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祖父の書いた戦中戦後の回顧録を従妹が持っていました。今回、従妹から見せてもらい、その内容に大変驚きました。知らないことばかりが書かれていました。
それほど長い文ではないので、ここに数回に分けて再録しておこうと思います。


山河ありき

 筆者が中支の南昌日本領事館警察署の警察官として赴任したのは、支那事変が拡大の一途をたどり、漢口がやっと陥落した昭和十五年の夏であった。

当時同市に行くには、先づ長崎から船に乗り、上海に上陸して大陸の内航船に乗り換え揚子江を北上し、首都南京を経て更に同江を遡航、二日がかりで九江市に到着、ここから鉄路を西南に向け、軍事輸送の貨車の片隅に八時間ばかり座って居て、やっと南昌に着くと言う経路をとっていた。

 南昌は中国大陸の東西南北のほぼ真中に位置し、江西省の省都で、当時人口約三十万と言われ、日本人はもとよりかって外国人が住んだことのない、最も排他的思想の強いところといわれていた。それだけに四千年の歴史をもつ中国奥地の中国人の素顔が「生」で見られた。例へば女の纏足(幼少の頃足指をまるくしておき活発に外に出られないようにして浮気を封ずる)男の弁髪(黒髪を肩まで垂らす)の遺風がいたるところで見られた。

 周辺には日本軍約二個師団が展開、南進の拠点として重要視されていた。在留日本人も六百人をかぞえ、主として軍相手のサービス業、貿易等に従事していた。南昌警察署は警部署長以下十二名で構成され、在留日本人犯罪の取締りと言うより、むしろ指導に重点がおかれ、日本人の保健衛生から戸籍事務等まで担当し、言うなれば警察権を持った町役場のような存在であった。署長は福島県人で、号を「桃村」といい、大変俳句の好きな人であった。土曜日には全署員が広い署長室に集合、句会が開かれるのが常であった。しかしみんな進んで出席していたわけではなかった。「趣味の押し売りだ」とぶつぶつ言いながらも、出席しないと署長の機嫌をそこねるからである。

 当時の外務省警察官の昇任はその所属長が推薦した者のなかから、競争試験で昇任する制度であったから、まず所属長の気に入らねばならない事情があった。「俳句の一つも出来ないようでは常識人としての教養に欠ける」と言うのが、俳人署長の口ぐせであった。従って毎土曜日の句会のやりかたは独善的で誤字脱字があろうものなら「それで報告書が書けるか」と其の場で叱られた。

 其の当時の句で今も記憶に残っているのは誰の句であったか、「移り住む難民の群夏木立」の句である。現在のカンボジヤの難民を想起させそうな句である。

 俳句の先生であり、署長である「桃村」師の俳句指導は、あたかも大工見習いが師匠に手を取って教えられるようにして、頭から俳句をたたきこまれた。桃村師との出合いが、すなわち私の俳句につながる出合いであった。否応なく強制されて俳句の世界に踏み込んだが、一年以上も俳句に親しんでいると、自然に俳句の「よさ」、「面白さ」がわかって来て興味を覚えるようになった。「ホトトギス」にも投句をはじめた。

 当時のホトトギスは極めて厳選で、一年つづけて投句しても、一句も入選しないのが常識とされていた。
私に俳句の目を開かせた恩人は、福井県人で、しかも親友の奈良邯子であった。彼は若い頃から俳句に興味を持ち、その当時すでにホトトギスへの入選の経歴をもっていた。俳壇の消息にも通じ、虚子のホトトギスを「一つの企業」と言い、「虚子は偉大な俳人であると同時に企業人である」と評していた。

 当時南昌には軍報道部が発行していたタブロイド版の新聞があるだけで、ラジオさえ聞くことは出来なかった。中国本土の奥地にあっては、この新聞が戦争の行方、国内の情況、世界の大勢を知る唯一の拠りどころであった。毎日戦況を知らせる景気のよい活字が列んでいたが、敗色はおおうべくもなく、連日の爆撃と重慶側のゲリラにふりまわされ、夏雲を仰いでの嘆息の毎日であった。

 昭和十九年も末になると、在留日本人で妻子を内地に帰すものが急に多くなった。

 揚子江(今は長江と呼ぶ)は日本陸海軍で何とか(昼間は米機の爆撃で危険)安全が保たれていたが、上海─長崎間の海上航路は、潜水艦の出没で危険となり、はるかな鉄路をとって、当時の首都南京に出て、京漢線を北上、現在の首都北京を経て満州に入り、朝鮮半島を縦断して南下し、終点の釜山から、旅客船で下関に上陸するという大変な旅行をよぎなくされた。

 外務省の警察官は外地に三年間大過なく勤めたら、官費で帰朝することができ、三ヶ月間内地で静養できるしくみになっていたが、有資格者であっても戦争中のことであり、なかなかその権利行使ができにくい状態であった。しかし、親友「邯子」君は家庭の事情を訴えて再三帰朝願を出し、三ヶ月以内に任地に戻る事を条件に許可され、妻子を連れて福井市に帰郷した。

 同君が帰って来たのは昭和二十年四月で、「日本の国土のほとんどが制空権を失い、焦土と化しつつあり、国民は疲れきってゐて、今講和がなければ破滅するのではないか」と、その帰国談にはただただ驚くばかりであった。そうこうするうち、欧州ではその年の五月一日、米英ソの連合軍がベルリンに突入し、ヒットラー総統は自殺したと伝えられた。

 その時の気持ちとして、じっとしておれず、当時南昌市唯一の台湾銀行の応接室でドイツ滅亡の追悼句会を開いた。憲兵に知られるとめんどうになるので本当に気心の知れた一心同体の者七、八名が集った。
残念であるがその時の句は、私の句を含めて次の四句しか記憶していない。

     ドイツと言ふ国かつてありき花茨(いばら)   邯子
     もう出ない陽が沈み行く夏野かな        鶴子
     バラ活ける刻も失いドイツ逝く         了夏
     巨(おお)いなる国の崩るる日の薔薇(さうび) 礁舎

ドイツは二度までも大戦を引き起こした張本人として、再び日の目を見る事はなかろうと言うのがその時の我々の結論であった。

 我々の身にふりかかる破局は間もなくやって来た。八月十五日の無条件降伏である。
                                

...つづく


祖父の生前もらった俳句の短冊。
私の持っている唯一の祖父のもの。
いつかの正月に孫一人一人に書いてくれたものだったような。
俳句はわからないけど応援してくれてるのかな、と思った。

昨日半休とって国会図書館へ行った。
久しぶりに行ってみたら、かなりデジタル化されていた。まず、利用者カードを作る。資料探しはパソコン上で。利用者カードを読み取る装置の上にカードを載せるとパソコンが使用可能になる仕組み。コピーやプリントアウトの支払いはPASUMOなどの電子マネーで可能。
便利。
喫茶室で小倉バタートースト&コーヒー¥500

目的は、20年近く前に亡くなった祖父の投稿していた俳句雑誌。
そこに祖父の俳句や、その批評や、亡くなった時の追悼記事などがあるはず。予めネット上の蔵書検索で該当する巻数などは調べておいたので、すぐに見つけることができた。

知らないことがいろいろわかった。

驚いたのは、祖父が刑務所内の留置場係という獄吏のような仕事をしていたということだった。
私の知ってる祖父はいわゆる「駐在さん」だったのだけど、そういう部門にもいたのだ。そしてその時の特異な体験を俳句にしていて、それが俳人としての個性にもなっていた部分があるということ。(そういう俳句をバシバシ投稿してたら目立つのかも‥・)
それと、祖父の家に行くと鶴の写真が飾ってあったり、鹿児島の方に「鶴を見に行く」と言って出かけていたのを知ってるけど、「鶴」というのも好きなテーマだったということ。
本人が書いたと思われる略歴も載っていて、私の記憶を補強してくれた。祖父も台湾台東の大武にいた。やっぱり大武の警察官だった。

おまけ
祖父は外地にいた昭和18年(祖父30歳)に「ホトトギス」の虚子選に初めて載ったのが俳句デビュー・・・・のような書き方がしてあったのだけど、そんなに若いころから俳句をやってたとは驚き。
国会図書館で「ホトトギス」を探して、虚子選を調べてみた。これが相当な曲者で、当時のホトトギスは月刊。そして虚子選というのは読者からの投稿を片っ端から載せてあるもので、毎号数十ページに渡って掲載されているもの。その中で、一つこれかなというものを見つけたけど、俳号が全然違うし、これから検証が必要。
とりあえず載せてみる。

「風吹いて落葉帚にしたがはず 南昌 養愚子」(1943年「ホトトギス」6月号p.27)


このところ、昔アップした「小学校2年生の絵日記」という記事へのアクセスが急増しています。おそらく、夏休みに入り、学校の宿題の心配をする親御さんたちが、ネット検索していると思うのですが、どうでしょう?まさか、小学2年生自身が検索してるわけじゃないでしょう(笑)
自分の絵日記を読み返して、夏休みの行動をトレースしてみました。絵日記は毎日書いたのではなくて、16日分でした。そりゃそうだよね、毎日って大変だよ~。(読む先生も大変。丁寧に読んで感想を書いてくれてるんです。先生…涙)

昭和40年代の熊本の田舎の小2の夏休み

●海水浴×3回
16日間で海水浴に3回行ってます。
そのうち2回はいとこと一緒に、もう一回は部落の行事のようです。
お盆すぎたら海水浴は禁止というのもちゃんと守っていたようです。
泳ぎに行くのはきまって家から車で40分くらいの芦北町「うみのうら海水浴場」でした。

●山登り×1回
市房山にかぶと虫採りに行ってます。山に住んでいたのにわざわざ遠くの山へ行ったのは、名古屋から帰省中のイトコを遊びにつれていくのが目的だったよう。宮崎との県境の市房山までいくとやっぱり山奥レベルが違います。でも遠い・・・・ドライブを兼ねてたのかもしれませんね。

●街へ買い物×3回
八代に行ってるのが3回。
村に住む私にとって八代まで買い物に行くのは大行事だったようですね。

●父のソフトボール大会の応援×1回。
村内の部落対抗だったようです。

あとの8回は家での出来事を書いてます。
・家族と庭で花火
・ラジオ体操
・ご近所さんの引っ越し
・サボテンの花が咲いた
・廃品回収
・子供だけの留守番
・ままごと遊び
・すいか

親が遊びに連れて行ってくれてるのが8回。絵日記には書いていないけれど、お盆には親戚で集まってるので、それも入れると結構遊んでもらっていますね。当時の両親は30代前半だから、若くて元気だったんでしょうけど、よく遊んでくれているなと思います。「休みだからもうちょっと寝かせてくれよ」みたいな父を見た記憶がありません。田舎の生活って子供にとっては楽しいものでしたが、大人にとってもストレスなくて良かったのかもしれません。

こうして見てみると、なかなか豊かな夏休みです。自分を振り返って、休日を全部こういう活動に充てることができるか?イヤー無理なんじゃないかな。30代の頃だったとしても。家でゆっくり休みたいとか思っちゃいますもん。当時の両親に頭がさがりますね。

やはり、てるみくらぶは破産したそう。
こういう風に一般人の生活に関係のある会社の場合、より身近に感じて恐ろしい。

私も20代の頃に働いていたところが倒産して、お客さんにも家族にもたくさん迷惑をかけた経験がある。
だから、こういうニュースに触れると従業員のことも気になる。
給料がもらえるのかな?
残務処理が大変だろうな。
など。

最後の給料は現物支給だった。
高級美容液3本。
それも破産後なので手をつけてはいけないものだったのかもしれないけど、経理部長がこっそり渡してくれた。

でも・・・

これ、食べられないんですけど‥‥
家賃も払えないんですけど‥

結局換金できなかったな。
自分で使ったんだったか?

お客さんにも色々怒られたけど、あきらめてもらうしかなかった。
自分の損害を我慢して、若い私たちを励ますようなことを言ってくれるお客さんもいた。
今でもあのことは自分の中の消せない傷というか汚点。

その経理部長は、社長が姿を消した後も、われわれ一般社員が一定の残務処理を終えてちりじりになったあとも、毎日出社してきて残務整理していた。こういう人は信頼に足る。社長はあっという間に逃げて、一度も会うことはなかった。他の役員はみな自宅をとられてアパートなどに引っ越したのに、社長だけは裏技を使ったのか、元の豪邸に何年もそのまま住んでいるという話だった。10年くらいたってから、夢に社長が出てきて、めちゃくちゃにののしったことがあった。恨んでいたのかもしれないが、人を見る目を勉強させてもらったと思うことにしてる。

でも、経営者は会社を倒産させてはいけない。
本当にそう思います。
今の会社も危なくなったら事業整理してほしいぁ。

その昔、共通一次試験というのを熊本で受けて、二次試験は志望校まで出かけて受けました。
その時の思い出です。
「共通一次」って1979年~1989年までの11年間だけ行われたものなんですね。知らなかった・・・。そして、この世代は国公立から1校しか受験できなかったのでした。

●東京モノレールの車内でカルチャーショック

初めての東京、初めての飛行機。
空港から東京モノレールに乗ったのですが、その車中で、カルチャーショック!!
おじさんがナヨナヨしてる!
初めて生で耳にする東京弁。
「~~だよね」「~~だよ」
語尾が「よね」「だよ」?
うっわ~キモチワルイ!おじさんがそんな言葉で話すなんて。

と思ったのを鮮明に覚えています。

●真っ黒なうどんつゆ

東京から電車やバスを乗り継ぎ、宿の近くまで来ました。
お腹すいたね、なんか食べよう。ということになり、バス停の近くの食堂でうどんを食べました。
出てきたうどんにまたまた、カルチャーショック。

つゆが真っ黒!!

え?これ、食べられるの?うどんだよね?醤油煮なの??白いうどんが茶色に染まってるよ!

関東風の黒いうどんつゆの洗礼でした。
それまで見たことなかったんですよね。
皆でキャーキャー言いながら食べました。

●受験の宿で相部屋

宿は大学から十数キロも離れた温泉旅館でした。
そして、驚いたことに知らない人と相部屋でした。
旅行会社の「受験生パック」みたいなものに申し込んだと思いますが、私たちは同じ学校の男女数人ずつのグループ。女子は4人だったかな。宿に着くと「相部屋です」と言われて、そこに岡山から一人で来ていた女の子が合流したのでした。それから2泊。すっかり意気投合し、幸い彼女も合格したので、以降ずっと親しく付き合うことになりました。
旅先でのサプライズ。
楽しかった思い出です。

●東京で一泊!
二次試験が終わった後、開放されて東京で一泊。
本郷にある古い和風旅館に泊まりました。
「真成館」とかそんな名前でした。
友人の誰かの親の共済かなんかの関係で、安く泊まれたんだと思います。

本郷だったので、後楽園遊園地へ行って遊んだような気もしますが、それはあまり覚えていません。
その真砂とか真成とかいう旅館の古いたたずまいが、明治っぽかったんじゃないか。
写真など何も残っていないのが残念。

暖かな日曜日、近所の河原まで散歩。
途中、商店街のフランス料理屋さんが出してる屋台でお惣菜を買って、かんたんピクニック。
散歩していて汗ばむほどの陽気。
ベンチでお弁当を広げます。

ふと前を見ると、雑草の茂みに気になる草が。
あ!あの草だ!!

小さい頃この草でよく遊んだんですが、遊ぼうと思った時にすぐに見つかる草でもなく、ちょっとしたレア感があって、今でも見かけると、素通りできない。
この草、名前をカヤツリグサというのだそうです。
由来はズバリこの遊びからなのでしょう。
では、早速遊び方を伝授いたしましょう♪


まずカヤツリグサの茎を根元近くからちぎります。
形の良い草ですよね。
生け花などにも使われるらしいです。


先端のところもちぎって茎だけにします。


茎は断面が三角形になっています。
それを二等分にするように割きます。


両側から同じように割いていって、このように四角になったら成功です。

この遊び、誰に教わったのかな?
草の名前になるくらいだから、相当全国に普遍的な遊びだと思いますが。
例により、都会育ちの夫は知りませんでした。

過去記事
子供の遊び おしろいばなの落下傘
子供の遊び 紫カタバミのすもう
子供の遊び マサキの刀
ツバナを食べたことある人~?

昨日、女子高校生が遊びに来た。
今年7月に亡くなった私の学生時代のルームメイトの一人娘。
50日祭のころにお参りした時、ことのほか話が盛り上がったので、今度はうちに遊びにおいで、と誘って実現したもの。この子がまだ小学生の頃に両親と遊びにきたことはあるけど、今度は一人。さぁどんな感じかな?私も夫も楽しみにしてこの日を待った。

部屋を掃除して、駅まで迎えに行き、夫の手料理でおもてなし。
手ぶらでおいでといったのに、カステラ持ってきたよ。
お行儀イイネ~。

ご飯食べながら、ずーっとおしゃべり。
ご飯終わって、デザートになって、お茶になってもずーっとおしゃべり。
さすが女子高生、しゃべるしゃべる。

「私の知ってるお母さんは、当たり前だけどずっとお母さんだから、その前のお母さんに興味ある」

いうので、学生時代のアルバムを引っ張り出して見せながら昔話をしたり。

昔のものが入ってるダンボール箱をごそごそしてたら、彼女から来た手紙の束が発掘された。
大学の二次試験で知り合った(なんと受験の宿で相部屋だった!)直後、入学前の春休みに届いた手紙。
まるで日記みたいな文面、私も何十年ぶりに読み返した。

「お母さんの字、丸くて読みやすい。こんな字が書きたいなぁ」
「面白いこと書く人だね」

彼女は母親のことをとても尊敬しているよう。
客観的に評価してるようでもあり、この精神的成長はすごいなぁ。

「結婚するなら、両親のような夫婦になりたい」
ともいう。
こういう風に育ったのは友人の功績なんだろう。

手紙の束を見返していたら、社会人1~2年目頃のものが出てきた。
就職で故郷にもどった友人から、細かい字で表も裏もびっしりと書かれた葉書がたくさん届いていた。仕事でこんなことがあったとか、車をこすって相手との交渉に気がめいるとか、やっぱり日記みたいなことを延々書いてある。

こんなのもらってたっけ?

束の下から往復はがきが出てきた。

「ずっと一方的に葉書送ってるけど、今日は往復はがきにします。これならYOKOさんも仕事忙しくても返事くれるんじゃないかな?」

と書いてある。
でも、その往復はがき、返信用の部分もついたままになってる・・・ということは?

返事出してないのか!私!!

返信用部分を見ると、私もちゃんと書き込みもしてて、返事を出そうという気持ちはあったみたいなのだけど・・・・。そのころの私は毎日深夜まで働いていた。気持ちの余裕がなかったんだろうな。
いずれにしても、私の送った手紙は手元にないから、すべてが一方通行の形になっているわけで、もはや詳細はわからない。忘れてるし、その返事を出したかなんて、わたしたちの付き合いに大した影響なかっただろう。

でも、彼女が亡くなった今になって、出さないままになってしまった往復はがきがでてくると、心がちくりとする。

心残りがあることはこれからは彼女の娘に返していけばいい。
彼女の娘の中に友人が生きているのを感じた。
こういう形で、関っていけるのは幸運なんだろうな。

夕方、彼女を駅まで見送って、夫が一言
「あの子、まだ17歳だけど、なんだかもう我らの友だちみたいだね」
ほんとにね。

父を抱く祖母の写真(だと思う)。おそらく1941年頃のもの。
白黒写真に彩色をするサイトがあったので試しにやってみました。

カラーにすると、生き生きしますね!!
若い頃の祖母もグンと身近に感じますし、赤ちゃん時代の父も可愛らしい。

時々このブログにも書きますが、私の父方の祖母は台湾で生まれ育ったいわゆる「湾生」で、父の出産の頃、単身九州に渡って、その後祖父が仕事をしていた中国大陸へ向かいます。この写真は中国に出発する前に撮られたものと思われます。この写真ではないけど、父のアルバムに大牟田で撮った赤ちゃんの頃の写真があったのを覚えているので、多分一緒の写真館で撮ったのでは?

この白黒写真をカラーにする技術は、早稲田大学の研究者たちが作ったもののようです。
サイトに行くと簡単に試せますよ。

http://hi.cs.waseda.ac.jp/~iizuka/projects/colorization/ja/

http://hi.cs.waseda.ac.jp:8082/

8

最近、プライベートで電話を使うことがあまりない。
仕事ではまだまだ使っていますが、家の固定電話は本当に時々鳴るだけだし(ほとんどがセールス)自分の携帯電話も一週間に1回鳴るかどうか。もう解約してもいいんじゃないかと思うくらいですが、万が一の時の連絡手段にやはり必要かなと思って残しています。

振り返ってみると、私の生れた家には電話はありませんでした。
電話が我が家にやってきたのは私が小学生になったころ。
(田舎だったからかな?)周りもそんな感じだったような気がします。

そして、18歳で家を出て、大学時代は3年間電話ナシの生活でした。
意外とそれで済んでいたあのころ。
生活は今より相当シンプルだったと思われます。

大学4年になった時、就職活動に電話が必要ということで、大枚はたいて電話を引きました。
7万円以上したと記憶。
それからの年月は、ずっと電話とともにありました。1998年ごろに携帯電話を持ちましたが、電話代が高いからしばらくは固定電話に比重がありました。

電子メールの時代になって、家の固定電話が鳴らなくなりました。
そしてついには、スマホの時代になり携帯電話も鳴らなくなってしまいました。

こうして眺めてみると、めまぐるしい変化ですね。
電話の一生を見るような。
電話という道具は、そのうちすたれていってしまうのかもしれません。
電話の君臨した時代というのも案外短かいのかもしれません。

実は電話は苦手です。
相手が何をしているかわからないのに、いきなりベルを鳴らすというのが申し訳なくて。
さらに、かかってくる電話もベルが鳴るときに「ドキン」として苦手です。
何をしていても、やっぱり電話を最優先してとりますけど。
なんか、いつまでたっても慣れません。
仕事でもそう感じてしまうので、自分のデスクには電話を置いてない。(お局権限ですw)

それもあって、電子メールの普及以前は、よく手紙を書いていました。
子どもの頃、知らない人と文通してたし。
学生時代は実家や離れた友人たちに手紙を書くしかなかったし。
大人になってからも、友人たちによく絵ハガキを送っていました。
絵葉書と切手は常に携帯して、仕事の空き時間なんかにさらさら書いて送ってました。
90年代までは。
かなり筆まめなタイプだったと思います。
手紙は届くのがいつであろうと、読むのは相手の好きな時間でいいわけで、どんなに送っても負担にならないだろうというのが気楽でした。

でも、それも、インターネットの普及でやらなくなりました。

人とのコミュニケーションの方法がどんどん変わっていきます。
メール、ML、掲示板、ミクシィ、FB、ツイッター、ブログ、LINE、メッセンジャー・・・

方法は変わっても、結構筆まめなのは変わらないかな。
電話があまり好きではなかったから、手紙っぽいこちらの媒体が主流になってきてほっとしているところです。

これからどう変化していくのでしょうね?


今日は3.11.
いつもより少しだけ静かに仕事しました。

先日のこと、突然思い出したことがありました。

こどものころの記憶で、白い穂みたいなのが出るイネ科植物の若芽を食べていたことを。
「つ」とか「つば」とか呼んでいたような気がする。
あれってなんだったんだろ?

グーグルで調べてみる。

「白い穂」「イネ科」「食べる」
みたいなキーワードを入れてみたら見つかった。

どうやら、「ツバナ」というらしい。

チガヤの花の芽のことをそう呼ぶのだそう。
そして全国的にその部分を食べていた人多し。

食用というか、子供のころに遊びで食べていた。
という部類。

へ~。
私だけじゃなかったんだなあ。

記憶の中では結構おいしかった気がするものの、大人になってからは出会ってない。
ホントに小さな芽の時に食べないと美味しくないから。そういう小さな芽の状態で見つけることが難しいせいなのかも。

写真はWIKIから。
こんなに育っちゃうともう食べられない(はず)

8


今日は3.11.
いつもより少しだけ静かに仕事しました。

先日のこと、突然思い出したことがありました。

こどものころの記憶で、白い穂みたいなのが出るイネ科植物の若芽を食べていたことを。
「つ」とか「つば」とか呼んでいたような気がする。
あれってなんだったんだろ?

グーグルで調べてみる。

「白い穂」「イネ科」「食べる」
みたいなキーワードを入れてみたら見つかった。

どうやら、「ツバナ」というらしい。

チガヤの花の芽のことをそう呼ぶのだそう。
そして全国的にその部分を食べていた人多し。

食用というか、子供のころに遊びで食べていた。
という部類。

へ~。
私だけじゃなかったんだなあ。

記憶の中では結構おいしかった気がするものの、大人になってからは出会ってない。
ホントに小さな芽の時に食べないと美味しくないから。そういう小さな芽の状態で見つけることが難しいせいなのかも。

写真はWIKIから。
こんなに育っちゃうともう食べられない(はず)

きのうの記事で書いた「ほんがん、すいがん、へいがん」というのは、全国的な子供の遊びで、一般に「水雷艦長」という名前で知られているということが調査で判明しました。

夫の話によると、まず2チームに分かれ、こっちの電柱と離れたところにあるあっちの電柱を陣地とする。2チームに分かれた中でメンバーがそれぞれ「ほんがん、すいがん、へいがん」の3種類に分かれて、それぞれが特徴を持つ。(詳しくわからないけど、すいがんはほんがんに強くて、ほんがんはへいがんに強くてみたいなの)

ほんがん、すいがん、へいがんの3種類は帽子のかぶり方で見分けたそうな。野球帽のつばを前に被るのと、後ろに回すのと、横向きにするのの3パターン。

へー。
へー。
へー。


わかりやすい画像を見つけました。

名前からもわかるように、軍国主義的な遊びで、日露戦争あたりから子供たちに広まったそうです。でもまぁ戦後もやってたわけですね。「ほんがん、すいがん、へいがん」じゃ、意味が分からないけど(実際夫は言葉の意味も分からずやってたらしい)戦後、軍国主義色を薄めるために名前を変えたのかと思ったけど、昭和12年のお義父さんの作文にも「ほんがんをやって遊んだ」と書いてあったので、そうでもないんだな。

夫は、昭和40年代の子供が山ほどいる路地で、この遊びに夢中になってたそうですが、私は記憶にないです。過疎の村に住んでいたので子供がいなくてこういう団体ゲームには向かなかったんです。

とはいえ、私も一度だけ戦争ごっこして遊んだことあります。
それは、山の田んぼやミカン畑、谷川などを舞台にした山地戦。敵の姿が見えないゲリラ戦です。
参加者はかろうじて4人。
2人組になって山に入り、落ちてたみかんなどを投げ合って戦いました。でも兵士の数に対して戦場が広すぎ、ほとんど敵に出会いません。そのうち草木で遊ぶほうが楽しくなって、戦争を忘れるという状態になり、ごっこ遊びは尻切れトンボになってしまいました。

10歳で都会に引っ越してからは、缶けりはよくやりました。
陣取りもやったけど、「水雷艦長」のような複雑なルールじゃなかったので、のめりこむほどじゃなかったかな。缶けりのほうが面白かった。

上の画像はこちらのサイトからお借りしました。
「むかしあそび」の復活

4

朝ドラの「花子とアン」を見ていて不思議に思ったことがありました。

花子が甲府に戻ってきて、自分の母校の代用教員になるのですが、「安東先生は6年生の担任をやってもらう」という辞令なんです。
あれれ?戦前の尋常小学校って4年までじゃなかったの?

調べました。

明治40年にそれまで4年間だった義務教育を6年間に延長し、それに伴い尋常小学校を4年→6年
高等小学校を4年→2年
に改変したとのこと。だから花子先生は6年生の受け持ちでいいののですね。

さて、大阪の夫の実家に行きましたら、そこで義父の小学校時代の通信簿や期末テストの答案が出てきました。昭和12年で、義父が高等小学校1年生だったころのもの。つまり今の中学1年ですね。

旧仮名遣いだし、まるで古文書です。
すごいです。めっちゃ珍しい。
私が一番反応してて、写真なんかとらせてもらいましたよ。

通信簿には成績のほか、出席状況と健康状態なんかも書かれていて、興味深し。先生からのコメントに「うがいをすること」って書かれてました。(旧仮名で最初読めなかった)

作文もありました。高等小学校に上がって6日目に書いたもの。学校が始まって6日たつのに漢字の書き取りしかやってないとか、友達がまだ少ないので別の学校に行って(おそらく尋常小学校で同級だった子供と)「ほんがん」遊びをやったとか書いてありました。

「ほんがん」遊びと聞いて、夫の兄弟たちが盛り上がっていました。
「ほんがん、すいがん、へいがん」の3つに分かれて遊ぶ陣取りゲームのようです。義父も子供のころに遊んで、その子供たちも同じ遊びをしてたんですね。私はやった覚えがないです。大阪のローカルな遊びかな。

試験問題は「修身」「国史」「国語」「地理」「商業」「簿記」が残されていました。算数や理科などもあったと思いますが、見当たらなかった。ほかに、水彩の絵がありました。きっととても上手だったのでのこしてあったのでしょう。

「地理」の問題には、「アジア」「満州」についての問いがずらり!

時代を感じます。
満州については特に力を入れて教育していたのですね。

「修身」は天皇や皇室について、また「家」とはなんぞや。非常時や平時における愛国とは何か。など。こんな事柄についての問題がテストで出されて、点数がつけられていたんですね。

「国史」では
「聖徳太子は伝来仏教そのままを丸呑みにご信仰あそばされたのであろうか?どうされたか?」
「奈良仏教の弊害は?」
「最澄空海の中心使命を問ふ。四文字で答えよ」

うう、難しいぞ。

「商業」の問題は実用的で、「できるだけ早く手紙を届けたいがどうするか?」とか「この電文をウナ電で●×まで打ったら料金はいくらか?」など、国家の教育への熱意を感じる問題たちでした。この時から10年もしないうちに、日本の教育はガラガラと変わってしまうのですよね。

義父が生きていたらこれらのテスト問題を見ながらいろいろ解説してもらえたかもしれません。
会いたかったなぁ。


冬になりましたね。

夜、仕舞い忘れた洗濯物を取り込みにベランダに出たら、冬のにおいがしました。

  「あ、オリオン座の匂いだ」

とっさに、そう感じました。

  なぜ?

     なぜにオリオン座?

         オリオン座ににおいがあるの?

自分でも不思議ですが、冬の夜部屋から外に出たときに感じる空気の匂いを「オリオン座の匂い」として記憶している部分が脳のどこかにあるようです。
子供のころ、冬に星座の観測をしたときの記憶なのでしょうね。

熊本も東京も同じにおいでした。
おもしろいな~。

皆さんにもそんな匂いの記憶ってありますよね?

地方に住んでいる大学の同級生が仕事の関係で久しぶりに上京するということで、集まれる人だけという感じで急遽同窓会が企画されました。

主役の属性により、酒飲みか集まる会となりましたが何故か(?)私も参加。学生時代に一升瓶が似合う女という称号をもらってしまったせいなのかもしれません(汗)。

会場は都内の某中華料理屋さん。
集まったのは12人。男性9人に女性3人。
同期ばかりでもなく、また別の学部の友人も来ていました。
4年前に大規模な同窓会をやったので、だいたいのメンバーは4年ぶり。

最初から最後まで笑いっぱなし。
若い時期を一緒に過ごした友人達というのは、気が合う合わないにかかわらず何と気のおけないことでしょう!
昔の話、今の話、仕事の話、趣味の話。
男女の境なく、今置かれている立場の境無く。

楽しかった。
この楽しさは、また格別のものらしく、会の風景の写真を見た夫が
「同級生と一緒の時の顔、普段と全然違うね」と言ってました。
たしかに、今は年下の人との付き合いも多いし、性格的にも「お姉さん顔」になりやすいのかも。
長女だし。
同級生だと、そういう役割を演じようという気持ちが全くなくなるのかもしれません。

いろいろ面白い話題はあったのですが、中でも一番驚いたのは、私が18歳の頃、バレンタインチョコレート(義理チョコ)を渡した人がその時の私の書いたメッセージを保管してて持ってきてくれていたこと!
実は私は渡したことも全く覚えていませんでした。
ゴメンナサイ。
そのメッセージは全員に回覧され、ネタとして写真にとられていました!

これ↓

筆跡も子供っぽい。
明らかに「義理」と分かる表現。
素直すぎて泣けてきますね。
もしくは、ほんとは別の気持ちだったのに照れ隠しで「義理」と表現したのか?記憶がないので全く分かりません(笑)

てか、物持ちよすぎるでしょ!

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前のエントリーで書きました同窓会に登場したくまモンの動画がありました。
とても鮮明映像です。
私はこの撮影者のちょうど右斜め前にいたと思います。

くまモンというキャラのポテンシャルを感じさせる映像です。

kumamon

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だんだん年齢を重ねてくると、過去を振り返りたくなるようで(笑)、なんと!ずっと避けていた「同窓会」に参加してきました。
なぜ避けていたかというと、お金がかかるから(いや、ホント、マジで)。

でもそれよりも参加したい気持ちのほうが高まってきて、大枚はたいて行って来ましたよ。(同窓会費も払った)


受付の様子。
早めに行ったので、混乱ナシ。
私よりも7~8学年下の人たちが幹事としてがんばっています。

私の学年も幹事をした年があったのですが、そのころ自分の周りもがたがたしていたので、参加しませんでした(ごめんなさい)


名札に趣味やステータスを貼るシールのコーナー。
就活中とか婚活中とかもありました^^


県産品の販売コーナー。
くまモングッズも売ってました^^

驚いたのは、乾杯のとき。
ビールかな~と思ってたんですけど、いつまでたってもビールが運ばれてきません。
ホテルの人が、水の入ったグラスをたくさんお盆に載せて運んでます。

ん?
チェイサー先に配るの?
それとも水で乾杯?
まさかね・・・

と思っていましたら、そのグラスの中身は焼酎でした。
乾杯は有無を言わせず、焼酎で!

オドロイタ。


途中くまモンが登場して、県産品の紹介。
ふるさと納税を呼びかけてました!
結婚式のケーキカットシーンよろしく、最前列に陣取って写真取りまくりました。

初生くまモンです。
大感激。


2ショット写真を撮る時間もしっかりありました^^


新進気鋭のニッポン画家山本太郎氏のサイン会


漢字クイズなどのゲームもあり。


応援団の登場。
なつかしの校歌を歌いました。


最後は伝統の「げんこつ」で締めくくり。
これは卒業してからも懐かしく思い出すものだったので、うれしかった。
くまモンも登場して、一緒にげんこつしてくれたのも嬉しかった~
くまモン、さんくまー。

参加者600人以上いたそうです。
幹事の皆さんお疲れ様でした。
同級生は10人ほど参加してました。
懐かしい顔に会えたのも大満足。

また参加したいと思いました。


先週3泊4日で熊本に帰ってきました。
今回は航空券が安く取れる時期に合わせての帰省。
何か行事があるわけでもなかったので、のんびり遊べるスケジュールです。

早朝6時台に羽田を出る便にしたら、始発でもぎりぎりだと分かり焦りましたが、たまたま夫が会社のトラックを借りて帰ってきてたので、早朝送ってもらえてラッキーでした。
家からターミナルビルまで20分という近さ!

そんなわけで、熊本空港には朝8時半に到着。
父母に迎えにきてもらって、家に帰る前に行きたいところがあります。

それは、私が2歳の頃の記憶の中にある祖父母の家。
熊本空港の近くの西原村というところにあります。
2歳と9ヶ月のころ、弟が生まれるというので、当時西原村に住んでいた祖父母の家に預けられました。そのときの記憶が少しあって、以前ブログに書いたら、思いがけず叔母からその頃の情報が寄せられました。
当時祖父は「駐在さん」だったのですが、その駐在所は今でもあるという話でした。

以前の記事
2歳の記憶
2歳の記憶 その2


グーグルで調べた、西原村の駐在所のあったあたりまで行き、
酒屋の前で自動販売機に商品を入れてた女性に道を尋ねてみました。

いろいろ聞いてみると、なんと祖父母の在住時代に親しくしてくださってた方でした!!
晩年は交流がなくなっていたようですが、祖母が元気だった頃熊本市内の実家にも遊びにいらしたことがあるそうです。
しょっぱなから、ついてる!


駐在所のあった場所。
新しい道が出来て、村の中心も移転してしまったらしく、この駐在所は今年取り壊しが決まっているそうです。
とは言ってもこの建物も40年以上前の祖父母がいた頃の建物ではないそうですが。


記念に、酒屋さんでくまモン焼酎を買いました。

この酒屋さんの裏に駐在所があり、社交好きな祖母は毎日遊びに来てはおしゃべりして行ったそうです。この方の話によると、祖母の立ち寄り先にはこの酒屋さんと、八百屋さんと、もう一軒、3軒の商店があったそうで、毎日毎日、ぐるぐるまわっていたんだとか。当時50代の祖母がおしゃべりに花を咲かせていた様子が目に浮かぶようです。
私が氷やさんだと思っていた燃料店もそのメンバーだったんだろうと思います。

駐在所が分かったので、次は「ブランコ」探しです。

叔母の証言によると
家に帰りたいとぐずる私を、とりあえずバス停に連れて行き、ブランコに乗せてなだめすかして、駐在所に戻ってた。
そのブランコです。

いなかのことで、公園なども無さそうですし、
小学校かな~?
と当たりをつけて行ってみました。
小学校も駐在所の目と鼻の先にあります。

しかし・・・・その日は平日。
学校は授業中で校門は開いているものの、「関係者以外立ち入り禁止」
今は子供の安全のため、無闇に入れないんですよね。

そこまでしてブランコを見てくる必要もないな~と思い、その辺をぶらぶら。
小学校の前には、保育園と学童保育の建物があり、ちょっとした広場になってました。

なんとなく、見覚えがあるような気がする・・・・。

私の2歳の記憶の中のブランコは、ゆるくカーブした登り坂の途中、カーブがふくらんだ所に道に沿うようにして建ってたような・・・。

保育園の敷地に似た場所がありました。

「今は鉄棒しかないけど、ここにブランコがあったら、なんか記憶のイメージとぴったりなんだけどね~」
と母に話していました。

そこへ、保育園の職員のような方が通りかかったので、ちょっとブランコの事を聞いてみました。

話によると、保育園もいまは移転したそうで、今は村の子育て支援のための場所になってるそうですが、その方がたまたま昔の保育園時代のことをご存知で、

「ブランコは、今はないんですけど、前はここにこんな風に会ったような気がします」

って、話してくださった場所、私の記憶とぴったりなんですけど!
ちょっとぞわっと、鳥肌立ちましたよ。
びっくり。

やっぱりここだったんだ~~!

というわけで、今は何もない場所ですが写真写真。

中央の木の手前あたりにブランコがあったそうです。
向きも同じでした!
この写真ではフェンスがありますが、そのフェンスに沿うように建っていたそうです。

私の記憶ではフェンスなどはないのです。
昔はなかったのだと思います。

こうなったら氷やさんも見つけてみたかったですが、候補のお店も皆閉まっていて(廃業かな?)うかがうことは出来ませんでした。

でもすごい収穫でしたね。
びっくりびっくり。

今の時期はクチナシの花が咲いていますね。
梅雨の晴れ間、自転車で会社へ行った帰りの道で、ふわっとクチナシの香りが漂ってきました。
宵の口に嗅ぐクチナシの香りは、なぜか17歳の頃に連れて行ってくれます。

17歳、高校3年の今頃のことです。
高校総体も終わって、そろそろ受験勉強に本腰をいれなくちゃというころ、
丁度、住んでいたアパートの隣の空き部屋を借りることができて、家の広さが倍になりました。
受験生ということで、自分の勉強部屋をあてがってもらえました。
今思うとちょっと不思議ですが自分の部屋ではなく、純粋に勉強部屋でした。
寝る時は、元の部屋に戻って家族で川の字になって寝ていました。

その勉強部屋は真ん中にどーんと机を置いて、あとはちょっとした棚があるだけ。
殺風景な部屋だったような記憶です。
学校の道具は制服もそこにおいていました。
壁に簡単に取り付けた昔ながらの金属の棚があり、
ーーああいうたなはもういまではみかけませんがーーー
そこに、校章のピンや腕時計などをちょんと載せて、
その横に鏡をかけ、朝から髪をポニーテールにしたり、制服のネクタイを締めたりして、
弟たちと争わなくても朝の支度が自分のペースでできるのが嬉しかったものです。

ある日、その棚の上にクチナシの花が飾られることになりました。
父が持って帰ってきて、私にくれたのです。
多分、落ちていたのをひろったかなにかでしょう、枝もついてなくて花だけの白い八重のクチナシでした。
父から花をもらうというのは、滅多にないことです。
そしてそれが、私にとって初めてのクチナシという花とのの出会いでした。

一輪挿しとかそんな気の利いたものはないので、
当時我が家でちょっと人気だった、はごろも缶詰の蜜豆の小振りの空き缶にいけることにしました。

それからしばらくの間、部屋中にあの独特の芳香がたちこめていました。
私は受験勉強をしながら、クチナシの香りを覚えました。

ふしぎですね。
クチナシの香りなんて、毎年かいでいるはずなのに。
夜に香りが漂ってくると、あの蜜豆の空き缶にいけられていたあの時の情景が真っ先に思いうかびます。

将来庭を持つことができたら植えたい木が何種類かあります。

まず、沈丁花、そして梅、クチナシ、キンモクセイ。
季節ごとに香りを楽しめる花を咲かせる木です。
香りは記憶と直結するんですよね。
金木犀の香りは、トイレとかいう人もいますが、私にとっては運動会。
でも、その香りを実際今かいでないから、ディテールは、クチナシほど思い出せない。

金木犀の話はまた10月にでも。

さて、先日「2歳の記憶」についての記事を書きましたが、
いきなり当時のことを知る人物(叔母)から連絡がありびっくりしました。

どうも、熊本に帰省していた叔母が私の両親から、このブログのことを聞き、コメントを寄せてくれたようなんです。
嬉しいサプライズでした。

それで分かったのは、
私の記憶の中にある「氷やさん」と言うのがガソリンスタンドで、今もそこで食料品店を営んでいること。
氷も売ってたのかもしれないが、私の記憶に印象深いのは、その店で「かき氷」を食べさせてもらったかららしいこと。
しかもそのかき氷は、売り物でなくお店の人の家庭用だったらしいこと。
多分、子供がきたからお店の人がご馳走してくれたのでしょう。
そして、そのかき氷が気に入った私は、毎日「食べたい」と祖母を困らせていたらしいこと。(そりゃぁ、売り物ならともかく、自宅用のものを毎日たべたいって言っても無理な話ですネ)
バス停の近くのブランコは小学校のものらしいこと。

お父母の家に犬がいた?らしいこと。
全く記憶にないです。
私、小さい頃は犬が恐くて仕方なかったんです。というのも幼稚園ころだったか、友達の家に飼ってる犬に追いかけられて(犬はじゃれてるだけだったのかも)それがトラウマになってました。
2歳の頃ならその前だから平気だったのかな?

叔母は熊本市内で仕事をしていたため、祖父母の家には同居してなかったそうですが、週末になるとバスに乗って、祖父母の家に帰っていってたらしいです。
それで、その頃の私の様子も覚えていたそうです。

当時私の両親は弟の出産で大変だったでしょうから、このおばの話は貴重な証言となりました。

ありがとうございます~。
その村は阿蘇の方なので、今度帰省の折にはちょっとたずねて行ってみようかな。

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先日一番古い記憶として、弟が生まれた2歳の頃に祖父母の家に預けられた話を記事にしました。

さて、昨日の夕食時、
「今度、うちの工場にある会社が見学に来るんだけど、調べてみたら熊本の会社なんだね。」と夫の話。
ipadでその会社のホームページを見せてもらう。

へ~、あれ、この本社ってけっこう田舎にあるのね。
ホームページ上の「地図を見る」ボタンをクリックしてみる。
(三度の飯より地図が好きなもので・・・^^;)

うわっ!
この会社、ワタシが2歳のときに預けられたところにあるっ。
○○小学校の目の前だ。

なんて話を夫にする。

「おじいさんの家はドコにあったの?」

それは記憶にないけど、駐在所にいたはずだから。
まてよ、今でも駐在所ってあるのかな?

「そういうのは、そうそうなくならないんじゃないの?」

そっか、と思って調べてみると、その会社から徒歩1分もかからない所に、駐在所の表示を発見。
めちゃくちゃ近所ダ。

工場見学に来る人が本社からの人なら、お話聞いてみてもらおうかな?

今もバス停はあるのかな?
バス停の近くのブランコとか。
40年前にあった氷屋さんとか。
そんなうまくは進まないか・・・。

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私の一番古い記憶は2歳9ヶ月ごろ、弟が生まれたときのものです。
そういうイベントがあったので、いつの記憶だとちゃんと分かるわけです。

父方の祖父母の家に預けられ、何となく寂しかった日々の風景です。

一人で預けられていたので、両親も知らないし、写真も残ってないので、まさに子供の記憶だと思います。

●街の中心にあったバス停の近くのブランコ。

●氷屋さん

その景色が古い映画のように頭の中に蘇ります。
でもきっと、実際の景色は私に頭にあるものと違ってるんでしょうけど。

どの位の期間預けられていたのかな?

氷やさんって何だろう?

田舎に住んでいたこともあり、その記憶の他は氷屋さんなんて知らない。
もしかして氷屋さんジャナイノカナ?

皆さんの一番古い記憶ってどんなものですか?

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おしろいばなでパラシュートを作りませんでしたか?


この状態で高いところへ投げれば、落下傘みたいに落ちてきますよ。
結構楽しい遊びで、はまりますよ。

私は子供の頃散々この遊びやったけど、うちの夫はやったことないって言ってました。

私は熊本の高校を卒業したのですが、同級生の多くが上京しこちらに住んでいるようです。
昨日、同期会があり、実に卒業以来初めてというくらい久しぶりに参加して来ました。

正式な同窓会ではなく、数人規模で集まろうというような話から広まった会だったので、連絡の取れる人だけに声をかけたようですが、それでも36人集まりました。全学年で450人いたのだから多くはないかもしれませんが、それでも参加者のほとんどが私にとっては卒業以来初めて会う人ばかりで懐かしかった!それと、仲がよかったのに連絡先がわからなくなって何年も音信不通だった友達にも再会できてとてもうれしかった!(つねちゃんですよ~)

みんな各界で活躍中という感じで立派になってましたが、それぞれ精神的にも大人になっていて、とても気持ちのよい会でした。30年近くたってるんだから無理もないですね。

またこういう機会があったらどんどん参加したいと思いました。

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三つ葉の葉っぱで、小さなかわいいピンクの花を咲かせる雑草。
調べてみたら「ムラサキカタバミ」というのだそうです。
幼稚園や学校の帰り道、よく道端に生えていて、
それをとっては、草相撲をしました。

これが「ムラサキカタバミ」です。


ぴーっと。

これも調べたら、まとめているサイトがありました。

   ↓↓↓↓


http://www.kobe-c.ed.jp/shimin/shiraiwa/katabami/ktbm5.html

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子供の頃にものすごく田舎に住んでいました。
山に囲まれた場所だったし、周りに子供も少なかったので、
よく植物を相手に遊んでいました。

時々、散歩中などになつかしい草を見つけて
「これ子供の頃に遊んだよね~?」
などと、夫に言ってみるのですが、
町場で育った夫は、まず知りません。
私より年上なのに。
育った環境で遊びって違うものなんですね。
少しずつそんな遊びを思い出したら書いていこうと思います。

「マサキの刀」

生垣などでよく見かけるまさきの枝を使って刀を作るあそびです。
うまくできるかどうかは、微妙な加減にコツがありかなり熱中した遊びでした。
今じゃ、マサキを見かけても他人様の生垣ではちぎることもできませんね。

同じようなことをブログに書いてる人がいました。

   ↓↓↓↓


http://plaza.rakuten.co.jp/DrakesGalley2/diary/200805120000/

今にして思うと、これまでの人生でいちばん「徹底的」だった時期。
新しい情報がいっぱいで、とっても新鮮で。
でも、田舎だったし、インターネットもないし、情報には限りがあったから、手に入るだけどんどん吸収したいと思ったんだろうな~と思います。
知らないことを知るのが面白くてしょうがなかった。

●クラシック音楽を聴きまくった。
●洋楽も聴きまくった。
~~お金ないからぜんぶラジオでね。
  平日8時のNHKクラシックアワーは欠かさずエアチェックして。
  音楽の時間の曲目あてテストに燃えてた。
  洋楽も聴き始めたばかりで、自分の好みなどはなく、ひたすら何でも聴いた時期。

●漫画読みまくった。
~~休日のたびに立ち読みOKの本屋のはしごで1日何冊も読んだ。
  友達と貸し借りもよくしたなぁ~。
  当時有名だった少女マンガは粗方読んだと思います。
  LALAが愛読誌でした

●国の名前を覚えて、友達と二人休み時間にどっちがたくさん言えるか競い合った。
この友達とは、クラシック音楽のテープの貸し借り、漫画の貸し借り、いろいろしたな~。夏休みの自由研究も一緒にやった。
卒業以来会ってない。
どこでどうしてるのだろう?

●シャーロックホームズを読み漁り、シャーロッキアンの書いた研究本も手に入るだけかたっぱしから読んだ。
これは、高校~大学まで延々続きました。
大学生のときに、シャーロックホームズ誕生100周年とかでやたら関連図書が発売になったので、なが~く夢中になった。

●部活もがんばってたよ。
 テニス部でキャプテンだった。
 でも下手だったけどね~。

中学のことを書いたので、ひとつ思い出したことを。

中学の卒業式の日。
あのころは「第2ボタンがどうだこうだ」と盛り上がっていたので、そういう浮かれた気持ちもあったような気もしますが、今でも鮮明に覚えていることがあります。

それは、お世話になった先生に贈呈するための花束を買いに行った、学校の近くの花屋さんでのこと。
確か20代くらいの店員さんが対応してくれました。

「中学生?今日が卒業式なの?
 そうなの~。
 いい時期だよねぇ~。
 おねーさんもね中学のときが一番楽しかったのよ。
 今思い出してもね。」

なんて話をしながら、花束をこしらえてくれました。

そのときの私は、中学生活が終わることにたいして感慨はなく、
中学生活ってそんなに楽しかったっけ?そうでもないなぁ~。
などと思っていました。

学校生活を楽しいと味わいながら過ごすことができるようになるのは高校からで、中学のときは、勉強も部活動も友達関係も、とにかく目の前のことにただ振り回される!という状況だったのだと思います。
生活を味わう精神的な余裕がまだ育ってなかったのかもしれませんね。

今この歳になって振り返るなら、確かにいい時代だったと思えるんですけどね。


今年は大学の同期会があり、ずいぶん懐かしい人々との再会があった。
で、今度は中学のクラス会の話が持ち上がっている。

これこそ、卒業以来ほとんど会ってない。
判別不可能かも。
発起人になってがんばってくれてる人がいて、話が具体的になってきた。
まだ、10人分のリストもできていないけど、一人つながり、二人つながり、だんだんメンバーが増えてる。

私自身は、中学からずーっと今まで連絡を取り合っているのは(年賀状だけとかも含めて)2人だけ。
地元に帰って友達に会うことも全くない。

同級生たちもいろいろで、地元にずっといる人たちもいるし、ちりじりになってる人もいる。
みんなどこでどうしているのか。

再会が楽しみ。
担任の先生が既に亡くなられているのが残念だけど。