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コミック昭和史 (第1巻) 関東大震災~満州事変
水木 しげる
講談社

「ゲゲゲの女房」を毎日欠かさず見ています。
結構面白いんです。
朝の連ドラなんて何十年ぶりに見ております。

もちろん、水木しげるって名前は知ってましたが、漫画もアニメも全く見たことがありません。
あの何度も何度もテレビアニメになった『鬼太郎』でさえ、みたことがなかった。
怖い感じがしたからなのかな?

で、今更ながら興味がでてきて、この本を読んでいます。
全8巻。
面白いです。
昭和史の部分よりも『自分史』の部分が特に面白いです。


中学1年のときに買った本。
下記のアマゾンのリンクのとは同じ新潮文庫でも表紙が違います。

何度も読み返していますが、また読んでいます。
昨日大勢のお客様で騒ぎすぎたためか、疲れもあったので、今日は一日ごろごろと過ごしました。

読んでは居眠りのくりかえし。

このはなし、なかなかの冒険活劇+ワトスンのロマンスありで、盛りだくさんですが、今の時代なら許されないような人権侵害というか、差別意識バリバリの箇所があり、まだ読んでいない人にお勧めするのはちょっとな感じもあります。
でも面白い!

今の版なら多少は変えてあるのでしょうか?
ちょっと興味あります。
訳者は同じ延原謙氏ですが。

四つの署名 新潮文庫
コナン・ドイル,延原 謙
新潮社

8

大好きなマンガ。
たまたまアニメを見たので、また漫画を引っ張り出して読んでる。
小学館文庫版、「11人いる!」「続11人いる!」は1冊にまとまってる。

ぱらぱら読み進めて、あれ?と違和感。

せりふが変わってる。

受験生全員が宇宙船に移り、「11人いる!」となって、みなでヘルメットを取るシーン。
フロルがヘルメットをとって、長い髪がばさっとなる。

オリジナルは

チャコ 「じょ・・女性?!」
アマゾン「女性が最終テストに?!」
タダ  「いや、女性だって優秀なら・・」

手元に本がないので記憶を頼りに書きました。
この部分、中学時代読んだとき、すでにカチンと来ていたけど、
さすがに今の時代には合わなさ過ぎると思われたのか
次のように書き換えられていました。

1994年の文庫版

チャコ 「じょ・・女性?!」
アマゾン「なんで?俺たちマンチームだろ?」
タダ  「いや、女性も人間(マン)だよ。だから・・」

無理しましたね。

前に読んだときにはあまり気がつかなかった。
もしかしたらもっとあるかもね。
書き換え。

でも、11人いる!は名作です。
これと「スターレッド」は何度でも読み返しています。
こっちのほうが好き。
1975年の漫画。なのに今読んでも楽しめる。

11人いる! (小学館文庫)
萩尾 望都
小学館

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この2週間たのしませてもらったオリンピックも今日で終わり。
寂しくなりますね。
また4年後に会いましょう。

以前は全くオリンピックには興味なかったのに、トリノ五輪から俄然冬季ゲームに興味津々。
きっかけは、トリノ男子フィギュアのプルシェンコ。
(あとスノーボードクロス)

今回は、フィギュアスケートはもちろん、モーグル、カーリング、スノーボード&スキーのクロス、バイアスロン、エアリアル、ジャンプ、大回転などなど、かなり楽しませていただきました。

知り合いが出場していて一番見たかったボブスレーは、テレビで見るチャンスがなくとっても残念でした。
マイナースポーツだからって、放送しないなんてひどい!
(うそです。1度放送あったらしいんだけど、仕事中だったから見られなかった)

それと、ここのところ地震がつづいてて、津波もありましたし、気象は不安ですね。
梅はいつもどおりに咲いてくれましたが。

さて、最近読んではまっているのがあります。
コレ↓

http://www.wakabauu.net/mitubisi/mitubisi2.pdf

「健軍三菱物語」岡野充俊著

以前、女子挺身隊の文章を抄録しましたが、それは、この本に書かれていたものです。
熊本に戦時中に作られた三菱重工の飛行機工場の話です。
上記URL先には、女子挺身隊のほか三菱重工の社員の人、徴用工、勤労学徒などさまざまな人が手記を寄せています。
読み応えあり。
PDFファイルで読めますので、ご興味のある方どうぞ。

他の方のブログ
http://ochaichi1.otemo-yan.net/e132328.html

http://blogs.yahoo.co.jp/ryokoda/49452487.html

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女子挺身隊 のこと

女子挺身隊 のこと その2

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女子挺身隊 のこと その5

4

私は今、サイパンにいます。
普天間基地をグアム・サイパンへ、という運動をしている党もありますが、いまは、穏やかな南の楽園です。
ここから熊本の7/1、8/10の空襲の際の戦闘機が飛んで行ったのだそうです。
自衛隊通りの花見と同様、当時の人が聞いたらどう思われるでしょうか。

挺身隊時代の想い出

昭和19年3月22日、尚絅高女を卒業と同時に挺身隊として三菱健軍工場に行き、入所式が行われました。各学校卒業生も同時に入所し2千人以上の挺身隊がモンペ姿も凛々しく、不安と期待に緊張した面持ちで整列致しました。

広い工場に入り、所長の御挨拶や注意等があり指導の先生方のお話もありました。それから毎日、実習工場で指導員の笛の音に合わせてハンマー打ちや、ヤスリ掛けの練習が交替で行われ、工場内にはハンマーの音が響き渡りました。

戦争は日増しに厳しくなり物資不足、食糧難となりましたが私達は唯耐え忍び、陛下の御為にと頑張り続けました。
時々、干バナナ、飴、こんにゃく石鹸、等の配給がありました。その時は嬉しくて家族共々喜んだものでした。こんにゃく石鹸はその名の通り見た目にはこんにゃくその物です。全然泡も立たず、あまりよごれもおちませんでしたが無いよりはましで、母もとても喜んでいました。近所の人にも分けてあげていました。実習期間も終り、配属先は工場管理部門の管理課材料係でした。高木課長、有住係長、今井技師の下で働くことになりました。課内には係長が数名、技師、技手の方がそれぞれ数名おられました。挺身隊は第一高女、尚桐高女、市立高女、松橋高女卒業生が5~6 名と簿記学校卒業生、養成工、女子徴用で他来た人数名、合わせて40~50名居た様です。男子は鹿児島の七高生と熊本語専の学徒動員の人も来ていた様です。

朝礼は男子が7 時30 分、女子は8 時でした。交通機関も悪く朝礼に遅れる人もありました。
水前寺駅から第3 通用門の近くまで線路が敷設され、多くの通勤者はこのトロッコの様な車両に乗せられて通っていました。現在では住宅やら、色々な建物が並んでいますが、当時は渡鹿の練兵場で広い広い野原で、見渡す限り芝草と所々に背の低い松が生えていました。引込線の通勤列車は、その中をゴトゴトと走っていました。これに乗り遅れた時、トラックに乗せられたこともありました。

しばらくの間は学校の寄宿舎から通勤していましたが、食糧難になると共に郷里の田舎から通勤することになりました。家は飯野村の船野山の裏にあり、そこから木山の停留所まで歩いて40 分、木山からバスで健軍まで来て、そこから第2 通用門まで小走りに坂道を急いで職場に入る毎日でした。大抵、始業30 分前には着き、皆さんの机上を拭き、係長の机上には時々花を飾っていました。朝礼、点呼が終るとそれぞれの持場に行って仕事を始めるという生活でした。或る日、今井技師が組立工場に連れていって下さいました。重爆撃機が組立中でした。2枚羽根の小さなトンボの様な飛行機も4 、5 機いました。

当時は、何でも軍極秘でしたので、あまりあれこれ聞くことも出来ず、それが何という飛行機かもわかりませんでした。帰りがけに、二枚羽根の飛行機に乗せてもらいました。「飛んでみたい」というと、その内に一回位、乗せて(飛んで)あげるよと云われましたが、遂にその機会はありませんでした。

鋲一本打つにも魂を打ち込んでしないと飛行機が空中分解すると教えられました。
昭和20 年に入ると部品や材料がうまく揃わず、又空襲も激しくなり、生産はまゝならなくなりました。或る日、昼の休憩時間に皆で輪になってバレーボールをしていました。その時打上げたボールが機械工場の屋根にひっかかったので、学生がよじ登ってとりに行ったところスレートが割れて落下しました。
すぐタンカで運ばれましたが、気の毒に亡くなったと聞かされ涙が出ました。
7月に入り毎日の様に警報が入り大事な書類だけ持って近くの竹薮の防空壕に待避しました。高小を出たばかりの女子工員が空襲の恐しさのあまり「お母さん」と云って泣き出したので私は彼女の肩を抱き、妙り豆を食べさせて励ましてあげました。彼女等は当時14~15 才で親元を離れ、寮生活をして頑張っていましたが、やはり母親と離れていることが淋しく、つらかったのでしょう。

当時、私達の姿はモンペをはいて、防空頭巾をかぶり、非常食(大豆を炒ったもの)を入れた袋を肩から下げていました。この姿は日本国中、申し合わせた様に格一的なスタイルでした。
耳をすまし、敵機が遠ざかるのを待って職場に帰っていきました。
7 月1 日の深夜、熊本市は壊滅的な空襲を受けました。市内の空は真紅な火の海と化し、絶え間なく聞える敵機の爆音がにくらしくてなりませんでした。

私は会社が気になったので、翌日早目に出勤しました。健軍の社宅もいくつも焼けて、課内でも2~3人が焼き出されました。職場は空席が目立ち、女子では川下さんと私の二人だけで、男子が5~6人出勤して来ましたが仕事にならず、その日は帰りました。

日課長のお話しがあり、「敵機の本土空襲も日増しに本格化して来たが、森都熊本の軍需工場では、増々旺盛な戦意を以って敵撃滅のため生産に邁進し、頑張っていこう」と激励されました。工員の方の中には、家財をすべて焼かれ、肉親を失った方々も出ましたが神州不滅を
信じて頑張りました。

私も心を強く持ち直し、負けてはならじと気を引きしめました。然し部品も底をついたのか、飛行機は仲々完成せず、不安がつのって来ました。敵機の空襲がある度に、こんなに敵の為すがまゝにされ、日本の飛行機は対抗出来ず、山の中に据えてあった高射砲を一度も発射する気配もなく、私達は敵機が去るのを見届けて壕から出てくるという状態です。

8月10日、私はどうしても気が進まず、会社を休みました。お昼近くになったら御船方面から来た敵機約50機が船野山から低空に入り、太陽の光をあび健軍目がけて突込んで行きました。やがて健軍上空で大きな輪を描きながら、次々と爆弾を落し、見る間に黒煙が立ちこめま
した。船野山の裏の高いところにある私の家から健軍はよく見えていました。私はこわいもの見たさに杉垣の問からその光景をじっと見ていました。次の瞬間、職場の皆さんや同僚の安否が気になりました。会社に連絡をするにも、その頃電話は一里程離れた役場と学校に一台づつあるだけで、誰も電話のかけ方もわからない人ばかりでした。歩いて行ったり来たりで知らせ合っていた時代です。

三菱へ行っている近所の人の帰りを待って工場の状況を聞きました。その人は「もう恐しくて、腰が抜けそうで、死ぬ目に遭った」と涙を流さんばかりにして話てくれました。低空で舞下りて来て機銃掃射をしていき、アメリカのパイロットが見えたとも云っていました。が、とに角、皆無事と聞きほっと胸を撫で下しました。

この頃は、通勤バスも木炭車で火力が強くならないと動かないので、皆んな降りてバスを押し、やっとェンジンがかかったと思うと又停まるという調子で、健軍→木山→家まで歩いて通う日が多くなりました。靴も破れ、下駄で通いましたが、その下駄すらすり減って割れてしまい、素足で帰ることもありました。会社は事務所の横の空地に大きな穴があき、爆風で窓ガラスの破片が辺り一面に乱れ散り、そのすさまじさに思わず目を見張りました。幸い課内の人は無事でしたが、同級生の前田さんの職場では吹きとばされて眼鏡だけが残っていたそうです。

鍍金工場の2 千屯プレスの上には200 kg爆弾が落され大分やられました。この日の空襲で大分あちこちがやられ建物は無残な姿となり只、呆然となるばかりでした。疎開が始り、私達管理課は水前寺の盲学校(現在むつみ荘)に疎開しました。畑の中には焼夷弾の不発弾がニョキニョキと突き立っており、その間を縫うようにして走り抜けたこともありました。

8月14日出勤したら、課長から明日天皇陛下のお言葉が伝えられるので聞く様にと云われました。翌15日、皆外に並んでその時を待ちました。
日本は無条件降伏したという内容のお言葉であったそうですが、はっきり負けて降伏したというお言葉は聞けず、とてもむづかしい言葉であったが、何となく負けたのだという感じが段々判って釆ました。

課長からは「無条件降伏の詔書が奉読され、陛下は国民のことを心配されとても苦しんでのお言葉でした。残念だが今となっては詮方ない。」と話があり、長く、苦しかった戦いも終りを告げました。

8月20日に挺身隊は解除されました。 29 日にちょっと残務整理に行き、500 余円の賃金を頂きました。ハンカチ一枚もない世の中、金はあっても買う物がなく金は役立ちませんでしたので、私の給料袋は神棚にずらりと並べてありました。

健軍終点の土手の上には、焼夷弾の空や不発弾が集められ、山と積まれていました。戦争が終ったら今度は生きるために一生懸命戦はねばなりませんでした。リュックを背負った人達が、田舎へ田舎へと行き、から芋、かぼちゃ、お米など食べられるものなら何でもいいからと、大切にしていた着物などとの物々交換が続きました。夜は電気もなく菜種油で灯されました。

かつて私達が、毎朝小走りに駆けていった工場西の道路も、今は桜並木が続き花見時は歩行者天国となり、花の下には敷物を敷きつめ、唄ったり、踊ったりの大娠いです。この天国の様な昨今を見るにつけ、その昔、私達が同じこの地で歯をくいしぼって生きて来たことが何であったろうかと、フト考える昨今です。

尚絅高女 米原絹子さんの手記

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女子挺身隊 のこと

女子挺身隊 のこと その2

女子挺身隊 のこと その3

女子挺身隊 のこと その4

女子挺身隊 のこと その5

健軍にあった寮「秋津寮」のあったところに、戦後私の祖父母は引っ越してきました。
昭和何年くらいのことでしょう?
確か父はそこから高校に通ったはずなので・・・昭和30年代初頭ですね。
こんど父に聞いてみよう。

長崎に落とされた原爆、たしか午前11時ごろだったはずですが、夕方になっても燃え続けていたんですね。
熊本からもそれが見えていたのです。


女子挺身隊の想い出

私は工機工場の事務係として配属になりました。当時の課長が田澤貞助さん、そして職員の若い伊藤さん、ご年輩の飯尾さん、名古屋から来られた女性の滝川さん、その他一般工、徴用工、本渡高女、菊池高女の挺身隊等あちこちから来ている人達がいました。とても良い雰囲気の中で仕事が出来ました。

同じ挺身隊でも現場に配属され夜勤をさせられた人、一日中立ちづくめで機械にとり組む人に申し訳けない思いがしたものです。当時工機工場には2000 人位居たのではないかと思います。

仕事の内容は勤怠係で入退場、出勤状況を憲兵隊が詰める監督官室に毎日報告に行きました。監督官室に入る時はドアのノックから一挙一動、それは巌しいものでした。現場に憲兵の姿が見えるとみんな恐れていました。
“憲兵に非ずんば人にあらず”と言った態度に見えました。それから何カ月か経って各工場の勤怠係は労務課に集約移動となりました。当時の課長が高城さんだったと患います。

やがて戦局も険しくなり私たち八代高女の挺身隊も疎開先へ散って、互に会う機会もなくなりました。疎開先は熊農、熊工専、隈府、松橋高女、宇土等、様々であったようです。

20年3月、私と同僚2人は宇土工場に参りました。宇土工場は市内の真中にあり、萩原さんという酒屋さんの蔵を改造したところでした。一階は薄暗い裸電球の下に旋盤が何台か据えつけられている程度で健軍工場に比べたら細々としたものでした。二階が事務所になっており、工場長を当時は群長さんと呼んでいたようでした。現在田尻町在住の浅井宗光さんといい仕事には厳しく、人間的にはとても優しい方でした。出勤表は何日かに一回、健軍(労務課)まで届けて居られた様です。現在、日奈久在住の白浜芳太郎さんでした。

又、20年6月頃、宮崎工専からの学徒動員で片野冨志(鹿児島市在住)、外囲巧(福岡県粕屋郡在住)、黒木康秀(宮崎県在住)各氏が来られ、事務所も賑やかになりました。
健軍工場に居る間は寮生活でしたが、宇土工場に疎開してからは家から通勤となり嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。
然し、当時は車も、バスも通っておらず、母は雨の日も、風の日も毎朝5時から人家のない球磨川べりの山道を4k程歩いて八代駅まで私を送り、そして又歩いて帰っておりました。その母も一昨年85 才で亡くなりましたが、あの頃の母の姿が私の瞼から離れることはありません。

§ 空襲

工機工場にいた頃、昼間に空襲警報が発令され、全工場従業員が一勢に正門に押しかけ、人の波、波…で遠くに爆音が聞えるのに一歩も前進せず、健軍神杜の森や、麦畑の深い土手下の防空壕まで辿り着くのに大混雑したことがありました。あの時、機銃掃射でもうけたらひとたまりもなかったでしょう。

20年3月、前日に降った雪がコチコチに凍りついて冷気が肌をさす冷たい夜に空襲警報が発令され、秋津寮から六嘉村の竹薮の防空壕まで走りました。
私達の頭上から低空飛行で工場を集中攻撃しました。本当に恐ろしかったことを思い出します。その時、工機工場の隣にありました機械工場が被害を受け、従業員がなくなられたと聞きました。健軍は阿蘇から吹き下す風が冷く、寮には暖房の設備もなく、両手の霜やけがくずれ、その傷あとが今も右手に深く残り、手を見る度に、寒くて、辛かった健軍の寮生活を思い出します。

川尻駅が機銃掃射を受けた頃、私は宇土工場の二階におりました。爆音が遠く南の方に聞こえるので、東海電極、田浦工場に学徒動員として行っている弟のことを案じて窓から眺めていると、その瞬間、私達の上にグラマンが…・パチパチ、バリバリ、ヒュンヒュン‥それはもう何と表現したらよいのか生きた心地がしませんでした。階下の人は防空壕へ飛び込み、下に降りて来いと叫ぶのですが、全くその余裕すらありませんでした。5 ~ 6 人が、それぞれの机の下に耳を押え、伏せておりました。耳をつんざく様な炸裂音、屋根が吹きとぶような爆風、窓を明けていたので機内から私達の姿が見えたのか、超低空飛行で、何回も、何回も集中的にやって来ました。一寸静かになったので頭を上げてみたら近くの日本合成宇土工場を攻撃していました。やれやれと思っていた矢先、再び私達の工場を襲撃し始めました。この間、どの位の時間だったでしょうか。まさに生地獄、表現の仕様のない恐ろしい体験でした。

敵機が去って我に返ると、下の防空壕には何発かの弾が当っておりましたが、幸い人には被害はありませんでした。隣の民家の人が何人か亡くなられたと聞きました。宇土駅もその時焼失したのではなかったかと思います。

8 月9 日、艦載機も頻繁に来襲し、汽車も延着の連続、夕方になってやっと来た貨物列車に沢山の人が乗っておりました。その貨車は屋根も無ければ、手すりもない原木を運ぶ貨車で、押せば振り落される様な貨車に宇土駅から乗り風に吹かれながら、西の空を眺めていると、彼方に夕焼けの様なオレンジ色の輝きが目に入りました。それが長崎の原子爆弾でした。

終戦の日、朝から何故か艦載機のことも気にならない-いっもと違った静かな日でした。宇土工場階下の旋盤の間に全員が整列して玉音放送を拝聴しました。ガアガアと雑音が入って十分聞きとれませんでしたが、その主旨は解りました。その時、私の頭にまっ先に浮んだのは戦死した兄でした。大学を卒業したばかりで長髪をおとし丸坊主になって出征していった兄、勝つことのみを信じて26 才の生涯を国に捧げた兄、その死が犬死ではなかったかと涙が溢れた日を今も忘れることはありません。

八代高女 宇野美代子さんの手記

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女子挺身隊 のこと その5

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三菱重工の健軍飛行機工場ができたのは、昭和19年になってからでした。
この方は、あの「引込み線」を使って通勤していたそうです。
川尻駅の体験は、本当に恐ろしいです。

女子挺身隊の思い出

一億一心、総突撃、世はまさに国を挙げて戦時一色の昭和19年3月、私達は八代高女を卒業しました。人手不足は私達の卒業を待っていたかのように卒業と同時に八代宮で戦勝祈願式がありました。

三菱熊本航空機、三菱長崎造船、山陽航空、三柴、国鉄、興人…・等の挺身隊として、或は代用教員として働く職場は違っても、ただお国のためにと東へ西へとそれぞれ巣立って行きました。私達三菱挺身隊は24 名、勇躍志願したものの卒業から4 ケ月間家庭待機させられました。今日か明日かと待っているうち、7 月22 日、やっと入所となりました。

家を離れるのが初めてで、希望と不安が交錯したものでした。工場はまだ建設工事進捗中のようで、家庭待機もそのせいであったのでしょう。

入所後3ケ月は訓練期間で秋津寮生活。健軍神杜の拝殿で訓話を聞いたり、座禅をしたりの日々でした。行動を共にした24 名も、やがて工機工場を主に、事務、金型、製図、倉庫等に配属されました。

§ 寮の出来ごと

入所数日にして思いもよらぬ悲しい出来ごとがありました。入寮前から羅病していたと思われる同僚が高熱におかされ、下痢が続いたのです。親もとを離れて、苦痛を訴える友の不欄さ、私達は交替で必死になって介抱しました。頭を冷やしたり、夜中にトイレまで背負って何回通ったことか、後日赤痢と診断されびっくりしたものでした。とうとうその友は若い命を終えてしまいました。私達は黒髪の火葬場まで霊柩車と同伴し、突然の死が悲しく泣けて泣けて仕方がなかったことが、今もまざまざと蘇がえります。当時の食糧事情からしても、私達の体力も十分とはいえなかったと思いますが、誰にも感染しなかったことが不忠議に思えてなりませんでした。

§ 寮の食事

忘れられないものの一つは寮の食事のことです。厨房でつくられた食事は馬車で寮まで運搬されていました。或る日厨房を覗いたことがありましたが、その釜の大きいこと、御飯を大釜からスコップで容器に移し換えていたのには驚きました。御飯はひじき入りの黒飯、更にこの中に大豆や切り干大根等が入っており米粒はどこに入っているのか解からない程でした。肉類といえば何の内臓なのか、繊毛のような、ビラビラのついた腸のようでもあり、犬肉ではないかと囁いたものでした。決して美味しいものではありませんでしたが、後では空腹も深刻で一匙でも多く食べたい思いが始終つきまとっていました。

会社から寮に帰って、何とか空腹を満たそうと健軍神杜の近くへ、或は木山方面まで買い出しに出かけた人もありました。茄がいた唐芋が主だったようです。夜、空襲警報が発令されると六嘉村の竹薮まで何回か走りました。寒くて冷たい夜、流れ星を見て遠く離れた家の事を
思い出して涙したこともありました。

§ 外出

入寮してケ月は家への帰省は許可されませんでした。しかしホームシックと空腹感は私達をますます無断帰宅へと拍車をかけました。一刻も早く家に帰りたい一念で、日曜の早朝、まだ星が輝いていました。

工事中のトイレ用に掘った穴から壁を抜けられることを知り、その穴にとび降り、そこから這い上って寮の外に出ました。まだ明けやらぬ道を走る様に急いだことを覚えています。八代行きの汽車に乗るために駅まで歩きました。その駅が水前寺駅だったか記憶がありません。又、2時頃に寮を出たという友は熊本駅まで歩いたようです。その人達は八代から更に乗換えなければならないので一足先に出たのでしょう。そして彼女らが肥薩線の段駅に着いたのが6 時頃であったと聞きました。家に帰りたい一途な気持が道の暗さ、恐ろしさも全て気にせず突拍子の行動をとらせたのでしょう。

わずか数時間の在宅で14 時頃寮に帰る準備をしていた友は丁度兄さんの戦死公報に接し、その日に帰れず、翌日寮に帰ったので無断外泊がばれて新谷寮長と吉村寮母に随分叱られたとも話していました。

§ 寮での面会

我が家から母や、姉妹が面会に来てくれました。尋ね、尋ねて馬車の轍の深い秋津のガタゴト道を木炭自動車のバスに乗って来てくれました。バスは何回も薪を注いだそうです。とうとう乗客が降りて後押しする場面もあったとか。手作りの布団や饅頭などが届いた時は、ただ嬉しくて何の話をしたのか全然覚えていません。面会に来るのもどんなに大変だったか、今改めて当時の話を聞くにつけ感激しているのです。お互い顔を会わすなり、私が家に居た時より、げっそり痩せて頬がこけており驚いた、と姉が言っておりました。

§ 工場の空襲

私は第2 倉庫でした。空襲の時、健軍神杜の方へ退避したり、すぐ前の深い土手下等に逃げており余り恐ろしいとは思いませんでした。
その土手の上を白いマフラーを巻いた航空隊の人達が通り過ぎて行ったのが今でも鮮やかに思い出されます。いずれ死に赴く特攻隊の人であろうといつまでも見送ったものでした。

§ 家から通勤、工場疎開

訓練期間が終り、大分勝手がわかって来た頃から寮を出て自宅から通勤する人も出てきました。私もその一人です。朝4 時頃母に起こしてもらい、4 時半頃に家を出て5 時の汽車に乗りました。私は駅の近くでしたので楽な方でしたが駅から遠い人は随分早く家を出られたよう
です。

列車は三菱の通勤専用列車の感があり、顔見知りの徴用のおじさんや、学徒動員の生徒さん等で八代駅でもう満員になりました。熊本駅に着くと別のプラットホームに待っている水前寺行きに乗換えるため、往きも帰りも走って乗り継ぎました。汽車を降りるおじさん達について私も、まだ完全に止っていないうちにとび降りて転び、立ち上れない程腰を打ちつけたのが今でも痛みます。水前寺駅から工場へ引込線がありました。木組のようなプラットホームがあって沢山の人達が降り、工場の門に吸い込まれて行きました。引込線の車輌は貨車でした。星を仰いで我が家を出て工場に着いたものの仕事は毎日倉庫の掃除ばかりでした。

20年4月頃、私達は江津湖に近い農業学校に疎開しました。どの様な道順で農業学校まで通ったのか全て記憶がありません。疎開先での仕事もトイレの掃除しか覚えていません。通勤途上で空襲警報がかゝり友達と二人で歩いていましたが逃げ場がなく、河原町辺りだったでし
ょうか、大きな酒屋か醤油屋の広い土間に私達二人が十分に入れるような大きな鍋があり、それを被って警報の解除を恐る恐る待ちました。

§ グラマン川尻駅機銃掃射

川尻駅での機銃掃射は本当に恐ろしかった。いっものように5時発の通勤列車に乗り、列車が川尻駅に着いた時です。突然グラマン4機が私達の列車を銃撃してきました。どうして汽車から降りたのか、我に返った時は待合室の椅子の下に這いっくぼっていました。

その時、頭の右上部がピカッと光り、機銃の弾が落ちて来ましたが、幸い怪我もなく、友達と二人で銃声の止んだ間に駅を離れようと、駅前広場の大木の下に移動しました。そこから汽車をみると機関車が白い蒸気を噴いていました。
グラマンは再びやって来ました。

逃げた場所の近くにある工場を狙っているとのことで、弾の音はバラバラと無気味に響き頭上のトタン屋根を叩いている様に感じました。やがて音が止み私達も国道に向けて歩きましたが、立ち止ると膝がガクガク震えるのです。

もう会社に行く元気もなく、家へ帰る為に再び汽車に乗る気も起らず、国道を通る車に乗せて貰おうと手を上げましたが駄目でした。そのうち、あちこちに逃げていた友達がどこからともなく集り、お互に無事を確かめあって喜びを分ちました。

その時、がらがらの下り八代行が到着したのでそれに乗って八代へ帰りました。この時、同僚の一人が膝に貫通銃創を受けたことを後日知りました。

家に帰り着くまで顔は蒼ざめていたらしく家族を驚かせました。以来会社へも行かなかったように思います。長崎の原爆の時も、終戦の詔勅も家の防空壕で迎えました。

健軍の工場へ通っていた時、先の引込線に乗らなかった時は水前寺から健軍神社前の八丁馬場を通り、神社の右側を廻って工場に達するコースもよく走りました。その時、八丁馬場の北側の薮影にグリーンの屋根の西洋館が見えました。このモダンな西洋館は何だろうと考えな
がら走ったものでしたが、後に私はそこに勤務することになり深い縁に驚いています。それは児童福祉施設「慈愛園」です。そして厚生年金のお世話になる時が来て、加入期間をコンピュータで出してもらいましたら資格取得日は三菱勤務の日になっていました。本当に驚きました。

あの終戦のゴタゴタの時に、大勢の従業員にも拘らずきちんと残務整理が為されていたこと、さすが三菱だと改めて感心致しました。

八代高女 頼藤和代さんの手記

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女子挺身隊 のこと

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女子挺身隊 のこと その3

女子挺身隊 のこと その4

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2

もうひとつ載せます。
ここに出てくる「熊工専」は今の熊大工学部のことですね。


私が挺身隊として、熊本航空機製作所に入所したのは戦局もいよいよ厳しく緊迫してきた、19 年の10 月だった。3 月の卒業と同時に行く筈が延び延びになっていた。その頃の私は、7 月末に母を亡くしたばかりで何をする気力もなく悲しみのどん底にあった。女子挺身隊出動の通知を手にして「泣いている時ではない。国の大事に立ち上がらねば」と16 才の私としては随分と悲壮な決意をしたことを思い出す。

工場に初めて行った日は殊の他暑い日だったように思う。私達の仕事場は技術部の作業課だったと記憶している。作業課というからどんな作業をするのだろうかと話し合っていたら伝票やカードの整理など事務的なことや図面のトレス等であった。産業戦士という名称から予想し覚悟していた過酷な労働ではなく、これで国の大事に役立っているのだろうかと思った。同じ課には私達の他に第一高女や尚桐高女の方達もはいっており賑やかであった。学校生活の続きのような毎日であった。一度だけ工場の方へ使いに行った時見た汗と油にまみれて働いておられる人達の姿と、モーターのうなる音にひどく胸をうたれたのを思い出す。

社員の方で菊池から来ておられた三宅さん、熊本市内からの高島さん、松岡さんが私達に仕事を教えたり、世話をしたりして下さった。三宅さんは召集令状が来て私達五、六人で菊池までお見送りに行った。無事戻って来れたであろうか。松岡さんは現在熊本市内で画材店をなさっている。時々逢って昔話をする。名古屋から来ておられた坂口さんはおとなしい方だったが名古屋弁が珍らしく笑ったり、まねたりして坂口さんを困らせたことを、今深く反省している。

その頃、毎日の様に空襲があった。サイレンが鳴り避難命令が放送されると皆が一斉に避難するので足音がすごく大きく聞こえ、いっも私だけおいていかれる様な恐さを感じた。突然敵機襲来ということもあった。或る日資材を積んだ一台の馬車が工場内を通っていた。突然馬が何かに驚いて走り出した。それが引き金になり人、人、人が次々に走り出しB- 29 の来襲だとの誤報がまたたく間に工場内全体に伝わり皆が走り出し避難するという椿事が起こった。後でさんざん叱られるというおまけつきであった。

寮は学校別に部屋割があって私達は1 棟であったと思う。一部屋には6 人づつ入っていた。隣の2 棟には山鹿高女の方達であった様な気がする。私達は戦時中のこととて修学旅行にも行けなかったし、同級生ばかりなので一緒に寝泊りするのが珍らしく、仲良く生活した。寮の規律は厳しく寮長先生は特に恐かった。夜の点呼などで誰かが欠けると代弁をしたりしてうまく難を逃れた。夜は消灯までの時間、家から持って来た妙豆など山の様に積み上げ、ポリポリ食べながらおしゃべりに夢中になった。騒ぎ過ぎてよく叱られた。食事は当時の一般家庭の食生活からすると良かった方ではないだろうか。それでも甘い物のきらいな私はさつま芋御飯は苦手だった。芋を取り出すとご飯はほんの少ししか残らなかった。今は懐しくさつま芋をよく食べている。

空襲のために、夜はモンペをはいて、いっでもとび出せる服装で床に就いていた。枕元には救急袋と頭巾を置いて寝た。或る夜、空襲警報に起こされ素早く身仕度し、暗い道を走り(今は当時の面影もない賑やかな住宅街になっている)秋津の竹林の中の防空壕に避難した。夜明けまで警報が解除にならないので朝御飯は竹林の中でいただくことになった。支給された朝食は久しく見ることのなかった、まっ白いおにぎりにたくあんであった。朝露に光る竹の葉の緑と、まっ白いおにぎり、たくあんの鮮やかな黄色にひどく感動した。

味は勿論涙が出る程おいしかった。今思い出しても、あの朝の感動はいじらしく、切ないものがある。また冷汗の出る様な思い出もある。学校時代から仲良しの友達が「夜勤をすると次の日に休みがとれて家に帰れる」という話を聞いてきた。その友達とふたりで「夜勤をしてみよう。そうしたら家に帰れる」と話しあい、上司に申し出た。するとあっさり許されて夜勤をすることになった。寒い日だった。夕方になると広い部屋に私達二人と係長さんだけになった。暗くなるにつれて私たちは心細くなって来た。夜食の時間になり係長さんに連れられて食堂に行くと昼間と違って広く暗い工場は不気味だった。食堂に入ると女性は私達だけであとは男性ばかりであり、急に恐しくなった。夜食はいつもの食事よりご馳走の様だったが恐ろしさでのどを通らなかった。部屋へ帰って夜空の星を眺めて二人でしくしく泣いていたら係長さんが「もういい、仕事をしなくていいよ。私の横で寝ていなさい」と毛布を貸して下さった。二人で毛布をかぶって、この非常時に何ということをしたのだ、情けないね。と自責の念にかられながらも恐しく何もできず動けなかった。後日休みをとって家に帰ったかどうかは、全く記憶がないがその夜の恐しさと、情けなさだけは強く記憶に残っている。

昭和20年、戦争もますます激しく、緊迫し夜となく、昼となく敵機襲来で工場もあちこちに被害を受け、分散疎開することになり私達作業課は熊工専に移った。大きい資材、荷物は馬車等で運んだが小さい荷物は私達が黒髪町の工専まで歩いて運んだ。途中健軍まで来た時、警報も無いまゝ突然数え切れない程の敵機が飛んで来て機銃掃射をあびせて来た。私達は避難する間もなく松の下の根元にひれ伏した。一瞬これで死ぬのかなと父や兄弟姉妹の顔が脳裏をかすめた。暑い暑い一日であった。

疎開して間もなく入隊したばかりの兄が面会に来てくれた。友達に訳を言って煎り豆を手のひらいっぱい分けて貰った。学校の芝生に座りひとときの平和を感じた。父のこと、亡き母のこと等を話した様に思う。豆を一粒、一粒口にはうり込む様にして食べた兄。笑う口元や目元が横綱の千代の富士に似ているのを最近発見し以来、千代の富士の大ファンとなった。

その最愛の兄も戦争故に今は亡い。この日の兄が私の心に残る最後の兄の姿であった。熊工専へ疎開をしてから私達の宿舎は市内草葉町の旅館に移った。今はとても歩けない距離であるが、当時は毎日歩いて通った、夜空襲があると第一高女の運動場の防空壕へ避難した。

7月1 日の大空襲の夜も忘れられない。降る様に焼夷弾が落とされた。上通り町一帯から市役所付近一帯が火の海となって私達にも消火に当るよう指令がくる。女や年寄りばかりであった。バケツリレーで市役所の消火に当った。気がつくと上へ上へとおしやられ私は一番先頭に立っており危うく煙にまかれそうになった。「危ない逃げろ」と叫ぶ声にふと我に返り急ぎ階段をかけ降りた。

終戦の日、異様に静かな朝であったのを思い出す。皆泣いた、茫然自失、誰もが言葉を失ったかの様にへたりこんでしまった。空はうその様に青く澄み、晴れていた。挺身隊時代をふり返るといっもお腹をすかし、食べ物の話をすることで満腹していた時代、着るものも無く、何度も死の恐怖におびえた、暗い恐しい出来ごとばかりだった筈のあの時代、国の大事に胸を熱くし血を燃やし、不満も言わず友と心を一つにした日々はやはり悔いはない。16 才の青春だったと私は思うのである。

甲佐高女 松永真由子さんの手記

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16

父が郷土史の調べものをしている中で読んだ資料だといって、送ってきてくれた。
一読して、胸がつまった。
出てくる地名が馴染み深すぎるのも一因。

皆さんにも読んでいただきたく、ここへ転載する。


今でも口ずさむ此の歌、凛凛しい鉢巻姿の友どもの顔が壊しく蘇り、改めて血が燃えたぎる感を覚える。女学校時代後半は殆んど授業返上で奉仕作業にあけ暮れそして卒業、従軍看護婦、造船所、航空機製作所、淡い乙女の夢もかなぐり捨て、固い握手に只お互いの無事を祈りながら女子挺身隊としてそれぞれの職場へととびたっていった。

私は三菱重工、熊本航空機製作所勤務となる。
健軍の秋津寮から工場までを長い二列従隊で合唱も高らかに通い続けた思い出の歌……
モンペ等に防空頭巾を肩から提げ、頭巾袋の中には母より差入れの炒り大豆の小瓶も忍ばせて……現場は板金工場で板金に形を描き、機械に掛けて切り抜く作業であった。一枚でもオシャカ(欠陥品)を出さない様に皆で頑張った。友達の中に過って親指を機械に巻き込まれた人も居た。

寮生活も大分慣れた頃、朝の洗顔を済ませ、顔を上げた途端棚に置いた腕時計が失くなっている。急いで部屋に戻ってみると同室の者が時計の皮バンドを外し自分の胸もとに提げているではないか。私は恐しくなり何も言えず、心は震えながらも歯を食いしばって我慢した。反対にその人が凄む様に私をにらみつけたあの形相が忘れられない。

或る日、食堂で夕食をとろうと皆が並んでいると、私のよく知っている賄いのおばさんから手招きをされたので近寄っていくと小声で「今夜の肉フライはネズミの肉も入っているから食べん方がいいよ、誰にも内緒よ」といって餅を一切れくれた。私は席に戻って箸を付けずにいると隣の人が喜んで全部食べてしまった。炊事場の裏にネズミの頭や、しっぽが小積みになっている…‥・と噂が立ち始めたのもその頃であった。それにしても戦時下の貴重なタンパク源だったのであろう。

日に日に激化する敵機襲来に工場には煙幕が張られ、私たちは工場に寄りつけないまま八丁馬場の桜並木の木蔭や田んぼに避難した。ヒュルヒュルヒュルという爆弾が落ちてくるあの音を聞く度に、教わった通り耳を両手で塞ぎロを大きく開けて地面に伏した。秋津寮も愈々危険にさらされたので鏡町の自宅より汽車通勤となり、職場も作業課の事務に廻された。部品疎開先の上無田の倉庫まで、いっも数人で連れ立ち、伝票と番号を引き合わせ鋳造、鍛造の部品を運んで来た。途中素晴らしい江津湖の風景に、ホッとひと息入れながら作業をした日々が今は懐しい。

連日連夜の空襲警報の中、通勤列車の発着が不規則となり私は砂取の父の友人の方の家に下宿させていただくことになった。その日、父はウグイス色の国民服、母は紺色のモンペ姿で二人揃って私のためにわざわざ来てくれた。挨拶を済ませ、淋しそうに帰っていく父母のうしろ姿がいっまでも忘れられなかった。或る日、残業で夜10 時過ぎとなり、灯火管制で道路はまっ暗闇、下宿のある方角も判らず、あぜ道を足探りで歩いているうちに背丈程もある胡麻畑に這入りこんでしまい出口がわからず右住左住し、必死で帰り着いたのは真夜中であった。下宿の冷たい布団の中で母が恋しくさめざめと泣いたことを覚えている。こんなこともあって浄行寺に下宿している友人からの誘いで私もそこから一緒に通うことにした。

勤め帰りの夜みち、浄行寺のあの曲り角でラジオからいっも流れる国民歌謡のメロディーだけが今でも壊しく蘇る。その頃、組立工場の工員さん達の慌ただしい動きに飛行機の完成を知らされ友人達みんなと心踊らせながら広場へと駆けつけた。既に掛けられたキーンというエンジンの始動音が耳をつんざく。
キラキラと眩しく光る銀白色に真紅の日の丸がくっきりと映え初々しくも、どっしりと額もしげな巨体を横たえていた。
飛龍と命名されたこの飛行機の胴体を撫でながら「私達の造った部品はどの辺にあるのかなあ」などと携わる人々の歓声の中に「ステキ!わあステキ!」とはしゃぎ廻る乙女たち……
この感激を全身に受けとめながら「これからも頑張ろうね」と皆で励まし合い、胸をはずませながら、又それぞれの職場へ帰っていった。
巷では特攻隊の軍歌が流れ、暗いニュースを聞く度に「頑張らなければ」と身が引きしまる。

鈍く、唸る様な爆音を発しながらB-29 の大編隊が絶え間なく襲来、避難命令はかかり通しの日が多くなった。或る朝、人々のざわめきの中で非常招集が発令された。板金工場長が爆死を遂げられたことを知らされた。

その日の午後、待避命令で友人と手をつないで防空壕にかけ込む途中、トイレに立ち寄ったその友人が直撃弾を受けて即死、私は我慢したので命拾いをした。運命とはこういうものか。又、機械工場の窓ぎわに居た工員さんが窓越しに機銃掃射を受けられ、その肉片が窓ガラスに飛び散った現場の有様にはもう目を被うばかりであった。

まるで戦場にいる様な連日の或る日、警報発令もないまま、私たち数人で立ち話をしているところに突然、グラマン一機が急降下するなり、機内のパイロットが私達に白い歯を見せて笑いながらハンカチを振り、あれよ、あれよという問に空高く舞い上って行った。「馬鹿にしとるわね‥・」と腹立たしいながらも何だかポッとした一瞬でもあった。

6 月の終りになって幼な友達の一家のお世話になることになった。そして7 月1 日の大空襲に会い洗馬橋の下で恐怖の一夜を明かした。近くの病院の患者さんが読経を唱える傍らで私は友の手を一晩中握りしめていた。身の危険を返りみず最後まで陣頭指揮に当っておられた方々のふり絞るようなあの声がいまだに忘れられない。

夜が明けて橋上が白む頃、魔の一夜から漸く解放され、通りにはまだ煙続ける焼け跡に焦げた人がうつ伏せに倒れていた。
「新市街は黒すぼれしとるぞ!」との声に震えながら、もう一刻も早く熊本を離れたい……
幼なじみのその一家に別れを告げ八代の両親の許へ急いだ。
有佐駅から我が家まで転げるようにして着いた。

「只今ッ……」と格子戸を開けた途端、「玲ちゃん、あんた生きとったね!」と母が泣きくずれ私を力一杯抱きしめてくれた。「ゆうべは家中で祈っとったばい!」と父も涙声であった。鏡の方から見た熊本はまるで火の海だったとのこと。「あの火の中で玲子はどうなっているだろうか」と母は一晩中泣いていたという。
ひと息ついた母がエプロンのポケットから小さな紙をとり出して私にそっとくれた。

影もなく踏みしだかれしひな草の床しく匂う姿うれしき

短歌の好きな母が必死に私の無事を祈りながら万感の思いをこめて詠みあげたのであろう。あの日の喜びは、今でも心の奥深く焦きついている。もう母の許から絶対離れまい。

翌朝のニュースで、熊本市は続いて爆弾攻撃を受けたと報じられた。私たちが前夜に避難した洗馬橋が次の日には爆弾の直撃を受けたという。あの日、一緒に避難した人達は無事だったろうか。

不気味なきのこ雲が西の空にモクモクと現れ、後日それが長崎に投下された原爆であったと聞かされ、間もなく終戦を迎える。
欲しがりません、勝までは!と歯を食いしばって戦って来た友々の面影が今も彷彿と蘇る。

戦争は悲しいもの、平和は尊いもの、終戦記念日を重ねる度に、その感をますます強くする。
この平和をいっまでもと祈りつつ。

(松橋高女 渕田玲子さんの手記による)

7.1熊本大空襲

健軍三菱重工飛行機工場

http://www1.ocn.ne.jp/~kengun/archives1.html

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20

この台湾旅行で、学生時代の同級生に会いました。
彼は文学を専攻していて、現在台湾で教えています。

「そういえば、先日村上春樹論を研究会で発表したよ。」
と、たまたま村上春樹の話になりました。

私は、村上春樹の本は数えるほどしか読んだことがありません。
高校生の頃に友人が「風の歌を聴け」を読んでいたので、私も読もうかなと思いましたが機会がなく、大学生の頃にもやっぱり周りで流行っていたので、やっと初期3部作を読みました。
その時は読んだものの特に感慨もなく「ふーん」って感じデシタ。

さらに先輩に借りて「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読みました。
これは、構成が斬新でなかなか面白かったのを覚えています。

その後はずっと縁がなく、大ブームになった「ノルウェイの森」も読むことはありませんでした。
ところが、10数年前から台湾通いをするようになり、村上ファンの台湾人とも交流ができ、日本語版を買ってきてと頼まれたりするようになりました。
で、あるとき100円で買った「ノルウェイの森」を初めて読んでみました。

平易な文章であっさり簡単に読めましたが、読了後気持ち悪くなりました。
感想は、「主人公の男を絞め殺したい」でした。

そのあと、高校のときに村上春樹を紹介してくれた友人から、面白かったよと、「スプートニクの恋人」を借りて、読みました。
ノルウェイの森ほどではなかったけれど、やはり気分が悪くなりました。

以来、村上春樹の本には手を伸ばす気になりません。
私には向かない本のようだと思います。

話は戻って、台湾で村上春樹の発表をした友人は、
大学時代に私が「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいるのを見て、村上春樹を読むようになったといってました。

なんと、きっかけを作ったのは私だったのですか!

彼に、
「村上春樹を読むと、主人公を絞め殺したくなるんだよね。」
と話すと、彼にはその理由がわかったようでした。
(さすが研究者!)

「それは不幸な出会いをしてしまったね~」
と言ってました。
彼によれば「ノルウェイの森」は、私みたいな思考をする人間には鬼門だとの事。
なるほど、そうかもしれない。
村上春樹の「喪失観」が色濃く出ている作品なのだとか。
彼の見解によれば、その「喪失」については、ノルウェイの森でかなり書ききったようで、その後の作品ではトーンダウンしているらしいです。

ノルウェイの森を読まなければよかった。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だけで終わっておけばよかった。

村上春樹の本はちょっとしか読んでいないので、えらそうなことは言えませんが、私が読んだ範囲での感想を書くならば、

彼の書く小説の主人公は、自分の人生が人より価値があって、自分だけは特別で、自分だけは人には理解できない苦しみの中にあって・・・・って、これでもかと。

彼の小説に共感できる人は、その主人公に共感できるのかな?
自分だけは特別で、自分だけは誰も理解できない悲しみを背負ってて・・・って。

嗚呼、気持ち悪い。
この世の中が、そんな人であふれかえることを想像するだけで、気分が悪くなる。

そんなことを追求しても不幸になるだけでは?
村上春樹一人がそのことを考えているのは、まぁ世の中いろんな人がいていいので、かまいませんが、あれだけベストセラーになると、怖いです。
みんなそんなに不幸になりたいの?
その不幸振りを鮮明にして、さらに傷口を大きくして、さらに怖いことにはその傷につける薬はないのですよ。
若い一時期にはそういう感覚ってあると思うけど、大人になってもそれを続けてるのはどうなのだろう。

村上春樹を好きな人はそういう観点では読んでないのかな?
台湾の村上ファンの友人も同席していたのですが、彼が一番面白いと思っているのも「「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だといってましたが。

私の村上観が変わるときまでの記録としてこの文章を載せておきたいと思います。

4

今読んでいる本。
なかなか面白いです。

シオクルカサ(潮来笠)の不思議な世界―エピソードで綴る波乱の歌手伝説
橋 幸夫
日刊現代

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橋幸夫はデビューからもう50年になるそうで、すごい芸歴ですね。
私が生まれるずっと前からなんですものね。
知らなかったのですが、「潮来笠」がデビューで、いきなりの大ヒット⇒スターへ
ということだったようです。

この本読んでわかりました。

中華音楽好きにとっては、ウーバイの台湾語ロックの曲「恋をするなら」が一番身近な曲だったりしますが(橋幸夫のオリジナルは聞いたことない・・・)

ご本人の歌で一番すきなのは「いつでも夢を」です。
これも私が生まれる前の歌だけど、
時々、つい口ずさみます。
歌詞がいいからかな?

皆さんはお好きですか?

2

ビジネス書の類は数年に1冊くらいしか読まない勉強嫌いの私ですが、この本面白かったです。
今日数時間で読み終わりました。
そもそもこの本は、最近新部門に配属になったY氏の勉強のために、人生の先輩O氏より貸してもらったもの。
何でも、初心者向け厳選2冊のマーケティング本だとか。
家においていったところをこっそり読ませていただきました。

さすが、Oさん、いい本を貸してくれます。
ビジネス本はあまり好きでない私ですが、大変わくわくしながら読むことができました。
マーケティングや経営について、ほとんど勉強したことがなく、日々現場にて暗中模索していますが、それなりに身についていることはあるようで、書いてあることの半分くらいはすんなり納得。

この本は、「日本の95%を占める社員30人以下の企業向け」と書いてあるように、私の仕事の現場にもじゅうぶん当てはめて考えることのできるリアリティーのある内容でした。
書いてあることは、MBAとかの専門的知識(アカデミックな知識)に基づいているのですが。とっても実践的でわかりやすい。
いくつか「早速実践してみよう~♪」
と思うこともあり、仕事を楽しくする道がチラッと見えたようです。

思えば、この1年半ほどは、ストレス過多で神経科に通うようになったこともあり、積極的に仕事に取り組むのをセーブしてました。
最近の不景気もあり業績も芳しくありません。
やっぱりがんばって結果を出してこその仕事。
ただ、毎月そこそこがんばって、そこそこお給料もらって・・・
だけでは、充実感はいまいちですね。

まぁ、この1年半は、ゆっくり休む時期だったと納得してます。
でも、充電もできたし、そろそろ本格稼動。
自分の中でも多少うずうずしてきてるんです。

仕事をしている以上は、それなりに手ごたえも感じたいし。
自分の業績だと誇れるものもほしいし。
幸い、今のポジションは大変仕事がしやすい環境で、また自分にあった仕事でもある。
どうがんばればいいのかもだんだんわかってきた。
(もう病気にはなりませんよ)

しっかり頭を使って、体と心は楽に仕事して、休暇もいっぱい取って、楽しく、でも儲かってる。
みんなにこにこ。
これが私の仕事における理想です。

60分間・企業ダントツ化プロジェクト 顧客感情をベースにした戦略構築法
神田 昌典
ダイヤモンド社

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「火車」につづき「魔術はささやく」も読み終わりました。
毎晩寝る前に読むので、遅遅としてはかどりません。
しかも、読みたいページからよんでいくという、推理小説なのにストーリー展開は完全無視です。

写真は、読みながら寝てしまった私です。
指に注目。

読書の途中で、明かりつけたまま眠っていますが、
ページだけはしっかり押さえています。

そういえば、以前にもこういう写真撮られたことがありました。
友達とみんなで行った海の民宿で。
仰向けになってマンガ読んでて、眠ってしまったところをしっかり撮られた。
そのときもページはしっかりと開いまま、固まってました。

続きを読む気マンマンですが、睡魔には勝てない私です。

6

時々宮部みゆきの本がとても読みたくなる。
その時々でいろいろ読みたい要素はちがうけども。

今は、宮部みゆきの描く善良でまっとうな人に会いたくて「火車」を読んでる。
その人が出てくる部分だけ。

「火車」でいうと、自己破産の手続きしてくれる弁護士さんと、
たもっちゃんの奥さん。
この二人が該当。
伊勢の不動産屋さんの二代目も、悪くない。
コーポ川口の大家さんの娘もいいかも。

そんな感じで拾い読み。

こんな読書をしょっちゅうしてます。

3連休。
結局家から、ただの一歩も外に出ることなく過ごしています。
建設的なことは・・・掃除洗濯と衣替え(今頃!)

父のホームページ作り
そして読書。

今日読み終わった本。
図書館から借りてきました。

教科書に載ってるような感じで、漱石の作品からいいところ(?)を2~3ページずつ引用し、一つ一つ簡単なエッセイ風解説がついています。

これを読むと、やっぱり夏目漱石の文章っていいなぁ~と思います。
いまだ、作品の半数も読んでいませんが。

書き写したい言葉 漱石の巻
川島 幸希
新潮社

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8

お世話になっているサロンの先生に貸していただいた本。

なぜ、女性は化粧するのに男性で化粧する人が少ないのか?
なぜ、化粧の度合いによって行動範囲が決まる女性が多いのか?

化粧する脳 (集英社新書 486G)
茂木 健一郎
集英社

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男性と女性の脳の違いについては、最近私の周りのいろんなところで話題になっていることもあり、興味深く読みました。化粧品の仕事に携わっている割に、自分の化粧には無頓着な私は、さしずめ「男性脳」を持っていると思います。
以前、「話を聞かない男 地図の読めない女」という本が話題になったときも、「私って男だ~」と思ったものでしたが(ex.無類の地図好き。空間把握に自信あり~時々狂うけど)この本を読んでやっぱり、男性脳かも~と思いました。

男性と女性の脳の違いの一つに、右脳と左脳をつなぐ「脳梁」の太さの違いがあるそうです。それにより、男女の違いも説明つく部分があるのだそう。

長年、化粧は「自分を偽る」行為だという感覚をいだいています。
だから、化粧品会社に籍をおきつつも、「ファンデーションを塗らない!」とか、「スキンケアをがんばってメイクを最小限に」とかできるだけメイクと離れた位置で仕事をしているのかも。

この本によれば、化粧をして「人からどう見られるか」を気にするというのは、人間に特に発達した社会的コミュニケーション知能の表れなのだそうです。

化粧でうまく化けれる人ほど(というか、化粧でTPOを使い分けるひとほど)コミュニケーション能力が発達しているともいえるかもしれません。
む~。
私は人間としての修行の機会を自ら逃しているのか。

先日講演会に行って話を聞いてきた
「エンバーマー」橋爪さんのトークショーが来月あるそうです。
今度は阿佐ヶ谷。
またまた中央線だ。

エンバーミングなんて別世界に感じると思いますが、
すごくいい話が聞けると思うので、一緒に行きませんか?
私、その翌日早朝からソウルへ飛ぶ予定なので、
スケジュール的に厳しいかもですが、また話をききたいな~と思っています。

以下ロフトのホームページから
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「エンバーマーと言う仕事」
~エンバーミング(遺体衛生保全)と死化粧の現状とこれから~

 漫画やTVドラマの影響で、徐々に認知されつつある「エンバーミング」。
マンガの主人公のモデルで、日本人エンバーマーの第一人者、「橋爪謙一郎」が
エンバーミングについて語りつくす!
さらに、最前線で活躍中の若手エンバーマーも登場。
「エンバーミング」って実際どんなことするの? 
「エンバーマー」ってどうしたらなれるの?
そんな疑問をお持ちの方、大切な人を亡くした経験のある方、
これを機に「死」について真剣に向かい合ってみようかと思う人は是非! 是非!
 おいで下さい!!

http://www.griefsupport.co.jp/

【出演】
橋爪謙一郎(TVドラマ・漫画『死化粧師』主人公のモデル)
若手エンバーマーさん
【司会】
坂本麻実

OPEN18:30 / START19:30
予約、当日ともに¥1,000(ドリンク代別)

チケットはロフトA web予約と電話予約で受付中!
電話予約:03-5929-3445
web予約:http://www.loft-prj.co.jp/lofta/reservation/reservation.php?show_number=71

アクセス
ロフト 阿佐ヶ谷

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面白い講演会に行ってきた。
エンバーマーという仕事をしている方の、グリーフサポートに関する講演会。

いきなり片仮名ばかりになってしまいましたが、エンバーマーというのは、エンバーミングを施す仕事をしている人です。
毛沢東とかレーニンとかがいまでも生前と変わらぬ姿で安置されている話は有名かと思いますが、そのための処理がエンバーミングです。
アメリカでは土葬が多いためかとても進んでいるらしく、毛沢東のように長期保存するためではなく、葬儀のために(ゆとりをもってお別れをするために)遺体に処理を施し、故人を生前に近い姿にするのが一般的なことらしいです。

で、日本ではあまり知られていないこのエンバーミングをアメリカで学んで、今は日本人エンバーマーの育成に力を注いでいらっしゃるのが今日公演を聴いてきた橋爪さんです。

橋爪さんは、エンバーミングを通して、遺族の悲しみにどう寄り添うことができるかを考え続けているとのことで、今回の講演会のテーマは、深い喪失感を抱いた人をどうサポートするか・・・と言うことでした。

本はこれです。
↓ ↓ ↓

エンバーマー
橋爪 謙一郎
祥伝社

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とても読みやすい本です。
誰にでも関係のあることだと思います。
よかったら読んでみてください。お勧めです。

さて、今日の講演会では、本に書いてあることの延長の話もあり、また、グリーフサポート(悲しみのサポート)についての発展した話も聞けました。

今日の講演会で、もっともストレートに私が受け取れたのは、人が亡くなった時や大きな悲しいことがあった時など、「時間が悲しみを癒す」と考えがちで、そのことに触れないで過ごしたほうがいいのではないかと思っていたこと。それが先入観なのだと気づかされました。また、それは、悲しみにくれる人に不用意に近づいて自分が傷つくのを、無意識に避けている行為なのだと言うことにも気がつきました。

また、日本の今のお葬式の行われ方が、遺族の心に沿っていなくて、火葬場のスケジュールの都合第一だったりすること・・・。十分な時間と心を尽くしてお別れができないこと・・・などなど、興味深いお話でした。

今日は知人の誘いで参加したのですが、知らない方ともお話ができて、ちょっとの間でしたが楽しく過ごすことができました。講演会後に懇親会もあったようですが、所用があり参加できずちょっと残念でした。こういう人の輪も何か可能性を感じた一日でした。

例により、文章が下手であまり伝わらないような気がしますが・・。
ま、第一次感想と言うことで。

アガサクリスティーです。
先月の済州島旅行へもって行き、飛行機の中で読みました。
まさに飛行機の中で起こる密室殺人。

21人乗りのパリ、ロンドン間の飛行機。
どんなだったんでしょうね~。
ポワロものは上流社会の人たちが登場してきて優雅な感じです。
その辺も面白いところですね。
たとえば、南仏でバカンスとか。
この物語に出てくる若い美容師の女性は万馬券を当てて一人でフランスへバカンスにいくのですが、当時一人でバカンスって結構あったものらしく、一人であることには誰も何も言及しません。
そのあたりは今のほうがちょっと硬いのかもしれません。
わざわざ「おひとりさま」なんて言ったりして。

物語は、結構面白かったです。
オリエント急行と同様、密室のすべての乗客が容疑者なわけですが・・・・。

マダム・ジゼル殺人事件 (新潮文庫)
アガサ クリスティ
新潮社

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突然ですが、失恋でお悩みの方にお勧めの本があります。

失恋したときには、3パターンの立ち直り方があると思います。
すなわちこの3つ。

1.すぐさま次の恋へ漕ぎ出す。
2.悲劇のヒロインになりきり、どどーんと嘆き悲しむ(そのうち飽きる)
3.自分の恋愛自体を自嘲的に笑い飛ばす。

で、これからお勧めする本は、「3」のパターンに効くはずです。

そんなバカな!―遺伝子と神について (文春文庫)
竹内 久美子
文藝春秋

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もう10年以上私の愛読書です。
この人の本は、このほかもいろいろ持っていますが。
生きていくことに、人間であることに勇気のわく本ですよ。
失恋中の方には特にお勧め。
(私には効き目絶大でした)

お試しあれ(って誰に言ってるの?)

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楽しい古事記 (角川文庫)
阿刀田 高
角川書店

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今日は建国記念の日。
神武天皇が即位したとされる「紀元節」に由来する国民の祝日です。
毎年この日にでかけることはほとんどないので、真っ黒なガイセンシャなどの風物詩(?)を見かけることもないのですが、今年はこの本で神武天皇をしのびました。

阿刀田高の古典入門エッセイはほとんど持っていますが、どれも楽しく読めて知ったかぶりできる良書です。

なぜ、神武天皇の即位日が紀元前660年になったかということについての考察が面白かった。聖徳太子のころ、中国で21回ごとの辛酉の年に政治の大事件があるという考えをもとに、神武天皇即位の年をその年からさかのぼること、60×21=1260年前に定めてしまった。というもの。

何の本で読んだか忘れましが、神武東征の中に出てくる「速吸の門」(阿刀田氏の紹介では豊後水道というのが定説だとのこと)が、鳴門海峡だという説があり、その話も古代のロマンが満載で面白かった。誰の本だったか・・・?

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本日は松本清張デー。
おもしろかった。

Dの複合 (新潮文庫)
松本 清張
新潮社

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民俗学と旅と殺人事件。
民俗学の部分は飛ばし読み。
なぞがなぞを呼び、どんどん訳が分からなくなるのは「Yの悲劇」と同様。
こういうふうに「なんでこんなにすごい偶然が?!」と思う作品には共通性があります。これ以上書くとネタバレなのでやめておきますが・・・。

それにしても、時代が違いますね~。
電話番号や履歴書や戸籍など個人情報をどんどん第三者に教えまくるのがビックリ。昔はこんなだったんですね~。

ゼロの焦点 (新潮文庫)
松本 清張
新潮社

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この小説は背景になる女性たちの人生部分がじーんときて、暗いんだけど好きな小説です。何度読み返したか、わからないくらい。能登の冬の海、見に行ってみたい。寒そうだけど。
Dの複合の場合は、なぜ「D」なのかは途中で分かるのですが、この話はなぜ「ゼロ」なのかな~?どなたか分かる方教えて下さい。

疑惑 (文春文庫 (106‐67))
松本 清張
文芸春秋

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「疑惑」は中篇。
古本屋さんで安くでていたので、先入観無しに買った本。
表紙がいただけない・・・古本じゃなかったら買ってないだろうなぁ。
調べてみると、映画とかドラマとかになってるんですね。
有名な話なのだと知りました。
熊本出身だから「球磨子」って・・・つけるかナ?

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成田空港で買った本。
台湾へもって行きました。
松本清張の初期短編集です。

なんと!ものすごく面白かったです。
コレゾ、ショウセツ!

松本清張の本は昔父の本棚にずらりと並んでいましたが、その頃は一度も読むことなく、大人になって「点と線」「ゼロの焦点」など少し読みましたが、あの膨大な執筆の量に圧倒されてまだ波打ち際に立ったばかりという感じです。

この短編集で、特に面白いと思ったのは「西郷札」。

まるっきりの創作なんですよね。
すごいな~。
小説家って自由でいいなぁ。

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)
松本 清張
光文社

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遙かなる縄文の声―三内丸山を掘る (NHKブックス)
岡田 康博
日本放送出版協会

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ここの所、通勤途中でずっと読んでいた本です。
青森県の三内丸山遺跡の調査をしている人の書いた本で、三内丸山を中心に「縄文学」が平たくわかり易くかかれています。

縄文文化について知らない事が多い私には、びっくりする事が沢山ありましたが、中でも感動的だったのは・・・・・

縄文時代は子供のうちに死ぬものが多く、平均寿命は30数歳といわれているそうです。
そうなると私なんか、おまけの人生を生きてるようなものですね。

で、そんな縄文時代の墓から、あきらかに小児麻痺をわずらった形跡のある人骨が出土したのだそうです。
頭蓋骨は大きいのに、手足の骨が割箸のように細く、おそらく生涯寝たきりだったと思われます。
それでもその人骨を調べると、成人近くまで生きたようだとのことなのです。

つまり、生まれてこのかたずっと寝たきりの子供を、家族なり集落の人なりが、何年間も面倒を見て、育てていたというのがわかるというのです。

縄文時代の私たちの先祖も、相互扶助の文化を持っていた。
弱者切捨ての世界ではなかった。
そんなことが骨からわかったそうなのです。

感激しました。

そのほかにも、縄文時代の物流ネットワークの広さ。
日本海を中心にさまざまな土地と交流を持っていたこと。
専門の職人がいたこと。

数年前に三内丸山遺跡には行ったのですが、ほとんど何の予備知識も持たずだったので、じゅうぶん味わえませんでした。
また、今度じっくり見に行きたいものです。

三内丸山遺跡公式ページ


先日図書館で借りた、私の住んでいる区の教育委員会篇「○○区の民家」という本。

「○○区の民家」は昭和50年代に調査されたものですが、
おもに、江戸~明治に立てられた古民家の調査です。
写真や間取り図も載っていて、とても興味深し!

上記の間取りは、この辺の一般的な農家(民家)の間取り。
田の字型で、玄関向かって右側に土間が配置。

トイレのあるあたりは、後年の増築部分。

下の図は、名主さんの家。
式台もあり、格を感じます。

住所も掲載されているので、グーグルの航空写真で現状を見ると
まだ残ってる模様。
(屋根の形で分かります)

感動です。
お知り合いになって、中が見れたらいいのにな。
近所です。

ゆっくりやすんだ~。

1日目は、お昼に友人が遊びに来るので、朝から掃除洗濯。
午後はひたすら食べて飲んでおしゃべり。
夕方近所の図書館へ。
12冊まで借りられるというので、大量の本を借りてくる。
縄文時代の本と、人権問題の本。
そのときどきで、どんどん興味がかわる・・・・。

2日目は、ごろごろごろごろ。
三内丸山遺跡の本をひたすら読みつつ、うとうと。

日本の歴史の始まりを縄文時代からと規定すると、
縄文時代の締める長さの割合は、なんと83%だそうだ。
一万年くらい続いたわけですからね。
それに比べると、文字によって書き残された歴史はほんのわずか。

私たちは知らない事が多すぎますね。
あ~知りたい。

さしあたり、今興味があるのは、縄文時代の家。
竪穴式住居が多いわけで、復元されたものなども見たことありますが、
住み心地はいかがだったのでしょう?
地面のままでは、湿気やら底冷えやら、あまり快適ではなさそうですね。

とおもっていたら、なんと竪穴式住居は、2層構造だったという説があるそうです。
つまり2階建て。というか、メゾネットというか、ロフトつき。

それなら、温かくて、湿気問題もクリアで、なかなかよいかも。

そんな事を考える休日でした。

三内丸山遺跡の復元
大林組プロジェクトチーム
學生社

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この本は、土木建設の観点から三内丸山遺跡を見る面白い視点の本。
むかしNHKで出雲大社のたかーい神殿の復元をやってましたが、
この人たちのお仕事だったそうです。
ゼネコンさんもコンナ仕事もしてるんですね。

昨日テレビ東京でやってた「水戸街道を皆楽園まで歩く」という企画
なかなか面白かった。
くるまでは何往復もしていますが、全部歩くって楽しそう。
やってみたいです。
鎌倉街道、川越街道、府中街道、大山道など等、東京周辺も発見がありそうです。


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20年ぶりくらいに大河ドラマをわりとちゃんと見ています。
「篤姫」
面白いですね。

ドラマを毎週同じ時間に見るという習慣がなく、
ついつい見忘れてしまうのですが、この夏から3回に1回くらいは見てるかな?
(って、ほとんど半分過ぎてから、見始めたわけです・・・)

そのドラマで、篤姫の幼なじみとして出てくる、薩摩藩士に
小松帯刀という人が出てきます。
瑛太が演じるその人はなかなか、魅力のある役です。

史実ではどんな人なんだろ~

と思っていたら、本屋でこんな本を見つけました。

龍馬を超えた男 小松帯刀
原口 泉
グラフ社

詳細

読んでみると、いろいろ活躍した人物なのだと分かります。
それと、ドラマの通りの、清廉な人柄だったようです。

幕末の出来事は、ゴチャゴチャしていて、よく分かっていないのですが、
ちゃんと知りたいと思うようになりました。
大河ドラマ、ちゃんと見てればよかったかな。

こんな本も有りました。

手にとるように幕末・維新がわかる本
岸 祐二
かんき出版

詳細

安直だけど、こんな本でおさらいしてみようかな~。
と思いました。
近いうちに買う予定です。

武士道 (PHP文庫)
新渡戸 稲造
PHP研究所

詳細

読み始めました!
ちょっと前まで5000円札だった、お方です。
元は英語らしいです。
モチロン、日本語訳で読んでいます。

ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)
ルイス フロイス,岡田 章雄
岩波書店

詳細

網野善彦氏の本でいろいろ引用されていたので、底本が読みたくなり購入しました。

妻は夫~経済的に独立していてお金を貸す事も有るとか、
若い娘が親に無断で勝手にアチコチ遊びに行けるとか、

近世以前の日本人の道徳観が、今ここでむかしを想像するのとは全然違って、
むしろ、現代に近い事に驚きます。

江戸の鈍感力―時代小説傑作選 (集英社文庫 ほ 16-7) (集英社文庫 ほ 16-7)
山本周五郎,古川薫,池波正太郎,伊藤桂一,富田常雄,村上元三,杉本苑子,中山義秀,細谷 正充
集英社

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今回の旅行、出発のとき成田空港で本を4冊買いました。
そのうちの1冊がこの「江戸の鈍感力」です。
いろいろな作家の、江戸時代を舞台にした短編小説集ですが、これが面白いです!

一気に読んでしまうのがもったいないような気がして、毎日少しずつ(時には繰り返し同じのを読んだりして)ちびちびと読んでいましたが、昨夜ついに最後の1篇を読み終わってしまいました。

残念。

生き馬の目を抜くような・・・・
世知辛い・・・・
競争の激しい・・・・
ハイテクについていけないほどの・・・・

このような形容がぴったりな現代日本で生活している私たちに、とても必要なものなのではないかと思いました。

「鈍感力」

鈍感なのが「力」かどうかは分かりませんが・・・・。

小さなことにきぃきぃ言ったり。
勝ち組だ負け組みだと常に競争してみたり。

そんなことで、自分たちの暮らしをよくしているつもりが、かえって不自由に、つらくしていることも多いのでは?

反省。

小説は、どれも面白く、読んでいてほんわかと心が温かくなりました。

「婿入りの夜」
「上総風土記」
などが特に気に入りです。

「上総風土記」は実話に基づいた話であるらしいのですが、
こんな生き方は絶対に無理!
というような壮絶なものです。
途中で少しつらくなりましたが、最後は報われて良かった。

おすすめいたします。