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声でつづる昭和人物史
「宮本常一」

NHKラジオ第2
カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス

 https://nhk.jp/radio/?p=1890_01

わ!わ!わ!
宮本常一氏の肉声だ!!!

宮本常一を旅する
木村哲也著
河出書房新社

同じ著者の「忘れられた日本人」の舞台を旅する----宮本常一の軌跡 も読んでいた。
宮本常一にどっぷりとはまっていて(言葉が適切かはわからないが)、一時は周防大島の「周防大島文化交流センター(宮本常一記念館)の学芸員も務めたことのあるこの著者の旅のスタイルは正直羨ましい。私もこういう風に旅をしたいが、結局若い頃にちゃんと勉強していないので、見るべきものも聴くべきものもわからないで終ってしまうのだ。

この本は、小澤先生が新聞に書評を書いていらしたので、出版を知った。

小澤先生から宮本氏の名前を聞いたことは一度もなかったので、意外な感じがしたが、嬉しかった。

さっそく図書館で借りてきて読み始めた。
膨大な宮本氏の著作、日記、研究ノート、書簡などから宮本の行った場所、会った人(の家族)をたずねていく。そこでまた新しい気付きがある。
とても面白いと思った。

私もそんな旅がしたい。
でももっと勉強しないと、誰にあったらいいのか、何の話をしたらいいのかわからない。
でもこれからの人生は、これまでの蓄積の上に少しずつそんな出会いや経験を積み重ねて行けたらと思っている。
民俗学でなくてもいい。
この夏、ドレスデンで買った絵葉書から、フラウエン教会の周りの土地の歴史を少し垣間見たように。ライプツィヒの居酒屋の壁に森鴎外の絵があったから、鴎外の留学記をたどったように。心惹かれたモノからなにかを手繰って行って、自分の中にストンと納得するような経験を少しずつ増やしたい。後世に残すこともできずにただの自己満足で終るんだろうけど、でもまぁ、せっかく生まれてきたんだし。「大人の自由研究」でいいじゃないかとも思っている。

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民俗学の旅 (講談社学術文庫) amazonへ
宮本常一
講談社

以下の10か条は、宮本常一の著作(上記の「民俗学への旅」など)にあるのですが、まだ10代の宮本少年が初めて家を出て大阪へ勉強しに行くという時(まだその時点では、どの学校で勉強するなど具体的なことは決まっていませんでした)に、父親から渡された言葉だそうです。父親は、農家の生まれで学校にはろくに行かず、農家だけでは食べていけないので出稼ぎをして方々に出て行っていた人で(フィジーへも行ったらしい)、その経験からこのような言葉が生まれてきたらしい。まるでフィールドワーカーのようなその視点、また合理的で時代の先を見るかのような言葉に圧倒されます。

宮本常一は生涯この言葉を大事に旅をしていたのだそう。

私たちにも生かせる言葉がたくさんありますね。

一、汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺か、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

二、村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

三、金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

四、時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

五、金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

六、私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

七、ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

八、これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。

九、自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

十、人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

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日曜の朝、ツイッターを見たら宮本常一のことをつぶやいている人がいた。一昨年トークイベントに行った、畑中さんだった。
何気なく、宮本常一というキーワードで検索してみたら、その日の午後に行われるイベントの情報が目に入った。場所を見たら東京だ。あ、これ行けるかも。会場は東高円寺にあるカフェらしい。お散歩カフェとのこと、どんなお店なのかな?あちらの方面は文化の香りが漂いますね。


講師の先生は、軽野造船所という屋号で活動されている岩崎(字はたつさき)さん。静岡の方で、歴史講座の他にも歴史をテーマにしたTシャツなんかも作ってるらしい。遺跡の発掘もしているらしい。今日は、宮本常一の生まれてから死ぬまでを語ってくださるとか。

会場は東高円寺駅からほど近い喫茶店で、奥に小上がり席があり、散歩関連の書籍がぎっしり!散歩イベントなどもやっているのだそう。店主さんも素敵な女性でした。きっと散歩好きな方なんでしょうね。話があいそうだ~。
散歩かふぇちゃらぽこ

参加者はなんと私を入れて二人。
もったいない。
もっと宣伝しないと!!
こないだの六次元のとか寿司詰めだったのに。

内容メモ(私が気になったところ)

●周防大島の宮本の生家は、今は常一の三男さんが住んでいらっしゃるのだそう。
●宮本の父の教え10箇条の含蓄。
●河原の流木に石を載せてあるのは所有権の主張
●自分の母の骨上げの様子も写真に記録する常一。火葬場ではなかった。
●安保デモな様子を眺める人々を記録する。この視点は六次元のトークイベントでも話が出ていた。人が撮らない写真を撮る常一。
●宮本が学者の道へいかなかったわけ。
●内蒙古の西北研究所、満州の建国大学、人類学と軍事学の繋がり。これからのエスノロジーの進むべき先は?
●戦中から終戦直後の、北海道への棄民。この政策に関わった宮本の心の傷、では、他にどんな道があったか?
●対馬は要塞法というものがあり、他の地域より人の出入りが制限されていたから八学会のフィールドに選ばれた。

2時間くらいで生涯を語るというわけでかなり駆け足だったけど、知らない話もあったし、やはり他の人が語る宮本像は新鮮で面白かった。今回は入門編のように感じたので、できればまた、テーマを深く掘り下げた話を聞いてみたいです。

私が宮本常一にひかれるところは、文明や文化を普遍化してみる眼にあると思います。彼は生まれて初めて海外に行ったのはアフリカだったわけですけど、そこでも日本でやったのと同じように農地を見て、人々の暮らしを見ている。そんな視点が自分にもほしいし、それがあればこの複雑な世界を生きていく上で魔法の杖のようなものになるのではないかと感じている。

今は、まだ憧れているだけだけれど。

これまでに書いた宮本常一関連記事


『戦前からバブル前夜まで、歩く・見る・聞く・撮るを実践した宮本常一。その行程はおよそ4000日を越え、撮影された写真には、激動期における日本の庶民のいとなみや風土が刻み込まれています。

今回のトーク「忘れられたことを知ること」では、平凡社から発売された『宮本常一と写真』の著者である、写真家の石川直樹さんと作家・編集者の畑中章宏さんに、宮本常一の写真をとおして、民俗学や人類学への興味や重要性、そしてご自身の活動について、お話して頂きます。』

僕らの未開というイベントシリーズの「忘れられたことを知ること~宮本常一と写真」トークイベントへ行ってきました。
会場は荻窪にある6次元という本がいっぱいおいてあるカフェ?みたいなところ。
満員御礼立ち見も出る盛況ぶりでした。
狭い空間に寿司詰めになって話を聞きました。
キャパをこえた人数を入れてるものだから、椅子が簡易の折り畳み丸椅子だし、身動きできないしでしんどかった。
写真が中心のイベントで、スライド上映もあるのだけど、人の頭で下半分はほとんど見えず。

そりゃないぜ…

それでも、面白いイベントではありました。
やはり中央線沿線は空気が違う。集う人も違う。
新鮮でした。
写真家さんの視点で語られる写真の話は初めて聞いたかも。
いや、これまでもちらほら聞く機会あったことはあった。こないだのアートブックフェアで写真集販売してた人とか、若木さんとか(若木さんとは映画トーテムの話しかしてないから違うけど)、夫の恩師の深瀬センセとか。でも今までは写真ってゲージツすぎてわからん!と理解できないことばかり、石川さんの話はすごくうなずける話ばかりでした。

写真=資料 って理解しやすい。

■宮本常一の写真の魅力についての話<備忘>  

●一枚の写真から情報を読み取る力にあふれているから、自分の写真にもいろんな情報が盛り込まれる。

●ただの記録でいいはずの写真に、時々写真としての味を盛り込みたいという欲が出てくる。それがおもしろい。

●知らない土地に行ってあんなふうにふわふわと浮遊するように写真を撮れる人はそういない。

●取材の対象だけでなく、すべてを記録しようとする。例えば、祭りであれば、それを見て写真を撮っている人を写真に撮るとか。

●「史料価値のない写真は価値がない」(石川直樹さんの主張)

●100m歩く中でフィルム10本使ってしまう伝説の写真家がいるが(宮本ではない)、普通はそんなに写真は撮れないもの。風景の中に感じるものがあれば写真を撮れるが、感じること自体がそうそうできるものではない。

自分が写真を撮るときも、これからどれだけの情報がそこに盛り込めるか。考えながら撮りたいと思いました。

宮本氏の晩年の活動で、一枚の航空写真のスライドからいろいろな話をする講義があり、それが本になっていてすごく面白かったのですが、航空写真だけでなく、何気ない写真一枚にもそこから何を読み取るか、そういう訓練をしたいと思いました。

空からの民俗学 (岩波現代文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店

■このブログの中の宮本常一関連記事(一部)
宮本常一日記 青春篇 2012年版
「一遍聖絵とハンセン病患者」展示会
大内宿
通勤時の読書 「日本文化の形成」宮本常一
ちくま日本文学全集 宮本常一
宮本常一の台湾旅行
宮本常一、アフリカとアジアを歩く
女の民俗誌 宮本常一
竹馬の話
「庶民の発見」 宮本常一著
『旅する巨人』―宮本常一と渋沢敬三
いろんな本が出てますな~
読み始めました~ 宮本常一 対談集
宮本常一が見た日本
私の写真もありそうな・・・
ツブラジイ(椎の実)
「忘れられた日本人」を読む を読む
「忘れられた日本人」 宮本常一著


追記
イベント会場の「6次元」というお店。
全然知らなかったのですが、毎年ノーベル賞発表時に村上春樹ファンが集って受賞発表を待つというあのお店でした。
いわば「ハルキストの巣窟」?!
知らなかったとはいえ、敵の本陣深く踏み込んでしまいました(笑)。台湾での村上春樹研究センター訪問といい、村上春樹の守護神か何かに操られているのかもしれれません。
自分の引きの強さが怖いほどです。

これ以上村上春樹の悪口を言わない方がいいかもしれません・・・・w

ジャーン!宮本常一日記の新しいのを図書館で発見!!大人になってからのは前に読んだことあるけど、これは15歳から!

先日「父を語る」を探して図書館へ行き、偶然見つけて借りてきた本。宮本常一の日記は、ずいぶん前に読んだけど(もちろん全部ではないぱらぱら拾い読み)、15~26歳までの日記も新しく発行されていました。まだまだ宮本氏の遺産は発掘されつくしていないようですね。広辞苑みたいに重たい本でしたが早速借りてきて今ぱらぱらと読み始めています。

大正年間の15~18歳の日記でも、自分たちの年代とあまりと変わらないな~と思います。「勉強しなくちゃ!」「きょうも大して勉強しなかった」「勉強に気乗りしないから遊びに行った」とかよく書いてあります。でも私と違うのは、短歌をたくさん作ってることや、よく文章(小説?)を書いているという点ですね。いろいろ投稿もしてたようです。

しかしあれですよ。
後世の人間が「○○日記」とかを出版して読むというのはすごいことですね。書いた本人は見せる気などなかっただろうし、同時代を生きた人は奥さんであろうと子供であろうと、どんなに親しい間柄でも本人の生前に日記を読むことなどできなかったはずで。それなのに縁もゆかりもない人間がズカズカと超私的領域に踏み込んでるなんて。
ひと様の青春期の日記を読むなんてほんと申し訳ない気持ちですが、やめられません。・・・でも、私の日記は焼いてしまうかな。出版の恐れはないけども(笑)。


←これですよ~~~!!
15歳の時私も日記書いてた。全然違うけど、やっぱり似たようなことを考えてる部分もある。「旅する巨人」にもこんな時代が!
 宮本常一日記 青春篇 (-)
田村 善次郎
毎日新聞社


←これは6万円超えの3冊組。昔図書館で借りて読みました。戦時中の生活の話や終戦直後の大阪の野菜調達に奔走する話がとても面白かった。これが「ごちそうさん」のめいこの世界につながる。
宮本常一 写真・日記集成 全2巻・別巻1
毎日新聞社

インターネットでは、1880年にイギリスで出版された「Unbeaten Tracks in Japan」邦題「日本奥地紀行」/「日本紀行」がネットで公開されています。

大内宿に泊まったことが記載されている、12通目の手紙のその2の部分をそっくり転載してみます。大内宿の記述はかなり短く、関連の部分だけ赤文字にしてみました。


LETTER XII―(Concluded)

A Japanese Ferry―A Corrugated Road―The Pass of Sanno―Various
Vegetation―An Unattractive Undergrowth―Preponderance of Men.

We changed horses at Tajima, formerly a daimiyo's residence, and, for a Japanese town, rather picturesque. It makes and exports clogs, coarse pottery, coarse lacquer, and coarse baskets.

After travelling through rice-fields varying from thirty yards square to a quarter of an acre, with the tops of the dykes utilised by planting dwarf beans along them, we came to a large river, the Arakai, along whose affluents we had been tramping for two days, and, after passing through several filthy villages, thronged with filthy and industrious inhabitants, crossed it in a scow. High forks planted securely in the bank on either side sustained a rope formed of several strands of the wistaria knotted together. One man hauled on this hand over hand, another poled at the stern, and the rapid current did the rest. In this fashion we have crossed many rivers subsequently. Tariffs of charges are posted at all ferries, as well as at all bridges where charges are made, and a man sits in an office to receive the money.

The country was really very beautiful. The views were wider and finer than on the previous days, taking in great sweeps of peaked mountains, wooded to their summits, and from the top of the Pass of Sanno the clustered peaks were glorified into unearthly beauty in a golden mist of evening sunshine. I slept at a house combining silk farm, post office, express office, and daimiyo's rooms, at the hamlet of Ouchi, prettily situated in a valley with mountainous surroundings, and, leaving early on the following morning, had a very grand ride, passing in a crateriform cavity the pretty little lake of Oyake, and then ascending the magnificent pass of Ichikawa.

「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通り、 それから雄大な市川峠を登った。すばらしい騎馬旅行であった 」(「日本奥地紀行」より)

We turned off what, by ironical courtesy, is called the main road, upon a villainous track, consisting of a series of lateral corrugations, about a foot broad, with depressions between them more than a foot deep, formed by the invariable treading of the pack-horses in each other's footsteps. Each hole was a quagmire of tenacious mud, the ascent of 2400 feet was very steep, and the mago adjured the animals the whole time with Hai! Hai! Hai! which is supposed to suggest to them that extreme caution is requisite. Their shoes were always coming untied, and they wore out two sets in four miles. The top of the pass, like that of a great many others, is a narrow ridge, on the farther side of which the track dips abruptly into a tremendous ravine, along whose side we descended for a mile or so in company with a river whose reverberating thunder drowned all attempts at speech. A glorious view it was, looking down between the wooded precipices to a rolling wooded plain, lying in depths of indigo shadow, bounded by ranges of wooded mountains, and overtopped by heights heavily splotched with snow! The vegetation was significant of a milder climate. The magnolia and bamboo re-appeared, and tropical ferns mingled with the beautiful blue hydrangea, the yellow Japan lily, and the great blue campanula. There was an ocean of trees entangled with a beautiful trailer (Actinidia polygama) with a profusion of white leaves, which, at a distance, look like great clusters of white blossoms. But the rank undergrowth of the forests of this region is not attractive. Many of its component parts deserve the name of weeds, being gawky, ragged umbels, coarse docks, rank nettles, and many other things which I don't know, and never wish to see again. Near the end of this descent my mare took the bit between her teeth and carried me at an ungainly gallop into the beautifully situated, precipitous village of Ichikawa, which is absolutely saturated with moisture by the spray of a fine waterfall which tumbles through the middle of it, and its trees and road-side are green with the Protococcus viridis. The Transport Agent there was a woman. Women keep yadoyas and shops, and cultivate farms as freely as men. Boards giving the number of inhabitants, male and female, and the number of horses and bullocks, are put up in each village, and I noticed in Ichikawa, as everywhere hitherto, that men preponderate. {12} I. L. B.

参考資料
イザベラ・バード 『日本奥地紀行』福島県(会津地方)での行程

とても詳しく記載されています。
彼女の紀行文の記載と現在の風景との比定。
またGoogleマップに彼女の行程を落とし込んであるのは必見です。
こういうの読みすぎると、自分で行った時の感動が薄れるかもしれませんが^^;でも今度ゆっくり訪ねてみたいです。

10月に初北海道上陸を果たす予定。
(友人の結婚式のため)
なにしろ初北海道なので、いろいろ興味はあるのだけど、今回はアイヌコタンへ行く。
2年前にイザベラバードの「日本奥地紀行」を読んで、アイヌ文化にちょっとだけ興味を持った。
そのときに白老の野外アイヌ博物館(ポロトコタン)へ行ってみたいと思った。
白老はイザベラバードが訪れた場所。
今回は釧路で結婚式なので、白老のコタンではなく阿寒湖へ行きます。

それで、旅行前にアイヌ文化ついて何か情報を入れておこうと思って、ネット検索、Youtubeなどで、アイヌのことについて語る番組を見た。

しかしこれが、はなはだ不愉快な番組で、アイヌの人が出てきて話す部分はいいのだけど、司会をしているシンスゴという女性の過激な政治的思想が前面に出すぎて、最後まで見切れなかった。
(ことろでこのシンスゴって言う人、初めて見たのですが、しゃべり方や司会の進め方が久米宏にそっくりだった。内容はともかく、声のトーンや話し方は心地よい人だったんだけどな~)

気を取り直し、NHKのオンデマンドで番組を探した。

「こころの時代~祖母が話してくれたアイヌの神々」
という番組がすごくよかった。
萱野茂という、アイヌのリーダーみたいな方のインタビューなんだけど、この人の語り方、話の内容、すごく心に響いた。

「NHK映像ファイル あの人に会いたい 金田一京助 1882―1971」
金田一京助さんへのインタビュー。
萱野茂さんも手伝ったという、アイヌ語研究の話が面白かった。

「日本人の知らない日本へ ~ アイヌ 民族の誇りを歌に」
この番組もよかった。CWニコルさんがアイヌの人たちをたずねて歩く番組。
今度行く予定の阿寒湖のアイヌコタンも出てきてて、

「NHKスペシャル 驚異の小宇宙 人体3 遺伝子・DNA 第3集 日本人のルーツを探れ ~人類の設計図~」
アイヌの人たちと沖縄の人たちが近く、また遠くアンデスのインディオとも遺伝的に近いという話。日本人がいろいろなところから移住してきた「にっぽん合衆国」みたいなDNA状態なのも興味深かった。

そのあと、アイヌ関係の番組はねたが尽きてしまい、こんなのを見ました。

「NHKスペシャル マサヨばあちゃんの天地 ~早池峰のふもとに生きて~」

「歴史への招待 新選組池田屋騒動」

「歴史秘話ヒストリア 先生、そりゃムチャです! ~吉田松陰 人生体当たり~」

「歴史への招待 岩崎弥太郎 幻の写真コレクション」

「NHKスペシャル 100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪(しっそう)の謎~」

「NHKスペシャル 明治 第2集 模倣と独創 ~外国人が見た日本~」

などを延々見続けた。
つ~か~れ~た~~

そして、「外国人が見た日本」という番組にやっぱりイザベラバードが登場し、本棚からごそごそと「イザベラバードの日本奥地紀行をよむ(宮本常一著)」を取り出してきて、読み始めたのでした。

結局一日動画を見続けて、結局振り出しに戻った休日でした~~。

2年前の記事

イザベラバードの日本奥地紀行を読む

イザベラバードの日本奥地紀行

プレゼント!

8


今度の日光行きは、イザベラバードさんの足跡を訪ねることにもなります。

両親から泊まる予定の宿を教えてもらいました。
鬼怒川温泉の「あさや」です。

ホームページをみていたら、
ここのロビーラウンジの名前は

「イザベラバード」ですよ!

有名人なのですね。
イザベラさん。

さて、私の読書は遅々として進みません。
図書館の返却期限が気になります。

北海道まで行くはずなのに、まだ新潟でもたもたしてます。
相変わらず、日本の農村は蚤、蚊、ねずみに皮膚病が蔓延していた模様です。

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)
宮本 常一
平凡社

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父推薦の「日本奥地紀行」

早速図書館で予約して借りてきました。
そのときに、一緒にこの本も借りてきました。
お父さんが読んだのこっち?
それとも両方読んだのかな?

宮本氏のこの本は、晩年の講義の録音から書き起こされているもので、「日本奥地紀行」を読みながら、宮本氏が解説を加えると言う興味深いものです。
そのため、全編話し言葉です。

ロッキード事件まっさかりのころらしく、彼独特のロッキード事件観がチラッと書かれています。ロッキード事件のころは子供だったし、ちゃんと理解していませんが、古い日本人の商売の仕方では普通だったのかな??
面白い視点ですね。

とこんな風に書いたら、わけがわからない方が多いと思いますが、面白い本なので、ぜひ読んでみてください。

イザベラバード本人の本も読み始めました。
当時、西洋人はほとんど足を踏み入れていない土地に、イギリス人女性が一人で乗り込むという面白さ。(しかもこの人は特に仕事があるとかではなく、ただ単に旅行したいと思って行ってるんですよ)

でも「女性一人旅は危ないよ」などど言って止める人もあまりいないのです。
それだけ、日本の旅が安全だったということらしいです。

実際、江戸時代から女性の一人旅は普通に行われていたので、西洋人だから珍しいがられることはあっても危険はないということ。

とはいっても、このイザベラさん、
勇気の有る女性であることは間違いないですね。
一人でイギリスから日本までやってきていることからしてすごいです。

日本人にとっては【当たり前すぎて】特に記録に残さなかったこととか、比較対象がないために、価値を認めなかったことなども、彼女の外国人という視点が生きて、今の私たちが読んでもとても楽しく読める本です。

蚤がとても多かったと言う話は、ちょっときびしいなぁ。
タイムマシンに乗って過去の日本に行ってみたいと、ずっと思っていますが・・・のみは勘弁だなぁ。

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)
イザベラ バード
平凡社

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先日、母の誕生日に実家にお祝いの電話して、そのとき、久しぶりに父とも話をしたのですが。(いつもは母とばかりしゃべってる)

父とは、本の話とか歴史の話とか。
生活のことよりもそういう話題が多い。

今回父からおすすめを受けた本がこれ。
話を聞くととても面白そう。
半年前にすすめてくれた宮本常一もかなり面白くてはまったので、父のお勧めはとりあえず読もうと思っています。

近いうちに、図書館へ行って予約してみよう。
(家計引き締め中なので、図書館120%活用しますの)

南の島を開拓した人々
宮本 常一
河出書房新社

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明治からの南洋開拓物語。

明治以後の海外進出といえば、私は移民を真っ先に思い浮かべるのですが、そうでない、出稼ぎとか、「一山あてよう」的な海外進出もあったわけですね。
ハワイ、北米移民も最初は完全に出稼ぎですが。
あるいは、海外で事業を起こそうとする人々とか。

毎回毎回、この人の本ではいつもそうですが、今回もほとんどが知らない話ばかりでした。

話にちょっと浅いところもありますが、コンな人がコンナことしたんだな~
というダイジェストとしては、とても面白いと思います。

それにしても、明治の人々のエネルギーはすごいな~。
今の日本人にそんなエネルギーあるのかしら??
とちょっと不安になってしまいますね。

日本人の住まい―生きる場のかたちとその変遷 (百の知恵双書)
宮本 常一
農山漁村文化協会

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間取り好きにはこたえられない良書でございます。
宮本先生は、こんな風に家の間取りやら、屋根の形もフィールドワーク中に調べていたんですね。

感心します。

地方によって、伝統的な家の建て方が違うと言うことを社会の時間に習ったものの、それを実地で調べたり目にする機会にはあまり恵まれませんでした。

私が日本全国を歩けるようになった頃はバブル期で、伝統的な家はどんどん壊れていってましたので。

私は、なんとなく、大工さんの文化が地域によって区切りがあって、(大工さんの技術に限界があって)同一地方には同じような家が作られるのだと思っていました。

それもあるのだと思いますが、家族のあり方、産業、村落の成り立ち、そういうものが大きく関係しているとの話に、引き込まれました。

土間のある家、床のある家、
寝室がひとつの家、複数の家。
かまどのある家、囲炉裏のある家。

それぞれに意味があって、その家の形になっている。
目からウロコでした。

庶民の旅
宮本 常一
八坂書房

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もうすこしで読み終わります。
この本もかな~り面白かった!

主に江戸時代の庶民の旅の様子を書いてるのですが、裕福な商家のご隠居さんの優雅な旅、きれいずきで教育の有る山伏さんの全国行脚の旅。お金ない駆け出しの役者さんの旅、義太夫語りの貧乏旅、お百姓の無銭旅行、文化人の勉学の度などなど、いろんなたびの形があり、宿のこと、食べ物の事、お金の事など、
「それが知りたかった!」という話がいっぱい出てきます。

読み終わるのがもったいない。

お金を全く持たなくても旅ができるという江戸時代の社会システムには驚きです。
お金なくても泊まるところも、食べるものも何とかなるのだそうです。
(行く先々で、施してくれる人がいる・・・)
今は、なかなか無理でしょうね。

今ニュースをにぎわしてる派遣切り問題で住む家がなくなる・・
という話もあの時代には起きなかっただろうな~。

いや、べつに、江戸時代がいいという訳ではないけど
(というか圧倒的に今のほうが住みやすいはず)

「困ったときはお互い様」

なんて、死語になりつつあるのでは?
自分を振りかえっても、そう思います。

ちょっと反省。

ところで、篤姫が最終回でした。
もう一回くらいあるのだろうと思っていたら、最終回でした。
お針仕事中に眠るようにして亡くなりましたが、なんだったのでしょうか?

最終回はあまり面白くなかったですね。
滝山さんたち大奥のメンバーが尋ねてきて、同窓会みたいになっていたのは楽しかったですが。

今日は、家から1歩も出ずに、書類の整理など、片付け物をして過ごしました。
それにしても書類ってどうしてコンナにたまっていくのでしょう。
DM,請求書、領収証、手紙もろもろもろもろ。。。

12

今日12月9日は漱石忌だそうです。
1916年に亡くなったそうですから、今から92年前ですね。

ところで、漱石とは全く関係ありませんが、
「ニコヨン」と言う言葉をご存知でしょうか?
宮本常一氏の本に時々出てくる言葉で、いつもカタカナで表記されているので、きっと俗語だろうな~とは思っていたのですが、ぐぐって見まして、やっと意味が分かりました。

日本語俗語辞書

戦後間もない頃の日雇い労働者を指す言葉のようです。
失業手当が、一日240円だったことからきてるらしい。
(百円玉 2個 と 十円玉4個 で ニコヨン)

俗語って、時代や世代が違うと、とたんに意味が分からなくなるけど、面白いですね。
私が上に「ぐぐってみた」と書いたのも、俗語ですね。

「グーグル(検索エンジン)で調べてみた」⇒「ググってみた」
ひらがなで書いたら、全く訳がわからないでしょうね。

それと、俗語ではないけど、慣用句などの間違った使い方も、気になっています。

【確信犯】【役不足】【さわり】などなど。

これは、アナウンサーとか新聞記者とか、言葉のプロなのでは?
という人まで間違っているのを見かけるので、崩壊も時間の問題かもしれません。

こんな記事がありました。

オールアバウトの記事

私も、自信ない言葉がちらほら。
言葉の持つニュアンスの変化は、時の流れで仕方ないことだと思うのですが、
その過渡期にいると、違和感を覚えることが多いですね。

それと、言葉の形や活用の仕方が変わっていく(と言うか、くずれていく?)のも気になります。

最近、違和感いっぱいでとてもイヤなのは

「違って」というのを「ちがくて」と言うヒト。

過去形は「ちがかった」というらしい。

しゃべっているのを聞くのもいやですが、
「違くて」と書かれたものを見ると、ぞわ~っとします。

(ちょっと舌足らずな感じでかわいい印象もありますか?) 

第一、変換できないでしょう。
パソコン使って、変換できない!
と思って気づいてくれることを祈ります。

でもそのうち、変換できるようになったりして????

むぅ・・。

ここ2週間ほど、通勤時に読んでいた本。

私の通勤は、15分足らずの乗車時間の対して乗換えが2回あり、
ちっとも落ち着いて読書できないので、「通勤本」に決まると、
遅々として進まない。
この薄い本に2週間かかりました。

このほか、「夜寝る前用」という本もあり、こちらも進みません(笑)

日本文化の形成 (講談社学術文庫)
宮本 常一
講談社

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宮本先生が、生涯をかけて歩きとおした日本各地のフィールドワーク(というより旅?)と膨大な読書(資料研究)から導き出された、「日本人はどこからきたか?」論。

いつもながら、宮本さんの文章は読みやすく、分かりやすい。

【日本人のルーツ】【日本民族とは?】
なんていうテーマには、深い興味があります。

この本もひとつの仮説なのでしょうけども、非常に面白かったデス。

これは「夜寝る前用」の本。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

村の若者たち
宮本 常一
家の光協会

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ずいぶんと古い本なのですが、当時の地方の田舎に住む若者の苦悩が描かれています。
よんでていて胸が痛くなりました。

ここに書かれている「若者」は自分の親の世代ですが、私自身を振り返っても、田舎生まれではありながら、結局根付くことなく、都会を目指してしまってますし。

この本に書かれている「社会」の一員だなぁと実感。

「日本」とはなにか ―文明の時間と文化の時間
米山 俊直
人文書館

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何気なく図書館で手に取った本です。
表紙がきれいで、まだ新しい本だったので借りてきました。

米山俊直さんのことは良く知らなかったのですが、宮本常一氏の本の中に、アフリカのフィールドワーカーとして登場しました。
60歳を超えた宮本氏の初海外旅行~アフリカ~で、仲間にはぐれて、立ち往生しているときに、宮本氏は米山俊直に紹介されていた現地の人の名前を思い出し、それで仲間となんとか無事に出会うことができる・・・・という話がちらっと出てくるのです。

そんなわけで、京都大学の先生だということくらいしか知りまませんでした。
しかも、私の頭の中ではいつのまにか、社会学者の「加藤秀俊」氏とごっちゃになっていて、もうなにがなんだか・・・・
のテキトーなレベルです。

この本は、米山さんが2006年に亡くなってから出版されたもので、遺稿集のようなもののため、いろんなテーマの文章がごっちゃになっています。
集大成的な意味もあるものなのかもしれません。
読みやすかったです。

この本を読んでいくうち、だんだん、私の周りの世界が閉じてくるのを感じています。

世界が閉じるという言い方が、適切でなければ「輪がつながってくる」といってもいいです。

父に紹介されて読み始めた、私のこれまでの知識に全くなかった「宮本常一」という人の仕事を追っていく中で、私は、周りの世界がどんどん広がるように感じていました。
知らないことばっかりだし、
「へ~!!」の連続で、ページをめくるたびに目からうろこが落ちる。
世界が再構築される感覚がとても心地よいものでした。

米山さんとかは、その次の世代の人になるのだと思いますが、この本の中には、学生のころ「読め」といわれた本だとか、友人連が熱く語ってた学者の名前とか(当時の私にはちんぷんかんぷん)がどんどん登場するのです。
ちなみに、ごっちゃになっていた「加藤秀俊」氏も登場。
こないだまで読んでいた宮田登氏も、モチロン、宮本常一も。

うまくいえませんが、望んでがんばって受験勉強して、やっと入学した大学で、いざ学部が始まったら勉強についていけず(?)に落ちこぼれてしまった私でしたが、やっぱりこの分野にかえってきたんだな~という感慨があります。

本棚を見たら、「同時代の人類学」という米山俊直氏の本を持っていました。
もしかしたら、学生時代にレポートを書くために買ったのかもしれません。

ちなみに、米山さんとごっちゃになってた、加藤秀俊氏は、
ご自身のホームページをデータベースとして開放されており、
絶版の本がそこで読めたりします。
1982年の「わが師わが友」
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/wagashi/wagashi_index.html
これ、面白いです。

今からなら、勉強できるかも。

比較文化論も、歴史地理学も、文化人類学も、人間論も、20世紀芸術論も今なら受けてみたいし、レポートも書いてみたい。
課題図書も読めそう。
あのころ、ちんぷんかんぷんだったものも、今なら理解できそうな気がします。
気がしてるだけかもしれませんが。

大学行ったの、ムダじゃなかったんだな~。
成長に時間がかかる人間なのだと、つくづく感じます。

それで、なんとなく嬉しいのです。

大学では何も勉強しないで卒業しちゃったけど、これからの一生を自分の興味のあるテーマについて学んでいけるのは楽しい事です。

これから、勉強しよぉっと!
単位のためでなく、卒業のためでなく、タダ単に自分の好奇心のために。
のんびりと。


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宮本常一祭りも、この本で暫く休憩。

この本は、エッセイ集のようなつくりで、いろいろな本から、読みやすいいい話を抄録してあります。

「海をひらいた人々」や「維新のあとさき」はとても面白かったし、
生後50日で夭折した我が子へささげた「萩の花」はじーんとしました。

この本を読み終わった後、図書館へ返しに行き、
そのまま宮田登氏の本を借りてきました。

『「心なおし」はなぜ流行る』
くらい。
暗すぎる・・

今一生懸命読んでるところでしけど、
犯罪の話が多いので(それはそういうテーマの本だからだけど)
ズン、と気持ちが沈みます。

宮本さんの本は、救いがちりばめられてて、その点がはまった理由かも。

ところで、宮田登先生は、私の大学の先生でした。
とても近いところで講義をされていて、私の友人の指導教官だったような気がします。

が、「妖怪の先生」という印象が強く、
一度も講義をとったことがありませんでした。
だって、妖怪とか・・・こわいんだもーん。

民俗学の近くにいながら、民俗学に手を出さなかったのは、
宮田先生の妖怪学にあったんでは?
といまさらながら思ったりします。

うちの近所の図書館には宮田先生の著作集が開架されています。
すごい先生だったのでは?
身近にいながら教えを請わなかったのがもったいなかったかな。

これから少しずつよんでみようとおもいまする。

この本のあとは、米山俊直さんの本も読もうと思います。

宮本常一 (ちくま日本文学全集)
宮本 常一
筑摩書房

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8

昭和54年(1979年)9月

9/10 朝 羽田発→桃園空港 台北へ(美麗華大飯店泊)
9/11 台北→(飛行機)→台東 同行者の知人を訪ねてプユマ族の南王村へ。台東泊
9/12 台東→(飛行機)→蘭嶼 観光バスで島内一周 紅頭村のヤミ族の家を訪ねて話を聞く ホテル泊
9/13 蘭嶼 紅頭村→(徒歩)→野銀社 船を作る話を聞く 午後バスで紅頭村までもどり、夜また近所の人たちに話を聞く
9/14 蘭嶼→(飛行機)→台東 台東市内の同行者の知人宅に泊まる
9/15 台東→(汽車)→玉里→楽合→(バス)→瑞穂 ホテル泊
9/16 瑞穂→(車)奇美村途中まで→瑞穂→(汽車)→光復→(バス)→豊浜→(徒歩)→八里湾 地元の人の家に泊まる(その場で交渉した?)
9/17 豪雨のため、八里湾でいろいろの話を聞き、地元の宴会(当兵の若者の送別会)などにも参加
9/18 八里湾→豊浜 豊浜泊
9/19 豊浜→台北 台北泊
9/20 台北→東京 帰国

30年近く前だから、あっちこっちで日本語が通じ、宮本氏は、
日本でするのと同じように土地の人からどんどん話が聞けたそうだ。

同行した人が、原住民の民俗調査をしていて、台東県、花蓮県あちこちに
知り合いが多かったこともあり、初台湾にもかかわらず、
わずか10日の旅行で、ばしばし調査してます。
すごいです。

また、台北と台東以外は、私の全然行った事のないところばかりなのも、
驚きます。原住民の村にほとんど行った事ないので、そうなりますね。

宮本常一、アフリカとアジアを歩く (岩波現代文庫―社会)
宮本 常一
岩波書店

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宮本常一、アフリカとアジアを歩く (岩波現代文庫―社会)
宮本 常一
岩波書店

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60歳を越えて初めての海外への旅。
しかも初海外は、ケニア、タンザニア。
すごいな~。

アフリカでも畑を見ると、収穫量や肥料の具合、何人養えるか・・・
言葉が通じなくても分かってしまう。

お百姓さんって、すごい。

この後、台湾にも出かけています。
まだそこまで、読み進めていませんが、楽しみ。

女の民俗誌 (岩波現代文庫―社会)
宮本 常一
岩波書店

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目からうろこの話がいっぱい載っています。
いままで私が日本の文化、歴史、習慣 だと思っていた事が覆されます。
もちろん、全てではないのでしょうけど、「こんなことも確かにあったのだ」と
宮本氏に説得されていくようです。

●対馬の18回結婚したおばあさんの話
 離婚するのは簡単で、だれでも2~3回は、普通に繰り返す。
 「悪い亭主にそうのは一生の不幸だから。
 若い頃にほれあったのは、どうも本物ではないようだ。」

●昔は常に共働き。
 子供は年寄りに預け、男も女も出稼ぎする。
 つらい労働も気のあった仲間で協力して行う事でその中に「張り」を見出せた。

●若い女は家出する
 家出して都会で奉公する。
 そうして、外の文化を身につけ、経験を積む。
 そんな女でないと、結婚するときも価値がない。

●学校には行かないけれど、しっかり修行する
 家出でなくても、奉公に行く。
 いい家の娘ほど、武家屋敷や大きな商家などへ奉公に行く。
 それが、女たちに教育を与えることになる。
 他人の飯を食うということが、人間を育てる。

 

5


この本、もともと昭和18年に出された本です。
岩波文庫になったのは、1984年。

宮本氏の地元の生活が事細かにつづられています。
なんというか、彼の地元への愛情が、文章からにじみ出ていて、
感動します。

家郷の訓 (岩波文庫 青 164-2)
宮本 常一
岩波書店

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ところで、この本の133ページに、こんな一文がある。
「子供の遊び」という章にある、小さな子供の遊びに関する記述。

「時たまに男の子の鬼ごと遊びの仲間に入れてもらうと、カワラケと言って鬼につかまえられても鬼にならない存在として、ただ見習風に参加するにすぎない。それでも嬉しくて、ヨチヨチと走りまわるのである。」

これ、私の小さな時にも、このルール(?)ありました。
宮本氏は「カワラケ」と呼んでますが、違う呼び名でした。

なんていうのか、忘れちゃった。
「おみそ」「みそっかす」「おまめ」・・・
うーん、どれも違うような。

大阪出身の夫に聞くと「ごまめって言ってたかな~」とのこと。

この話、以前会社で何かの雑談の折に話が出たので、
その場の数人に聞いてみました。

そんなルールすらなかったという人もいて、
この風習の地理的分布、年代的分布に興味を持ちました。

それが、また、この本の中にも書かれていたので、さらに興味が湧いています。

おそらく、同年代の子供とだけ遊ぶような社会になっていると、
自分より小さい子を、そういう「カワラケ」やら「ごまめ」扱いにしてでも、
一緒に遊ぶと言う工夫は不要になるものでしょう。

今の子供たちには、そういうのあるのかな?

皆さんの育ったところでは、この風習ありましたか?
そして、それを何と呼んでいましたか?


とおもっていたら・・・
もうすでに調査してる人がいました。
おもしろい!

http://we.freeml.com/chousa/umeboshi.html

ここによると、九州は「みそっかす」「おみそ」みたいですけども。
なんか違ってたような気がする。

母に聞いてみましたが、よく覚えていないという返事。
しかたないですね。私が忘れてるんだもんね。

(私が忘れちゃったのは、住む場所と話す言葉が違ったからのような気がします。特に10歳までいた熊本県南とそれから18歳までいた県北、で言葉が違っていたのが大きい。子供の頃使ってた言葉の語彙が真っ二つにされちゃったからね~)

2

書きたい事はいろいろあるのですが・・・
ちょっとまとまっておらず。

民俗学の本などを読みつつ、いろいろ考えたり、思ったり、
思いついてはネットで調べたりしています。

●竹馬の話

●西日本製紙坂本工場の話

●長崎軍艦島の話

●バケツで稲を育てる話

●この20年間の世の中の変化について

竹馬の話から・・・・

宮本氏は、多く山道を歩いていて、
田んぼが沢山作れないような山間にも人が沢山住みついていたことについて、
いろいろと書いています。
生活の糧としては、山間に少しだけ作った田んぼ、焼畑、木を使った道具を作ったり(木地)、炭焼き、林業、運搬・・・。

生活に必要な道具はほとんど手作り。
でも、全員が作れたわけではなく、上手下手もあり、
村のなかで作る人が決まっていたとか。

旅する巨人宮本常一―にっぽんの記憶
読売新聞西部本社,全国離島振興協議会,日本離島センター,周防大島文化交流センター
みずのわ出版

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この本は、多分新聞への連載をまとめたものかと思いますが、
宮本の足取りをたどった追跡取材です。

写真も含めて4ページの短い文章で、宮本の旅した場所と人を紹介する趣向の本となっております。
読みやすい。

その、121ページ
熊本の蘇陽峡へ旅した宮本の足跡を追っています。
この蘇陽峡でのキーワードは、美しい竹篭。

「やっと一軒の家の納屋のまえで竹篭を作っている人にあう。私はまずその美しさに目をうばわれた。」

この宮本の文章は、前に読んだ「私の日本地図 阿蘇・球磨篇」に載っています。

記者は、宮本の写真に写る篭を作ってる男性を探して歩きます。
その方自身は、すでに亡くなっているものの、近所の人から、宮本の取材(?)当時の、村の暮らしなどが語られます。

それで竹馬の事を思い出しました。

小学生高学年の頃、祖父に連れられて山の方の農家へ行き、そこのおじさん(おじいさん?)に竹馬を作ってもらいました。

そのころ、学校にもスチール&プラスチックで作られた竹馬がありましたが、私達のは正真正銘の”竹”馬!
とても丈夫で、かなり乱暴に扱いましたが、ずいぶん遊ばせてもらったと思います。

あらかじめ、話はしてあったのでしょう。
私たちが行くと、おじさんはちょうど竹馬にするのにぴったりの太さの青々とした竹を持って来て、農家の家の前庭みたいなところで作業を始めました。

作る工程も面白く、特に足を乗せる部分(1本の竹の中心部分を片側だけ削り、ぐーんと湾曲させて、支柱に巻きつける)とその部分を支える脚の取り付け(支柱と脚を乗せるところそれぞれを三角にくり貫いて、つっかえ棒のように差し込む)がすごく面白くて、今でも覚えているほどです。

そのおじさん、祖父の知り合いの方だったのでしょうけど、後にも先にもそこへ行ったのは一度きりのような気もしますし、どこだったのかも覚えていません
(両親に聞けばわかるかな?)
お父さんお母さん、あれは「山西」の出来事でしょうか?
ところで、「山西」って西原村?

今にして思うと、あのおじさんは、竹馬作りの商売をしているはずは無いので、きっと、宮本の本に出てくるような、日常的に竹で道具を作ったりしてる人だったんでしょうね。
で、竹馬とかも子供の遊び道具で時々作ってた人だったのではないでしょうか?

数年前、小金井の「江戸東京建物園」へ行ったとき、
移築された古民家の庭に、竹馬がありました。
(ちゃんと竹で出来てた!)

来場者が大人も子供も(いや、どっちかっていうと大人が)楽しそうに遊んでいました。

私も20数年ぶりくらいに乗って楽しみました。
でも同行の都会育ちの夫は、竹馬初体験といってました。

小さい頃に、手作りの竹馬に乗って遊んだ人どのくらいいるのかな?
興味あります。


後日談

この記事を読んだ実家から連絡あり、
竹馬は父も作ってくれたとか。

とすると、作るところを間近で見ていたのは、父だったのかも。

記憶って、どんどん不鮮明になるのですね。

評伝を読んだので、次は宮本氏の著作を読む番です。
雑誌にかかれたものを集めた本。
これまでに読んだような内容も多いですが、半分は新鮮な内容。

このヒトは、暮らしのためにやたらめったら文章を書いていたそうなので(雑誌に)似た様な文章があちこちにあるのでしょう。

文庫になってるものとか、出版年代が新しいものとか、
ついついそういう読みやすそうなのばかりを選んでいるので、
似通ってしまうのかな。

とはいえ、やはり面白いですが。

庶民の発見 (講談社学術文庫)
宮本 常一
講談社

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一日で読み終わりました。
宮本常一と渋沢敬三2人の評伝。
大宅壮一賞をとった本だそうで、なかなかに面白いです。

渋沢敬三氏についての部分は、新しく知ることも多く、
読み応えあり!

最後は、ちょっと泣きました。
宮本氏の奥さん、エライ!

光ばかりじゃないのが人の人生ですね。

これからもしばらくは、外の人が見た宮本常一の評伝などと、
宮本自身の本を交互に読んで行こうと思います。

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三
佐野 眞一
文藝春秋

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宮本常一―「忘れられた日本人」を訪ねて (別冊太陽 日本のこころ 148) (別冊太陽 日本のこころ 148)

平凡社

詳細

今読んでいます。
この本の最後の方に、周防猿まわしを復活させた村崎修二という人の文章が載ってます。
この人は、被差別部落開放運動をしていた中で、宮本常一と出会い、猿まわし復活の活動を始めていくのだそうですが、宮本氏の部落問題へのスタンスがココにも書かれていて、興味深いものがありました。

自分の中に、一本筋の通った行動規範というか、信念がある人は魅力的だなぁ。
と思います。

日本人を考える
宮本 常一
河出書房新社

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結構面白いです。
前の対談集はあまり面白くなかったのですが。
図書館の貸し出し期限は明日まで。
読み終われるかな???

2008.9.3追記
返却期限は昨日だったのに、まだ読み終わっていません。
何とか今日中に返さなくては!

面白くない本なら、途中でも返すところですが、
今回はとっても面白い!!
必死になって読んでます。
昼休みに、近所の整形外科で電気治療を受けるわずかな時間も
読みました。
駅のエスカレーターでも・・・(危険)

4

今読んでいます。
宮本氏本人が書いた自伝「民俗学の旅」と内容がかぶってるんですが、
書いてる人が違うので、興味深いです。
おもしろい~。

宮本常一が見た日本
佐野 眞一
日本放送出版協会

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ところで、今週実家の父が周防大島へ行ったらしい・・・。
報告を聞きたいものです。
お母さん、お父さんにレポート書いてっていっておいて下さい。

「民俗学の旅」と平行して読んでる本。

宮本常一の写真に読む失われた昭和
佐野 真一
平凡社

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「民俗学の旅」は文庫本なので、主に通勤時に。
この本は、大きいので家で。

写真集は、以前に大きなものを借りて読みました。
ネット上にすごいデータベースも有ります。
http://www.towatown.jp/database/

写真だけでなく、解説がついているところにこの本のよさがあります。
両親や自分の子供時代が写っていそうな感じです。

トップの写真は、熊本の荒瀬ダムをバックにした、2歳の私です。