもない。怒ってもまったく反応がなくて無意味なのに、何で怒るんだろう。

こんな風に思う私は、当然、怒りません。
怒りの感情はあまり自然に湧いてくる方でないので。
パソコンが落ちたら、「がっかり」します。

分析してて発見したのですが、
私が怒るときは、(怒ることで)相手に反省させたい。アドバンテージをとりたい。今後の付き合いの中で優位を保ちたい・・・などという打算があるようです。
で、怒りが自然に湧くというより、わざわざ怒りの感情を作り出す感じです。

こんなだから時々、「サイボーグみたい」とか「ロボットみたい」といわれることがあります。

ちなみにパソコン相手に本気で怒ってるヒトは
タイプ7とタイプ4。
何かの共通項があるのかな?
以前だと「パソコン相手に怒るなんて、ばかじゃないの?!」と軽蔑したりしてました。
でもエニアグラムを知った今は、それは、単なる「違い」に過ぎないということがわかってます。
どっちが上とか下とか言うことではないと。

エニアグラム、面白く、ありがたいです。

4

昨日お会いしたとある初対面の方に

「YOKOさんの人生のテーマは何ですか?」
と言うようなことをきかれました。

正確にはこういう言葉じゃなかったけど、意味はあっていると思います。

う~ん、考えたことなかったな~。
でも、私なりに、思いついたことをお話しました。
人生を知る修行のようなことが今のテーマだと言うようなことを。
意外な質問で面白かった。

4

これまた人間関係での話。

私がまだ若いころ(今でも若いですけどね、ふふふ)
関係を築きたい人との付き合いのなかで、何か引っかかることがあると
すぐに言葉に出していました。
(簡単に言うと、気にいらないことをガマンせず文句を言ってた)

それは、「今ここではガマンして、腹におさめることもできるけど、そんな風にガマンを重ねていったら、いつか爆発して、この関係が吹っ飛んでしまうのではないか?」と恐れたためでした。
「小出しにしといたほうがいい。」そんな風に思っていました。

でも、今は考えが変わりました。

「小出しにしなくても、我慢しても、爆発しないようにすることはできる。」と思っています。

何個か前に書いた「自分から変わる。成功体験を積み重ねる」に通じることですが、ガマンしたときに、そのままそれを消化(消火でも昇華でもいい)する方法を身につければそれで解決するんじゃないか。
と思っています。

「文句言うのををガマンしていつか爆発するくらいなら、文句を小出しにしよう」
これでは、いつも文句を言うことになってしまって、楽しい生活が送れなくなる。

まじめすぎる人に多い考え方なのかもしれません。

もちょっとずるくなって、楽に生きる方法を考えると、「文句もいわない。かといって不満もためない」というのがベストだとわかりました。

自分が変わる。

これは怖いことです。

めんどくさいし。

苦痛を伴う。

感謝の気持ちを表してもらえずに、悶々としているA子さんの場合で考えると・・。

・彼に何かをしてあげた
     ↓
・彼から期待していたほどの反応がなかった
     ↓
・「きーっ」となる気持ちを抑えて、「役に立ててよかった」とニコニコしてみる

これが変わること。

ニコニコするなんてむり! 

と思うかもしてないけど、いざニコニコしてみたら、意外と気分がよくなるかもしれない。
気分がよくなってしまったら、「損だ~なんで私ばっかり~」なんて考えは、頭からいなくなってる。

これが成功体験。
自分から変わったとこによって、事態が好転したの。

こういうことを何度も重ねていくと、
最初は「気持ちを抑えて・・・ガマンして笑った」ことが
気分も変わってくるようになる。

そんなことが気にならなくなってくる・・・かもしれない。

いずれにしても、私はこの成功体験を積み重ねる実験をしているところで、
いい方向に結果がでつつあるところなのです。

「他人は変わらない」の続き。

さて、二人の関係において、「どちらかが変わらなければ事態が好転しない。」
と言う場合、ついつい相手にその変化を求めるのが人情なのだけど、
それでは事態は硬直状態のまま。むしろ悪化することもある。

だから、自分が変わるしかない。

ここまでは、頭ではわかる。

でも実践が難しい。

「私ばっかり変わるなんて、損だ!!」
「こっちは苦しんでるのに、相手は何も変わらなくていいわけ?」

関係がこじれてくると、こういう不思議なネガティブ感情にも支配されがち。

人間関係に損得を持ち込んで、うまく行くためしはないという話もあるけど、損得の話は個人的に大好きなので(タイプ5の特性かな?)この線で考えてみよう。

変わるということにはエネルギーが必要。
いままで「これでいい」と思っていたことを変えるのだから、苦痛を伴うかも。

こんなに苦労して変わるのに、相手は何もしないなんて!
悔しい。
二人のことなんだから、二人で変わるのがベストじゃないのか?
二人で話し合ってベストな解決策を見つけたい。

と言う人がいるかもしれない。
(私なんか完全に、こう思うタイプです)

でも、話し合いで100%分かり合うことは無理だし、
二人で変わるといったって、相手を変えることは無理なんだし、
結局、どうしたって自分が変わるしか道は残されていない。

「自分も変わらない」と言う選択肢もあるけど、

自分が変わるか、変わらないかで、損得勘定してみると・・・・

多少苦しくても自分が変わったほうが、結果的には得なのですね。

自分を変えない=事態は好転せずむしろ悪化するかも
自分を変える=事態が好転する可能性が大きい

理屈っぽくなっちゃった。
気がついたシリーズの備忘録なので、お許しを・・。

これも気がついたシリーズ。
備忘録です。

もうずいぶん前になるけど、仕事の関係で
「コミュニケーションのワークショップ」に参加していたことがある。
職場の人間関係を円滑にするために社員全員が参加した。

そのときに勉強したことのひとつに

『他人に変わってほしいと願っても他人は変わらない』

と言うものがあった。

あの人がこういう風になってくれたら、もっと私もやさしくできるのに。とか
あのひとがいつもこういう口の利き方だから、いつもカチンと来ちゃうのよね。あそこを変えてくれたらうんとスムーズに行くのにな~とか。

日常生活で、他人に変わってほしいと願うことは多い。
特に、ごく身近にいる恋人や夫婦の場合は、そのことが原因でけんかしてしまったり、傷ついたり、傷つけたり。

「人は変わらない」

頭では理解できた。
でも、実践は難しかった。
自分にとって、重要な人物になればなるほど
「もっとこうしてほしい、ああしてほしい」
と要求が高くなる。
「他人は変わらないのよ」と自分に言い聞かせたところで、
おまじないに過ぎない。

「私が何をやってあげても、全然感謝の言葉がない。ありがとうって一言言ってくれたらそれでいいのに。だんだんむなしくなってきて、わたしって彼にとって大事な存在なのかわからなくなってしまう」

こんな話を聞くと、彼がありがとうって言えばいいのに。
なんて思ってしまうし、彼女が誰か友人にそのことを相談したら、たいていは
「そうだよね、それは彼がいけないよね。ありがとうって言うだけでいいんだものね。感謝するのは人として当然だよね」
なんて答えてしまいがち。

でも現実には、彼がそれで変わるわけじゃない。
前のエントリーでも書いたけど、彼女にとっては感謝の言葉はとても重要だけど、彼にとってはそんなに重要でないという、そもそもふたりの考えが違うことに起因しているので、分かり合うことは難しい。
彼は彼女ではないのだから。

この場合は、彼女が変われば解決する問題だと、今ならわかる。

感謝の気持ちがほしくてやってることなら、やってあげること自体やめればいいし、
やってあげたいからやってあげているなら、感謝の気持ちなんて求めなければいい。

彼女の心の中を変えることで、事態は一変する。

とにかく「彼が変わってくれなきゃ私は不幸だ」
という考えに取り付かれている限り、幸せはやってこない。

だって、彼はかわらないんだもん。
大人のないものねだりは、辛いものです。

私もまだまだ、周りに要求することが多いのですよね。
修行です、修行。

6

夫婦でも恋人でもいいのだけど

「何でも話せる」
「何でも話し合える」
「どんなことでも分かり合える」

ことって、そんなに重要かな?

所詮は他人、100%分かり合えることなんて無理なのでは?

もちろん、とことん話し合えば、こういうことを言いたいのかな?
とはわかるだろうけど、100%同意はできないのでは?

でもそれはそんなに悪いことかな?

「私の気持ちをわかってもらいたい」
と彼女は思う。
「彼女の気持ちをわかりたいけど、やっぱりわからない」
と彼は思う。
誠実な彼は「ごめん、それを全部はわからない。努力したいとは思うけど」
と言ってしまう。
「分かってくれないんだ。この人は私の運命の相手じゃないのかも」
と彼女は思ってしまうかも。

でも、分かり合うことがそんなに重要なのか?
問うてみたらどうだろう?

あなたのほしい答えは「君のことがすべてわかるよ」ということではなく、
「君の事を一番大事に思っている」
ということなのではないか?

すべてを分かり合える=愛している

ではない。

そのことに気がつけば、無駄な話し合いに時間をとられることなく、
わかってもらえないことに絶望することなく、
相手を大事に思っているのかどうかという、本質を見る目を曇らせないでいることができるのでは?

気がついたから、書いておこう。
いま、苦しみの中にある人のために。

だらだらとしていて、義捐金をまだ送ってませんでした。
だいたいこういうのは私の性格。
やろうと思ってから、実行するまで無意味に時間がかかる。

で、生李登輝さんを見た次の月曜日の朝。
「いいかげんにしろよ~」
と自分にカツを入れて、送金しました。
88水災から1ヶ月がたってしまいました。

単にネットで振り込むだけのとっても簡単なことなのに、
ホントだらだらしてるね、私。

代表処に送ったけど、後で調べたら日赤というルートもあったんですね。
どちらでも、役立てていただけるならかまいませぬが。


今日のエントリーは「王様の耳はロバの耳」です。

突然ですが、皆様は『嘘』つきますか?

私は、あまり嘘はつかないです。
嘘がつけないと言う方が正しいかな?

嘘をつくときには、必ず罪悪感が付きまといます。

ここからロバ耳のはなし

今、私「嘘つかれてるのかな~」と思っていることがあります。
それも、数年に渡って。

周りの人はあまり気がついていないように見えます。
その人が人柄的に割りと開けっぴろげで、あまり嘘をつくように見えないこともあるのかな?
私も心の中で、うそなのかな?ほんとなのかな?
と自問自答。
嘘と決め付けられないでいます。
でも、7~8割の可能性で嘘かな~。
その人の話で「あれ?」と思うことは、できるだけ裏を取って安心しようと試みてますが、なかなか裏が取れない。

もし、嘘つかれていたと分かったら、その人を信じていた気持ちとどう折り合えばいいのかな?

切り捨てる?

今までも嘘をつかれた事がないわけじゃないです。
とくに仕事関係ではかなりの嘘を体験してきました。
会社の金を使い込みしてた人なんて、嘘だらけ。

嘘だと分かった後・・和解した人もいるし、それっきりになった人もいます。

今度はどうするだろう。

信じて裏切られるのが嫌なので、今から少しずつ距離を置いて、100%は信じないようにしています。
これも「タイプ5」の処世術なのかな?
さびしいことですけどね。

その人が嘘をついているのかそうでないのか、分かる日が来るのかどうか。
それも分かりません。

このエニアグラムと言うもの、私は単に興味本位で本やネットでかじった程度ですが、企業の人材育成やコーチングなどの場面で活用されているらしいです。

ふむふむ。

確かに仕事の場面ではエニアグラムは活用できますね。

エニアグラムって、分かり合えないもの同士が協力して何かをするときのために、役に立つような気がします。

ちなみに私の周りには、

 タイプ1:正義の人、完ぺき主義
 タイプ3:成功志向の人
 タイプ4:独自性を求める人
 タイプ7:快楽追求の人

などがいます。

逆に

 タイプ2:奉仕に喜びを感じるひと
 タイプ6:堅実であることに価値をおくひと
 タイプ8:リーダータイプの人
 タイプ9:調整役に向いている人

は、ちょっと思いつかない。
絶対いるとは思うのですが。

あなたはどのタイプですか?
探るポイントは、

 「どんなことに不安を一番感じるか」
 「どんなことをされたら一番ショックで腹が立つか」
 「どんなことをすると満足や幸せを感じるか」

このあたりかと思います。

「僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なこと」

http://blog.livedoor.jp/kigyouhoumu/archives/52002635.html

ある方のブログで、見かけました。
とてもよいことが書いてあると思いました。

詳しくは上のリンクを読んでいただければと思いますが、
「フェア」であること(平等であること)を求めると、ひずみが生じるという内容です。

私の知人に最近恋人と共同生活を始めた女性がいるのですが、家事の分担が原因でよく彼とケンカになるようで、ときどき愚痴を聞きます。
まぁ、はたから見ている分にはケンカも微笑ましいのですが、本人はしんどそう。

何か解決方法を示してあげられればいいのですが、なかなかうまく言葉にできません。
この文章はすごくうまくまとめられていて、コレダ!と思いました。

戦後の教育のせいなのか、男女平等だとかいったイデオロギーに振り回されてる人が多いと思います。
確かに女性の参政権だとか、就職や教育の機会などは平等にする必要があることだったと思いますが、それが拡大解釈されて「全ての人間は、すべての事柄について平等」というわけの分からない幻想にまで発展した結果、様々な弊害が生じていると感じます。
私自身も、そうでした。
かなりの期間その幻想に取り付かれていました。
(結構重症だったと思います)

人間の付き合いに「平等」なんてありえない。
と悟ってしまえば、ぐっと楽になります。

家事は生活です。
二人生活だからといって「平等に!」にする必要はないのです。
一人暮らしのようにすればいいのではないかと思います。

経験なくてイメージ湧かない?
一人で暮らしていたらどうするか、ざっと想像してみて下さい。
働いて収入を得ることはもちろん、料理も掃除も洗濯もゴミ出しも、全て自分でやりますよね。
普通に。
そしてそのことに疑問なんか持たないですよね。

二人暮しの場合、仕事量が増える場合もありますが、やってもらえることも増えます。

私の場合で言うと・・・

 ●ごきぶりなどが出たときにタイジしてもらえる(昨夜1年ぶりに出たの・・・)
 ●自分が作らなくてもご飯ができている
 ●病気のときに看病してもらえる
 ●買い物してきてもらえる
 ●自分が掃除しないのに家がきれいになっている

                      などなど。

そうそう、これは学生時代に先輩にきいた話ですが・・・。

学生時代、家賃節約のためにルームシェアする人も多く、私も3年近く、友人と二人暮ししました。
まだ寮の一人部屋に住んでいた頃、ルームシェアしている男性の先輩に「二人暮しでうまくいくコツは何ですか?掃除や料理も交代でするですか?」と質問したところ、「交代でなんてしないよ。掃除は、きたないな~掃除しなきゃ!と思った方がするんだよ。だから、キレイ好きのオレばかり掃除することになるけど。相方は掃除する必要性を感じてないんだからそれでいいんだよ。料理も食べたい方が作ってるよ」

そうか~!
当時「平等主義」にどっぷりつかっていた私には、「目からウロコ」な言葉でした。
でもその言葉を胸に、友人との共同生活を楽しみ、就職してからも会社の人と数年にわたってルームシェア生活しました。
一人暮らしも長かったですけどね。

で、その後結婚の際にも、一人暮らしだった頃の生活パターンをほとんど変えませんでした。
自炊の頻度も、掃除の頻度も。

もちろん、相手の影響で変わったこともあります。
料理のレパートリーが増えたり(結婚前はほとんど料理したことなかった)
洗濯を毎日するようになったり(これは物理的に量が多いから)、など。

お金の使い方についてだけは、貯金をするために無理に変えようとした時もありました。
「平等主義の幻想」に洗脳されていた頭は簡単には切り替わりません。
でも結局無理なことはは長続きしませんでした。

今は、かなり「平等主義」から自由になり、
いい加減でラクチンな生活をしています。
夫は、もともと「平等」を幻想だとわかっている人です。

「僕が7年弱の結婚生活で学んだ、とても大切なこと」 には、
「平等主義からの解放」とともに、もう一つとても大事なテーマが書かれています。(読めば分かりますが)
むしろそっちが重要かな。
そのことについてもまた機会があったら書きたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090824-00000049-mai-pol

まぁ、一国の首相ともなれば、発言にいろいろいちゃもんをつける人たちが存在するのは仕方ないと思いますが、もし、身近な若者に「無職だけど結婚したい」とか、「フリーターだけど結婚したい」とか相談されたら、私なら、「ちゃんと経済的基盤を作ってから結婚したほうがいいよ」とアドバイスするでしょうね。

もちろん、例外はあるし、学生結婚でも、無職同士でも、幸せな結婚生活を歩む人も少なからずいるとは思いますが。

一般論としては、経済的基盤と結婚って関係が深いと思います。
別に、奥さんを養えとか、そういう話ではありませんよ。
経済基盤がないうちはまだ半人前だと社会は考えるってことでしょう。
社会的に一定の水準に達した「大人」になった時に結婚ってするものだと思ってます。

ま、私の結婚観はおいとくことにして・・・。
いちいちこういう発言をニュースにしなくていいんじゃないの?
マスコミの変な操作を感じます。
あるいは単に頭が悪いのか。

もうすぐ選挙ですね。

で、民主党が優勢らしいですね。

あの小泉さんのときの郵政選挙と正反対。
でも起きてる現象は同じような気もします。
なんというか、みなが雰囲気に流されているという・・・。
テレビでもよく言ってる言葉「勝ち馬に乗る」だ。

私はどうするかな。
実際、いろいろ心配なことはあるのですが。
みんな「生活。生活」っていうけど、実はもっと大きな世界の中の日本を考えたほうがいいのではないかと、いまあまり目先の生活のことばかりに気を取られていると、10年20年した頃に、取り返しのつかない事態になっているんじゃないか。
下手すると、日本が無くなっちゃうのでは?
日本人という国民でいることに自信を持てず、かえって辛くなってしまうような事態がやってくるのではないか。
ちょっと背筋がひんやり。

海外の人と接するときに、特にそういうことを感じます。
国に固執することなく、地球人でいいや~!
なんて気持ちはなかなかもてないものです。

「1回民主党に任せてみたら?」
という声が世論の大勢の様。
でも任せてみて、とんでもないことになったときに、取り返しはつくのかなぁ?
かといって・・・自民党ももうなんというか、末期症状。

宗教がらみはゼッタイに嫌。
そして、絶対当選無理!というような力のないところに投じるのもどうなの?

となると・・・。

あと1週間。
悩んでみます。

物申すシリーズ。

こんなこと書くと自分が年をとったってことを声高に言うようでなんですが。
最近の言葉遣いにとても馴染まないことが多いです。

思いつくまま挙げていくと・・・

「女子 じょし」

  昔からある言葉ですが、最近用法を変えて登場していますね。
  「○○女子」とか。「女子力」とか。

  「男子」もありますね。
  ねるとんのころにも使われたけど、最近ブログとかにも蔓延してる。
  特に、若い女性の美容系には多い。
  違和感ない人が多いからなんだろうケド、
  わたしは、馴染めないです。

  わたしが既に「ジョシ」ではないからか・・・。
  やはり「女の子」とか「女性」とか使いたいです。

  油断すると、自社の販促などのキャッチコピーに
  「○○で女子力UP!」なんて使われてしまいそう。
  気をつけなくては。

「真逆 まぎゃく」
  
  これなんですか?
  方言か何かですか?
  最近は、テレビでアナウンサーもよく使ってますね。
  古舘さん、ニュースのときによく使ってる。
  キモチワルイです。

  調べてみました。
  ヤフーの辞書には載っていました。
  [名・形動]《「逆」を強調した俗語》まったく逆であること。
  正反対なこと。また、そのさま。「前作とは性格が―の人物を演じる」

  俗語なんですね。
  市民権を得てきているんですね。
  
  しかしながら、この言葉使っている人を見ると軽薄に感じてしまいます。

10~20代の若者の使う言葉が、我々とかけ離れているのは仕方がない。
自分も若い頃には、そうやって上の世代をイラつかせたのだと思うし。

でも上記の言葉は、私と同世代か、それ以上の人たちも使っている。
それがなんかイヤ。

  

ため息をつくと幸福が逃げる・・・
こんな台詞は、ラジオの人生相談でしたっけ?

本人は無意識についてるんだろうけど、聞こえる方はちょっとブルーになりますね。

それと同じで、何にでもまずマイナスの反応をする人がいませんか?
私の周りにもいます。
気にしないように・・・と努めるんですが、
時々ホント、イヤになります・・。

 「Aさんが転職するんだって」
 「え~いまどき、転職なんて苦労するのに」

 「あのお茶飲むと痩せるんだって」
 「なんか変な薬とか入ってるんじゃないの?」

一事が万事この調子。
マイナスに反応する回路ができているとしか思えません。
時々嫌になり、話かけるのをやめようと思うのですが・・・。
喉もと過ぎるとなんとやらで、ついつい忘れてまた話しかけてしまうのです。

本人は、気がついていないんだろうな~。
こんな調子でもう10年も付き合ってます。
多分今後も変わることはないでしょう。

は~。

本人に言った方がいいのでしょうか?

4月の放送時、番組見ておりました。(台湾の友人と一緒に)

やぱりどうみても偏向だと思います。
その後の検証サイトなどもいろいろ見ました。
NHKは開き直っているようですが。

下記は今日のニュース。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090617-00000607-san-soci
感情論からいくと受信料払いたくなくなりますね。

自分の興味のある台湾について起きたこの問題。
普段うすらぼけーっとしている私にも、今の日本の世の中の仕組みが、否が応でも分かってくるようです。

日本人はもっと強くならないと!

昨日の日記にはいろいろコメントを頂きありがとうございました。

念のためにもう一度書きますが、宗教を否定はしていません。
信仰を持つのはすばらしいことだと認識しています。

信仰があることで心豊かな毎日を過ごしている人も知っていますし、

尊敬できる生活者の先輩もいます。

でも新興宗教に多い、だまし討ちみたいな勧誘~あれは許せません。

久々に、それをやられて、悲しくなりました。

だって「相談があるので時間をとってもらえますか?」

と言われて、こっちも有る程度心配して、気をもんで、
待ち合わせ場所に行ったら・・・全然違う話で・・・。

私の心配を返せ~!!