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文化の日がらみの連休、熊本に帰省しました。
1日は五家荘へ紅葉狩り。
五家荘と言えば、平家落人伝説ですね。
球磨川流域で育ちましたが、これまで行ったことないんです。
熊本の人にとっては「紅葉狩りと言えば五家荘」って感じなのでしょうか?
うんと小さいころ、マイカーが我が家にやってきてまもなくのころかな?父の車で「今日は五家荘(もしくは五木村)へ行くぞ!」と言って出かけたことがあった記憶がありますが、途中の道が狭くて崩れそうで、結局五家荘までたどり着かなかったと思います。
当時は道も今のように整備されていなくて、とても恐ろしかった記憶です。
さて、今回は?
熊本市内から緑川をさかのぼり、砥用を過ぎてから九州山地へ入ります。
国道445号。
グングン標高を上げて二本杉峠(標高1100m)を越えたころから、紅葉が美しくなります。二本杉峠展望台にも行きましたが、晴天なのですがかすんでいて展望がいまいち。

二本杉峠展望台

峠を超えたあたりから、美里町から八代市に入ります。
川辺川の支流の上流の渓谷を下りて、梅の木轟のつり橋を目指します。

梅の木轟のつり橋。
梅の木轟も見てきました。
これは途中の渓流。


夏はさぞかし涼しくて気持ちよいでしょうね。

樅木地区にある「五家荘平家の里」
小学校の跡地に古民家を移築して作られたもののようです。
入場料410円。

おそらく近年作られたと思われる能舞台や資料館がありました。
うしろの紅葉もそれに合わせて植えられたものかも。

なかなか雰囲気有り。
でもこの能舞台、1年のうちそう何度も使われてはいないのではないかな?
交通アクセスがとても不便だから仕方ないけど、もったいない。

資料館お腹にあった平家にまつわる人形と紙細工の展示は精巧でみごたえあり!

あ、これは懐かしい大河ドラマのポスターが。
平家の里には食堂もあり、ここでお昼にしました。
つなぎを使ってないそば100%の手打ちそばが食べられます。
素朴な手打ちそば、美味しかったです。
移築された古民家が何棟かあります。
民具が展示されてるところもあり、ゆっくり見ればこれもなかなか面白そう。
天然記念物「久連子鶏」が飼われていました。
こちらは椎原地区の「緒方家」
平家落人を先祖に代々この地に住み続けてきた緒方さんの家です。
これは300年ほど前、江戸時代に建て替えられたものだとか。
係の方が詳しく案内してくれました。

「二本杉峠から来た」というと「あそこは国道ですけど酷道ともいうくらい道が大変ですよ。帰りは別の道の方がいいですよ」と教えてくれました。
途中、ここの分かれ道で住民の方に道を尋ねました。
親切に教えてくれたのですが、子別峠で間違ったみたいです。


すすきの野も美しい。


端海野で拾った小さな栗のイガ。
これなんて言う栗なのでしょうね?
緒方家で教えられた道を行こうとしたのですが、
途中で間違えてしまったようで、「端海野」から先「大通峠」までは舗装も剥げ落ちているような過酷な道を行くことになりました。
五家荘の道は狭くて離合がままならないので、何度も対向車と鉢合わせしては、どちらかがバックしあって道を譲る必要があります。
でもこの過酷な道はその過酷さ故か誰も使わないらしく、1台も対向車がなくて何とか走り切りました(父が)。あそこで対向車来てたら、崖に真っ逆さまとかもあったかも…怖い。
紅葉の季節の五家荘は、山道が一方通行になるそうです。
(私が行ったときはまだ規制がなかった)
多少不便にはなりますが、山道での「離合」はとても大変。いい措置だと思います。
全走行距離100キロちょっとでした。

文化の日の連休、熊本帰省してきました。11月だというのに異常な暑さでしたが、両親とドライブ楽しみました。

何十年ぶりに金峰山の頂上まで登りました。(車でですけどね)金峰山に登る道は、のぼりとくだりで車両は一方通行になっていて走りやすいですね。

山頂駐車場の係の方に「ブランコ乗っていってくださいね」と言われました。

噂でブランコがあるのは知っていましたが、子供用かなと思ってました。大人も乗っていいなら乗りたい。でも混んでたら子どもたちに譲らなきゃな…。
行ってみると、なかなか大きなブランコです。竹の大木(という言い方はおかしいけど)を使ってあります。
5人くらいしか並んでない。子どもが多いけど大人一人で乗ってる人もいる!並んじゃお!

ブランコは金峰山の頂上の西側に作られていて、有明海を挟んで雲仙普賢岳を望む方向です。真下は斜面で大きく漕ぐと海に放り出されるような爽快感とスリル。
11月26日までだそうなので、興味のある人行ってみてください。
以下、熊本市のホームページから転載。

『大空に飛び出すような開放感! 山の上の絶景ブランコ』

 金峰山山頂に、放置竹林対策で伐採された竹を活用した大型ブランコを設置します。
 熊本市の最高峰・金峰山から、眼下に広がる有明海と島原 ・ 雲仙普賢岳に向かってブランコを漕ぎ出せば、青い空と海に飛び出すような爽快感が味わえます!
 遮るものが何もない絶景を楽しめる浮遊体験は、大人も子どもも夢中になること間違いなしです!
開催日:10月28日(土)~11月26日(日)の土日祝日
 営業時間:10時~16時(メンテナンス:12時00分~13時00分)

くまもと花博2023 まち山エリア

くまもと花博2023 まち山エリア / 熊本市ホームページ

熊本市ホームページ

おまけ
山頂から有明海

山頂から熊本市街

金峰山といえばテレビ塔

登山してる人もたくさんいました。


山頂でヒライの弁当

いつもの帰省時は、熊本空港からまっすぐ実家に向かうのですが、たまには別のコースも使ってみましょう。空港から無料のシャトルバスでJR肥後大津駅へ行けると聞いたので乗ってみたい!

くまモンが描かれたバンタイプのタクシーがシャトルバスです。

このときは乗車人数3人でした。
15分ほどで肥後大津駅に到着。
無料なんてありがたい。
はじめてきた駅です。
有名な杉並木を見てみたいです。
この区間の豊肥本線は車の道と合わせて昔の大津街道だったらしい(それほどお広くて大きな道だったんですね)ので車窓の景色が楽しみです。
短いですが車窓からの景色の動画です。
杉の木が続いているのがわかります。
いつか、歩いてみたいものです。
途中には台湾の半導体会社TSMCの工場も造られてるはず。
見えるかな?
見えました!
ニョキニョキと不自然なほどたくさん生えてる巨大なクレーンたち。
きっとあそこに違いありません。

光の森駅で降りてショッピングモールでお昼ごはんを食べます。

肥後大津から光の森まで4区間の列車の旅でした。
JR九州の列車はデザインも独特で乗るのが楽しいんです。
光の森からはバスで武蔵塚公園へ。
この日(10/1)バスの運賃は100円均一でお得でした。

前回の帰省のときに霊厳洞へ行って、今回は武蔵塚。
いい流れです。
とは言うものの、武蔵塚と宮本武蔵が関係あるとは今回まで全く考えてませんでした。
もちろん、武蔵塚とか武蔵ヶ丘といった地名は子供の頃から知っていたし、宮本武蔵が熊本にいたことも知ってはいたんです。
でも、日頃関東地方に住んでいて「武蔵○○」という地名を数多く目にしていると、熊本の武蔵ヶ丘とかも普通名詞のような感覚になっていたんです。
肥後大津駅周りで行くなら、どこに寄ろうかな?と考えながら沿線の地図を見ていたときに、
「もしかして宮本武蔵関係なの?!」
と思いいたり、調べてみたらお墓があったという話。
これは見ておきたい。
武蔵のお墓=武蔵塚 があるところは公園に整備されていました。

宮本武蔵の銅像や説明版。
武蔵好きならぜひ訪れたいところだと思います。

お墓
出身地岡山のゆかりの人々の子孫が植えたという木や記念の碑がありました。

こちらはおまけ。
西南戦争のときに亡くなった松浦新吉郎と言おう人のお墓です。
遺言で武蔵塚のそばに葬ってほしいということだったのだそう。

バス賃が100円と知ったので、武蔵塚から水道町までもバスに乗り、くまモンスクエアとか鋒楽饅頭とかに寄って健軍の実家まで帰りました。
市電にのったらこちらも100円。助かったな~。

2

新町(洗馬橋)からスタートした街歩き。
次に向かうのは明八橋を渡って「古町エリア」です。
青物市場・魚市場
明八橋近くの川岸に青物市場と魚市場があった。野菜類は南は本庄、春竹、宇土方面から、北は島崎、花園、芳野村、河内から集まって来た。魚市場には島原、天草、筑後からは米、酒、薪炭を積んだ船が、高橋、小島、塩屋など河内海岸や宇土半島の網田、赤瀬からは魚を積んだ船が坪井川を遡ってきた。因みにこの市場は昭和38年に魚市場、同39年に青物市場が田崎市場へ移転した。
この日は10月だというのに真夏のような暑さで、結構体力消耗してきました。日陰日陰を選んで歩きます。
明八橋の上で記念撮影。
こうやって4人で街歩きしたのですが、洗馬橋電停前の文林堂のところで父の説明を聞いていた時に、ちょうど信号待ちしていた方がなんとなく父の説明に耳を傾けている気配。
「何の集まりですか?」と尋ねられました。
きっとこういう街歩きや歴史がお好きな方だったのではと思います。
私もよく横浜で、ガイドさんについてぞろぞろと歩いている人たちと一緒になると、ついついガイドさんのお話に耳をすましたりしますもん。
3丁目御門(明八橋)
新町と古町をつなぐ橋で新町側に御門があつた。この門は柳御門或いは3丁目御門とよばれた。この門を潜ると熊本城内であるので門の管理は厳重であった。高麗門と同じく朝6時に開門夕方6時には閉門した。なお「明八橋」の由来は明治8年に眼鏡橋に架け替えられたことによる。橋の工作者は石工橋本勘五郞である。

全景の写真を撮るのを忘れたのですが、下の写真の右上に写っている丸い街灯は、大正時代の写真と同じデザインでした。
西唐人町
幕末から明治、大正にかけて清永家の全盛期。この町は清永家の町と言ってよいほど清永一族の商店が軒を並べていた。清永家の当主は代々板屋猪太郎を名乗る名字帯刀の家柄で、幕末ペリーが来たとき熊本藩は横浜本牧の警固を命じられるが、その軍用金3000両、5000 両を清永家の口利きで此の地の商人が用立てた。その証文が残っている。
景観形成建造物・町屋
明治期の建造物で市の指定を受けている。平成元年(1989 )市景観条例が制定され現在までに18 件が指定されている。
お昼ご飯は唐人町通の店を予約してました。
ここです。
築140年の町家を使ったレストラン「ピュアリィ」。
中はどうなってるんでしょう?
暖簾をくぐって、背戸やみたいなところを通り抜けていきます。
建物は2階建てで、通り側から入ったら、川に向かって一階分下りる形。
もとは米蔵だったという地下空間で食事しました。
なんとも味がありますね。
せっかくなので、川の方へ出てみました。
坪井川です。
むかしは舟運が盛んで、ここから荷物を出し入れしていたのですね。

先に見えるのが明治10年にかけられた「明十橋」。

明十橋から下流右岸には昔米の取引所があったのだそうです。
熊本米穀取引所跡
明治24年に熊本米穀取引所が開設され、昭和16年廃止されるまで相場師たちのいちかばちかの張り合いが展開されて活況を呈した。数十軒の取引仲買人の店舗が建ち並び、そこへ出入りする客を目当てに飲み屋、食い物屋が軒を並べて賑わった。

唐人町通りの中ほど、明十橋のところに立派な洋館が。
大正8年築の旧第一銀行熊本支店跡だそうです。

明十橋を新町側にわたったところからパチリ。

明十橋通り旧第1銀行跡
大正8年第1帝国銀行熊本支店として開業、昭和47年熊本信用金庫唐人町支店となる。現在東京に本社のある空調機メーカーPS工業が空調機器の展示場及びイベント会場として活用している。
古川町・古庄本店
古荘財閥の母体は熊本市古川町の繊維問屋・古荘商店(現古荘本店)である。大正末から昭和の初めにかけて繊維事業に成功し、その勢いで銀丁百貨店、肥後無尽(のち肥後相互銀行)、大阿蘇観光道会社、熊本日産自動車、比島金貨メリヤス(マニラ)などを設立した。また、東京では日清生命保険、大分ではトキハ、小倉では井筒屋百貨店などを次々に傘下に収め、経営した。近代熊本の経済史を語るとき古庄商店の存在感は絶大なものがある。(松岡泰輔氏論文より一部引用)
鍛冶屋町通りは熊本一の高級商店街であった。久留米呉服店、油屋呉服店、森本襖表具店、小寺金物店、迫時計店、八木ラシャ店これらの商店は九州でも1,2 と言われる店構えであった。
鍛冶屋町通は唐人町通とは違うのかな?
お昼も食べて暑さもピーク。
そろそろ桜町バスターミナルに向かいます。
弾丸帰省なのでもう帰京しなくちゃなのです。
古川町にあったタクシー会社に荷馬車の車輪が飾ってありました。
このタクシーやさんも昔は馬車やさんだったのでしょうか?
電車通りをあるいて桜町まで来ると、
花畑広場ではちょうど「九州産交80周年」のイベントをやっていました。
ベンチで休憩していたら、大きなバスが到着してなかからセーラー服の女学生たちがわらわらと下りてきました。
「八代の白百合の制服じゃなかかな?」と父。
果たしてバスには「白百合女学園」の張り紙が。
すごいね、おとうさん。
楽器を運んだりしている様子、きっとこのイベントで演奏するのでしょう。
とおもっていたら、父がサッと女学生たちに話しかけています。
「何時からの出演ですか?」
もうすぐ次の出番のようです。
はつらつとした高校生がまぶしかったので、後姿をパチリ。

おまけ。

産交バス(回送)の行き先表示が80周年記念バージョンに。なってました。

10月の初めに一泊二日で熊本に弾丸帰省してきました。

JAL でマイルを貯めてるのですが、「どこかにマイル」という面白い企画があるんです。それは普段よりもぐんと少ないマイル数(往復6000マイル)で往復の飛行機に乗れるというもので、どこに行くかは JAL にお任せというもの。


JAL にお任せとはいっても候補を4つぐらいまでは絞ることができます。
JALから4つの行き先の組み合わせが提案されますが、その候補は何回か選び直せて、「この中のどこに決まっても文句ナシ」と思えてから申し込みます。
一泊二日なのであまり遠いところ(例えば沖縄とか)は避けて、大阪、熊本、宮崎、松山という組み合わせで申し込みをしました。
夫の実家は大阪ですし、私の実家は熊本。
宮崎も松山もいったことがない県庁所在地。
このところ、各県の県庁所在地の街歩きが楽しそうだなと思ってるところなので、どちらになってもいいなぁ。県庁所在地って歩いて行ける範囲にぎゅっと歴史的見どころが固まっているので、一泊二日でも結構楽しめそう。

そんなこんなでどこに決まるかな~とワクワクしながら申込み。
申し込んで2〜3日で、乗る便のお知らせが来ます。
今回は熊本に決まりました。
6月に帰省したばかりだけど。
JAL 様のお告げで旅をするのも、人任せでなかなか楽しいものですね。
マイルの特典で普通に東京熊本を往復するなら1万5000マイルかかるところですが、これでいくと6000マイルでいいので半分以下、かなりお得です。
候補が示される画面の例

先日、熊本に帰省してきました。
数年ぶりに夫と一緒の帰省(夫の休みに合わせたのでわずか1泊になっちゃったけど)。
今回は、母が40年以上活動しているママさんコーラスの九州大会の応援を目玉に、あとは父の日のお祝いもかねての食事会という予定でした。
コーラス大会は県立劇場で。
九州各地から集まったお母さんたちのコーラスグループが2日間にわたって、歌ごrを披露します。コロナ禍でコーラスができない状況が長く続き、大会も2回流れて3年ぶりの開催です。

母は私が小学生のころのPTAの活動がきっかけで始めたコーラスを今もずっと続けています。40年以上、毎週1回練習に出かけてるなんて根気がすごいですね。楽しいから続くのかな?全国大会にも過去4回ほど選ばれてたのだとか。
県立劇場は音響も良いので、皆さんの声がよく響きます。
チームによっては、練習不足だったかな?というところもありましたが、衣装とか演出にも工夫が凝らされていて、とても楽しめました。女性コーラス用に編曲された曲たちもバラエティーに富んでいました。
母たちのチームも良かったですが、特に感動したのが「コーロフィオーレ」という熊本の団体が歌った「私がきれいだった時」という茨木のり子さんの詩に曲をつけたもの。ドレスを身に着けているチームが多い中、ここは「もんぺ」のようなスタイルで登場して、平和を訴えていました。
選曲も良かったのかもしれませんが、聞くうちに涙がこみあげてきました。
後で聞いたら、九州代表として全国大会出場に選ばれたそうです。
やっぱり。
コーラスってあんまりちゃんと聞いたことがなかったですが、奥が深そうです。
まず、言葉がちゃんと聞き取れることこれが難しい。
そして、その言葉が説得力をもって聞く人の心を揺さぶることは、なかなかできることではないですね。コーラスだと全員のハーモニーも大事な要素だし。
低音部(アルト)のパートが重要だというのも感じました。アルトが上手なところは多くなかった…。
それとみていた中で、とっても指揮者がいいチームがありました。
指揮の良し悪しなんて素人の私にわかるはずもないのですが、それでもその指揮者の指揮は「音を引き出したり、抑えたり、広げたり、まとめたり」自在にしていると感じられました。
これも面白い発見でした。
ふだんマエストロの指揮ばかり聞いているからわからないのですね。

母のチームは全国大会への切符は逃しましたが、これからも楽しくコーラス続けてほしいなと思います。歌ってる皆さん、とっても楽しそうでしたもんね。

池辺寺跡を見たあと、せっかくここまで来たからと、熊本港に寄ることにしました。
熊本港。
1993年開港なので子供の頃にはなかったし、初めて行きます。いつも飛行機の上からは見てるんですけどね。
熊本~島原を結ぶフェリー(60分で島原へ)が就航しています。
行ったときちょうど九商フェリーの出航時間でした。
写真にあるのは、高速船オーシャンアロー(30分で島原へ)。
機材不良のため欠航してるみたい。

島原の観光案内カウンターがありました。
島原なんて小学校の修学旅行以来です。
コロナ前は結構にぎわっていたそうです。
いつか私も行ってみたいな。
セーラー服のくまモンいました。
くまモンの写真撮りに行ってたら、父が売店でソフトクリーム買ってました。
(父はよくソフトクリーム買ってくれる)
ボリュームたっぷりでとってもおいしかった♡
ごちそうさまでした。
船が出て行ってしまったので、がらーんとしてます。
熊本港はこの遠浅の有明海に突き出た人工島にあるのですが、干潮になると全く水がない!(人工島と陸地を結ぶ橋の上から撮影)
こんな浅い海に港を作るのは相当大変だったでしょうね。

2

帰省初日、父が「チヘンジに行ってみようか?」という。
「チヘンジ?」聞いたことないけど、お寺かな?
父によるとなかなかいいところだという話。
これまでの経験上、父がこうやって誘ってくれるところは間違いなく興味深い場所なので出かけます。
みちみち説明を聞くと、どうやら奈良時代創建の古いお寺の跡らしいとわかりました。遺跡らしい。
へー、熊本にそういうところがあるんだー。
詳しいことは、こちらの公式ページへ。
熊本市西区、海に近い方にあります。
金峰山に連なる山がいくつかある中に「独鈷山」と呼ばれる山があります。なんと、空海が唐から法具を3つ投げ日本に届いたうちの一つ独鈷がここに落ちたのだそう。(ホンマカイナ…)
池辺寺の遺跡はそこから近いところにありました。
遺跡に到着。

発掘された礎石などから復元した本堂模型。

本堂の入口ナノでは?と考えられているところ。大きな平たい石がありました。

さて、お寺の跡なら日本全国あっちこっちにあるでしょうが、池辺寺の特徴的な遺物はこの「百塚」(「百塔」とも)
百基ある石塔です。

こんなふうに縦10基×横10基、計100基の石塔跡が、本堂の背後に見つかったのだそう。本堂の前には池などのある庭園も見つかりました。

見つかる前からこのあたりは「百塚」という地名があり、耕作してはいけないと伝えられてたのだそう。
なだらかな斜面に規則正しく並ぶ石塔。
「塚」と呼ばれてきたけど墓ではないらしいです。では何だったのか?
わからないんだって!
こういう建造物は日本全国的にも珍しく、何なのかわからないそうです。
ロマンだ!
下の写真は復元された石塔です。

百塚の上から斜面の下の方(熊本市内)を眺めます。
写真ではわかりにくいですが、正面に花岡山の仏舎利塔が望めます。

石塔の周りは舗装されたので、石塔の中に草がたくさん生えてる。

本堂のあったところを横から眺めたところ。
人影が見えるのが本堂のところ。

訪問した日、熊本は10月というのに30度を超える真夏のような陽気でしたが、ここに吹き渡る風がとても気持ちよかった。

景色も良くて、古代にここにこういう大きな寺が作られたのもわかるような。
創建は奈良時代。
ということは国家鎮護の仏教だったはずで、お寺が大学みたいな教育機関でもあった頃。
今行くと、熊本の市街からも離れた辺鄙な山の中にあるイメージですが、奈良〜平安初期にかけてはある程度交通の便もよかったはず。熊本にあった国府は今の国府電停のあたりなんでしょうから、そこからは相当離れてますが。
研究が進んでもっと色々わかったら楽しいですね。
つらてこられてよかった。
お父さんありがとう。

荒瀬の道の駅で鮎を食べたあと、また坂本橋を渡って油谷川をさかのぽります。
この辺りもいわゆるバックウォーター現象により被害の大きかったところです。
川沿いの家屋は撤去が進んており、景色が一変していました。
昔の製紙工場跡地にできた大きな児童公園「くまがわワイワイパーク」は災害ゴミの集積所になっていました。
この山の上には祖母のお墓もあるのですが、今回はお墓参りはスルー。
更に上流へ向かいます。
父は行きたいところがあるようです。

鮎帰にある西福寺。ここのご住職に会いたかったようですが、あいにくお留守でした。

念仏者九条の会というのがあるのですね。

現代の感覚だと鮎帰は球磨川沿いの鉄道や国道からも離れた山奥と思ってしまいますが、江戸時代以前はむしろ街道沿いの文化の出入口だったかもしれないそう。

ずい分前からバスも通らなくなり、住民の足は乗り合いタクシーだそうです。

油谷川。大きな岩がゴロゴロ。

鮎帰からさらに上流へ向かい、ヘアピンカーブの続く山道を登っていくと「日光(にちこう)」という集落があります。棚田が有名なところ。
祖母の生家があるのてすが、はじめてきました。
かなり上ったところにある集落、日当たりがいいですね。でも、学校に通うのは大変だろうなぁ。

棚田は更にその上にあります。

何枚かは水田でしたが、芋、そばなどの畑の方が多くなってました。

こんなところにこんな棚田を作るのは相当な苦労があったことでしょうね。

かなり高いところだと思うのですが、水源がよくありましたよね。

ちょうど稲刈りが終わったところでした。

そばの花。

油谷川沿いを離れ、今度は中谷川沿いを登って木々子を目指します。こちらは祖父の生家があったところ。今もその家があるのかどうか、親戚付き合いもなくなっていてわからないようです。

木々子集落も谷を随分上がったところにありますが、山の中にちょっとした平地が広がっていて、家もまだまだたくさんありました。暮らしやすそう。

木々子の隣の衣領(えり)集落。

伯母の家がありました。何度か遊びに来たことがあるので懐かしく写真を撮りました。この丸木橋は、伯母の家の前にあったもので、ここを渡って川向うの畑で野菜などを作ってました。今見ると恐ろしいようですね。

道の駅の復興商店語彙で見た木々子の七夕飾り。なぜ木々子にだけこういうものが伝わっているんだろうと思ってたのですが、行ってみてわかりました。地形的にも他の集落とは違い、戸数も多いし独特の文化が育ちやすかったと思われます。(もっと他に歴史的な理由があるかな?)

被災しているところばかりを見るのも心苦しく、上流の日光や木々子へ行けて良かった。どちらも私のルーツに繋がってくる場所でした。

帰省の2日目、父が「坂本に行ってみようかね」というので一も二もなく賛成。水害のあと初めて行きます。
「荒瀬で鮎を食べられるかも」と母。
クラファンに参加した「さかもと鮎やな」のことですね。やった!
天気が良い。良すぎてまだ夏のよう。
でも、田んぼは黄色く色づいてる。
熊本から八代を経由して球磨川沿いの坂本へ行く。八代の宮地側から西部大橋を渡って219号線へ向かう途中、段駅あたりで線路の草取りをする人々がいた。JR肥薩線も去年の水害で壊滅的に被災して不通になっているのだけど、きっと近隣のみなさんがキレイにしたいと言うことで草取りしてるのだろう。

深水橋のあったところに来た。

跡形もなくなっていた。

深水橋の親柱。

深水橋のたもとには親戚の家があったらしいが、早くに無人となり荒廃激しく判然としなかった…

219号線は災害復旧のダンプなどが多く走る。親によると「お盆に来たときより少ない」とのこと。週末だからかな?

仮設の坂本橋を渡る。
川の中には、まだ流されたもとの坂本橋の残骸が見える。

坂本橋を渡ったすぐのところにあるみねとま医院も解体工事中だった。ここ子供の頃にお世話になったなぁ。

坂本駅。

浸水したとはいえ、こうしてみると駅舎は無事のようだけど…

線路へ行くと、ホームよりも高く砂利が積まれていた。これからどうなるのだろうか??

坂本から藤本集落へ県道側を走る。

話には聞いていたけど、県道が途中から崩れてなくなっているので、並走する肥薩線が道路になっていた。(写真右手が元の県道)

藤本小学校跡。

懐かしいのでいつも寄ります。
この運動場は水害の時に SOS の表示が出ていたところ。

藤本小学校が創立百年を迎えたときの記念碑。このとき在校していたので、なつかし!

葉木橋を渡って荒瀬の道の駅へ。

道の駅には「復興商店街」ができていました。そせて、さかもと鮎やなもここで営業していました。
テントの下で鮎を焼いています。

食堂はこの中。

復興商店街には「木々子(きぎす)の七夕飾り」がありました。

去年の水害で流されたけど
見つかった看板(新聞記事になっていました)

鮎の塩焼き定食が1650円。

鮎の甘露煮、田楽、天ぷらまでついてる鮎づくし定食は3300円デシタ。
(写真は1650円の)

久しぶりに鮎食べたー!

ご飯も鮎ご飯、お味噌汁にも鮎が入ってました。それに懐かしい生姜の味噌漬け。坂本の親戚がよく漬けてました。懐かしい味。

堪能してお腹いっぱい。

このあとはその名も「鮎帰(あいがえり)」へ向かいます。
あゆがえり?
あいがえり?

6

コロナも随分状況が改善したので、今のうちに!と思い、2泊3日で帰省してきました。
あまりゆっくりする時間もありませんでしたが、初日には「池辺寺跡」を見学したり、2日目は去年水害で大被害を被った球磨川へ行くこともできました(球磨川のアユを食べました^^)。そして3日めは、単独行動で熊本市内を散歩しました。
まずは、その記録を写真でつづってみたいと思います。
目的は上通の蜂楽饅頭を買うことだったのですが、たまたま乗った電車が「上熊本」行きだったので、行ったことのないところを歩くのもいいかなと思って、終点「上熊本駅」を起点に少し歩き回りました。
上熊本駅。
ここに来たのは初めてのようです。
同じ始発駅でも健軍の電停とは違いますね。
車庫もあり、単独軌道もあり。
(わが輩ポストってなんだろ?)
わが輩通り界隈マップ。
これで散策するのはかなり難しいマップ!
ここから「草枕」の旅も出かけられるらしい。
むかしは徒歩だったんですよね。
JRの上熊本駅駅舎。
木の風合いが素敵です。
日曜だけど人影まばらな上熊本駅構内。
くまモンハロウィン扮装。かわいい。
上熊本は漱石先生推しなんですね。
こちらは熊本電鉄の上熊本駅。
くまモンラッピング電車が来てました。
「鉄」なおじさまがバシバシ写真撮ってた。私も負けずに撮る!
道を渡ると小さな緑のコーナーあり、そこに銅像が。上熊本に下り立つ若き日の漱石先生だ。イケメンですね。
2ショット写真撮りました。
漱石ファンは上熊本に行かなきゃですね。
ここから、京町台地に上がって熊本城経由で上通を目指します。
初めての土地。ワクワク。
京陵中学校。名前は知ってたけど、ここにあるのか~。門のわきの楠が立派!
ここにも漱石先生モノあり。
句碑です。
「すみれ程の小さき人に生れたし」
京町本丁漱石記念緑道。
界隈一帯は漱石先生で町おこしかな。
本「丁」というあたりが古い町という感じがしますね。
堺市も「丁」を使ってました。
なにかありま。

近寄ってみると「清正のまちと街路つくり」の案内板。
京町は加藤清正によって整備された町なのですね。地図は細川時代のもの。
「京町は清正公さんのおひざもと!!」だそうです。
ここまで来ると、漱石の影がうすらいだかな?
これは何だろう?
いかにも古そうな味噌屋さんがありました。創業寛政四年の池田屋醸造。
台地だから、阿蘇まで見渡せる。

「裁判所前」のバス停があり、横を見たら見覚えのある建物が。
「あ~これはここにあったんだ~!!」
よくニュースで出てくる、熊本地方裁判所ですね。レンガ造りの味のある建物です。水俣病とかハンセン病などの裁判は全国区のニュースだったので、見覚えがあります。
入り口もスタイリッシュ。
台地なのであちこち坂があり、いちいち名前がついています。
さすが、古い町ですね。

加藤神社は一時期、熊本城内ではなく京町にあったんですね。
けっこうな高低差。
住んでる人は大変でしょうね。

磐根橋。ここをわたると熊本城。
案内板によるとむかしは堀の役目もしていたそうです。そして電車が開通したころ、さらに掘り下げられたらしいです。
目が眩むほどの高さ。
ここを渡って熊本城へ。

まだまだ地震からの復旧は道遥か・・・のようです。

それでも今年のGWごろから天守の周りには入られるようになっているみたい。時間がなくて行きませんでしたが、天守が美しくそびえているのはいいですね~。
この二の丸からの眺めは(平成の大改修で長塀ができる前の)私の子供時代の熊本城の姿です。
熊本城から、賑わいを取り戻していた城彩苑を抜けて下通へ。
そこそこの賑わい。
パルコが無くなってた!
こちらは上通り。
道幅の違いもあるけど、こちらの方がにぎわってるような??
私が熊本にいた30年前ごろは上通にはあまり魅力を感じなくて下通にばっかり行ってましたが、いまは上通の方に魅力を感じます。
なぜかな?
そしてようやく目的地、鋒楽饅頭へ。
みんな大好きほうらくまんじゅうですね。こことこむらさきと紅蘭亭とかっぱのまるぶんがあるから上通が好きなのかも?
最後にお約束のアングル。
通町筋から市電に乗って帰宅します。

10月とは思えないほどの陽ざしに気温。
暑さにくらくらしながら散策を終えました。育った町熊本ですが、知らないところがまだまだ多くて歩くの楽しい。
今度はちゃんと下調べをして漱石先生の「わが輩界隈」を歩いてみたいと思いました。

 今年の3月に両親の傘寿のお祝いの会をするはずでした。お店も予約してあったのですが、コロナでだんだんだんだん雲行きが怪しくなり、2週間ぐらい前になって延期を決めました。その後の状況から、家族全員で集まって(兄弟3人の家族みんなで帰省して)お祝いを開くのは諦めるしかなくなりました。
 そこで今回の帰省では両親を温泉ぐらいには連れて行きたいなと思いました。連れて行くと言っても運転は父がするので連れて行ってもらうという感じなのですが(笑)。はじめは熊本空港から近い菊池あたりで…と思っていたのですが、「泊まりでどこか行くなら天草で伊勢海老を食べたい」という父の提案により、行き先が天草になりました。どうも知り合いが天草に入って伊勢海老を食べてきたという話を聞いたようです。
伊勢海老か〜食べたことがないような気がする。
 とりあえず行き先を天草に決め宿選び。あまり遠いと帰りに渋滞にハマったらいやだなということで、大矢野島あたりを探します。計画段階ではまだ第三波の気配はなく、むしろ混雑の方を心配していました。実際、GOTOを利用しようと思うとなかなか予約が難しい状況でした。

 予約したのは大矢野の「海星」という旅館。温泉もあります。GOTOに参加している施設はしっかりコロナ対策してるはずなのでむしろ安心です。毎日満員電車で通勤している私から見ると、旅行そのものは感染リスクは高くないと思います。天草なんて熊本市内より人は少ないだろうし、自家用車での移動ですし。一番のリスクは「私が実は罹っていてウイルスを持ち込む」ってことです。
 両親はなんと言っても傘寿の高齢ですから、私がうつしたら洒落になりません。罹ってないとは思うけど、万が一私が罹っていても大丈夫なように、両親の前では常に不織布マスクつけてました。流石に食事のときは外しますが、なるべく離れて座ったり、大声は出さないようにしたり、更に自分が触ったところを消毒して回ったり、車は常に窓を開けて換気をしたり。東京の生活でもやらないほどの注意ぶりでした。
 帰省から2週間以上が経過しましたが、おかげさまで私も両親も特に体調の変化もなく元気にしています。自分の対策は万全だったと思うものの、何事もなくホッとしました。
 宿の夕食です。
伊勢海老に天然鯛のお造り。クルマエビの踊食い(きゃー)までありました。伊勢海老は夕食にお刺身で食べ、翌朝にお味噌汁になって出てきました。贅沢でした。
 食事会場での対策はしっかりとられていて、宴会場を壁で仕切って1部屋に4組までのテーブルが用意されています。しかも時間がずらしてあったのか、同時に食べるのは2組まで。もともとお客が多くはなかったのでしょうけど、東京や横浜では考えられないくらいの距離の取り方です。同時に食べているお客までの距離は10メートル近く?寂しいくらいでしたが安心でした。


天草四郎がコロナ対策しています。
天草ならではですね。

宿の部屋からみた日の出。
この入り江にある船着場から「談合島(湯島)」への船が出ているそうです。
島原の乱のときに天草と島原の揆軍が相談をした島とつたわっています。
天草四郎はここ大矢野出身だったそうです。


 ここのところみるみる感染者が増えていて、GOTO事業は見直しと言われていますね。これだけ感染者が増えてしまってはGOTO事業の中断はやむを得ないとは思いますが、ワクチンができて治療もできるようになったら、またガンガン旅がしたいです。
 前にも書いたように旅自体が感染リスクを上げるとは思いません。でもいまは医療の充実に全力を向けるべき時だと思いますので、政策として臨時の予算を使うのは医療関係に集中させた方がよいでしょう。一市民としては、引き続き感染しないように心がけて生活するしかありません。

崎津集落を見学したあとは、大矢野島の今夜の宿へ向かう。
せっかくだから天草西海岸の「これぞ天草」という景色を見ようということになった。ここから父のガイドは「五足の靴」の話に。
 
「五足の靴」メンバーが訪ねた大江天主堂は道から眺めるだけにとどめて先を急ぐ。父には目当てがあるようだ。「十三仏」に行くらしい。
十三体のお地蔵さんが並んでいる海岸を想像した。
途中高浜という集落へ。
焼き物の看板が目立つようになる。漁港のように見えるけれど焼き物の町でもあるようだ。しかも磁器。全然知らなかったが、天草は良質の陶石の産地でもあるそうだ。
「ここに与謝野晶子たちが滞在した家があるとたい」
地図を見ると旧上田家というのが近くにある。
行ってみると広めの駐車場の先に長塀がある、さらに奥には磁器の窯元も。
上田家というのはこのあたりの庄屋だったらしい。
自由に入ってよいらしく、入り口にはタイルに染めた案内板があり、中に入ると古いが立派な建物と庭がある。

ここは五足の靴メンバー与謝野鉄幹・晶子夫妻が滞在したらしい。
その説明の展示もある。
むかしの文化人は、こういう土地の名士の家に滞在するものなのですね。
漱石が「草枕」に書いた小天温泉の家も個人宅だった。

もう誰も住んでいないらしく傷みも気になったが往時の様子がしのばれる。
庭にアワビの殻がある。
崎津集落ではこれがキリシタンの法具になったらしい。
ここも山茶花が花盛り。
十三仏へ。
仏様が並んでいるわけではなく、展望スポットだった。
天草西海岸の雄大な景色が広がる。
東シナ海だ。
夕陽の名所らしいが、日没まではもう少しかかるか。

ここに与謝野夫妻の大きな歌碑がある。
晶子の歌のスケールの大きいことに父がしきりと感心していた。
鉄幹
天草の十三仏の山に見る 海の入日とむらさきの波

晶子
天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞ吹く 

大矢野まで戻って、宿に入る前にちらっと見た夕陽。
たしかに美しい。

 宇土半島の南にある戸馳島に天草からの帰りにちょっと寄った。高校一年の春休みに行って以来だから何十年ぶりだろう??クラスメートに戸馳島の人がいて、彼の家に行くことになったのだった。高校時代はこういうクラス行事が多かった。仲良し同士で行くのではなくクラス全員で計画していくのだ。もちろん全員参加ではなかったと思うけれど、生徒だけで計画していくキャンプや遠足は少し大人になったような感じで楽しかった。
 さてその高校時代、戸馳島は橋でつながっておらず三角港まで鉄道で行ってそこから船に乗って渡してもらった。(と思ったが、戸馳島にかかる橋は1973年には開通していたらしい。ということは大人数だったから輸送しやすい船に乗ったのか???)今は立派な戸馳大橋という橋ができていた。花の栽培が盛んなようで、フラワーロードとかいう名前の道があった。父の車は横井迦南の句碑のある海水浴場を目指していた。若宮海水浴場である。
 海水浴場はきれいに整備されていた。対岸の八代が間近に見えた。八代外港のキリン(クレーン)や八代市街地にある製紙工場の煙突の煙もハッキリ見える。八代が見えると何だか急に懐かしい。この角度から見たことはないが「故郷」という感じがする。
若宮海水浴場 松橋方面
八代方面
八代の十条製紙の煙がよく見える。
あ、いまは日本製紙になってるんだっけ。
海水浴場にある横井迦南の句碑
「不知火」を見る人々の様子を詠んだらしい。
これをみて、母が八代の方から「不知火」を見た話をしてくれた。

戸馳神社
銀杏の散り落ち葉がきれいだった。
境内にある仁王石像
元文三年(1738年)とある。



 島ではほとんど住民を見なかった。橋ができて便利になったら逆に人口流出するというのは日本各地で発生している現象で、ここも例外でないのだろう。

 今はどうなのか知らないが、私の高校時代は戸馳島のような熊本市外から市内の高校に入るのは相当成績優秀な人に限られていた。5%枠とか言ったっけ?クラスに1〜2人くらいの郡部出身者がいて皆高校生専門の下宿屋から通っていた。
 今にして思えば、高校一年の春休みの戸馳島訪問は、彼の親御さんの思いで実現したのだろう。かわいい息子が15歳で親元を離れるとき相当心配だっただろう。町の暮らしになじめるか?クラスメートたちは息子と仲良くやってくれるだろうか。でも彼は明るい性格で楽しく学校生活を送っていた。1年が無事におわったとき「友達を島に呼びなさい。クラス全員でもいいぞ」という話になったのではないだろうか。
島で何をやって遊んだとか全く覚えていないのだけれど、ご両親に歓迎してもらって、帰りに花をたくさんお土産にもらったことを覚えている。戸馳島は花の栽培が盛んな島、クラスメートの家も花を育てていた。

 卒業以来一度も会っていないが、教師になったと聞いている。職場はうちの実家の近くのはず、ばったり会ったらわかるだろうか。

熊本に帰省しても天草はやはり遠いところで、ましてや崎津となると熊本市内からゆうに3時間はかかるところなのでこれまで行ったことがなかった。
今回は天草に一泊するので行ってみたい。チェックアウトした日は熊本空港から帰るので渋滞などのことも考え1日目に行くことにした。

3連休の最終日。天草へ向かう道はそれほど混んではいなかった。山道が多く海は時々見えるだけ。伊豆半島のドライブに似ている。以前来たときよりも道が良くなり新しい橋もかかり、それが渋滞解消に寄与しているようだ。
平成の大合併で天草市となった河浦町だが、町域に入ると道がきれいになる。国道の沿いに山茶花がびっしりと植えられ、ちょうど花盛りだ。「サザンカロード」と名前もついている。

崎津はそのさざんか国道から右に折れてトンネルを2つ抜けたところにある。リアス式海岸の入り江の一つだ。道は狭く山が迫って平地が少ない。以前平日に来たことがある父は「前に来たときにはこのへんに停めたが…」と駐車スペースを探すが、集落にある駐車場はどこも数台のキャパでいずれも満車。案内に立っていた人に観光駐車場を教えてもらい集落のハズレにある漁港前に無事停められた。


連休の世界遺産とは言っても、交通の便が悪いせいかあるいはコロナ第三波の影響か、ここは歩く人もまばら。関東地方だったらもっともっと多いだろう。


母がしきりに羊羹の話をする。前に来た時に買ったことがあるらしい。南風屋(はいや) という店の前に「杉ようかん」と言うものが売られている。
「これ、これ」と母。
このあたりの名物だとか。いかにも手作り風でしかもあと2つしかない。
話の種に一つ買う。店の人に「今日中にお召し上がりください」と言われ、お昼ごはん替わりに食べることとした。
次に来たお客さんはこれが目当てだったのか「えー!あと一個しかないんですか?!」とがっかりしていた風。2つとも買わないでよかったと思った。

崎津教会の庭でようかんを食べつつ前のグループの見学が終わるのを待つ。
ここは江戸時代の庄屋の屋敷跡で「踏絵」などが行われた場所とのこと。大正時代に崎津に教会を建てることになったとき、象徴的なこの場所を選んだのだそうだ。明るく風通しも良い建物で、中が畳敷きになっているのが珍しい。いかにも日本人のための教会だと思う。

中は撮影禁止だったので写真がないので、よそからお借りした写真をどうぞ。
教会の隣に資料館があった。
天草には昔炭坑(良質の無煙炭だったとか)があり、その坑夫や関係者に利用された宿屋を解体再建した建物だった。中に崎津集落の歴史などの展示がある。(﨑津資料館みなと屋)
右手がみなと屋さん
昭和初期の崎津集落ジオラマ
波が穏やかな入り江


崎津ではここの2ヶ所を見学した。
その日の夕食に父が「かくれキリシタン」と「潜伏キリシタン」の違いについて話してくれた。また、1805年に起きた「天草崩れ」と呼ばれる事件についても話してくれた。父の話は面白く、朝食の時に宿の仲居さんから「昨夜はお父様の天草の歴史のお話を私も仕事しながらお聞きしてたんですよ。お詳しいですね、。学校の先生ですか?」なんて言われたりもした。
長崎県による特設サイトへ
「潜伏キリシタン」というのは世界遺産指定の時に使われた言葉だが、私はあまり深く考えてなかった。
津崎集落のような「潜伏キリシタン」のことが世界遺産に指定されたのは江戸時代に禁教となって一人の指導者(聖職者)もいない中、約230年間信者だけで信
仰を守り続けたというその特異性にあるとされる。
こどものころから「隠れキリシタン」としておなじみのイメージを持っていたが、実態はかなり変容していたらしい。言われてみればそうだなとおもうが、何世代も信者だけで隠れて信仰している中で、その信仰は日本の仏教や神道、土着信仰と習合して、いわゆるキリスト教本流とはとは全く違う宗教になっていたと考えられるそうだ。これをキリスト教と認めるか否かは研究者により意見が分かれるらしい。
明治になりキリスト教が解禁になったあと潜伏キリシタンはキリスト教本流へ合流したが、一部の信者は「この教えは自分たちの信じているものとは違うようだ」といってこれまでの日本で変容した習合キリシタン信仰を手放さず教会に参加しなかった。これを狭義の「カクレキリシタン」というらしい。
とても興味深い話で、まさに世界遺産にふさわしい文化と言えるのでは?と思った。

2

SNSで高校の同窓生とゆるく繋がりを持っている。同窓会などのリアルな集まりには積極的には参加してないもののネット上では時々情報交換をしている。
その仲間うち(特に上京組)で時々話題になるのがこのパンだ。

 リョーユーパンという九州に拠点を持つメーカーの「マンハッタン」という硬めのツイストドーナツにチョコレートがかかった菓子パンで、高校の売店の人気商品だった。お菓子など望むべくもない学校の売店で買える甘いものの筆頭(2番手は夏の味覚凍らせたヤクルトジョア〜これも美味しかった)カロリーを求める高校生にとって夢のような(大げさ)存在。
 東京では手に入らないので、帰省した友人が時々勝ち誇ったように(これまた大げさ)SNSに写真を載せるのを見ては「懐かしいな、食べたいなあ」と思う。とはいえ、毎回いろいろな行事が待つ帰省時にはたいてい忘れているのでなかなか買う機会がなかった。数年前に福岡に帰省した知人からお土産にもらったことがあったっけ。
 今回の帰省では、天草行きのほかはコロナ禍中のことで他にイベントもなかったので、初日は母と買い物を兼ねて近所の散歩をした。コースは、母の日常の買い物コースだ。
 うちの実家は健軍商店街に近いところにあり、買い物はたいてい商店街で済む。ところが、四年前の熊本地震で商店街のスーパーが倒壊し、長く休業することになったため、母の買い物テリトリーが広がることとなったのだ。もちろん今ではそのスーパーも再建しているのだけれど、同じ品物でも店によって値段が違うらしく、不便期間に開拓した遠いスーパーにも結局いまでも買い物に行くのだそうだ。
「この店ではこれが安い」
「この商品の底値は○○円」
「☓☓デーになるとあの商品が安くなる」
など、母の頭には情報が全て入っており、1商品あたり10円単位の値段の違いを深く追究する様子はさながら求道者。買い物が苦手で、あれこれ見比べるくらいなら値段が高くても一箇所で済ませたいと思うような私にはとても真似できない。(実際、実家よりはるかに店の数も多いはずの私の環境だが、食品はほとんど生協の宅配に頼り日常的にスーパーに行くことはほとんどない)

 母は「こうやって少しでも安いものを探しているから、なんとか暮らしていけるのだ」と言う。たしかに、きょうだい3人とも県外の大学進学させてもらえたのは母のやりくりのおかげだろう。学費も生活費も全て自分でアルバイトして賄っていたといううちの夫に比べると相当恵まれていたと思う(夫の家がやりくり下手という話ではないが)。
 
 10円でも安いものを求めて遠くまで歩く、物の値段を何店舗分も覚えて比較する、それぞれ頭も体も使うから老化防止にも役立っているのだと思う。母にはぜひこの先もこの買い物姿勢を貫いてもらいたい。とても私には真似ができないけれど。
 

 さて、リョーユーパンを見つけたのはこの母との買い物時だった。今食べると大して感動はない。高校生の頃のようなカロリーはもはや必要ないからかな?

今回の帰省では「伊勢海老を食べたい」という父のリクエストにより、天草へ1泊することになった。
「天草に行くなら、途中案内したいところがある」という父の話。なんだろうと思っていたら、継体天皇の棺に使われた宇土の「馬門石」を見に行くことだった。
「馬門石」全く聞いたことがない・・・。
継体天皇の石棺?
どこにあるのかしら?
まず連れていかれたのがここ。
宇土半島にある道の駅「宇土マリーナ」
ここに継体天皇の石棺を復元したもの。
さらに、ここ宇土から畿内まで古墳時代に運んだ船の復元したものが展示されているらしい。
更に、これまた私は知らなかったのだが、2005年に「大王のひつぎ実験航海」という一大プロジェクトがあったらしい。
そのことが展示されていたので一つ一つ写真にとってきた。
ごらんください。

この実験航海、当時知っていたら楽しかっただろうなぁ。
手漕ぎで運ぶわけなので、港々に立ち寄り、漕ぎ手を変えて30数日かかって大阪まで行ったらしい。立ち寄りの港でも歓迎を受けていたのだそう。きっと古代も同様だっただろうという話。
詳細はこちらへ
ここからは翌日行った場所になるが、実際の「馬門石」が切り出される馬門集落と石切り場のあとへ。地質学的には「阿蘇ピンク石」と呼ばれる馬門石を使った、鳥居のある神社を巡った。
馬門集落の大歳神社。鳥居も額も馬門石。
そして祠はとても小さいが、後ろにそびえる大楠は見事。
こちらが神様なのかも。カメラに収まりきらない大きさだった。

次は、大歳神社からすぐの馬門石石切り場跡へ。
ここの高台には「赤石神社」という祠がある。
石切り場からこの石段を登って赤石神社へ。
よくみると石段も馬門石で作られている。

赤石神社はすべて石で作られた祠。
熊本地震で倒壊したらしいが、きれいになっていた。(写真を撮り忘れた)
石切り場跡。
打ち捨てられたようになっているが、まだ石がごろごろしている。
苔むしていたりして分かりにくいが確かにピンクの「馬門石」だ。
この石切り場跡から徒歩で少し先に入ると「牧神社」がある。
ここの鳥居も馬門石でできている。
この神社は文化年間にここに建造されたものだが、もっと古くからあるらしい。
この一帯は「馬門石」の産地でもあったが、もっと広い範囲で「牧」だったそうだ。(江戸時代まで)「牧」というのは馬の産地~牧場のこと。「馬門」という地名もおそらくここが牧だったことと関係があるのではと思われる。
この牧神社の祠には継体天皇のひつぎのミニチュアが置かれていた。
賽銭箱として機能しているらしい。(後で知ったが、宇土にふるさと納税17万円以上するとこのミニチュアがもらえるそうだ)

最後にやってきたのは、宇土市中心街~船場といわれる地区。
かつての宇土の物流の中心地。

ここにかかる「船場橋」が馬門石でできている石橋。
ここも熊本地震で壊れたらしいが、きれいに修復されていた。
そして、宇土城下に水をもたらした轟泉水道の終点の井戸もあり、これも見事に馬門石製。
ここは宇土市でも町並み保存を力を入れているようだった。


馬門石をめぐるツアーは以上。
それにしても、父はツアーガイドになれるなぁと思った。下見もしていて移動はスムーズだし、移動時間にはとうとうと歴史を説明してくれる。
最後は、宇土船場の川沿いにある米蔵だったところを改装してできたおしゃれなレストランにまで連れて行ってくれた。歴史ばかりで終わらないのもこういうツアーでは大事なポイントで、しっかりその点もおさえてあった(笑)

連休の中日、熊本へ向け出発しました。
スマホしか持たずに行きましたがたくさん写真を撮ったので、おいおい投稿しようと思います。まずは、熊本到着まで。
飛行機に乗るものとても久しぶりだったので、空からの景色を楽しみました。
前回の投稿にも載せましたが、出発時の羽田空港の様子。
保安検査場もガラガラでよかった。
搭乗ゲート。南ウイング1番。
ここもまばらです。
機内も6割ほどの乗客で空いていました。
航空会社にとっては大変でしょうけど・・・。
横浜上空。私の家も見えるかな?
手前に見えるのがIRカジノで揺れる山下埠頭。や山下公園の氷川丸も見えます。
中央に根岸森林公園(元の競馬場)そして根岸~磯子の海岸に広がるコンビナート。
三浦半島がきれいに見えます。
うっすら雪をかぶった富士山。
今年は登れませんでしたね。
関西。兵庫県加古川のあたりかな。
熊本上空です。
今日は、西側から着陸するようで真下に見えるのは熊本新港です。
まだまだ埋め立てるつもりのようですね。
熊本市街上空。
西側から着陸するときは、熊本市街を見ることができて楽しい。
中央の緑の部分が熊本城。
手前に白川が流れ、川の手前は熊大病院ですね。
熊本空港に到着。
あれ?いつもの到着ゲートと様子が違う。
全然知りませんでしたが、くまもと空港は空港ビルを建て替えるのですね。
くまモンのお出迎えはかわらず。
仮のターミナルビルは配管などむき出しの状態で、これはこれでカッコイイ。
成田空港の第3ターミナル(格安航空会社専用)みたいです。
これまでのターミナルビルは取り壊しの真っ最中。

仮屋。

もともとは3月に帰省するつもりで予約していた飛行機のチケット。

コロナで今はやめておこうかな?
と6月に変更した。

…6月は3月よりも移動しにくい状況になっていた。

緊急事態宣言が出たころにこれは無理だなと、8月に変更した。
そんな中、球磨川の洪水で故郷が大被害になり、ちょうどチケットもとってあるからボランティアに行こうとか思っていたけど、「ボランティアは県内者限定」という話を聞き、やはりまだ早いのか、と11月に延期した
…8月はGOTOキャンペーンも始まっていたけど、まだ東京は外されていたし、第2波の真っ最中だった。
そして10月。
きっと来月は帰れるでしょう。GOTOキャンペーンも全国的になったし。
夏休みの頃までは「まだ帰省できないね」と言っていた同級生たちも先月くらいから解禁してるみたい。
1年ぶりの帰省。
両親と温泉にでも行こうかな、などど考えてる。GOTOも使えることだし。
写真は横浜で出会ったくまモン。

4

玉名の高瀬川へ行く前に、河内から、小天を通ったので「草枕」の舞台となった前田家別邸へ。

 


「草枕」より

宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合ぐあい庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。

廊下のような、梯子段のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降おりて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。

 
 



斜面に建てられています。今は母屋は解かれて、漱石の泊まった離れと湯屋だけが保存されています。

「草枕」より

山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの平地となり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた隆然と起き上って、周囲六里の摩耶島となる。これが那古井の地勢である。温泉場は岡の麓を出来るだけ崖へさしかけて、岨の景色を半分庭へ囲い込んだ一構であるから、前面は二階でも、後ろは平屋になる。椽から足をぶらさげれば、すぐと踵は苔に着く。道理こそ昨夕は楷子段をむやみに上のぼったり、下くだったり、異な仕掛の家うちと思ったはずだ。
 今度は左り側の窓をあける。自然と凹む二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影を※ひたしている。二株三株の熊笹が岩の角を彩いろどる、向うに枸杞とも見える生垣があって、外は浜から、岡へ上る岨道か時々人声が聞える。往来の向うはだらだらと南下に蜜柑を植えて、谷の窮まる所にまた大きな竹藪が、白く光る。竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石磴が五六段手にとるように見える。大方御寺だろう。
 入口の襖をあけて椽へ出ると、欄干が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔へだてて、表二階の一間がある。わが住む部屋も、欄干に倚ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。湯壺は地の下にあるのだから、入湯と云う点から云えば、余は三層楼上に起臥きがする訳になる。


漱石が泊まった部屋。
母屋より高い場所にある離れ。
前田案山子とその娘つなさん(作中に登場する那美のモデル)の写真も展示。
前田案山子は政治家でありこの辺りの名士。
つなさんの妹は、孫文支援をした活動家宮崎滔天の妻となったそう
 
 



浴場。
前にテレビで見たときにはお湯が出ていた記憶あり。
 
「草枕」より
三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。槽とは云うもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭もない。病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。
 

 
漱石の描写の通り、石造りの豆腐屋くらいの湯船。
男湯と女湯と作られていた模様。
左側の男湯(漱石が入った側と思われる)にのみお湯の注ぎ口がある。
そのため、湯温が男湯の方が高かったから、那美さんは男湯の方へ入ろうとしたのではないかとの解説が書いてありました。
 
ここではお風呂に入ることはできませんが、小天温泉としてはこのすぐそばにその名も「那古井館」という温泉施設ができていました。

 

2


熊本に生まれ育ったとは言ってもまだ足を踏み入れたことのない土地も多い。

今年のNHK大河ドラマ「いだてん」で取り上げられている金栗四三さんの地元(なのでロケ地にもなっていた)熊本県北地域には馴染みがなくて、テレビで見るたびに、「こんなところがあるんだー」と思っていた。
この玉名市にある「高瀬船着場(高瀬津)」もその一つ。
ドラマでは大竹しのぶ扮する地主池辺家の船着場として登場。地図で見ると今も残っているみたい。

全く知識がなかったのだけど、玉名は南北朝時代から水運の要所として栄えたそうで、江戸時代には菊池川流域の米(高瀬米)の集散地として繁栄したらしい。

両親に聞くとやたらと「たわらころがし」という。なんだろう??米の集散地だから俵は関係してるだろうけど…と思っていたら、果たしてこんなものがあった。


確かに俵を転がして、船まで運んだんでだろう。急なスロープが石組みで作られていた。

横から見たところ。

なかなかの傾斜角。

下から見たところ。

中央にある出っ張りは「俵どめ」。
上から転がして勢いついて川にドボンじゃ大変だもんね。考えられてるなぁ。
ドラマでは往時を再現して建込みなどもあつたが、今は何もなし。静かな田園風景が広がってた。石垣の上に並んでいたはずの米蔵は、明治10年の西南戦争のときに焼け落ちたそうだ(ドラマでいくらか建物あったのはその後の再建か?)

ここは西南戦争の関ヶ原と言われるほどの激戦地だったらしい。


今はほんとにのどか。土手でポニーが2頭土手で草食べてた。車が近づいても全く動じず

高瀬川橋梁。

二本あるうちの向こう側(下流側)が古く、フランス式のアーチ型。創建時のものがそのまま使われているらしい。丈夫!!

帰省最終日。
飛行機の時間まで数時間あるので、熊本市南部の史跡を訪ねてみました。

・井寺古墳
・櫛島の神社
・隈庄飛行場あと(舞の原)
・足手荒神
・塚原古墳群
・御領貝塚
・阿高貝塚
・六殿社

これだけ回ってみて、午後2時には熊本空港へ。
かなりの効率でしたね。

では写真をあげて行きます。


益城~嘉島あたりの麦畑。
黄金色でした。



益城町櫛島の熊野坐神社。

初日に行った四賢婦人のお母さんの鶴子さんが育った集落なのだそう。


井寺古墳。は熊本地震でかなりの被害が出て、未だ修復中のようでした。


嘉島の浮島神社は車窓から見るだけ。
今度ゆっくり行ってみたい。


足手荒神(甲斐神社)。
戦国時代の御船の国衆、甲斐家の武将を祀った神社。
ここも震災で全壊してしまい、社殿はテントでした。


球磨高校の伝統建築を学ぶ生徒たちによってつくられた鳥居。
宮大工さんとかになるのかな?


隈の庄飛行場あと


三船敏郎が終戦を迎えた場所として知っていました。
このあたりを「まいのはる」といって、古戦場だったらしい。


九州最大級の古墳群「塚原古墳公園」へ。

この古墳群には、前方後円墳、円墳、方墳と様々な時代の古文が密集しているのが珍しいらしいです。
月曜日で資料館が閉まっていて残念。
ここもリベンジします。


御領貝塚。縄文後期の貝塚で、シジミが9割なんだとか。
貝塚の上を普通に歩けて感激。


阿高貝塚は縄文中期、九州最大の貝塚らしい。ここには海の貝が多い。
御領貝塚からすぐの場所なのだけど、海岸線が変化していたってことですね。


海の貝!


雁回山のふもとにある六殿社、葺きたてのかやぶき屋根。


鎌倉時代の創建で、古い歴史を持つ神社です。

たっぷり熊本南部のタイムトラベル。
各時代のことを見てきたように語る父の解説を聞きながら、楽しみました。
魅力がいっぱいの土地ですね。

でも熊本地震の爪痕があちこちにそのまま残っていて、復興への道のりは険しいのだと感じました。

今回の帰省のメインイベントといえる、「城下町を歩く会」に参加してきました。
これは、熊本新老人の会と言うトコロのサークルらしいのですが、毎回両親が参加していて面白そうなのです。家族など老人じゃなくても参加していいらしいので、行ってきました。

今回は、熊本城脇の「高橋公園」に集合して、上通り界隈を歩くという会でした。

案内によると、以下のようなルートです。

(集合)高橋公園→
藪の内懐古の碑→
オークス通り→
水道町由来の碑→
手取菅原神社→
櫻井通り→
黒鍬町通り→
大坊主・小坊主通り→
上乃裏通り→
上通り→
並木坂通り→
上林宗岳寺(解散)


高橋公園に集合。
こののぼりが目印です。
朝から雨模様でしたが、だんだんと傘が不要に・・・。


高橋公園にある「横井小楠をめぐる維新群像」と熊本の維新に活躍した人たちのレリーフ。
一人一人説明があります。


同じ高橋公園にある、旧熊本市役所のプロムナード。
高橋市長の業績などとともに説明を聞きます。


道を渡って「ホテルキャッスル」へ。
このロビーにある明治時代の様子を描いた絵を見に行きます。


このあたりが「藪の内」と呼ばれたいわれの話から、文教地区だったころのはなし。

興味深かったのは、熊本初の「火力発電所」が描かれていること。

「火力発電所が描かれていますから見落とさないでくださいね」

小屋みたいな小さな建物でした。
今の熊本城稲荷のあたりにあったのですね。


オークス通り(大楠通りではありません^^)
熊本第一女子高校の運動場にあったというくすのき並木。
オークといえば樫の木だと思うのですが‥‥


上通りへ。
ホテルキャッスルで見た絵の通り、藪の内の文教地区に隣り合った上通りには、たくさんの文房具屋や書店が軒を連ねていたという話。
上通りの老舗についての説明を聞きました。
歩く場所と説明がつながっていてストーリー性があるのでよく理解できます。


蚕糸会館。
高橋公園のレリーフにあった長野濬平による熊本の製糸業の発展などの説明を聞きました。


加藤清正が掘らせた井戸が上通りの桜井通りに残っていました。


手取天神


電車通りからの参道にある鳥居には、昭和29年当時寄進したデパートの名前が。
「銀丁はあるけど、昭和30年に倒産した千徳の名前はありませんね。」
千徳デパートっていうのがあったのですね。知りませんでした。銀丁も知りませんけどね。


日本のプロテスタント三大源流の一つである「熊本バンド」を継承する教会、草場町教会へ。
ここは説明をされる方が特別にきてくださってて、熊本バンドの話、LLジェーンズの話、そしてこの教会の設計者「木島安史」さんの話などとても詳しく伺いました。


印象的な建物です。



江戸時代に茶坊主たちが住んでいたという「坊主通り」
大坊主、小坊主と分かれていて、案内人がいてくれなければ絶対に歩くことのなさそうな細い路地でした。
雰囲気のあるところで、参加者からとても好評でした。


並木坂通りの老舗めぐり。
この成田屋さんは柳行李の店だったのだそう(今はかばん屋さん)


お隣の近藤文具店も古いお店で。明治三筆の一人中林梧竹の「書」がありました。


老舗中の老舗、天正年間に創業したという朝鮮飴の「園田屋」さんはお休みでした。
残念。
朝鮮飴買いたかった。


最後は宗岳寺。
伊沢番龍の墓があり、森鴎外も墓参に来たらしい。

皆で記念撮影。お疲れ様でした。

非常に勉強になったし、知らない人たちとウィーキングするのも楽しかったです。
このために帰省するだけの価値のある会でした。
熊本の老人たち、元気ですね。

「熊本城下町を歩く会」についてはこちらへ
https://blog.goo.ne.jp/shin1941

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帰省初日。雨。
熊本空港に到着してまず向かったのが、益城町。

ここのところ、父の中でブームになっている「矢嶋家」関連史跡を訪ねます。
矢嶋家というのは、江戸時代熊本で惣庄屋を務めていた家で、熊本(日本)の近代に貢献する人物を何人も輩出しています。

矢嶋家と四賢婦人については益城町のこのページにまとめられています。
https://www.town.mashiki.lg.jp/kiji003102/index.html

四賢婦人
竹崎 順子(三女)熊本女学校を創設
徳富 久子(四女)徳富蘇峰、小説家徳冨蘆花兄弟の母
横井つせ子(五女)横井小楠夫人
矢嶋 楫子(六女)女子学院(東京)初代校長

以下、訪ねた順番ではありませんが、写真を挙げて解説します。

「四賢婦人記念館」益城町杉堂地区にこの4月にオープンしたばかりの記念館です。
ピカピカ。矢嶋家住宅を復元してあります。
本体の矢嶋家の場所には、別の方がお住まいということで、集落から少し離れた広い場所にできていました。

四賢婦人記念館ホームページ
http://kumamoto-museum.net/shikenfujin/

四賢婦人記念館は、近代日本における女子教育や女性の地位向上に尽力し、今日の男女共同参画社会の礎を築いた竹崎順子・徳富久子・横井つせ子・矢嶋楫子ら矢嶋家姉妹、「四賢婦人」の功績を顕彰し発信する施設です。
 矢嶋家は、幕末の思想家で明治新政府の参与・横井小楠との関係が深く、長男・直方(源助)をはじめ、姉妹の配偶者らも門下生として小楠に師事しました。
 また、雑誌『国民之友』や『国民新聞』を主宰した近代日本を代表する言論人・徳富蘇峰も、文久3(1863)年に徳富一敬・久子夫妻の長男として、母・久子の実家であるこの家で誕生しています。

展示されていた機織り機。
これは四賢婦人のうち末の矢嶋楫子さんが使っていたもの。
離縁した婚家林家からの寄贈とのこと。


益城町がつくった「四賢婦人物語」まんがです。
力入れてますね。

この本の原作者の斉藤さんが在館していらっしゃって、いろいろ詳しいお話を伺うことができました。
この方は四賢婦人についての研究者の方です。

ちょうど、5/26(日)に開催される斉藤さんの講演会のチラシもありました。
父が喜んで参加すると言っていました。

男女共同参画の基礎を学ぶ講座「益城町の四賢婦人」
⇒ http://harmony-mimoza.org/kouza_seminar/2019/05/55-3.html
現在キャンセル待ちのようです。


矢嶋家のあった場所に立っている案内板。


この家では、徳富蘇峰も生まれているので、碑がたっています。


津森小学校(父の母校)にある、矢嶋楫子の顕彰碑。


津森小学校には二宮金次郎さんの像もありました。


田掻地蔵。(益城町宮園地区)
徳富久子さんが幼い頃、遊んだお地蔵さん。
ここでほおずき遊びをした話が残っています。

詳しくはこちらを(水前寺古文書の会のブログです)⇒「矢嶋忠左衛門と木山役宅」

熊本地震で傾いたのでしょう。まだそのまま、修復されていないようでした。
今回の帰省では何カ所か神社など訪ねましたが、どこも被災したままほとんど復旧してない状況でした。

ゴールデンウィーク中に出勤したので、その代休をもらって熊本に帰省してきました。
熊本空港には「いだてん」の金栗四三さんのパネルが!
くまモンもいっしょに。
撮影スポットですね。


ジョイフルでお昼ご飯を食べました。
安いですよね。
ジョイフル。

今回の帰省は、日曜に開催される「城下町を歩く会」に参加することが主目的。
雨が上がるでしょうか?

荒瀬ダム放流中

国道219号線の交通量もなかなか多い

破木の川に浮かんでいる水上家屋がはっきり確認できる!
ところで、球磨川本流に浮かんでいるブイ?か堰みたいに見えるものは何でしょうか?

この川の上に建っている家に遊びに行ったことがあります。
私の幼稚園時代の担任の先生のご自宅でした。
その時は、とても無邪気に面白い家だなぁとおもっていたのですが、なぜあの家は川の上に建っていたんだろう???とずーっとながいこと不思議でした。

今考えると、荒瀬ダムができる前からあそこに建っていて、ダムができてダム湖になって水位が上がったために、川の上に建つことになってしまっやのかもしれないですね。ダムがなくなり、久多良木川の水位も下がりましたが、もうその家はありません。住んでいた人たちはどうされたでしょうか。

礁産のリクエストにおこたえして。
クリックすると拡大します。
また、南北はつながるようにしていますが、東西にはブレがあります。


坂本PA付近


肥後峠付近


国見山付近


白岩山付近


山江村北端集落付近

今回の帰省で訪れた(車で通りすぎただけ)場所。
入学した小学校。
廃校になって久しいが、校舎はまだしっかりと建っている。

村の何かに使われていると思うのだけど、このツタのからみ方はすごいですね。

宮崎駿のアニメに出てくる廃墟のようでもあり、でも緑が美しく、別の命がふきこまれたようでもあります。


2015年5月に訪れた時は、こんな感じでした。

2年近く前、ネットで球磨川沿いの鶴之湯旅館が営業再開したのを知り、いつか行ってみたいな、と思っていました。
今回の帰省で荒瀬ダムまで行ったので、少し上流まで走って、鶴之湯さんを見てきました。

鶴之湯さんは、このあたりに湧く温泉をひいた一軒宿。
父の話では、父が若い頃仕事関係の宴会でここに泊まったことがあったとか。

「そん時、一緒に来とった人が球磨川の対岸まで泳いで行って、また泳いで戻ってきたったいね。若かったなー。」

なんと!無茶な!
まさかお酒飲んでじゃないでしょうね。
でも、当時は荒瀬ダムのダム湖だったのでそういうことができたんですね。
今はそれほど深くないし、流れも早くて無理でしょうね。


玄関。
行ってみると、玄関が開け放たれています。

「こんにちはー!」何度か声をかけましたが、なかなか返事がなく、諦めて帰ろうとしたところに、宿の人が出てきてくれました。
来意を告げて、仕事の手を止めたことに詫びつつ、少し話を聞かせてもらいました。

温泉は今も結構湧いているそうです。
温度は30度弱らしいですが、その温泉は川に注いでいるため、その温かさでコケの生育がよく、それを食べに鮎がやってくるらしいです。球磨川の鮎は大きいんですよね。


球磨川に注いでいる温泉。

「ぜひ、8月に鮎ば食べに来てください」

食事だけも可能だそうなので、また計画してみたいと思いました。
予約は電話で、とのことです。

今夜団体客があるそうでその支度に大忙しという状態でした。ゴメンナサイ。

鶴之湯旅館の情報リンク集

●フェイスブックページ球磨川温泉 鶴之湯旅館

●毎日新聞「鶴之湯旅館 球磨川の老舗旅館再開 八代の土山さん、手探りでスタート」

●あれんじ 木造三階建ての老舗旅館 ひ孫が営業再開

「みょうがまんじゅう」をご存知でしょうか?
小豆あんのおまんじゅうをみょうがの葉っぱで巻いて蒸したものです。みょうがの葉っぱの独特の香りが、まんじゅうに風味を添えるのです。茗荷が入っているわけではありません。

子どもの頃は坂本に住む祖母が、祖母が亡くなってからはやはり坂本に住む伯母が作ってくれたのをときどき食べました。
懐かしい味です。

もう去年になりますが、坂本に住む人がインスタグラムでみょうがまんじゅうの写真をアップしていたのを見つけて、無性に食べたくなりました。去年は食べるチャンスがなかったのですが、今年はいい時期に帰省したので買いに行けます。
情報を収集してみたところ、荒瀬にある道の駅「さかもと館」で、週末限定で販売されているそうです。

荒瀬ダムを見ることと、みょうがまんじゅうを買うことが同じくらいの重要度に膨れてきました。
そこで、道順ということもありますが、荒瀬ダムを見るより先に道の駅に行ってまずは買いこみましょうということになりました。

道の駅さかもと館

おすすめボードにちゃんと「みょうが万十」って書いてあります!

あった!!
2種類ありました。
お店の人に聞いたら作ってるところが2軒あるのだそうです。
そしてあんこも小豆あんとそら豆あんの二種類があるらしい。そら豆餡なんて食べたことないです。
とにかく全種類買いました。

道の駅には坂本の物産がいろいろ売っています。
懐かしいと思ったのが「コノシロ鮨」
これもお盆などの親戚が集まってごちそうを食べる行事の時は、かならず出てきた料理でした。
子どものころはそんなに好きではなかったけど。
今は懐かしいです。
コノシロ自体、東京では見かけないので。

農産物も売っていました。
りっぱなナスビ。

そして、この道の駅には日用品も売っています。
近隣に商店はないので、地元の人のライフラインなのでしょうね。
私が住んでいたころも食料品を売る店はなくて、トラックに色々積んでくる移動販売車に頼っていた時期がありました。

ツバメの巣。満員御礼!

村の歴史の展示もありました。
これは、昔坂本にあった製紙工場関連のもの。昔、さかもとで「会社」というとこの製紙工場を指していました。
工場の安全の鐘と洋紙のロール。

製紙工場の年表。
製紙業界は戦前から合併を繰り返しているんですね。

拡大して見る

明治28年からここに製紙工場があったのですね。
わたしの記憶にあるのはもちろん「西日本製紙」時代ですが、もうその頃は採算が取れていないリストラ対象工場で「機械が使えるところまでは使いましょう」というような事でおまけの操業をしていたのだそうです。知らなかった。

今は工場跡地は「くまがわワイワイパーク」という公園になりましたが、昭和末期までは、油谷川の谷間に「ゴロンゴロン」という製紙工場の機械の音が響いていました。

昭和30年代の坂本の絵。
私の記憶のなかの坂本の姿です。
中央右手に見えるモダンな建物は製紙工場の「生協」。
この辺りでは一番品揃えの良い商店でした。(でも荒瀬から歩いて買い物に来るのは大変な距離)
モダンな建物と書きましたが、よく見ると、普通の切妻屋根に正面看板部分をくっつけたいわゆる「看板建築」だったことがこの絵でわかります。実際に見てた頃は立派な建物だと感じてたんですけどね。

いまは、工場も閉鎖解体され、この集落も土地のかさ上げ(洪水対策と思われます)もあったり人口が激減したりで、ずいぶん変わりました。

みょうがまんじゅう、実食!
軽く蒸し直して食べます。

これは、生地によもぎが混ぜてあります。
美味しいけど、みょうがの風味が薄れちゃうかな。

でもおいしかったです。
そら豆餡はほんとにそら豆の味がしました。
たくさん買ったので冷凍して、東京にももって帰りました。
懐かしの素朴な味。
味わっていただきます。